小山ナザレン教会

主イエスこそきずな(稲葉基嗣) – フィリピ1:1−2


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2023年7月16日  三位一体後第5主日
聖書:フィリピの信徒への手紙 1:1−2、イザヤ書 6:1−8、ヨハネによる福音書15:1−5、詩編100篇
説教題:主イエスこそきずな
説教者:稲葉基嗣
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【説教要旨】
フィリピの教会はパウロに対する疑いもなく、パウロと親しい関係にありました。そんなフィリピの教会に宛てた手紙で、パウロは自分のことを「キリスト・イエスのデューロス(奴隷)」と書きました。奴隷の身分ではないパウロが自分のことを奴隷と呼ぶことは衝撃です。この手紙の中でパウロはなぜ自分のことを奴隷と呼んだのでしょうか。パウロがこの手紙を書いた当時、パウロはエフェソで捕まり、投獄され、鎖に繋がれていたことも理由のひとつであったかもしれません。
ただ、パウロが投獄され、自由に身動きすることができない状況にあることは、フィリピの人びとにとって、教会の記憶を思い起こさせるものでした(使徒16章)。パウロがフィリピで一晩のみ投獄されたときに起こった出来事は、投獄され、鎖に繋がれていたパウロが誰よりも自由であったことと、鎖に繋がれず、奴隷でもなく、ローマ人であり、はるかに自由な人であった看守の方が、パウロよりも様々なしがらみに縛られ不自由であったことを伝えます。キリストとの結びつきを持つことこそ、わたしたちを本当の意味で自由にし、わたしたちに喜びを与える、とパウロは強く信じていました。パウロは、キリストのしもべは自分だけとは言っていません。パウロはここでは複数形を使い、「キリストのしもべたち」と言っています。パウロにとっては、パウロだけでなく、一緒に手紙に名前を連ねているテモテも、フィリピの教会の人たちもみんな、キリストのしもべです。
「キリストの奴隷」というとき、奴隷という言葉が持つ響きが強すぎるため、神に絶対服従といった悪いイメージがつきまといます。でも、神はわたしたちの人格やわたしたちの意志を完全に無視して、神に絶対的に従うことを求める方ではありません。神はわたしたちに絶対的な力をもってご自分の思いを押し付けるよりは、わたしたちの自由やわたしたちの意志を尊重してくださる方です。ですから、わたしたちが「キリストのしもべ」であるとき、神はわたしたちの自由やわたしたちの意志を奪うことを望んでいません。神がわたしたちをキリストとのしもべとするのは、わたしたちを不自由にするためではなく、自由にするためだからです。神はわたしたちの自由を尊重し、わたしたちが他の何者の奴隷にならないために、神はわたしたちをご自分のものとされています。それはとても逆説的なことだと思います。
わたしたちを縛り付けるものやわたしたちにつきまとうしがらみは、わたしたちが何者であるのかを最終的に決定づけるものではありません。わたしたちは神によって、キリストのものとされています。キリストと結ばれています。この事実こそが、わたしたちにとって決定的なものです。
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