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2024年2月11日 公現後第6主日
説教題:疑いを抱きながら、主イエスと出会う
聖書:ヨハネによる福音書 1:40−51、創世記 28:10−17、ヘブライ人への手紙 1:1−4、詩編 121
説教者:稲葉基嗣
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イエスさまの話を聞いたとき、ナタナエルは疑いを抱き、否定的な反応をしました。
「ナザレから何か良いものが出ようか」(46節)と、鼻で笑います。
そんなナタナエルがイエスさまと出会ったとき、彼の心に何が起きたでしょうか。
一見、大きな変化がナタナエルの心に起きたかのように見えます。
イエスさまとの会話を通して、疑っていたのが一転して、
イエスさまを神の子、イスラエルの王と呼ぶようになるのですから。
でも、ナタナエルがイエスさまを神の子として受け入れる理由は、
イエスさまとナタナエルの会話からは見えてきません。
これだけの会話でイエスさまに対する彼の態度は変わったのでしょうか?
イエスさまに対して疑いの心を持ち、否定的な態度を取っている人物として、
ナタナエルの言葉を読んでみると、アイロニー(皮肉)として読むことができます。
自分の本心とは真逆のことを言うことを通して、本心を更に強調する方法です。
「あぁ、わたしのことをよくご存知なのですね。あなたは本当に神の子なんですね。
まさにイスラエルの王にふさわしい方なんですね。
(まぁ、わたしはあなたのことをそんな風には考えていませんが...)」というように、
イエスさまを嘲るように、皮肉交じりで、ナタナエルが話したと考えると、
この二人のやり取りがとても自然に見えてきます。
自分に対して向けられた嘲りや疑いをイエスさまは受け止めて、彼に答えます。
「あなたはもっと大きなものを見るだろう」と(50−51節)。
疑いを抱いたナタナエルがどうなったのかは、わからないまま、物語は終わります。
ただ1度だけ、ナタナエルはこの福音書の中で再び登場します。
十字架刑によって殺され、3日目によみがえったイエスさまと
弟子たちが出会う物語の中で、ナタナエルの名前が登場します(21:2参照)。
ナタナエルはイエスさまと会話をしたこの後も、イエスさまのことを疑いながらも、
ずっとイエスさまの姿を見てきたのでしょう。
そのように、イエスさまを見つめる中で、ナタナエルはイエスさまと出会います。
彼が心で抱いた疑いは、彼がイエスさまと出会うことを邪魔しませんでした。
彼が疑いを抱き続けながらも、イエスさまと出会うことが出来たのは、
イエスさまが彼の疑いや嘲りを受け止めただけが理由ではなかったと思います。
ナタナエルの疑いを受け止め、彼と共にいることをやめなかった、
弟子たちの交わりが彼とともにあり続けたからでしょう。
同じように、わたしたちには信仰者の交わりが必要です。
落胆し、疑いに心を支配されるとき、「それでも、神は愛と憐れみに満ち、
この世界に平和を願っておられる」と、この交わりはわたしたちに示し続けます。
By 小山ナザレン教会2024年2月11日 公現後第6主日
説教題:疑いを抱きながら、主イエスと出会う
聖書:ヨハネによる福音書 1:40−51、創世記 28:10−17、ヘブライ人への手紙 1:1−4、詩編 121
説教者:稲葉基嗣
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イエスさまの話を聞いたとき、ナタナエルは疑いを抱き、否定的な反応をしました。
「ナザレから何か良いものが出ようか」(46節)と、鼻で笑います。
そんなナタナエルがイエスさまと出会ったとき、彼の心に何が起きたでしょうか。
一見、大きな変化がナタナエルの心に起きたかのように見えます。
イエスさまとの会話を通して、疑っていたのが一転して、
イエスさまを神の子、イスラエルの王と呼ぶようになるのですから。
でも、ナタナエルがイエスさまを神の子として受け入れる理由は、
イエスさまとナタナエルの会話からは見えてきません。
これだけの会話でイエスさまに対する彼の態度は変わったのでしょうか?
イエスさまに対して疑いの心を持ち、否定的な態度を取っている人物として、
ナタナエルの言葉を読んでみると、アイロニー(皮肉)として読むことができます。
自分の本心とは真逆のことを言うことを通して、本心を更に強調する方法です。
「あぁ、わたしのことをよくご存知なのですね。あなたは本当に神の子なんですね。
まさにイスラエルの王にふさわしい方なんですね。
(まぁ、わたしはあなたのことをそんな風には考えていませんが...)」というように、
イエスさまを嘲るように、皮肉交じりで、ナタナエルが話したと考えると、
この二人のやり取りがとても自然に見えてきます。
自分に対して向けられた嘲りや疑いをイエスさまは受け止めて、彼に答えます。
「あなたはもっと大きなものを見るだろう」と(50−51節)。
疑いを抱いたナタナエルがどうなったのかは、わからないまま、物語は終わります。
ただ1度だけ、ナタナエルはこの福音書の中で再び登場します。
十字架刑によって殺され、3日目によみがえったイエスさまと
弟子たちが出会う物語の中で、ナタナエルの名前が登場します(21:2参照)。
ナタナエルはイエスさまと会話をしたこの後も、イエスさまのことを疑いながらも、
ずっとイエスさまの姿を見てきたのでしょう。
そのように、イエスさまを見つめる中で、ナタナエルはイエスさまと出会います。
彼が心で抱いた疑いは、彼がイエスさまと出会うことを邪魔しませんでした。
彼が疑いを抱き続けながらも、イエスさまと出会うことが出来たのは、
イエスさまが彼の疑いや嘲りを受け止めただけが理由ではなかったと思います。
ナタナエルの疑いを受け止め、彼と共にいることをやめなかった、
弟子たちの交わりが彼とともにあり続けたからでしょう。
同じように、わたしたちには信仰者の交わりが必要です。
落胆し、疑いに心を支配されるとき、「それでも、神は愛と憐れみに満ち、
この世界に平和を願っておられる」と、この交わりはわたしたちに示し続けます。