・イエス様の受難物語(14 章 1 節~)は油注ぎを受け、ユダの行動に抵抗し、最後の晩餐、ゲツセマネを経て、いよいよ逮捕(引き渡し)に至る。
・イエス様は受難の道を一人で進もうとしていないことに気づく。
・8 章 34節をそのまま読めば、これは驚くことではない。「自分の十字架」とはイエス様と一緒に十字架にかかることを意味した。
・当時の弟子たちは、この呼びかけに答えられなかったが「さあ、行こう」との招きは、今も私たちに向けて発せられている。
・「天国行きの福音」としての罪の身代わりは十字架で完了するが、「御国の福音」は十字架から始まり、イエス様と共に受難の道をなぞるよう招く。
2)御国への道は「誰かに利用される」ことがあり得る(43 節~)
・ユダはこの「引き渡し」で金を得、群衆も何かの得をし、ユダヤ社会の権力者たちは、ローマに自分たちを売り込むことができた。
・ユダは 3 年間積み上げてきた主イエスとの愛と信頼の交わり(=口づけ)を引き渡しの合図に利用した。
→イエスの弟子として、人を愛して生きていく時「夢物語」を期待しやすいが、現実は利用され、裏切られることがあり得ることを私たちも知っておくべき。
3)御国への道は「誤解される」ことがあり得る(47 節~)
・側近の弟子による耳切り(暴力)は、イエスの教えを全く理解していない姿である。これは「強盗(レースタイ)」の信じるところだった。
・逮捕の状況はイエスが「強盗(暴力的「神の国」革命)」の首謀者であるかのようにミスリードするセッティングになっている。
・祭司長たちは、イエスの教えをよく知っていてかつ反論できなかったので昼間の逮捕ができず、陰謀的な逮捕を企んだ。
4)御国への道は「見捨てられ、恥を被る」ことがあり得る(50 節~)
・困難を前に、覚悟の差が露呈した結果「見捨てて逃げてしまった」。
・マルコが突如登場させる人物は、マルコ本人ともラザロとも推測されるが憶測の域を出ない。むしろ 15:46 にある「亜麻布」をキイワードにした「サンドイッチ構造」のためである。
・「亜麻布」は仲間の愛を象徴する。それが一度はぎ取られるのが十字架である。しかし、そこで終わらない。再び「亜麻布」で包まれる。