因果応報という言葉があります。世の中のたいていの人は、悪いことをすれば当然罰せられるべきだと思います。また、誰かが失敗したり、敗北したリするのを見ると、そうなって当然のことをその人はしたのだと考えます。犯罪や事故には、必ず原因があると信じています。
スウェーデンにあるリンショーピン大学のソーンバーグとクヌートセンが2010年に発表した研究によると、学校でのいじめの原因について生徒に尋ねたところ、大半はいじめっ子が悪いからだと答えたのですが、42%はいじめられっ子にも原因があると答えました。実際、私たちもいじめられている子を見ると、どうしてもっと歯向かわないんだとか、もっといじめられないように振る舞えばいいのにと考えます。ドラマでは、いじめられっ子が立ち上がって初めていじめっ子はその報いを受け、視聴者はスッキリします。いじめられているのは、いじめている方も悪いけれど、本人がその苦しい状況を変える努力をしないせいだというわけです。先の研究では他に、いじめを傍観している自分も悪いと答えた生徒が21%いました。なんにせよ、必ず誰かに責任があるのだと考えるらしく、社会や人間の本性が原因だと答えた生徒はもっと少なかったそうです。
世界は公平公正な場所であり、悪いことが起こるのはそこに暮らす人々に責任がある、そういう考えを「公正世界仮説」と言います。私たちは、頭で信じていなくても心の底では、正義は悪に勝つべきで、努力は必ず報われると信じています。因果応報とか、カルマといった観念も、公正世界仮説の一種です。
ところが、現実世界はもっと複雑怪奇で不合理で不条理なものです。悪いことをしても裁かれない人もいれば、何の理由もなく殺害される人もいます。生まれ育った条件によって、何の努力もなく恵まれた生活をしている人もいれば、どんなに努力しても貧困から抜け出せない人もいます。でも、そんな不条理を人はなかなか受け入れられず、何らかの原因・理由を世界に求めます。裕福な人も貧しい人も、それぞれに何か理由があってそうなったのだから、福祉や所得再分配など余計なことを政府はするべきでないと考えたりします。ある日どこかで空から原爆が落ちてきたら、落とされた方にも何か原因があるべきだ、と考えたりもします。
意識というものが矛盾を解消しようとする神経作用なのだとしたら、心が世界に原因・理由を見出そうとするのは逃れようのないことかもしれません。が、世界の公正が約束されていないことを見失うと、逆に責めを負うべき本来の原因を見逃してしまうことになります。