小山ナザレン教会

語る者と聴く者(土肥努) – 1テサロニケ2:1−4


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2023年5月14日  復活節第6主日

聖書 テサロニケの信徒への手紙 一 2:1−4、エレミヤ書1:4−8、マタイによる福音書16:23−24、詩編62

説教題 語る者と聴く者

説教者 土肥努(日本ナザレン教団理事長)


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【説教要旨】

テサロニケで伝道していた時のことをパウロは次のように語っています。「あなたがたのところへ行ったことは無駄ではありませんでした」(2:1)と。パウロたちは、伝道を始めて間もなく、反対者による騒動で、テサロニケを立ち去らなければならなくなりました。パウロたちの伝道はそういう「激しい苦闘」の中でなされていました。しかしその中でパウロたちは、「わたしたちの神に勇気づけられ」て、大胆に語る勇気と力を神から与えられ、その働きは、けっして無駄ではなかったというのです。

敵対や妨害の中で、勇気を持って大胆に語ることができるためには、伝道者の中の語る動機が問題です。語る者の中に「迷い」があったなら力強く大胆に語ることはできません。人を喜ばせることばかりを考え、人の顔色をうかがっていくところに、迷いが生じます。パウロは、自分たちの宣教は人を引き付けるための、人気を得るためのものではない、したがって迷いは一切ないと断言します。

パウロの宣教の基本姿勢は、人に喜ばれるためではなく、神に喜んでいただくために語るというところにありました。人の顔色をうかがうのではなく、神に喜んでいただくために、神のみ顔を見つめながら語るのです。そのように神にしっかりと顔を向けている者に福音が委ねられているのです。人に喜ばれるためではなく、神に喜んでいただくためにこそ語る、そのことに徹していくことができるかどうかに、伝道者が福音を力強く語ることができるかどうかがかかっています。

そして、伝道者のこの戦いは、教会の人々が福音によって生かされていくことができるかどうかを左右します。その伝道者が教会に遣わされていったことがよい実りを生むか、それとも無駄なことに終わってしまうかの分かれ道がそこにあるのです。従って、伝道者のこの戦いは、聴く人々にとって他人事ではありません。教会の人々が伝道者に、自分たちを喜ばせ耳触りが良くて心地よいこと、つまり、あなたは今のままでいいのだ、変わらなくてよいのだ、ということだけを語ることを求め、神のみ言葉によって打ち砕かれ、悔い改めて変えられていくことを拒むという姿勢でいるならば、伝道者も、結局はその人々の顔色を伺うようになってしまいます。

人に喜ばれるためではなく、神に喜んでいただくために、という姿勢は、それゆえに伝道者(語る者)と教会の人々(聴く者)とが、共に願い求め続けてゆかなければならないものであると言えます。このことが教会の全体に行き渡ってゆくならば、すばらしい宣教の働きがなされ、よい実りが与えられることでしょう。

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