朗読少年

宮沢賢治 氷河鼠の毛皮 そのニ


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毛皮外套をあんまり沢山もつた紳士はもうひとりの外套を沢山もつた紳士と喧嘩けんくわをしましたがそのあとの方の人はたうとう負て寝たふりをしてしまひました。
紳士はそこでつゞけさまにウヰスキーの小さなコツプを十二ばかりやりましたらすつかり酔ひがまはつてもう目を細くして唇くちびるをなめながらそこら中の人に見あたり次第くだを巻きはじめました。
『ね、おい、氷河鼠の頸のところの毛皮だけだぜ。えゝ、氷河鼠の上等さ。君、君、百十六疋の分なんだ。君、君斯かう見渡すといふと外套二枚ぐらゐのお方もずゐぶんあるやうだが外套二枚ぢやだめだねえ、君は三枚だからいいね、けれども、君、君、君のその外套ぐわいたうは全体それは毛ぢやないよ。君はさつきモロツコ狐ぎつねだとか云いつたねえ。どうしてどうしてちやんとわかるよ。それはほんとの毛ぢやないよ。ほんとの毛皮ぢやないんだよ』
『失敬なことを云ふな。失敬な』
『いゝや、ほんとのことを云ふがね、たしかにそれはにせものだ。絹糸で拵こしらへたんだ』
『失敬なやつだ。君はそれでも紳士かい』
『いゝよ。僕は紳士でもせり売屋でも何でもいゝ。君のその毛皮はにせものだ』
『野蕃やばんなやつだ。実に野蕃だ』
『いゝよ。おこるなよ向ふへ行つて寒かつたら僕のとこへおいで』
『頼まない』
よその紳士はすつかりぶり/\してそれでもきまり悪さうにやはりうつ/\寝たふりをしました。
氷河鼠ひようがねずみの上着を有もつた大将は唇くちびるをなめながらまはりを見まはした。
『君、おい君、その窓のところのお若いの。失敬だが君は船乗りかね』
若者はやつぱり外を見てゐました。月の下にはまつ白な蛋白石たんぱくせきのやうな雲の塊が走つて来るのです。
『おい、君、何と云つても向ふは寒い、その帆布一枚ぢやとてもやり切れたもんぢやない。けれども君はなか/\豪儀なとこがある。よろしい貸てやらう。僕のを一枚貸てやらう。さうしよう』
けれども若者はそんな言げんが耳にも入らないといふやうでした。つめたく唇を結んでまるでオリオン座のとこの鋼いろの空の向ふを見透かすやうな眼をして外を見てゐました。
『ふん。バースレーかね。黒狐だよ。なかなか寒いからね、おい、君若いお方、失敬だが外套を一枚お貸申すとしようぢやないか。黄いろの帆布一枚ぢやどうしてどうして零下の四十度を防ぐもなにもできやしない。黒狐だから。おい若いお方。君、君、おいなぜ返事せんか。無礼なやつだ君は我輩を知らんか。わしはねイーハトヴのタイチだよ。イーハトヴのタイチを知らんか。こんな汽車へ乗るんぢやなかつたな。わしの持船で出かけたらだまつて殿さまで通るんだ。ひとりで出掛けて黒狐を九百疋とつて見せるなんて下らないかけをしたもんさ』
こんな馬鹿ばかげた大きな子供の酔どれをもう誰たれも相手にしませんでした。みんな眠るか睡ねむる支度でした。きちんと起きてゐるのはさつきの窓のそばの一人の青年と客車の隅すみでしきりに鉛筆をなめながらきよときよと聴き耳をたてて何か書きつけてゐるあの痩やせた赤髯あかひげの男だけでした。
『紅茶はいかゞですか。紅茶はいかゞですか』
白服のボーイが大きな銀の盆に紅茶のコツプを十ばかり載せてしづかに大股おほまたにやつて来ました。
『おい、紅茶をおくれ』イーハトヴのタイチが手をのばしました。ボーイはからだをかゞめてすばやく一つを渡し銀貨を一枚受け取りました。
そのとき電燈がすうつと赤く暗くなりました。
窓は月のあかりでまるで螺鈿らでんのやうに青びかりみんなの顔も俄にはかに淋さびしく見えました。
『まつくらでござんすなおばけが出さう』ボーイは少し屈かがんであの若い船乗りののぞいてゐる窓からちよつと外を見ながら云ひました。
『おや、変な火が見えるぞ。誰たれかかがりを焚たいてるな。をかしい』
この時電燈がまたすつとつきボーイは又
『紅茶はいかがですか』と云ひながら大股おほまたにそして恭しく向ふへ行きました。
これが多分風の飛ばしてよこした切れ切れの報告の第五番目にあたるのだらうと思ひます。
×
夜がすつかり明けて東側の窓がまばゆくまつ白に光り西側の窓が鈍い鉛色になつたとき汽車が俄にとまりました。みんな顔を見合せました。
『どうしたんだらう。まだベーリングに着く筈はずがないし故障ができたんだらうか。』
そのとき俄に外ががや/\してそれからいきなり扉とびらががたつと開き朝日はビールのやうにながれ込みました。赤ひげがまるで違つた物凄ものすごい顔をしてピカ/\するピストルをつきつけてはひつて来ました。
そのあとから二十人ばかりのすさまじい顔つきをした人がどうもそれは人といふよりは白熊しろくまといつた方がいゝやうな、いや、白熊といふよりは雪狐ゆきぎつねと云つた方がいいやうなすてきにもく/\した毛皮を着た、いや、着たといふよりは毛皮で皮ができてるというた方がいゝやうな、ものが変な仮面をかぶつたりえり巻を眼まで上げたりしてまつ白ないきをふう/\吐きながら大きなピストルをみんな握つて車室の中にはひつて来ました。
先登の赤ひげは腰かけにうつむいてまだ睡ねむつてゐたゆふべの偉らい紳士を指さして云ひました。
『こいつがイーハトヴのタイチだ。ふらちなやつだ。イーハトヴの冬の着物の上にねラツコ裏の内外套うちぐわいたうと海狸びばあの中外套と黒狐裏表の外外套を着ようといふんだ。おまけにパテント外套と氷河鼠ひようがねずみの頸くびのとこの毛皮だけでこさへた上着も着ようといふやつだ。これから黒狐の毛皮九百枚とるとぬかすんだ、叩たたき起せ。』
二番目の黒と白の斑ぶちの仮面をかぶつた男がタイチの首すぢをつかんで引きずり起しました。残りのものは油断なく車室中にピストルを向けてにらみつけてゐました。
三番目のが云ひました。
『おい、立て、きさまこいつだなあの電気網をテルマの岸に張らせやがつたやつは。連れてかう』
『うん、立て。さあ立ていやなつらをしてるなあさあ立て』
紳士は引つたてられて泣きました。ドアがあけてあるので室へやの中は俄にはかに寒くあつちでもこつちでもクシヤンクシヤンとまじめ腐つたくしやみの声がしました。
二番目がしつかりタイチをつかまへて引つぱつて行かうとしますと三番目のはまだ立つたまゝきよろきよろ車中を見まはしました。
『外ほかにはないか。そこのとこに居るやつも毛皮の外套ぐわいたうを三枚持つてるぞ』
『ちがふちがふ』赤ひげはせはしく手を振つて云ひました。『ちがふよ。あれはほんとの毛皮ぢやない絹糸でこさへたんだ』
『さうか』
ゆふべのその外套をほんとのモロツコ狐ぎつねだと云つた人は変な顔をしてしやちほこばつてゐました。
『よし、さあでは引きあげ、おい誰たれでもおれたちがこの車を出ないうちに一寸ちよつとでも動いたやつは胸にスポンと穴をあけるから、さう思へ』
その連中はぢりぢりとあと退ずさりして出て行きました。
そして一人づつだんだん出て行つておしまひ赤ひげがこつちへピストルを向けながらせなかでタイチを押すやうにして出て行かうとしました。タイチは髪をばちやばちやにして口をびくびくまげながら前からはひつぱられうしろからは押されてもう扉とびらの外へ出さうになりました。
俄にはかに窓のとこに居た帆布の上着の青年がまるで天井にぶつつかる位のろしのやうに飛びあがりました。
ズドン。ピストルが鳴りました。落ちたのはたゞの黄いろの上着だけでした。と思つたらあの赤ひげがもう足をすくつて倒され青年は肥ふとつた紳士を又車室の中に引つぱり込んで右手には赤ひげのピストルを握つて凄すごい顔をして立つてゐました。
赤ひげがやつと立ちあがりましたら青年はしつかりそのえり首をつかみピストルを胸につきつけながら外の方へ向いて高く叫びました。
『おい、熊くまども。きさまらのしたことは尤もつともだ。けれどもなおれたちだつて仕方ない。生きてゐるにはきものも着なけあいけないんだ。おまへたちが魚をとるやうなもんだぜ。けれどもあんまり無法なことはこれから気を付けるやうに云ふから今度はゆるして呉くれ。ちよつと汽車が動いたらおれの捕虜にしたこの男は返すから』
『わかつたよ。すぐ動かすよ』外で熊どもが叫びました。
『レールを横の方へ敷いたんだな』誰かが云ひました。
氷ががりがり鳴つたりばたばたかけまはる音がしたりして汽車は動き出しました。
『さあけがをしないやうに降りるんだ』船乗りが云ひました。赤ひげは笑つてちよつと船乗りの手を握つて飛び降りました。
『そら、ピストル』船乗りはピストルを窓の外へはふり出しました。
『あの赤ひげは熊くまの方の間諜かんてふだつたね』誰たれかが云ひました。わかものは又窓の氷を削りました。
氷山の稜かどが桃色や青やぎらぎら光つて窓の外にぞろつとならんでゐたのです。これが風のとばしてよこしたお話のおしまひの一切れです。
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