小山ナザレン教会

脇役に徹した洗礼者ヨハネ(稲葉基嗣) – ヨハネ 3:22–36


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2024年3月17日 四旬節第5主日

説教題:脇役に徹した洗礼者ヨハネ

聖書:ヨハネによる福音書 3:22–36、サムエル記 上 18:5−11、ヤコブの手紙 2:22−23、詩編 30

説教者:稲葉基嗣


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ヨハネによる福音書をはじめから読んでいくと、

イエスさまと洗礼者ヨハネの話が交互に出てきます。


この世界の光であるイエスさまが紹介され、

神から遣わされた重要な人物として、洗礼者ヨハネが登場します。


けれども、ヨハネは常にイエスさまを指し示す存在として紹介されます。


この人こそ、自分よりも優れた人ですと語る、ヨハネの言葉を

聞いた人たちの中には、イエスさまの弟子になる人たちもいました。


それは、ヨハネの願い通りですし、物語の流れ的には、

ヨハネからイエスさまへの移行がスムーズに行われたように見えます。


けれども、また洗礼者ヨハネの登場です。


著者はなぜ、洗礼者ヨハネの話をまたここで紹介したのでしょうか。


その理由については、ヨハネの弟子たちの言葉から推測することができます。


  「みんながあの人の方へ行っています。」(26節)

たしかに、ヨハネ自身が、イエスさまのもとへ人びとが行くのを良しとしました。


でも、それが実際に起こると、危機感や悲しみといった感情が湧き出てきました。


このような人びとの反応があったからこそ、ヨハネが自分のその役割を

喜んでいたことを著者は伝える必要がありました。


花嫁や花婿のような、結婚式の主役としてスポットを当てられる人物ではなく、

その補助をする介添人として居続けることをヨハネは望みました。


脇役であることに徹することこそが、彼の喜びでした。


自分の願いや感情を押し殺して、キリストを指し示すその役割を担ったのではなく、

喜んでその役割を担ったヨハネは、あくまでも、自分の人生においては主役でした。


けれど、ヨハネがまさに脇役であり続けたのは、

自分の人生ではなく、他の人の人生においてでした。


他の人たちを押しのけて、誰かの人生の主役に

自分がなる必要性をヨハネは感じていませんでした。


すべての人にいのちを与え、すべての人の光であるイエスさまを指し示し、

イエスさまと出会った人たちが、喜びを抱く。


それこそが、ヨハネが脇役に徹することによって望んだことでした。


洗礼者ヨハネがそうであったように、わたしたちも結婚式の介添人のように、

必要とされる助けを提供することが出来るならば、

共に生きる人たちに喜びをそっと添える、素敵な脇役になれます。


何よりも、神が天の御国をこの世界にもたらすという、壮大な物語の中で、

わたしたちが脇役として輝く場を神は用意してくださっています。

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