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July 07坂本龍馬(5) 感情をビジネスで繋いだ「薩長同盟」の奇策当時、激しく敵対していた薩摩藩と長州藩を結びつけるため、龍馬は感情的なわだかまりを和らげる実質的な経済連携(ギブ・アンド・テイク)を仲介しました。幕府の監視で武器が買えない長州藩のために薩摩藩名義でグラバーから最新武器を購入して供与し、その見返りとして、京都に多くの兵を抱えて食糧不足に悩む薩摩藩へ、長州藩から兵糧米500俵を供与させたのです。この利害を一致させる見事な交渉により、1866年に歴史的な「薩長同盟」の締結が実現しました。2 minPlay
July 05坂本龍馬(4) 日本初の株式会社「亀山社中」の結成勝海舟の失脚によって海軍操練所が閉鎖されると、龍馬は薩摩藩の西郷隆盛から援助を受け、長崎に日本初の株式会社とされる「亀山社中」を結成しました。亀山社中は武器商人グラバーなどと銃や軍艦の取引を行い、のちに「海援隊」へと発展して貿易や海軍の活動を本格化させました。この組織は、のちに岩崎弥太郎が三菱商事などを発展させる重要な礎となりました。7 minPlay
July 02坂本龍馬(3) 勝海舟との出会い:暗殺の企てから弟子入りへ脱藩した龍馬は当初、幕臣の勝海舟を討ち取ろう(暗殺しよう)として彼の元を訪れました。しかし、勝から「海軍を作り外国との交易で日本を強くして、外国と対等に渡り合う」という壮大な思想を語られ、その先見性に深く感銘を受けます。龍馬はその場で勝の弟子となり、勝の主導で設立された「神戸海軍操練所」で航海術などを学び始めました。3 minPlay
June 30坂本龍馬(2) 黒船来航の衝撃と脱藩への決意土佐藩の下級武士の家に生まれた龍馬は、18歳の時に剣術修行のために初めて江戸を訪れ、そこでペリーの黒船来航を目撃します。この未曾有の事態に強い危機感を抱いた彼は、「今こそ立ち上がらなければならない」と感じて攘夷思想(外国排除)に傾倒していきました。そして、誰の指示でもなく自らの信念に従って行動するため、1862年に土佐藩を脱藩する決意を下したのです。7 minPlay
June 28坂本龍馬(1) 寝小便垂れからの脱皮と道場での評判若い頃の坂本龍馬は、12歳になっても寝小便垂れであり、塾に通わせても覚えが悪くて先生に見放されてしまうほどでした。しかし、姉の乙女の記憶によると、龍馬は剣術の道場に通い始めると別人のように成長し、やがて「龍馬は強い」という評判が立つようになります。のちには名門である江戸京橋桶町の北辰一刀流千葉道場で塾頭を務めるほどの、圧倒的な剣術の実力を身につけました。7 minPlay
May 26徳川家康 (5) 家康が健康マニアだった理由とは?平均寿命が30歳程度だった時代に、家康は75歳まで生きました。その理由は、自ら薬草を育てて調合し、食事や運動に気を配る健康法を実践していたためです。麦飯を好み、季節外れのものや冷たいものは口にせず、鷹狩りを行って足腰を鍛えました。医者の進言だけでなく、自身の知識で健康管理を行っていたのです。幕府を開いた後も質素な生活を心がけ、残した資金は後の幕府の運営に活用されました。家康の晩年と健康へのこだわりを解説します。6 minPlay
May 24徳川家康 (4) 関ヶ原の戦いはなぜ数時間で終結?1600年に起きた関ヶ原の戦いは、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍の戦いです。両軍は拮抗していましたが、戦いはわずか数時間で東軍の勝利に終わりました。その理由は、西軍の武将たちの多くが戦いに参加せず、さらに東軍へ寝返る者が続出したためです。毛利軍などは家康と内通して陣地から動かず、小早川秀秋は西軍を裏切って味方を攻撃しました。家康が事前に行った政治工作が戦局にどう影響したかを解説します。7 minPlay
May 21徳川家康 (3) 三方ヶ原で家康はなぜ大敗したのか?1572年、武田信玄が家康の領地へ侵攻を開始しました。家康は浜松城に立てこもる予定でしたが、武田軍が城を素通りする動きを見せたため、城を出て背後から攻撃しようとします。しかし、これは信玄の計画通りでした。待ち構えていた武田軍の陣形に巻き込まれ、家康軍はわずか2時間で大敗します。家康自身も浜松城へ逃げ帰りました。この敗戦から出撃の危険性を学び、以降は慎重な戦略をとるようになります。7 minPlay
May 19徳川家康 (2) 桶狭間の戦い後どうやって独立した?今川義元の家臣として戦に参加していた家康は、1560年の桶狭間の戦いで転機を迎えます。今川軍が織田信長に敗れ義元が討ち取られると、家康は自身の拠点であった岡崎城へ戻り、今川氏の支配から離れました。その後、かつての敵である織田信長と同盟を結び、名前を「家康」と改めます。自身を治める戦国大名としての道を歩み始めた過程を解説します。7 minPlay
May 17徳川家康 (1) なぜ家康は人質として育ったのか?徳川家康は6歳から19歳までの10年以上を人質として過ごしました。3歳の時に両親が離縁し、6歳で織田氏の人質となり、8歳で今川氏の人質となります。その間に父が亡くなり、家康の領地は今川氏に支配されました。いつ命を落とすかわからない状況の中、家康は今川義元のもとで元服し、名前を変えながら成長します。この長い人質生活が、家康の忍耐強さを作った要因とされています。7 minPlay