Sign up to save your podcastsEmail addressPasswordRegisterOrContinue with GoogleAlready have an account? Log in here.
March 19, 2025🐏聖書『マタイによる福音書』第16回 新共同訳 第22章 [「婚宴」のたとえ・皇帝への税金・復活についての問答・最も重要な掟・ダビデの子についての問答] 朗読:藤代三千代聖書『マタイによる福音書』第16回 新共同訳 第22章 このブラウザでは再生できません。再生できない場合、ダウンロードは🎵こちらリスト0:00 オープニング0:13 「婚宴」のたとえ 22 1-142:54 皇帝への税金 22 15-224:51 復活についての問答 22 23-337:02 最も重要な掟 22 34-408:15 ダビデの子についての問答 22 41-46〓Youtubeはこちら〓https://youtu.be/Jv3HBoPiXXwイエスの最後の1週間が始まっています前回(第21章)でエルサレムの神殿に入りそこで行われる商売を否定し祭司長や民の長老たちと対峙しました章の終わりでは、当時の大勢力である宗教的指導者たちがイエスを捕らえようと動いたことが書かれていますそれが実現しなかったことも書かれていますが彼らの煮えたぎるような怒りはマタイの構成と抑えた表現からもじわりじわりと伝わってきます〓第22章でイエスが誰に向かって例え話をしているのか和訳からはわかりませんけどイエスを捉えようとした、祭司長たちとファリサイ派の人々に向かって話しているという解釈が多いようです自分を殺そうと企てる敵へ話しかけるイエスその例え話に刺がないはずもなく読んでるこちらは怖さましましです〓 この章で、イエスの前に次々とやってくるのは祭司長たち&ファリサイ派の人々 →ファリサイ派の人々&ヘロデ派の人々 →サドカイ派の人々 →ファリサイ派の律法の専門家そして章の最後(41~)ではイエスの方からファリサイ派の人々の集まりへ出向きます将棋でいえば(唐突です)受け続けたあと攻めに転じているのがこの章です〓この第22章も、もちろんネットで解説が多くありますこの章から発展するお話も多数あり、文章量も多い〓そこからもここは要所の一つだとわかります朗読前から、エピソード中にたくさんの「?」があり調べないと何の意味しているのか、どのくらいインパクトのある出来事なのか等わからないことばかりでした調べたらどれもこれも面白かったのですあれもこれもお伝えしたいけど、長すぎるので少しだけお伝えすると…✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽*✽𓅩𖥣𖧧𖥧 ☆☆☆ ✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽*✽𓅩𖥣𖧧𖥧1:礼服は誰から?録音する前、一番最初に調べたのは「礼服を着ていない」ことについてでした礼服は自分ではなく、王が用意するという解説が多かったですその上で、礼服を着ないその人は「服を着るのを拒否した」のだとか、「反抗的な態度で沈黙している」のだとかまた、礼服を用意しなかった側近たちを叱責する意味で、その人を暗闇に放り出すと言ったのだとか色々解釈があるようです2:大通りとはどこのこと?イエスの例え話に無駄な言葉があるはずもなく! では、この大通りって何を指すのかなと思ったのですがこれにはあまり解説が見つけられなかったです〓ただ、この大通りに居た人たちについては異邦人を含む/含まない の二通りの説があって、理由も様々ありました「ぶどう園」も「イチジクの木」もみな意味があったのに“大通り”にはないのか…と残念がりつつそれでも探していたら、この「大通り」と訳される前の単語から意味を導いていた方がいて、これは「町の出口」なのだとされていましたああ聖書初心者の私でも、逃れの町という言葉がすぐ浮かびました町から逃げる人がいる場所へ行って「誰でも」招くのと賑やかな通りで偶然悪人を招くのとでは、ニュアンスがかなり異なります自分的には、この説明に出会えてすごく納得した気がしました3:復活と、七人兄弟の妻になった人「復活はないと言っているサドカイ派の人々」と、なぜここでわざわざ断りを入れるのかが不思議でした後継のため7人兄弟全員の妻となったこの女性の話と、復活の関係がわからなかったのです調べたところ、つまりサドカイ派は、もし復活があるならこのような教え(申命記25章5節) はないのではないか?と言っているらしいのですこのサドカイ派ってなんなのでしょう(一見「トナカイ派」にも見えます🦌〓)彼らは富裕な階級で祭司の家柄の人たちが集まっており政党や派閥のような活動もしていたとあちこちのサイトに書かれていましたまた、彼らが認めているのは「モーセ五書の律法」だけ!そこには、復活や死後のことは書かれていないよって彼らは、イエスの教えを認めるわけにはいかないようです22章33では民衆が「イエスの教えに驚いた」とあります当時の民衆が愛読したのはモーセ書ではなく死後の世界についても記したダニエル書だったからイエスがうるさい?サドカイ派を黙らせてくれて実は喜んだのではないかという解説もありましたさらっと書かれた、たったこの一文だけでまたもイエスが民衆の気持ちを掴み苦々しい顔の人たちをも想像させるなんて終章へ向かうマタイ様の筆にぬかりはございません✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽*✽𓅩𖥣𖧧𖥧 ☆☆☆ ✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽*✽𓅩𖥣𖧧𖥧...more10minPlay
December 11, 2024〓朗読〓聖書『マタイによる福音書』第15回〜新共同訳 第21章 [エルサレムに迎えられる・神殿から商人を追い出す・いちじくの木を呪う・権威についての問答・「二人の息子」のたとえ・「ぶどう園と農夫」のたとえ] 朗読 藤代三千代このブラウザでは再生できません。再生できない場合、ダウンロードは🎵こちらリスト0:00 オープニング0:11 エルサレムに迎えられる 21-1~112:30 神殿から商人を追い出す 21-12~174:13 いちじくの木を呪う 21-18~225:25 権威についての問答 21-23~376:54 「二人の息子」のたとえ 21-28~328:24 「ぶどう園と農夫」のたとえ 21-33~4611:32 エンディングyoutubeはこちら〓https://youtu.be/GSihNiPCOPM〓聖書『マタイによる福音書』第15回 第21章 〓『エルサレム入城』と書かれることの多い、この最初のエピソード「入城」とは、敵のお城を攻め落とした新しい城主が、そのお城に入る時に使う表現です(ggりました)新共同訳だと柔らかい表現ですねというか、視座が異なるのでしょうかイエスにとってはこれからが本戦といえるので、新共同訳の表現はしっくりくる気もしますさて、もう、どうしたらいいのでしょう〓前回予告した通り、出てくるどの言葉もどのエピソードもあちこちに関連していてちょっとggっただけで たくさんの方がこの章の解説なさっていらっしゃいました例えば宮(境内)の中で子供たちが「ホサナ」と声を出すシーン。これが聞こえるかとイエスは問われるわけですけどなぜそう問うのかわからないですしイエスの答えも、何を答えたのかわからない方程式と解を見ているようで、ちょっとついていけません〓そこで調べてみたらなるほど、となりましたけどここはいくつもの意味が重なっているようですそのためか、解説する方のテーマ次第で太字にして語る箇所が異なるようでしたなので(いつもほぼ同じことを言ってる気が…〓)一つだけ読むよりは、いくつか解釈を読んだ方がより深みの増す気がします他にも気になって調べた事はたくさんありますイエスが空腹になる(この福音書では2度目)のは、お腹がすいたという意味ではないこと イチジクの木に実がないからってなんで呪いまでかけるのかと思ったらこれはエルサレムを表していたということロバに乗ったイエスの行く道に、衣服と木の枝を敷いたこともちゃんと解説されていてこれは、イエスがエルサレムへ入る(帰る)時だからこその意味があるようですこの行為には前例があって、それに習った群衆がイエスを王として迎えているという意味であったり服を踏んでもらうために貴重な服を敷いていたとか読んでいて、あれ普通と違うかな?と感じるとそこにちゃんと意味がありました(定期)聖書初心者の自分の場合、これまでもわからない事だらけでしたがこの21章に入ると、予想通り!!一歩進むたびにすぐつまづいて全然先に進めません〓あと、皆さん、すぐわかりましたでしょうかどうして宮(境内)に「両替人」がいて、「鳩」が売られているのか?いくつか見た映画でもずる賢そうな商人がうろうろしていた気がするのですが宮(境内)で商売をする特権を持つ彼らにイエスが荒々しく振る舞い、商売道具まで蹴飛ばすこのシーンは衝撃的です他の福音書と比べても、ここに行を割いているのはヨハネによる福音書(第2章13~22)ですマタイによる福音書と趣は異なっています✽*✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽* 余談 ✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽*✽𓅩𖥣𖧧𖥧ろば… 皆さんX見ています?太郎丸さんってご存知ですか?どのくらいの方がご存知かわからないので簡単に書くとロバと一緒に徒歩で世界を歩かれている、元新聞記者の日本の方で今(2024.12)は北海道でろばのクサツネ君といらっしゃる、はずです自分は以前から「太郎丸」さんのフォロワーで、投稿の通知設定を入れるくらい〓️毎日投稿を待っているファンのひとりですここで太郎丸さんについて詳しくは触れませんが日本に戻ってこられるちょっと前ぐらいだったでしょうか太郎丸さんはイエスのことに触れていらしたのです思慮深く言葉を紡ぐ太郎丸さんがある時ふとつぶやいたロバの背中の「十字」模様ロバの背中に十字架があることを、その時初めて知りました✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽*✽𓅩𖥣𖧧𖥧 ☆☆☆ ✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽*✽𓅩𖥣𖧧𖥧...more12minPlay
August 31, 2024〓朗読〓🐏聖書『マタイによる福音書』第14回 新共同訳 第20章 [「ぶどう園の労働者」の例え・イエス、三度死と復活を予告する・ヤコブとヨハネの母の願い・二人の盲人をいやす] 🐏 朗読・藤代三千代このブラウザでは再生できません。再生できない場合、ダウンロードは🎵こちらYoutubeはこちらhttps://youtu.be/HsPozyqYqc8〓〓リスト〓〓0:00 オープニング0:10 「ぶどう園の労働者」の例え 20-1~163:16 イエス、三度死と復活を予告する 20-17~194:02 ヤコブとヨハネの母の願い 20-20~286:26 二人の盲人をいやす 20-29~347:54 エンディング「先にいるものが後になり、後にいる多くのものが先になる」このなぞなぞみたいなことばで前の19章が終わってしまいましたがその意味を教えてくれるのがこの章最初のお話ですマタイの福音書にしか出てこないお話なのです〓続くお話は、3回目の受難告知の場面です「マルコによる福音書」にも「ルカによる福音書」にもこの場面は書かれていますがそれぞれイエスの言葉以外の要素 例えば周囲の反応とかも一緒に記していますでも、マタイの福音書にはそれがありませんここは、イエスの声だけが響いて、まるで空に残るような印象がありますそして次のお話はヤコブとヨハネの母親が登場しますここが「マルコによる福音書」と大きく違うところみたいですイエスに同行する多くの人の中に弟子のお母さんもいたの?と、ここで読者が気付いたりお母さんが息子のことを頼みに来たの?とかいろいろ含みを感じるエピソードですさて、このエピソードの中に出てくる「杯」ですがもちろん私には読んでも意味が分からなくて〓調べると、旧約聖書に出てくる「杯」を指すようでまた「杯」には苦しみと喜びの2種類があってここでは苦しみの杯を飲むことを言っているのだそうです「マタイによる福音書」もいよいよ佳境に入りました次章でエルサレム入城の日を迎えます✽*✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽* 余談 ✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽*✽𓅩𖥣𖧧𖥧詳しくご存知の方へは別なのですがここに出てきた杯のことが何ともよくわからないという、私と同じ思いの方〓️ぜひぜひネットで調べてみてください緻密に(根拠も添えて!)解説を書いている方がいるし、エッセイみたいな方もいるし、たっくさん資料があるのですよ!ちょっと読むだけで、聖書のあちこちに隠れているエピソードに幅広く触れられるので面白かったですしたったの一言でしかない「杯」がこんなに意味を持っているのかとちょっと驚きました(「未だその意味を解釈しきれていない」という方もいらっしゃいました!)いつも「お勧めです!」と言ってる気がしますけど、このワードもちょっとお勧めしたくなります〓なおこの20章以降、さらに福音書のギアが数段上がる(例えが変ですみません〓)と言うか1行1行がさらに意味を持つらしいですお話としてはご存知の通り、あの日へ向かうのですが…✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽*✽𓅩𖥣𖧧𖥧 ☆☆☆ ✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽*✽𓅩𖥣𖧧𖥧...more9minPlay
May 29, 2024🐏聖書『マタイによる福音書』🐏 第13回/新共同訳 第19章 [離縁について教える・子供を祝福する・金持ちの青年] 🐏朗読:藤代三千代このブラウザでは再生できません。再生できない場合、ダウンロードは🎵こちらYoutubeはこちらhttps://youtu.be/PitiYUrCUoQ〓〓リスト〓〓0:00 オープニング0:11 離縁について教える 2:50 子供を祝福する 3:34 金持ちの青年 7:17 エンディング最初の離縁についてのエピソードに「イエスを試そうとして」という言葉が出てくるのですが、これは何を試されているのかというと、イエスの出す答えがモーセの言った内容と同じかどうかを試されているのだそうですもし、彼らファリサイ派の人たちがイエスは間違っていると指摘したならイエスは追放されるだろうし、いえ…もっと怖いことが待っているはず〓だからここでも(いつでも!)イエスは正しく律法を解説しなくてはならないそこで、ポイントとなっているのが「初めから」という言葉らしいのです~「初めから」という言葉~どうやら、この「初めから」というのが大事らしくてもちろん「モーセが」とも言っていますが「初め」=最も古いだからこの言葉が大事なんだとネットの記事で教えてもらいましたイエスたちの生きている世界では古いものほど権威があったらしく神の言葉や聖書でも古い方が強い(?)らしいのです*金持ちの青年の話「金持ちの青年」とあっさり書かれていますがマタイはほんと削りとった表現をしますよねえこれだけじゃ、なんかこの青年もお気の毒… いえいえ、マタイがこの青年についてこれしか形容しなかったのにはちゃんと理由があるんだと、最後にはわかるのですが…この有名なお話に登場するこの若者についてちょっと補足するとこの青年は財産だけでなく教養も社会的地位もあり若くして指導的な立場にあったと、他の福音書には書かれていてさらに彼は人格者だった、などというと記述もネットでみかけましたお金のあること自体「神からの祝福」であるとユダヤの人たちは考えていたという説明も見かけたのでお金持ちに悪い印象は少ないのかもしれませんこの青年をどう受け止めるかは、解説する人によっていろいろあって・善行を行っていても満足できない虚しい心の持ち主・行いだけで神の国に入れると考える誤った信仰の人・イエスをラビのひとりと思い、イエス(神)を見ていない人などあるようでした青年が立ち去るときの「悲しんで」の意味も原文で読むと、意味は複雑で深いらしいです*弟子の質問この弟子の質問え?そんな風に尋ねちゃうの?と、ちょっと驚いたのですずいぶんあけすけだなあと じつはこの部分、マタイの福音書にしか書かれてなくて *マルコ10章→ペテロがイエスに言い出した、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」。 *ルカ18章→ペテロが言った、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」。で終わってて「では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」は出てきません(実は、離縁のエピソードの時も同様なのです。弟子たちが「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言っちゃってますが🤭 これもマルコの10章には出てきません)この見返りともいえる部分については次の章にも続くテーマになっていますというわけで、次の章も今回のお話の続きです*✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽*✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽* 余談 ✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽*✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽読んだいろんな解説の中にお金持ちでも財産を手放した人のエピソードがあったので忘れないように書いておきたいと思いましたルカによる福音書の19章に出てくるザアカイですちょっと滑稽なキャラクターのようにも取れる書かれかたなのですが〓️「ラクダが針の穴を通るほうがまだ易しい」という、この章の言葉の聞いたあとこちらのエピソードを読むと、これが滑稽なシーンなどではなくものすごいことが起きた瞬間なのだなと思わされますでもなぜか私の頭のなかではイエスを見た瞬間のザアカイが雷に打たれたムササビのような姿になってしまうのです(ゴメンナサイ)----------------今回なんか気になってしまう「金持ちの青年」善行をし、戒めも守ってきたと自負する高潔な青年がそれでも永遠の命を得られるのか不安に思いイエスにたずねているんですよね…あの青年このあと信仰を捨てちゃったのでしょうかまた他の「先生」に、同じ質問をしに行ったのでしょうか後日談ってないのかな 🤔🤔*✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽*✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽*✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽*✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽...more8minPlay
December 31, 2023〓朗読〓聖書『マタイによる福音書』第11回 新共同訳 第17章 [イエスの姿が変わる・悪霊に取りつかれた子をいやす・再び自分の死と復活を予告する・神殿税を納める]このブラウザでは再生できません。再生できない場合、ダウンロードは🎵こちらYoutubeはこちら https://youtu.be/mRdDsD3U7qI〓〓リスト〓〓0:00 オープニング0:12 イエスの姿が変わる3:10 悪霊に取りつかれた子をいやす5:00 再び自分の死と復活を予告する5:32 神殿税を納める6:57 エンディング●第11回● イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの計3人だけ連れて山に登るのですがなぜ「三人」なのか、なんで全員ではないのかなとすぐ疑問に行き当たってしまいましたこんな風に、福音書に限らず聖書はすんなり先に読み進めないことが多く朗読者はひたすら調べることになります ✽ 3人という数偶然ではないくらいは想像つきましたが (^_^;) むちゃくちゃ立派な理由がありました 3人という数、これは律法で定められた人数とのこと 何かを証明するときに二人か三人の証人による証言が必要だと確かに申命記の第19章に書いてあり、なるほどと読んでいたらそれと一緒にあの有名な 「目には目を、歯には歯を」 の言葉もここに書いてありましたもしお手元に聖書がおありなら、せっかくですから申命記第19章もちらっと覗いてみてください 3という数字が他にも指定されたり、殺人者が逃げ切れるような距離と言う実際的な指示があったりと興味深い章です ✽ なぜモーセとエリヤなのか 調べればすぐに出てきますのでごくごくシンプルに書かせていただくと お二人とも高い山に縁を持つ、旧約聖書の人物ですモーセは旧約の律法、エリヤは預言者を表しているとのこと わざわざ高い山の上で、旧約聖書の律法と預言者を表すお二人が、新約聖書のイエスと一緒に並んでいる点が見どころ、なのだそうです この眩く神々しい光景をペトロたち三人が証言者として見せられているわけです はあ〓書いているだけで深呼吸したくなる重たいシーンです ✽ なぜ小屋を建てるのか、なぜ言葉を遮るのか このペテロの提案を不思議に感じる人は多いみたいでこれも調べると、たくさんの方が説明をされています 神様の休む場所=「幕屋」を作って歓待しているという趣旨を多く見かけましたしこの地域の習慣で小屋を建てて客人をもてなすのだというのもありました つまり、ペテロの提案はごく自然な展開らしいのです彼は最上の歓待を表現しているのに雲の声はそれを最後まで言わせないのです彼の申し出を遮ってしまうこのシーンは宗教画にでもなりそうですよねではなぜ遮ったのか?ここも大事な点らしく、ネット上でも複数の方がそれぞれお話をなさっていましたここだけを取り出して説教のテーマとされることもあるようです ✽ 天からの言葉 天(雲)から声が聞こえるのは…前にもありましたよねこれは2度目イエスが受洗したとき(第13章)に、ほぼ同じ言葉が聞こえていますただし、今回そこへもう一つ加えられた言葉があるのですなにかが一歩進んだ、第13章とはフェーズが違うということなのでしょうか こういう構成は、すごく物語っぽくて面白いですね *第17章の解釈は… ほかにもひっかかるところはたくさんあって、ひとつひとつ見ていったのですが、実はこの第17章はマタイによる福音書の中でもとても難解らしく、いろんなサイトで、少しづつ異なる解釈に出会いました イエスの語った元々の言葉の持つ意味がひとつではなく、複数の意味を同時に伝えていたり旧約聖書の内容がベースにあっての出来事だったりするので 日本語で読んで、日本語の物語のように受け止めてしまうと、なにかが違ってくるのかもしれません *✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽ かなり余談 ✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽ 第17章の中味については、もう不思議がったら切りがないと思うんですでもひとつだけ、最初から気になっていたことがあって…それはペトロたちのことです ※この先は読み飛ばしていただいて問題ありませんぜひ朗読再生へとお進みください(笑) *** 17章の最初で、突然モーセとエリヤが出てきます初対面なのに、なぜ弟子たちは彼らがわかったのだろうと不思議なのですが、説明がありません これは、弟子たちに三人の話が聞こえていたから? マタイの福音書には書かれていませんが、ルカの福音書の9:31には「話をしていた」とありますからそれは十分あり得るのですでも、なぜか自分はこれは「夢を見てる」時の感じに近いのではないか……理由もなく、そう思ったのです 姿を見なくても一瞬でわかってしまうこれまでの経緯も、なぜか一瞬で理解できてしまうあの感じです もしやと思い調べてみたら本当に、彼らは「熟睡していた」と前述のルカの福音書に書いてあるのを見つけましたまさかほんとに寝ていたとはびっくり!!(๑º ロ º๑)!!ルカの福音書によれば熟睡から目覚めた時に イエスたち3人を見たようですマタイは書かず、ルカは書いた この『熟睡』の部分唐突すぎて逆に真偽を疑いたくなるのですが彼らがここで「目を開けた」ことに意味を見出す解釈もあるようですさて 彼らが山頂でみたシーンは非現実的であり神々しく、衝撃的だったことは想像がつきます彼らがどんなことを思いつつ山を降りてきたのか マタイは書いていません自分であれば見たこともないようなすごい夢をみたあとこころが奪われて目の前の日常には戻れない衝撃が強いほど心の底は震えて続けて思考はぐるぐる駆け巡るなのに言葉は出てこないきっとそんな感じになってしまうペトロたちもきっと平素の状態では、決してなかったと思うのです あの光景を見た後現実の山を降りてくるペトロたちの頭の中で今見た光景と一緒にぐるぐる回っていたのが律法学者の言う「まずエリヤが来るはずだ」という真理の言葉とイエスの復活という不可解な言葉なら理解不能なまま下山する 弟子たちの心情が見えるような気がするのですイエスは3人に箝口令を敷いていますだから、この山を降り切るまでに聞かなければ もう機会がないと弟子たちはきっと思っている彼らにとってこの山を降りるくだりはその降り切るまでの過程にあったものが ひとりひとり複雑だったのではとちょっと思うのですまだまだこの先も妄想は膨らんでしまうのですが〓つまり、それくらい証言者となったペトロたちの心や体の状態が興味深くて( . ̫ . )⸝⸝⸝♡ 特に山を降りてくる時の心の動きはすごく面白い異次元のものに遭遇した人を表現する時どこかへ魂を持っていかれたような、呆然としたイメージで描かれることは多いけれど彼らは違っていたのです 今度、そのようなシーン(どんなシーンだ?)を演じる機会があったら、ペトロたちのことも思い出してみたいと思います *** とここまで書いてきて ヾ(・ω・`;))ノぁゎゎなんで全く気がつかなかったんだろう〓〓 この第17章のシーンを書いたのは、ルカだけじゃないもうひとつ「マルコ」があったのにそれ、まったく読んでいない〓〓 こ、これは…まずいですなので早速読みました(読後)マルコによる福音書にはさらに違うことが書かれていました 同福音書の9:10には山をおりてくるときに「彼らが論じ合った」とあり死者のなかから復活するとはどういうことかそれを3人で論じ合っていたとありました 弟子たちは話しながら降りてきたというのですもしかしたら、マタイは書いていないけれど彼らは山を降りながら、イエスを質問攻めにしていたかもしれないマタイはエリヤのことだけ書き記したけれど弟子たちとはもっともっと活発な問答があったのかもしれない…ああやはりこの、山を降りるシーンはとっても含みがあるようですちなみにマルコも、マタイ同様弟子たちの「熟睡」については書いていませんマタイが選び 残した余白のおかげで自分の妄想などはすぐに生まれてしまうのですがこの世にある多くの解釈もまたマタイが揺らすゆりかごの中で育まれているのかもと勝手な妄想がまた始まりそうです ✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽ ...more8minPlay
October 23, 2023〓️〓️朗読〓️〓️ 聖書『マタイによる福音書』第10回〜新共同訳 第16章 [人々はしるしを欲しがる・ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種・ペトロ、信仰を言い表す・イエス、死と復活を予告する]このブラウザでは再生できません。再生できない場合、ダウンロードは🎵こちらYoutubeはこちら〓https://youtu.be/b2x4yQkSq5E●第10回● 『マタイによる福音書』も折り返し地点を過ぎ、容赦なくその日へ近づいていきます。この章後半のイエスの言葉は聞くものへのすごみすら感じられて、弟子たちの驚きは想像にかたくありません。 …なんというか、弟子たちの周縁に、神の世界との境界がそこここで揺らめいている雰囲気です。はっきりと、この章はこれまでとは趣が異なっているようです。 具体的には、章の前半と後半で色合いが変わります。 前半の最初は、第3章で「まむしの子ら」と呼ばれていた、ファリサイ派の人々とサドカイ派が揃ってイエスのもとにやってきます。そして彼らに「しるしを見せて」と言われるのが最初のお話。 イエスが「しるしを見せて」と言われるのはこれが2回目です。第12章のときは少人数でしたが、今回彼らは大人数でやってくるのです。 「試そうとして」とあるように、はっきりと目的を持った彼らは「天からの」しるしをみせてとイエスに言います。第12章と似てるけど、すでに彼らはイエスの答えを知っていたはずです。短いお話ですが、毒を含ませた問答が描かれるエピソードです。 次は、ちょっとほっこりした小話のようにも見える、弟子たちが「パンを持って来なかった」エピソード。 文章が簡潔すぎて、弟子たちの右往左往をくすっと笑ってしまいたい雰囲気にも読めてしまうのですが、よく読んでみると、実はそんな軽い話ではないようです。 イエスの言葉は説教だから、弟子たちは心底悩んでしまう。そう考えるとイエスのお叱りは切ない。イエスに「まだわからないのか」と言われるくらい弟子たちは「パン」についてずっと論じ合っていたのですから。いくら論じ合っても、イエスの言葉にたどり着けない弟子たちの苦しさが、文の合間に畳み込まれているような気がします。 似たような出来事は数々あったのかもしれません。それらを代表させたのがこの話だったのでしょうか。このあとのエピソードの直前にこんな話を用意するなんて、マタイったら演出家ですよね。 それにしても、聖書に登場する「パン」という言葉はなんと美味しそうに響くのでしょうか (*´﹃`*)‧º·˚ さて、イエスたちは異教の地を歩いています。ここはどうやら異邦人の住む地だったようです。異邦人を救う予定のないイエスですが、なぜ? これには「多くの群衆が集まってくるので、身の危険を感じたイエスらはしばらく異邦人の住む地域を巡り歩いていた」という解釈があるようです。 パンを人々に与えた時だけでも計9000人以上もの人が集まっていますから、評判も流れるし目立ってもいたでしょう。 3番目のエピソードは、命の危険を感じるなか、異教徒の地を訪れたイエスが弟子たちに「ひとびとは私を何者だと言っているか?」と問いかけます。そして、イエスはこれまでとは異なる言葉を口にし始めます。 *✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽ 『エリヤ? エレミヤ?』 預言者の名を言われても、ほぼわからないわたしみたいな人のためにちょっとだけ。 「バプテスマのヨハネ」は、イエスに洗礼を施した預言者。サロメ(ヘロデ王の妻の連れ子)が彼の首を所望したお話は第14章に出てきたばかりですが、ヘロデ王はイエスのことを「バプテスマのヨハネ」の再来だと言ってます。弟子たちがイエスに伝えたのは、王だけでなく巷の人々までがそう言っている、という意味になるかもしれません。 「エリヤ」も預言者の名前。 エリヤのエピソードは信仰を持つひとならご存じだろうと思うのですが、聖書にふれる機会のない人は、ここはほぼ素通りです〓きっと。でもそれはもったいないので、ぜひ検索してみてください。エリヤの有名なエピソード、列王記にある「カルメル山上の対決」について書かれたものはたくさんあります。聖書に書かれた出来事は荒々しいものが多いと思うのですが、これもそのひとつ。これを目の前で見たなら、そりゃあひれ伏すと思います。 「エレミヤ」も預言者の名前。この方のことを簡潔に書くなんて、不勉強なわたしには無理! なのでぜひ検索してみてください(他力〓)。旧約聖書にはエレミヤの預言を集めた「エレミヤ書」があります。少し読んでみたのですが、原文が詩の形で書かれているせいか翻訳もリズミカルな文章です。なお、エレミヤについて短く説明した文章もネットのあちこちで見られますので、調べやすいかと思います。*✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽〓〓リスト〓〓0:00 オープニング0:12 人々はしるしを欲しがる 16 1-41:17 ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種 16 5-122:54 ペトロ、信仰を言い表す 16 13-204:55 イエス、死と復活を予告する 16 21–287:02 エンディング...more8minPlay
August 23, 2023〓️朗読〓️聖書『マタイによる福音書』第9回〜新共同訳 第15章 [昔の人の言い伝え、カナンの女の信仰、四千人に食べ物を与える、他]聖書『マタイによる福音書』このブラウザでは再生できません。再生できない場合、ダウンロードは🎵こちらYouTubeはこちら〓https://youtu.be/xCId_7cEyxk●第9回● マタイ伝はさらっと書かれていることがほとんどですが、よく読めば今回も小さな出来事ではないようです。「食事の前に手を洗わない」ファリサイ派の人も律法学者たちも、このことを問いただすためにエルサレムからやってきます。 律法を守るユダヤの人たちは、清いもの清くないものを厳格に分けているようです。イエスたちの行動は意味をもち、彼らから沸点に達する怒りを買ったかもしれません。イエスは「間違った」ことをしているのか。それを説明するのが最初のエピソードです。 カナンの女の話は、他のエピソードに比べたらそれほど知られてないでしょうか。彼女の話す例え話(←これ、可愛い〓)はちょっと謎めいて聞こえます。 しかも彼女がそれを口にすると、イエスは態度を変えるのです。 でもこのたとえ話、実はちっとも謎ではなくて弟子たちもこの言葉の質問をしません。福音書もこの箇所で何も説明はしません。ここでカナンの女がどのくらい叫んでいたのか想像してみたのですが、たぶん、ものすごい声です。福音書の原文からその声の感じを推測した方もいて、検索すると出てきますので興味のある方はぜひ探してみてください。 わき目もふらず出せるだけの声を出しながらぴったりと自分たちについてくる女性。その存在は憐憫の情より気味の悪さが勝つかもしれず、生理的にも聞くものを苦しめます。弟子たちが困惑したのも想像つきます。カナンの女だけでなくこの後パンをいただく四千人もイエスの言う「イスラエルの家の失われた子羊」ではないのがこの第15章の特徴のようです〓 *✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽ 演技の話になるですが、台本のト書きに「叫ぶ」と書いてあると、これがけっこう選択肢が広くて、演者によっていろんな表現が見られることは間違いないです。演じる方にすれば、叫びがいがあると言うか、いろんな解釈が想像できます。シーンの雰囲気はもちろん、意味すら、俳優の叫び方ひとつでガラッと変わるはず。映画を見ていても、印象的な叫ぶシーンがあると「これは台本に書いて無いかも…」とつい想像してしまいます。「叫ぶ」と言う行為は、一つの言葉には置き換えられない多岐で複雑な行動で、想像しきれないほどの闇(と言っていいかも)がそこに広がっているように見えます。 その「叫ぶ」が今回のマタイの福音書に出てきました。カナンの女はどんな姿で叫んでいたのか、彼女の暮らしは、どれほどの時間をかけてイエスの一行にたどり着いたのか、なぜ彼女しか叫ばないのか…空想がぐるぐると回り始めてしまいます。だからでしょうか、この章は朗読をしていると顔の見えないカナンの女の姿が浮かんできてとりわけ印象に残ったのでした。 *✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽ ★★♪ ♪ブログ "朗読すれば鳥も来て" ♪ ♪★★ http://914b.seesaa.net/〓︎リスト0:00 オープニング0:11 昔の人の言い伝え 15 1-203:59 カナンの女の信仰 15 21-285:58 大勢の病人をいやす 15 29-317:03 四千人に食べ物を与える 15 32–398:51 エンディング...more10minPlay
May 04, 2023朗読〓聖書『マタイによる福音書』第8回~新共同訳 第14章 [洗礼者ヨハネ、殺される~ゲネサレトで病人をいやす]このブラウザでは再生できません。再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら●第8回● 有名なエピソードが三つも出てくるのがこの第14章です。まず、イエスの奇蹟としてよく取り上げられる「五千人の給食」「湖の上を歩く」のエピソード。そして、舞を舞って洗礼者ヨハネの首を所望した少女「サロメ」の話。絵画の「サロメ」は妖艶な美女として描かれることが多いですが、マタイは「少女」としか言わず、また、少女自身ではなく「母親にそそのかされて」ヨハネの首を希望し、それを「母親に持って行った」と書くのみです。常軌を逸したこの光景の凄まじさを、マタイは行間から透かすのです。〓︎リスト0:00 オープニング0:13 洗礼者ヨハネ、殺される 14 1-122:37 五千人に食べ物を与える 14 13-214:57 湖の上を歩く 14 22-337:34 ゲネサレトで病人をいやす 14 34–368:10 エンディング★★♪ ♪YouTubeはこちらから♪ ♪★★https://youtu.be/jHt8uuuV6rM 朗読:藤代三千代 𝑻𝒉𝒂𝒏𝒌𝒔(*ˊᵕˋ*)੭ ੈ〓︎...more9minPlay
March 24, 2023朗読〓聖書『マタイによる福音書』第7回 /第13章 [「種を蒔く人」のたとえ~ナザレで受け入れられない] 新共同訳 朗読:藤代三千代このブラウザでは再生できません。再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら●第7回● 第13章は3番目に出てくる説教で、途中イエスが役になり切ってセリフを喋ってくれます。ちょっとだけですけど(*´ `*)イエスは群衆にたとえ話をします。群集はもちろん(たぶん)弟子たちにも意味がわからない。それでイエスに聞きに行く。するとイエスはたとえ話をひとつひとつ弟子に説明してくれるのです。まるで塾の先生と子供たちみたいで、実際の雰囲気はピリピリかもしれませんが、教わる弟子たちが可愛いらしく見えなくもないです(大人だけど)〓。あと、この第13章には、からし種がすくすく育って鳥が 巣を作る話があるのですが、これって「良いお話」じゃないこと( °o°)ハッご存知でしたか?鳥好きな自分は、巣が作れてめでたしめでたしじゃないか、からし種って役にたつすごい草!と思いましたが、イエス様にそんなつもりは微塵もなかったです。三つ目の説教ということで言えば、ネット上の解説を読むと、今回の説教は五つの説教の真ん中に位置し説教の中心となるため内容的にもイエスの活動の重要な部分を語っているのだそうです。それが「天の御国の奥義」なのだそうです。福音書は構成もよく考えられているんですね ( ᴗ͈ˬᴗ͈ )フムフム*✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽*この朗読を聴いてくださる方のなかには、もしかしたら以前読んだ「小林多喜二日記」も聴いてくださる方が、お一人くらいはいらっしゃるかもしれないと(期待〓)思ってひとこと感想。「種を蒔く人」と聞いて、小牧近江の『種蒔く人』のことが頭を過ぎりました。アンリ・バルビュスのクラルテ運動など多喜二がとても関心を寄せていた事柄と、イエスの説法のイメージを重ねて良いかはわからないのですが、今回この第13章を朗読するまで、小牧氏のネーミングは名称通り(それだって素敵なのですが)にしか受け取っていなかっただけに、あの時代を思えばイメージはもっと豊かなものだっただろうと、今更ながら感慨深いです。*✽𓅩𖥣𖧧𖥧𖤣𖥧𓅩𖥧✽★★♪ ♪YouTubeはこちらから♪ ♪★★https://youtu.be/3Q2c_IbiBvs〓︎リスト0:00 オープニング0:11 「種を蒔く人」のたとえ 1:50 たとえを用いて話す理由 3:58 「種を蒔く人」のたとえの説明 5:19 「毒麦」のたとえ 6:57 「からし種」と「パン種」のたとえ 7:52 たとえを用いて語る 8:26 「毒麦」のたとえの説明 10:09 「天の国」のたとえ 11:53 天の国のことを学んだ学者 12:30 ナザレで受け入れられない 12:52 エンディング 朗読:藤代三千代...more15minPlay
January 28, 2023朗読〓️聖書『マタイによる福音書』第6回・ 第12章 [安息日に麦の穂を摘む~イエスの母、兄弟]このブラウザでは再生できません。再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら◆聖書 新共同訳『マタイによる福音書』(日本聖書協会)◆●第6回● ここでまたイエスが奇蹟を起こすのですが、第9章の時よりももっと症状の重たい人を治してしまいます。見ている人たちの驚きもさらに大きくなって、「ダビデの子では?」と言い始めます。『ダビデの子』と言うのは、メシアのことを指すそうで、つまり「この人、メシアなんじゃない?」と人々が思い始めたのをファリサイ派の人たちが苦々しく見ている図が今回のお話に出て来ます。読んでいて気になったのは麦の穂はそのままで食べられるのか、美味しいのかと言うことでした。当時の人は穂のままで食べたんでしょうか。少し調べてみたらイエス の時代でもそのままでは「食べなかった」と言う意見がネット上にいくつか見られました。どうもここは、イエス の一行が「それくらいお腹が空いていた」と解釈するものらしいです〓★★♪ ♪YouTubeはこちらから♪ ♪★★https://youtu.be/6lBfa118IwI〓︎リスト0:00 オープニング0:12 安息日に麦の穂を摘む 12 1-81:56 手の萎えた人をいやす 12 9-143:17 神が選んだ僕 12 15-214:34 ベルゼブル論争 12 22-327:32 木とその実 12 33-378:47 人々はしるしを欲しがる 12 38-4210:30 汚れた霊が戻って来る 12 43-4511:27 イエスの母、兄弟 12 46-5012:45 エンディング 朗読:藤代三千代...more14minPlay