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瓦礫の山が散乱し、破れた天井から滴る雨が打ちつける――
焦げた金属の匂い、湿った埃の匂い、濃密な死と破壊の残滓が入り混じるその空間を、吉川と黒田は慎重に進んでいた。
踏みしめるたびに砕けたガラスが軋み、ぬかるんだ床が靴底に重く絡みつく。
外から漏れ込む薄い光が、崩れた什器の隙間をぼんやりと照らし、無人のはずの空間に幻のような影を落とす。
吉川は銃をわずかに前に構え、黒田は唇を噛みしめながらその背を追った。
無線機から小さく音が鳴った。
「こちら商業ビル班、全員撤収完了。最終確認区域を除き、退避完了」
吉川はそれを聞いて無言で頷いた。
「これで……この廃墟に残っているのは、俺たちと椎名だけか」
黒田が低く呟く。
ビルの崩壊と爆発により、あらゆる出入口が遮断されつつある。
戦場の中心だったこの商業ビルは、いまや奇妙な静寂に包まれていた。
どこかで水が滴る音。
どこかでガラスが緩く軋む音。
そのすべてが、緊張を濃密に塗り重ねていく。
吉川は壁に背を預け、瓦礫に足音を沈めながら進んだ。
床には湿った足跡。雨に濡れた服をどこかで脱ぎ捨てたような痕跡も残る。
「……やはり、奴はこの建物の中にいる」
吉川は言葉にはせず、心の中で確信を深める。
この廃墟は静かすぎる。静かであるがゆえに、椎名の影がどこに潜んでいても不思議ではない。
黒田は拳を握りしめながら、息を潜めて吉川の後ろを進む。
いつ、どこで、何が起きてもおかしくない空間。
闇と静寂の中に、次に何が飛び出すかは誰にも予測できなかった。
---
一方その頃、金沢市内の警察署。
仮設の一室に保護されていた片倉京子は、無言で椅子に座り込んでいた。
天井を見上げるでもなく、誰かに話しかけるでもなく、ただそこにいるだけの存在のように見える。彼女の胸の中では、上司であった三波の死が何度もフラッシュバックしていた。
そしてもう一つ、どうしても拭えないのが相馬の安否だった。
「…周……。」
放心した彼女の視線が、ふと机の上に置かれた自分のスマートフォンに向いた。
虫の知らせか、あるいはただの偶然か。無意識にその画面に手を伸ばすと、未読のメッセージが一件表示されていた。
降りしきる雨の中、SATの服を着て瓦礫の中でたたずむ男の画像。
「だれ…これ…。」
それに続く相馬からのメッセージは
「こいつは仁川征爾。椎名賢明なんかじゃない。」
「仁川……?椎名……?」
京子は眉をしかめた。
そして彼女は、ふと遠い記憶を手繰り寄せる。
——そう、あの打ち合わせの日。
ボストークの会合。
椎名賢明。どこか影を帯びた男だった。
そのときの冷たい視線、わずかに微笑んだ口元。記者としてではなく、ただの人間として、京子はあのとき既に何かを感じ取っていたのかもしれない。
「なんで椎名さんがこんなSATの格好?……仁川……? 誰それ……。」
聞き覚えのない名前。戸惑いながらも、彼女の視線は部屋の隅に置かれた自分の一眼レフカメラに移った。
その瞬間、胸の奥にしまい込まれていた記憶がよみがえってくる。
――6年前のあのとき、『ほんまごと』で読んだ記事。
福井県の瀬峰村出身のカメラ愛好家の少年、仁川征爾。
高校生の頃、写真撮影のため近畿地方へ遠征しているときに土石流災害に遭った。
彼はそのまま行方不明のまま。
そして――彼の名前はその後、別人の戸籍として背乗りされ、今の日本に現れた。
「仁川征爾は私の兄。下間悠里よ。」
あのとき長谷部が運転する車内で、下間麗が語ったツヴァイスタンによる冷酷な背乗り。
当時の記憶が今、相馬のメッセージとつながった。
「仁川征爾……」
その顔を自分はどこかで見ていた。
ボストークで膝をつきあわせた男。
そうだ。
あれが「椎名賢明」と名乗っていた男の正体。仁川征爾。
驚愕と同時に震えが込み上げてくる
断片的な情報と、椎名の顔、声、態度――あらゆる記憶が一気に結びついた。
「……あの男が……」
理解と驚愕が同時に胸を貫く。
そのとき、さらにもう一つの通知が届いた。
【音声ファイル受信:相馬周】
震える手でスマホを握りしめ、彼女はそれを耳に当てる。再生ボタンを押す指が小刻みに震える。
『京子……いままで……ありがとう……』
たったそれだけの言葉。
だが、それだけで全てを悟るには十分だった。
京子は言葉を失い、スマホを震える手で胸元に押し当てた。
「そんな……嘘……でしょ……」
彼女の目から、静かに涙が落ちた。
---
その頃、椎名は廃墟と化した商業ビルの一角にいた。勇二に矢高の抹殺を命じた後、さらなる破滅の道筋を描こうとしていた。
「確実な破滅が必要だ……」
ふと目が止まったのは廃墟となったコーヒーチェーン店の内部。数時間前まで多くの人で賑わっていた場所だ。
コーヒーマシンを目にした瞬間、脳裏に浮かんだのは片倉京子の姿だった。ボストークの店内で仕事の打ち合わせをしていたあの日――
彼女の存在は、自分のようにどこにも居場所がない男に、分け隔てなく接してくれた。それはかつてツヴァイスタンで出会ったアナスタシアを彷彿させた。
「なぜだ……」
女性には男性にはない何かを包み込む力があるのだろうか。どこか温かく、優しい――そんな曖昧な思考が椎名の胸を満たし、焦げた臭いと鉄、雨の匂いが入り混じる現実と奇妙に対比をなしていた。
雨音が強まる。椎名は目を瞑った。
「椎名、そこに跪け!」
「確保して本部に連行するか。」
「そうだ!」
先ほど対峙した相馬の鋭い視線が脳裏をよぎる。
「あの目……」
椎名は無意識に呟いた。あれは憎しみでも信念でもない。
「真っ直ぐだった……」
澄んだ瞳。一切の感情を排して、只ひたすらに、自身の正義感、使命感だけをもって、自分に接してきた男と対峙した。
だから、彼が急所を銃で撃たれ、呼吸が浅くなっていくのを見て、誰かと連絡を取ろうとしてる様を見逃した。
彼にも大切な人がいるのだろう。
椎名は首を振った。
「なんだ、さっきから片倉京子といい、相馬といい……どうして俺の頭を駆け巡る……?」
ふと指先が震えた。
「全く違う人間のはずなのに……なぜだ……アナスタシアと同じ温度が、あの目の奥に……」
椎名は目を閉じる。
理屈ではない。記憶ではなく、もっと深いところ――感覚に近い何かが、脳裏で彼らを重ね合わせていた。
答えのない問いが椎名の胸に重く沈む。
視線を外すと、そこには倒れた椅子、割れたカップ、崩れた看板。雨水がしみ込んだ紙ナプキンが床に張り付いている。
――日常は、戻らない。
ふいに、彼の記憶が深く沈む。
雨音が天井を打つ音と重なり、椎名の耳に別の音が蘇る。
鉄砲水の轟音、怒号、木々がへし折れる軋み――それらがひとつになって、遠い記憶の闇を破る。
かつて、あの土石流が全てを飲み込んだ。助けを求める声が、濁流に呑まれて消えていった。
椎名は目を開けた。濡れた瞳の奥に、あの日の泥と血が甦る。
流れに呑まれていった人々。 鉄砲水の音、怒号、木々がへし折れる音。土に足を取られ、何もかもを失ったあの日。自分だけが生き残ったという罪悪感が、あの記憶をいつまでも塗り替えてくれない。
「俺だけが、なぜ――」
椎名の記憶の蓋が、ゆっくりと開き始めていた。