9・14

〓朗読〓聖書『マタイによる福音書』第11回 新共同訳  第17章  [イエスの姿が変わる・悪霊に取りつかれた子をいやす・再び自分の死と復活を予告する・神殿税を納める]


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〓〓リスト〓〓

0:00  オープニング
0:12 イエスの姿が変わる
3:10 悪霊に取りつかれた子をいやす
5:00  再び自分の死と復活を予告する
5:32 神殿税を納める
6:57 エンディング



●第11回●  
イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの計3人だけ連れて山に登るのですが
なぜ「三人」なのか、なんで全員ではないのかなとすぐ疑問に行き当たってしまいました

こんな風に、福音書に限らず聖書はすんなり先に読み進めないことが多く
朗読者はひたすら調べることになります

 ✽ 3人という数
偶然ではないくらいは想像つきましたが (^_^;) 
むちゃくちゃ立派な理由がありました

3人という数、これは律法で定められた人数とのこと

何かを証明するときに二人か三人の証人による証言が必要だと
確かに申命記の第19章に書いてあり、なるほどと読んでいたら
それと一緒にあの有名な

「目には目を、歯には歯を」

の言葉もここに書いてありました

もしお手元に聖書がおありなら、せっかくですから申命記第19章もちらっと覗いてみてください

3という数字が他にも指定されたり、殺人者が逃げ切れるような距離と言う実際的な指示があったりと
興味深い章です



 ✽ なぜモーセとエリヤなのか

調べればすぐに出てきますのでごくごくシンプルに書かせていただくと

お二人とも高い山に縁を持つ、旧約聖書の人物です
モーセは旧約の律法、エリヤは預言者を表しているとのこと

わざわざ高い山の上で、旧約聖書の律法と預言者を表すお二人が、新約聖書のイエスと一緒に並んでいる点が見どころ、なのだそうです

この眩く神々しい光景をペトロたち三人が証言者として見せられているわけです

はあ〓
書いているだけで深呼吸したくなる重たいシーンです




 ✽ なぜ小屋を建てるのか、なぜ言葉を遮るのか

このペテロの提案を不思議に感じる人は多いみたいで
これも調べると、たくさんの方が説明をされています

神様の休む場所=「幕屋」を作って歓待しているという趣旨を多く見かけましたし
この地域の習慣で小屋を建てて客人をもてなすのだというのもありました

つまり、ペテロの提案はごく自然な展開らしいのです
彼は最上の歓待を表現しているのに
雲の声はそれを最後まで言わせないのです

彼の申し出を遮ってしまうこのシーンは宗教画にでもなりそうですよね


ではなぜ遮ったのか?
ここも大事な点らしく、ネット上でも複数の方がそれぞれお話をなさっていました

ここだけを取り出して説教のテーマとされることもあるようです



 ✽ 天からの言葉

天(雲)から声が聞こえるのは…前にもありましたよね
これは2度目
イエスが受洗したとき(第13章)に、ほぼ同じ言葉が聞こえています

ただし、今回そこへもう一つ加えられた言葉があるのです

なにかが一歩進んだ、第13章とはフェーズが違う
ということなのでしょうか

こういう構成は、すごく物語っぽくて
面白いですね


 
 *第17章の解釈は…

ほかにもひっかかるところはたくさんあって、
ひとつひとつ見ていったのですが、実は
この第17章はマタイによる福音書の中でもとても難解らしく、
いろんなサイトで、少しづつ異なる解釈に出会いました

イエスの語った元々の言葉の持つ意味がひとつではなく、
複数の意味を同時に伝えていたり
旧約聖書の内容がベースにあっての出来事だったりするので

日本語で読んで、日本語の物語のように受け止めてしまうと、なにかが違ってくるのかもしれません



*✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽  かなり余談  ✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽

第17章の中味については、もう不思議がったら切りがないと思うんです
でもひとつだけ、最初から気になっていたことがあって…

それはペトロたちのことです

※この先は読み飛ばしていただいて問題ありません
ぜひ朗読再生へとお進みください(笑)


   ***

17章の最初で、突然モーセとエリヤが出てきます
初対面なのに、なぜ弟子たちは彼らがわかったのだろうと不思議なのですが、説明がありません

これは、弟子たちに三人の話が聞こえていたから?

マタイの福音書には書かれていませんが、ルカの福音書の9:31には「話をしていた」とありますから
それは十分あり得るのです
でも、なぜか自分は

これは「夢を見てる」時の感じに近いのではないか

……理由もなく、そう思ったのです


姿を見なくても一瞬でわかってしまう
これまでの経緯も、なぜか一瞬で理解できてしまう
あの感じです

もしやと思い調べてみたら
本当に、彼らは「熟睡していた」と前述のルカの福音書に書いてあるのを見つけました


まさかほんとに寝ていたとはびっくり!!(๑º ロ º๑)!!



ルカの福音書によれば
熟睡から目覚めた時に イエスたち3人を見たようです

マタイは書かず、ルカは書いた この『熟睡』の部分
唐突すぎて逆に真偽を疑いたくなるのですが
彼らがここで「目を開けた」ことに意味を見出す解釈もあるようです



さて
彼らが山頂でみたシーンは
非現実的であり
神々しく、衝撃的だったことは想像がつきます


彼らがどんなことを思いつつ山を降りてきたのか 
マタイは書いていません


自分であれば
見たこともないようなすごい夢をみたあと
こころが奪われて目の前の日常には戻れない
衝撃が強いほど心の底は震えて続けて
思考はぐるぐる駆け巡る
なのに言葉は出てこない

きっとそんな感じになってしまう


ペトロたちもきっと
平素の状態では、決してなかったと思うのです

あの光景を見た後
現実の山を降りてくるペトロたちの頭の中で
今見た光景と一緒にぐるぐる回っていたのが
律法学者の言う「まずエリヤが来るはずだ」という真理の言葉と
イエスの復活という不可解な言葉なら
理解不能なまま下山する
弟子たちの心情が見えるような気がするのです


イエスは3人に箝口令を敷いています
だから、この山を降り切るまでに聞かなければ もう機会がないと
弟子たちはきっと思っている

彼らにとってこの山を降りるくだりは
その降り切るまでの過程にあったものが ひとりひとり複雑だったのではと
ちょっと思うのです


まだまだこの先も
妄想は膨らんでしまうのですが〓
つまり、それくらい
証言者となったペトロたちの心や体の状態が興味深くて( . ̫ . )⸝⸝⸝♡

特に山を降りてくる時の心の動きは
すごく面白い

異次元のものに遭遇した人を表現する時
どこかへ魂を持っていかれたような、呆然としたイメージで描かれることは多いけれど
彼らは違っていたのです

今度、そのようなシーン(どんなシーンだ?)を演じる機会があったら、
ペトロたちのことも思い出してみたいと思います

 ***


とここまで書いてきて 

ヾ(・ω・`;))ノぁゎゎ
なんで全く気がつかなかったんだろう〓〓

この第17章のシーンを書いたのは、ルカだけじゃない
もうひとつ
「マルコ」があったのに
それ、まったく読んでいない〓〓

こ、これは…まずいです

なので早速読みました

(読後)
マルコによる福音書には
さらに違うことが書かれていました

同福音書の9:10には
山をおりてくるときに「彼らが論じ合った」とあり
死者のなかから復活するとはどういうことか
それを3人で論じ合っていたとありました


弟子たちは話しながら降りてきたというのです


もしかしたら、マタイは書いていないけれど
彼らは山を降りながら、イエスを質問攻めにしていたかもしれない
マタイはエリヤのことだけ書き記したけれど
弟子たちとはもっともっと活発な問答があったのかもしれない…

ああやはり
この、山を降りるシーンはとっても含みがあるようです


ちなみにマルコも、マタイ同様
弟子たちの「熟睡」については書いていません


マタイが選び 残した余白のおかげで
自分の妄想などはすぐに生まれてしまうのですが
この世にある多くの解釈もまた
マタイが揺らすゆりかごの中で育まれているのかもと
勝手な妄想がまた始まりそうです



✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽ 





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9・14By 藤代 三千代