Yamagata Walks 〜足跡に眠る、忘れられた山形の物語〜

Yamagata Walks 〜足跡に眠る、忘れられた山形の物語〜

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Yamagata Walks 〜足跡に眠る、忘れられた山形の物語〜 episodes

  • 天童編:将棋駒に託した魂 ~ 幕末の英傑・吉田大八の壮絶な決断

    今回の舞台は、将棋駒生産量日本一を誇る山形県天童市。町を歩けば、ポストの上にも橋の欄干にも、マンホールにも将棋駒がデザインされ、まさに「将棋の聖地」と呼ぶにふさわしい光景が広がります。しかし、なぜ天童がこれほどまでに将棋駒の町となったのでしょうか?その礎を築いた一人の人物、幕末の天童藩家老・吉田大八に迫ります。


    吉田大八は、わずか37歳でその生涯を閉じた「敗軍の将」でありながら、今もなお天童の英雄として神社に祀られている、非常に興味深い人物です。彼の生涯には、現代の私たちにも通じるリーダーシップと、藩と民を守り抜いた壮絶な覚悟に満ちた「衝撃的な決断」が隠されていました。


    **【聴きどころハイライト】**


    **1. 貧困を救った「将棋駒」のイノベーション**

    吉田大八が生きた幕末の天童藩は、度重なる飢饉や借金で財政は火の車。武士でありながら、その日の食事にも困るほどの困窮に喘いでいました。この危機的状況を打開するため、大八が打ち出したのが、藩士たちに「将棋の駒作り」を内職として奨励することでした。


    しかし、武士が手仕事でお金を稼ぐことは、当時の武士のプライドから猛反対を受けるもの。大八はどのようにしてこの難題を乗り越えたのでしょうか?

    彼は「将棋は兵法戦術に通じ、武士の面目を傷つけるものではない」と、駒作りに新たな意味を与え、武士の誇りを保ったまま藩士たちが仕事に励めるよう導きました。さらに、近くの米沢藩から専門の職人を招いて品質向上に努めるなど、そのリーダーシップは現代のビジネスにも通じるものです。この革新的な決断が、後に天童が全国の将棋駒生産量の9割以上を占める一大産業へと発展する大きな一歩となったのです。


    **2. 幕末の動乱における壮絶な覚悟**

    天童藩の藩主・織田家は、あの織田信長の次男を祖とする名門。その高すぎる家格ゆえに、戊辰戦争では新政府軍から「奥羽鎮撫使先導役」という、小さな藩にはあまりにも重すぎる大役を命じられます。病弱な藩主に代わり、家老の吉田大八はこの過酷な運命を真正面から受け止めます。


    しかし、新政府軍として旧幕府側の庄内藩と戦うも敗北し、天童の城下は焼失。その後、東北の諸藩が「奥羽越列藩同盟」を結成すると、天童藩は官軍を裏切り同盟に加わらざるを得ない「板挟み」の状況に追い込まれます。元官軍先導役であった大八は、一転して同盟側から「戦犯」として命を狙われる立場となってしまうのです。


    この絶望的な状況で、彼と親交のあった長州藩の桂太郎(後の内閣総理大臣)から逃亡を勧められるも、大八は毅然とこれを拒否します。「自分が逃げれば、藩主まで罪が及ぶ」と、藩が犯した過ちの全ての責任をたった一人で背負う覚悟を決めたのです。


    慶応4年(1868年)、37歳の若さで切腹。その死に際し、すでに自らの墓碑銘を書き残していたという事実は、彼がいかに死を受け入れていたかを示します。辞世の句「我のみは 涼しく聞くや 蝉の声」に込められた、藩と民を想う潔い魂とは?その凄絶な最期は、敵であった明治政府の心をも動かし、祭祀のための莫大な資金が下賜されたほどでした。


    **3. 吉田大八の精神が現代へ**

    吉田大八が守り抜いた天童の土地からは、明治大学の創立者の一人である宮城浩蔵など、日本の近代化を支える人材も輩出されています。彼の精神は、形を変えて現代にも息づいているのです。

    17 min
  • 【幻の日本犬「高安犬チン」】古武士犬が織りなす奇跡と悲劇〜直木賞作家が描く壮絶な絆の物語〜

    今回のテーマは、加藤さんも初めて耳にしたという「高安犬(こうやすいぬ)」。ただの犬ではなく、「伝説の犬」と聞き、加藤さんの期待は早くも最高潮に!


    **幻の日本犬「高安犬」とは?**

    松浦さんによると、高安犬は今ではもうその姿を見ることができない、まさに「幻」と称される日本犬。山形県東置賜郡高畠町の高安地区が発祥の地で、残念ながら昭和初期には純血種がほぼ途絶えてしまったと言われています。

    この高安犬は、主に熊などを狩るための「マタギ犬」として活躍していました。その姿は「古武士のような重みのある姿」と称され、どっしりとした骨格に厚い胸を持つ、原始的で力強い美しさを持っていたそうです。想像しただけで鳥肌が立つような、その勇壮な姿は、加藤さんの心を掴んで離しません。


    **直木賞作家・戸川幸夫と『高安犬物語』**

    そんな高安犬の魅力を全国に知らしめたのが、直木賞作家であり動物文学の大家、戸川幸夫さんです。彼が旧制山形高校に通っていた時代の実体験をベースに書かれた短編小説『高安犬物語』が、この犬を伝説の存在にしました。

    物語の主人公は、絶滅しかけていた純血の高安犬「チン」と、その飼い主である孤高の熊猟師「吉蔵」。加藤さんも「もうその設定だけで映画になりそう!」と前のめりになります。


    **名犬チンと熊猟師吉蔵の壮絶な絆**

    吉蔵はチンを単なる飼い犬としてではなく、魂を持った対等なパートナーとして扱っていました。戸川さんが写真を撮らせてほしいと頼んだ際、「犬サ、聞いてみろ!」と言い放ったエピソードからは、山に生きる者同士の深い絆が感じられます。

    チンへの訓練もまた壮絶でした。生まれたばかりの子犬に熊の油を塗った牛肉を与え、臭いを刷り込み、さらにはわざと半殺しにした熊にけしかけて恐怖心を克服させる。現代の感覚では厳しすぎるように思える訓練も、生きるか死ぬかの峻烈な自然の中で熊と対峙するための、いわば「儀式」だったのです。こうしてチンは、「百匹、千匹に一匹」と言われる孤高の熊猟犬へと育っていきました。

    17 min
  • 『泣いた赤おに』の真実!日本のアンデルセン・浜田広介が愛した故郷・高畠町

    「泣いた赤おに」と聞いて、子どもの頃の感動が蘇る人も多いでしょう。しかし、その作者が山形の、あのワインで有名な高畠町出身だったとは! 加藤も思わず「ええっ、本当ですか!?」と驚きを隠せません。彼の作品に流れる温かさや自然への眼差しは、まさしく高畠の風土が育んだものだと松浦は語ります。


    番組では、浜田広介の波乱に満ちた生涯を深掘り。明治26年、農家の長男として高畠町に生まれた広介は、恩師の「文才を活かせ」という一言で、その後の人生を大きく決定づけられます。早稲田大学での才能開花、なんと在学中に懸賞小説に7回も入選し、北村透谷賞を受賞するほどの天才ぶりを発揮。そして、彼の運命を変えたのは、童話「黄金の稲束」が大阪朝日新聞の懸賞で一等に輝いたことでした。選者であった児童文学の第一人者・巌谷小波から「作者の善意性を汲む」と激賞された広介は、「以後、善意の精神を創作の拠り所とする」と固く誓います。これが、「ひろすけ童話」と称される一貫したテーマを持つ作品群を生み出す原点となりました。


    関東大震災での社屋倒壊という困難を乗り越え、「文筆一本」で生きることを決意した広介。その覚悟が彼をプロの童話作家として大きく成長させ、「龍の目の涙」や「泣いた赤おに」といった代表作を次々と発表します。作家人生50年あまりで約1000編もの童話や童謡を世に送り出し、坪田譲治、小川未明と並び「児童文学界の三種の神器」とまで呼ばれるようになった彼の功績に、加藤も「イメージがガラリと変わった!」と感嘆します。ただ優しい話を書く人ではない、その真の姿に迫ります。


    10 min
  • 文翔館の時計塔:カメムシも止めた100年の時!山形の誇り、天才職人と守り続ける家族の物語

    今日のテーマは、山形市の中心部に立つ、ひときわ目を引く美しい建物、山形県郷土館「文翔館」。大正5年(1916年)に建てられた、イギリス近世復興様式のその姿は、100年以上の時を超え、今も山形のシンボルとして愛され続けています。特に、その高くそびえる時計塔は、多くの人々にとって見慣れた風景の一部ですが、この塔の時計には、知られざる驚くべき物語と、山形の人々の誇りがぎゅっと詰まっているのです。

    20 min
  • 天童・舞鶴山の絶景つつじに隠された奇跡の物語!密航から「はなかみ先生」と呼ばれた男・高橋英雄の破天荒な生涯

    舞鶴山を彩る1万本のツツジ🌸✨ この絶景の裏に隠された、ある男の物語を知っていますか?😳

    「はなかみ先生」と呼ばれた彼は、なぜ人々から変人扱いされたのか…🤔 アメリカでの衝撃🇺🇸、そして故郷への途方もない奉仕の人生とは?

    最初は理解されなくても、信念を貫いた一人の男の情熱が、舞鶴山の美しい景色となった感動秘話😢

    これは、現代の私たちにも通じるメッセージかもしれません。新しい価値観、受け入れられていますか?

    あなたなら、未来のためにどんな「小さな種」を蒔きますか?🌱 コメントで教えてね!

    13 min
  • まさかの山形出身!?もう一人の「小錦」がいた!初代横綱スカウトから「もはや、戦後ではない」まで…寒河江が生んだ伝説の力士と歴史を変えた息子の壮大なる系譜

    今回のテーマは「お相撲さん」! 加藤さんがハワイ出身のあのパワフルな小錦さんを思い浮かべるのも無理はありません。しかし、松浦が今回ご紹介するのは、その名を遡ること明治・大正の時代、山形が生んだもう一人の伝説の力士、「二代目・小錦八十吉」なんです!


    驚きの事実は、彼が現在の「日本一のさくらんぼの里」として知られる寒河江市出身だということ。のどかな田園風景からは想像もつかない「怪童」こと後藤鶴松少年は、14歳にして近所に敵なしの腕っぷしを誇っていました。そんな噂を聞きつけたのは、なんと当時の角界のトップ、初代横綱・小錦八十吉その人!天下の横綱が寒村の農家を訪れ、深々と頭を下げてスカウトする…まるでドラマのような出会いから、鶴松少年の相撲人生は幕を開けます。


    「山泉」の四股名で角界入りした彼は、日本相撲史上初の常設会場「初代両国国技館」のこけら落としで新入幕を果たすという歴史的な舞台に立ちます。身長166cmと小兵ながら、師匠譲りの「押し一本」で快進撃を見せ、翌場所ではあの絶対的な大横綱・梅ヶ谷から鮮やかな金星を奪取!この快挙は全国に知れ渡り、地元寒河江は熱狂の渦に。その後、彼は小結まで昇進し、晴れて師匠の名を継ぎ「二代目・小錦八十吉」を襲名しました。


    しかし、彼の物語は土俵の上だけでは終わりません。

    まず、涙なしには語れないのが、弟・福治との絆のエピソードです。弟も力士の道を歩みましたが、引退後は絵の道へ。兄である小錦は、弟の夢を応援しようと高価な絵筆を一式贈ります。福治はその絵筆を大切にしまい、「もっと腕を磨いてから使おう」と心に誓っていました。しかし、1923年、関東大震災が東京を襲います。避難した福治は、燃え盛る家の中に兄からもらった絵筆を取りに戻り、家の下敷きとなって命を落としてしまいます。発見された時、彼は絵筆の包みを胸にしっかりと抱きかかえていたという…兄弟の深い愛情に胸を締め付けられる物語です。


    そして、小錦の血筋が現代にまで残した、もう一つの驚きの功績。彼の長男・後藤譽之助さんも一時力士の道を歩みましたが、学問の道に進み、なんと経済企画庁の官僚となります。そして、1956年に彼が執筆を担当した『経済白書』の中に、日本史の教科書で誰もが一度は目にする、あの歴史的な一文が記されることになるのです。そう、「もはや、戦後ではない」!

    強靭な肉体で時代を沸かせた父と、鋭い知性で時代を定義した息子。寒河江が生んだ「怪童」の血筋が、相撲界から日本の経済史にまで大きな足跡を残していたという、まさに奇跡のような才能の連鎖に、きっとあなたも驚きを隠せないでしょう。


    こうした型破りな人物を生み出す土壌は、寒河江市そのものにも根付いているのかもしれません。世界的建築家・黒川紀章の初期代表作である寒河江市役所の庁舎には、あの芸術家・岡本太郎のド迫力オブジェ『生誕』が飾られています。当時の最先端を行く建築と芸術を市の顔に採用する「進取の気性」。このアグレッシブな精神が、小錦のようなスケールの大きな人物を育んだのかもしれません。

    15 min
  • 八ツ沼の化け石伝説 ~提灯牛の怪異と、夜道を照らす光る提灯岩の物語~

    今回のエピソードでは、山形県のほぼ中央に位置する朝日町、その中の八ツ沼地区に伝わる、少し不思議で、そして少し怖い「八ツ沼の化け石」伝説に迫ります。


    八ツ沼地区には、「大沼の浮島」や「鈴ヶ森の金の鶏」など、聞いているだけで想像力を掻き立てられる「七不思議」が数多く残されています。その中でもひときわ異彩を放つのが、この「化け石」です。物語は戦国時代よりもさらに昔に遡り、八ツ沼城が栄えていた頃の城下の人々を震え上がらせた、ある怪奇現象から始まります。


    夜中になると、提灯を下げた牛の化け物が現れ、城の奥方様を驚かせたという伝説。加藤が思わず「ちょっとユーモラスな気もしますけど…」とこぼすその怪異の真の恐怖を、解説の松浦が紐解きます。電気などない時代の漆黒の闇の中、人工的な灯りが近づき、巨大な獣の蹄の音が響く…当時の人々が感じたであろう、得体の知れない不安と恐怖が鮮やかに蘇ります。


    さらに松浦は、なぜ「牛」の姿をしていたのか、なぜ「提灯」を持っていたのかという問いから、この伝説に込められた深い意味を考察します。農耕に不可欠な生命の象徴でありながら、ひとたび荒ぶれば大いなる脅威となる「自然のエネルギー」としての牛。そして、人間だけが使う「文明の利器」である提灯。人知の及ばない自然が人間の領域を侵し、秩序を嘲笑うかのような根源的な恐怖が、この物語には隠されていると語ります。


    夜な夜な続く怪異に、殿様は領内随一の弓の名人に化け物退治を命じます。名人の放った矢は見事化け物を射抜き、血の跡を辿ると、そこにあったのは牛の亡骸ではなく、一つの巨大な石でした。化け物は致命傷を負い、本来の姿である石に戻って力尽きたというのです。そして驚くべきことに、その「化け石」とされる岩には、今も「矢の跡」とされる穴がはっきりと残されているというのです。物語の中の出来事が現実の風景と繋がり、伝説に真実味を与える瞬間に、きっとあなたも鳥肌が立つことでしょう。人々が自然にできた岩の穴に壮大な物語を重ね合わせることで、伝説をより確かなものとして共有していった、当時の人々の知恵と想像力にも迫ります。


    さらに、化け物が持っていた「提灯」の行方を語る、もう一つのサイドストーリー「提灯岩」も登場します。空高く舞い上がった提灯が、別の大きな石になったというこの岩には、「どんなに暗い夜でも、その岩だけは、なぜか白く明るく見える」という不思議な性質が伝わります。松浦は、この「光る岩」が、昔の漆黒の夜道において、村への方向を示す「夜の灯台」のような実用的な目印として機能していた可能性を指摘。恐怖の物語が、結果的に人々の安全を守る地理的指標として機能していたという、興味深い視点を提供します。


    かつては恐怖の対象だった「化け石」が、時代を経て、今では「地域の隣人」のような存在へと変化している現代の姿にも触れます。2022年には、地元の保育園児たちが「八ツ沼探検」と銘打ってこの化け石を訪れるという、地域に根差した温かいエピソードもご紹介。伝説が単なる昔話ではなく、その土地で生きてきた人々の知恵や生活の記憶そのものであることを実感させてくれるでしょう。


    20 min
  • 私財を捧げ村山を潤した男「喜早伊右衛門」の奇跡!100年続くため池と、絶景バラ園、地元愛されカツ丼、秘湯を巡る感動の旅

    今回のエピソードでは、山形県村山市を舞台に、一人の偉大な男の壮絶な物語をご紹介します。現代に生きる私たちにとって「当たり前」の存在である美しい水。しかし、かつては水不足が人々の暮らしを脅かす死活問題でした。そんな時代に、地域全体の未来のためにすべてを捧げた人物がいたのです。その名は、喜早伊右衛門(きそう いえもん)。


    明治時代、村山市の有数の大地主であった喜早伊右衛門は、水利の便が悪く干魃に苦しむ農民たちの窮状を見過ごすことができませんでした。稲が枯れ、収穫がゼロになることも珍しくなかった当時、彼は安定した水源確保こそが地域の未来を拓くと確信。そして、誰もが信じられないような決断を下します。それは、莫大な費用がかかる巨大な灌漑用ため池「東沢ため池」の建設費用を、すべて「個人の私財」で賄うというものでした。


    現代の感覚では公共事業として当たり前の「ため池」を、私財を投じて築き上げたその「志」と「覚悟」は想像を絶します。明治9年、喜早伊右衛門は自ら陣頭指揮を執り、多くの人足と共に鍬を振るい、畚(もっこ)で土を運び、重い道具で地面を固める「土突き」といった人力作業を6年もの歳月をかけて続けました。現場には「エンヤ、エンヤ」という掛け声と地響きが絶え間なく響いていたことでしょう。


    そして明治13年、ついに「東沢ため池」は完成。その偉業により、近隣7つの村、約200ヘクタールもの耕地が潤され、東京ドーム約43個分という広大な不毛の地が、村山市を代表する豊かな穀倉地帯へと生まれ変わったのです。喜早伊右衛門が築いた強固な基礎と、未来を見据えた「投資」は、100年以上が経った今も脈々と受け継がれ、東沢ため池は現役の施設として村山市の豊かな実りを支え続けています。明治39年、60歳でその生涯を閉じた彼の「志」は、今もため池に満々と湛えられた水のように、静かに輝いています。


    この感動的な歴史に触れた後は、現在の村山市の魅力を満喫する旅へとご案内。


    まず訪れたいのは、喜早伊右衛門の偉業を肌で感じられる「東沢公園」です。ため池の周辺は市民の憩いの場として整備されており、特に日本有数の規模を誇る「バラ園」は必見。約7ヘクタールの敷地に750品種、2万株以上のバラが咲き誇り、甘い香りに包まれる空間はまさに夢のようです。また、バラの季節だけでなく、新緑や紅葉の季節には、鏡のような水面に周囲の木々が映り込み、風の音と鳥のさえずりの中で時間が止まったかのような静謐な絶景を堪能できます。


    そして、旅には欠かせない「食」の楽しみも。地元の方々から長年愛される「お食事処はやし」では、分厚く柔らかいお肉とふわとろ卵、甘じょっぱい割り下がご飯に染み込んだ絶品「カツ丼」を。また、ドライブのお供には「松月堂」の「あげまんじゅう」をどうぞ。黒糖生地でこしあんを包み、カラッと揚げたお菓子は、カリッ、もちっとした食感と上品な甘さが絶妙な地元銘菓です。


    旅の締めくくりには、人里離れた「穴場温泉」で心身を癒しましょう。少し足を延ばした先にある一軒宿「湯舟沢温泉」は、落ち着いた雰囲気の中で日帰り入浴が楽しめます。肌にしっとりと馴染む柔らかな泉質と、露天風呂から眺める山々の景色が、日頃の疲れを忘れさせてくれることでしょう。

    14 min
  • 伝説の名刀「鬼切丸」なぜ山形に?最上家を支えた500年と現代に繋がる魂の物語

    今回のテーマは、いつも以上にスタジオにキリッとした緊張感が漂う「武」の物語。そう、一本の刀が紡いだ1000年にもわたる壮大な歴史、それも私たち愛する山形の地に深く刻まれた記憶のお話です。


    男のロマンを掻き立てる「刀」という言葉に、思わず加藤も興奮!あの最上義光公ゆかりの刀かと思いきや、松浦が紹介したのは、源氏の重宝にして数々の伝説に彩られた名刀、「鬼切丸」でした。あの渡辺綱が鬼の腕を斬り落としたという、誰もが知る伝説の刀……。


    「え、でも鬼切丸って京都の北野天満宮にあるんじゃ…?山形の番組でなぜ京都の刀を?」と加藤が驚くのも無理はありません。まさにそこが、この物語の最も面白いところなのです。

    確かに現在は北野天満宮に奉納されていますが、その歴史の大部分、実に500年もの長い歳月を、この山形の地で、最上家と共に生きてきたのです。


    最上家が山形にやってきたのは南北朝時代の1356年。始祖・斯波兼頼公が羽州探題として山形に入国した際、その腰には鬼切丸が佩かれていました。当時、中央から来た支配者を簡単には受け入れない地元の豪族たちがひしめく出羽国において、鬼切丸は単なる武器ではありませんでした。「我は源氏の嫡流である足利将軍家に連なる斯波家の者である。そして、これは源氏伝来の宝刀だ」――その鋭い輝きは、言葉よりも雄弁に兼頼公の正当性を示し、荒ぶる国人衆を黙らせる「政治的な錦の御旗」として機能したのです。こうして、最上家による山形統治の礎は、この刀と共に築かれていきました。


    戦国の世を生き抜き、最上家の家宝として受け継がれた鬼切丸ですが、江戸時代に入ると、意外な形で民衆の表舞台に登場します。最上家が改易され、困窮した状況でも手放さなかったこの刀は、参勤交代の道中、驚くべき役割を担います。なんと、「鬼切丸の入った箱の下をくぐると、おこり(マラリア)が治る」という噂が広まり、街道筋には病に苦しむ人々が列をなし、必死の形相で刀の箱の下をくぐり抜けたのです。武士の象徴だった刀が、鬼を斬る伝説と民衆の祈りの中で、目に見えない病魔を斬る守り神へと昇華された、感動的なエピソードが語られます。


    さらに、鬼切丸にはちょっとしたミステリーも。「安綱」という本来の刀工の銘が、なぜか「国綱」に書き換えられているのです。最上義光歴史館の分析によれば、天下五剣「童子切安綱」と比肩されるのを嫌い、当時圧倒的なブランド力を誇った「鬼丸国綱」にあえて銘を書き換えることで、「うちの鬼切はそれ以上だ」という最上家の並々ならぬプライドと意地を示したのではないか、という仮説が立てられています。名門の意地を垣間見る、なんとも人間くさいエピソードに、加藤も思わず笑みがこぼれます。


    しかし、そんな最上家を最大の悲劇が襲います。元和8年(1622年)の最上騒動による改易。57万石からわずか5千石への転落という凄惨な運命の中でも、鬼切丸だけは手放さず、執念で守り抜かれました。しかし明治の激動期、ついに刀は一族の手を離れてしまいます。その後、刀を入手した人物の夢には、毎晩のように刀が現れ「最上に帰ろう、最上に帰ろう」と叫ぶという伝説が残ります。500年を共にした人々の無念を、刀が代弁しているかのようです。鬼切丸は、奇しくも渡辺綱が鬼の腕を斬り落としたとされる北野天満宮へと奉納され、安住の地を得たのでした。


    そしてこの物語には、令和の今に繋がる新しいページがあるのです。来年、菅原道真公1125年御神忌に向けて、失われていた鬼切丸の「太刀拵(たちこしらえ)」を新たに作るプロジェクトが進行中。現代の職人たちの手で、「伝統とは、単に古いものを模倣するのではなく、その時代における最新で最良のものを志向した結果、受け継がれてきたものである」という理念のもと、新たな魂が吹き込まれようとしています。最上家がプライドをかけ、当時の最高ブランドに銘を直したように、令和の時代も最高の技術と心を込めて作られる。それこそが真の意味で伝統を継承することだという、深いメッセージが込められています。


    一本の刀を巡るだけで、こんなにも壮大な歴史と、人々の熱い想いが見えてくるとは!この番組では、加藤と松浦が、鬼切丸が見ていたであろう山形の風の音、景色を追体験する旅へと誘います。まずはJR山形駅から徒歩10分、最上家の本拠地であり、全国でも5番目の広さを誇った山形城(現在の霞城公園)へ。広大な土塁の上を歩けば、最上義光公の勇壮な騎馬像が目に浮かび、吹く風までがゆったりと感じられるでしょう。

    18 min
  • 汽笛は国境を越える!山形・河北町「いもこ列車」の数奇な運命。大正時代の記憶と台湾を駆けたSLの物語

    今回私たちが訪れるのは、山形県河北町にある「河北中央公園」。テニスコートや遊具が並ぶごく普通の公園で、時折「シュシュッ」という力強い蒸気の音と石炭の匂いがするという、なんとも不思議な噂を耳にした加藤。まるで突然100年くらいタイムスリップしたようなこの音の正体は、地域の人々に「いもこ列車」と愛される小さな蒸気機関車でした! なぜ公園にSLが? そして「いもこ」というユニークな名前の由来とは?


    加藤の好奇心に、解説の松浦が深く、そして時に壮大な物語を紐解いていきます。


    **【「いもこ列車」の名の由来:大正時代の親愛なる存在】**

    その名の秘密は、今から100年以上前、大正時代に遡ります。大正4年(1915年)、谷地の事業家・升川勝作さんらが中心となり「谷地軌道株式会社」を設立。翌年には山形県内初の私鉄として、奥羽本線の神町駅から最上川を渡り河北町の谷地まで、約5.6キロメートルを結ぶ営業を開始しました。最盛期には年間およそ10万人もの人々を運んだという、当時最先端の乗り物です。


    しかし、茅葺き屋根が多かった当時の家々にとって、蒸気機関車の煙突から出る火の粉は火事の心配の種でした。そこで、火の粉が飛び散らないよう、煙突には特殊なカバー、火の粉止めが取り付けられました。このカバーを付けた煙突の形が、この地方で採れる里芋、山形弁でいう「いもこ」によく似ていたことから、いつしか人々は親しみを込めて「いもこ汽車」と呼ぶようになったのです。小さな里芋に例える愛情深い呼び方からは、単なる移動手段を超えた、人々の暮らしに寄り添う存在であったことが伺えます。


    **【国境を越えた壮大な旅路:ベルギー生まれ、台湾育ちのSL】**

    しかし、現在河北中央公園で走っている「いもこ列車」は、実はこの大正時代の車両そのものではありません。さらに物語は国境を越えていきます。

    この機関車は1948年(昭和23年)、遠くベルギーの「アングロ・フランコ・ベルジ」という会社で製造された、とても貴重な車両なんです。そして、生まれたばかりのこの機関車が向かった先は、日本ではなく、灼熱の太陽が照りつける台湾でした。

    当時、台湾ではサトウキビのプランテーションが盛んで、収穫したサトウキビを製糖工場まで運ぶために、網の目のように鉄道が敷かれていました。いわゆる「糖業鉄道」です。ベルギー生まれのこの機関車は、台湾の広大なサトウキビ畑で、満載の貨車を引いて長年にわたって活躍したのです。


    **【河北町への奇跡の来訪:熱意が繋いだ絆】**

    では、なぜ台湾で働いていた機関車が、はるばる山形の河北町にやって来ることになったのでしょうか?

    昭和10年に廃止されてしまった谷地軌道ですが、その記憶は河北町の人々の心に生き続けていました。そして昭和63年、「子どもたちに夢を、町の活性化のために」と、河北青年会議所(JC)の皆さんが立ち上がります。彼らが、かつての「いもこ列車」を復活させようと同型の機関車を探し求めた結果、台湾で活躍していたこのベルギー製車両に行き着き、購入して町に寄贈したのです。

    ベルギーで生まれ、台湾のサトウキビ畑で汗を流し、そして今、山形の公園で子どもたちを乗せている——。まさに「鉄の放浪者」とも呼ぶべき、数奇な運命を辿った機関車です。ちなみに、この機関車の兄弟機「346号機」は、今でも台湾の渓湖糖廠という場所で動態保存されており、国境を越えた兄弟の物語も感動的です。


    **【「動態保存」の哲学:形を変えてでも命を繋ぐ】**

    河北町の「いもこ列車」のもう一つの大きな特徴は、博物館に飾られる「静態保存」ではなく、蒸気の力で自ら動く「動態保存」という形が選ばれ、維持されていることです。しかし、古い機関車を安全に動かすためには多くの課題がありました。そこで、保存に関わる方々は、大胆な改造に踏み切ります。

    本来のボイラーは使わず、運転室の後部に新しく小型のボイラーを設置。これにより、機関車の外観は原型とは異なる、やや不思議な形になりました。鉄道ファンの中には賛否が分かれる決断だったかもしれませんが、この姿には「見た目の美しさよりも、シュシュッという息遣いや、鉄の匂い、そして人を乗せて走るという『生命感』を、未来へ伝えたい」という、保存に携わる人々の熱い哲学が込められています。形を変えてでも命を繋ぐ、まるで生物の進化のような選択です。


    **【地域に支えられる宝物】**

    この「いもこ列車」の命を維持していくのもまた大変な努力が必要です。最近では、老朽化した線路の枕木交換のためにクラウドファンディングで寄付が募られたり、多くのボランティアスタッフの方々の力によって、この列車は煙を上げ、走り続けています。町の人々みんなで、この歴史の宝物を守り続けているのです。


    谷地軌道が廃止された背景には、自動車の普及という時代の流れと、国鉄よりも狭い軌間(軽便鉄道)ゆえの積替えの手間といった効率性の問題がありました。しかし、その記憶と、それを現代に引き継ぐ熱意が、ベルギーから台湾を経由してやってきたこのSLを、現代の「いもこ列車」として蘇らせたのです。

    20 min

About Yamagata Walks 〜足跡に眠る、忘れられた山形の物語〜

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当たり前に通り過ぎていた道端の景色や、地名に隠された由来。そこには、時代の波に洗われ、忘れ去られようとしている無数の物語が眠っています。