ちょっとした雨を「自分が経験する」のは140年に一度、かなりの豪雨に見舞われるのが2000年に一度ということになりますから、それで起こる水害や土砂崩れに備えるのも少し慎重すぎるかも知れないのです。そんなことにお金を掛けるなら、交通事故死が年5000人、火災による犠牲者が年2000人ですから、そちらにお金をかけて減らしたほうが「効率」としてはかなり良いということです。
だから、治水に税金を使うにしても、それは大型河川のような集中的に工事ができるものは良いのですが、個人住宅などの対策をあまり過度にすることはできないことがわかります。まず大雨による浸水を防ぐにはどうしたらよいかということですが、まず外国の例を挙げてみましょう。
オーストラリアのブリスベーンというところはゴールドコーストという非常に美しい海岸があり、日本の大金持ちが正月などを過ごすところとして有名です。ブリスベーンには内陸から大きな川が流れていて、その川はかなり蛇行しているので、10年から20年に一度、氾濫して河口付近の市街地を水浸しします。
私が3年ほど前に行った時には、その大洪水のあと、1ヶ月ほど経ったところだったので、日本から行くときに「ブリスベーンはひどい被害を受けたからすこし時期をずらしたら」と言われたものです。
ところが実際に行ってみると市街地は一階の軒先まで水に浸かり、みんな2階に逃げたということですが、もうすっかり修理が終わって街は賑わっていました。確かに洪水の痕跡はありましたが、その様子は予想外でした。オーストラリアの人に聞いてみると、「10年から20年に一度来るのだから、その自然現象を認めて、洪水に備えている」ということなのです。
それも「川を護岸するとコンクリートになり、景観を損なうし、ヨットで海岸に遊びに出ることができないということで、護岸はしない。だから洪水は覚悟の上だ」というのです。
だから、まず川上に観測所を設けて氾濫しそうな時には、「何時頃から氾濫する」という警告をだす」というシステムです(私の行った年の氾濫は上流の人がサボって警報を出すのが遅かったと怒っていました)。警報がなると、一階のものは二階にあげ、人間も二階に避難して洪水を待ちます。実に「自然と溶け込んだ対策」です。
洪水が引くと土建屋さんが総動員されて、かねて各家でかけていた洪水保険で修理をするというのです。いや、その立派な対策と社会的なコンセンサスに驚いたものです。
「川の氾濫を自然現象として捉えるか、それを人間が押さえ込むか」という点では、日本人のもともとの考え方は「自然現象としてそれも受け入れる」ということであり、むしろオーストラリア人(アングロサクソン)は「自然を押さえ込む」というのですが、それが逆転しています。
もう一つの例はベトナムのメコン川です。サイゴンからすこし南に行ったところに世界でも有数の大河、メコン川のデルタ地帯があります。この地域は毎年、じわっと水位が上がって、氾濫し、畑もなにもかも見えなくなります。そしてしばらくすると水が引いて、上流から運ばれた肥沃な土で田畑は覆われ、連作で起こりがちな作物の病害虫なども一掃されます。
だから、農民は毎年の洪水でも平気なようにやや高い床を持つ家を建て、田畑が沈んだら自然の現象として受け入れ、しばらく生活を変えるのです。
ベトナムの農村は本当に豊かです。少しの雨では川は氾濫しません。それは一年に一回、氾濫した時の土が畑に乗るので川より畑の標高が高いからです。これは次回以後に整理しますが、日本のように人工的な護岸をして川の方が高いというような馬鹿らしい状態ではないということです。
それでもベトナム人は都会で工場やサラリーマンとして生活するより農村の方が魅力的で、工場の悩みはせっかく18歳ぐらいから30歳ぐらいまで働いて、熟練した頃に農村に帰ってしまう人が多いことです。
つまり洪水というのはそれほど悪いことではなく、それを「悪い」と決めつけて自然を押さえ込もうとしていう私たちになにか問題があるのではないかと思います。
(平成26年9月24日)
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