いつも喜んでいるなんて、無理な話です。嬉しいことばかりで人生が満ちているわけありません。苦しい時期があります。パウロは、わたしたちから希望を奪い、喜びや笑顔を失わせることがこの世界に数多くあることをよく知っていました。そのような中でも、決して失われることのない喜びや希望をすべての信仰者たちが確かに持っていることを彼は強く信じていました。喜びを失ってしまう状況の中でも、決して失われることのない喜びがあることを、そのような喜びをわたしたちが確かに与えられていることをフィリピ教会の人たちに思い起こさせ、彼らの心に刻むために、パウロは「主にあっていつも喜びなさい」と語りかけました。
「主にあって」が、パウロにとって重要な言葉です。パウロは、この喜びの正体を短く説明し、いかにわたしたちの生涯がキリストに結ばれることを通して得る喜びに下支えされているのかを伝えています。パウロが伝える、わたしたちの喜びの正体は、「主は近い」ということです。キリストは必ず、将来、すぐに、わたしたちのもとにやってきて、天の御国をもたらしてくださいます。わたしたちの苦しみや悩み、暴力や不正義や憎しみの連鎖を終わらせ、わたしたちの世界を喜びで満たしてくださいます。死に勝利し、あたらしい命をこの世界で生きるすべてのものに与えてくださいます。そんな希望に満ちた約束が、実現することを心待ちにしていることがわたしたちの抱いている喜びです。
また、聖霊によってわたしたちはキリストと結ばれ、キリストはわたしたちと共にいてくださっています。神はわたしたち一人ひとりに関心をもっているため、キリストを通してわたしたちと共にいて、わたしたちに深く関わろうとしています。だから、パウロは神がわたしたちの声を聞いてくださることを決して疑いません。わたしたちが抱えるすべての思い悩みをわたしたち以上に知っている神に祈り、打ち明けて、神に信頼してすべてを委ねなさいと、パウロは勧めています。神は見張りのように、夜通しわたしたちを守っていてくださる方だからです。だからこそキリストに結ばれている人びとは、どのような危険が迫っていたとしても、喜びをいだき続けることが出来ると、パウロは信じています。
キリストにある喜びは、わたしたちの人生を華やかに彩る装飾音とは違います。神がわたしたちに喜びを与え、わたしたちの人生を下支えするベース音を鳴らし続けてくださっています。主キリストによって与えられた喜びは、いつも、わたしたちの人生を下支えする低音として、わたしたちの人生に響き続けています。