小山ナザレン教会

ヨハネはなぜ荒れ野で叫ぶ声なのか?(稲葉基嗣) – ヨハネ 1:19–28


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2024年1月21日 公現後第3主日
説教題:ヨハネはなぜ荒れ野で叫ぶ声なのか?
聖書:ヨハネによる福音書 1:19−28、イザヤ書 40:1−11、ヘブライ人への手紙 8:10−12、詩編1
説教者:稲葉基嗣
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【説教要旨】
洗礼者ヨハネは、預言者たちの伝統を受け継いでいる者として、当時のユダヤの人びとから受け止められていました。彼は罪の悔い改めを呼びかけ、神と人とを愛する生き方へと方向転換するように、人びとを招き、罪の赦しのしるしとして洗礼を授けました。そんな彼の姿を見たある人たちにとって、洗礼者ヨハネという人物は、メシアや預言者エリヤ、もしくはモーセのような偉大な預言者のように見えました。
重要人物として受け止められ、人びとの間で話題になっているヨハネについて、エルサレムの宗教的指導者たちは、調べる必要性があると感じたのでしょう。ヨハネのもとにやってきた人たちは「あなたはどなたですか」と彼に問いかけます。ヨハネは人びとが口々に語っていたことをすべて否定し、自分自身は神の言葉であるイエス・キリストを指し示す「声」であると言います。
このとき、ヨハネは、旧約聖書のイザヤ書に記されている言葉を引用して、「荒れ野で叫ぶ者の声である」と、自分のことを説明をしています。ここで使われている「道」という言葉は、人や獣によってできる道とは違います。イザヤ書では、交通のために整備された道を指す言葉が使われています。
ヨハネやイザヤが語る道とは、神のための道です。それは、人が神と出会うために必要な道を整えなさいという呼び掛けともとれます。その呼びかけが、荒野で叫ばれているため、不可能さを感じます。道をまっすぐに整えていくことが不可能であることを示すことによって、神と人を結ぶ道を整えていくことがいかに困難であるかを伝えるために、ヨハネは声として、声高に叫んだのでしょうか?
たしかに、実際問題、神と人との関係は、荒れ野のようにすさみ、命を感じられない、乾き切った関係なのかもしれません。けれど、そんな荒れ果てた、命の感じられないことがあたりまえの場所で叫ぶ声がヨハネでした。それは、荒野の中にこそ、キリストが訪れ、キリストを通して、神がわたしたちと出会ってくださることを指し示す声でした。キリストにあって、人と神を結ぶ道が整えられました。荒れ果てていて、どこへ行けば良いかさえわからない、そんな荒れ野の中でキリストはわたしたちと出会ってくださいます。
キリストと出会ったからこそ、わたしたちは自分たちの前に広がる道を整えていく必要もあるでしょう。神がわたしたちに願うのは、わたしたちが神と人を愛する道を歩んでいくことです。わたしたちがそのような道を歩んでいくとき、キリストはその旅に伴ってくださり、キリストを通して、神はわたしたちの道を整えてくださるはずです。
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