このおはなしは、ずゐぶん北の方の寒いところからきれぎれに風に吹きとばされて来たのです。氷がひとでや海月くらげやさまざまのお菓子の形をしてゐる位寒い北の方から飛ばされてやつて来たのです。
十二月の二十六日の夜八時ベーリング行の列車に乗つてイーハトヴを発たつた人たちが、どんな眼めにあつたかきつとどなたも知りたいでせう。これはそのおはなしです。
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ぜんたい十二月の二十六日はイーハトヴはひどい吹雪でした。町の空や通りはまるつきり白だか水色だか変にばさ/\した雪の粉でいつぱい、風はひつきりなしに電線や枯れたポプラを鳴らし、鴉からすなども半分凍つたやうになつてふら/\と空を流されて行きました。たゞ、まあ、その中から馬そりの鈴のチリンチリン鳴る音が、やつと聞えるのでやつぱり誰たれか通つてゐるなといふことがわかるのでした。
ところがそんなひどい吹雪でも夜の八時になつて停車場に行つて見ますと暖炉の火は愉快に赤く燃えあがり、ベーリング行の最大急行に乗る人たちはもうその前にまつ黒に立つてゐました。
何せ北極のぢき近くまで行くのですからみんなはすつかり用意してゐました。着物はまるで厚い壁のくらゐ着込み、馬油を塗つた長靴ながぐつをはきトランクにまで寒さでひびが入らないやうに馬油を塗つてみんなほう/\してゐました。
汽罐車きくわんしやはもうすつかり支度ができて暖さうな湯気を吐き、客車にはみな明るく電燈がともり、赤いカーテンもおろされて、プラツトホームにまつすぐにならびました。
『ベーリング行、午後八時発車、ベーリング行。』一人の駅夫が高く叫びながら待合室に入つて来ました。
すぐ改札のベルが鳴りみんなはわい/\切符を切つて貰もらつてトランクや袋を車の中にかつぎ込みました。
間もなくパリパリ呼子が鳴り汽罐車は一つポーとほえて、汽車は一目散に飛び出しました。何せベーリング行の最大急行ですから実にはやいもんです。見る間にそのおしまひの二つの赤い火が灰いろの夜のふゞきの中に消えてしまひました。こゝまではたしかに私も知つてゐます。
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列車がイーハトヴの停車場をはなれて荷物が棚たなや腰掛の下に片附き、席がすつかりきまりますとみんなはまづつくづくと同じ車の人たちの顔つきを見まはしました。
一つの車には十五人ばかりの旅客が乗つてゐましたがそのまん中には顔の赤い肥ふとつた紳士がどつしりと腰掛けてゐました。その人は毛皮を一杯に着込んで、二人前の席をとり、アラスカ金の大きな指環ゆびわをはめ、十連発のぴかぴかする素敵な鉄砲を持つていかにも元気さう、声もきつとよほどがらがらしてゐるにちがひないと思はれたのです。
近くにはやつぱり似たやうななりの紳士たちがめいめい眼鏡めがねを外したり時計を見たりしてゐました。どの人も大へん立派でしたがまん中の人にくらべては少し痩やせてゐました。向ふの隅すみには痩た赤ひげの人が北極狐ほくきよくぎつねのやうにきよとんとすまして腰を掛けこちらの斜はすかひの窓のそばにはかたい帆布はんぷの上着を着て愉快さうに自分にだけ聞えるやうな微かすかな口笛を吹いてゐる若い船乗りらしい男が乗つてゐました。そのほか痩て眉まゆも深く刻み陰気な顔を外套ぐわいたうのえりに埋てゐる人さつぱり何でもないといふやうにもう睡ねむりはじめた商人風の人など三四人居をりました。
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汽車は時々素通りする停車場の踏切でがたつと横にゆれながら一生けん命ふゞきの中をかけました。しかしその吹雪もだん/\をさまつたのかそれとも汽車が吹雪の地方を越したのか、まもなくみんなは外の方から空気に圧おしつけられるやうな気がし、もう外では雪が降つてゐないといふやうに思ひました。黄いろな帆布の青年は立つて自分の窓のカーテンを上げました。そのカーテンのうしろには湯気の凍り付いたぎらぎらの窓ガラスでした。たしかにその窓ガラスは変に青く光つてゐたのです。船乗りの青年はポケツトから小さなナイフを出してその窓の羊歯しだの葉の形をした氷をガリガリ削り落しました。
削り取られた分の窓ガラスはつめたくて実によく透とほり向ふでは山脈の雪が耿々かうかうとひかり、その上の鉄いろをしたつめたい空にはまるでたつたいまみがきをかけたやうな青い月がすきつとかゝつてゐました。
野原の雪は青じろく見え煙の影は夢のやうにかけたのです。唐檜たうひやとゞ松がまつ黒に立つてちらちら窓を過ぎて行きます。じつと外を見てゐる若者の唇くちびるは笑ふやうに又泣くやうにかすかにうごきました。それは何か月に話し掛けてゐるかとも思はれたのです。みんなもしんとして何か考へ込んでゐました。まん中の立派な紳士もまた鉄砲を手に持つて何か考へてゐます。けれども俄にはかに紳士は立ちあがりました。鉄砲を大切に棚たなに載せました。それから大きな声で向ふの役人らしい葉巻をくはへてゐる紳士に話し掛けました。
『何せ向ふは寒いだらうね。』
向ふの紳士が答へました。
『いや、それはもう当然です。いくら寒いと云つてもこつちのは相対的ですがなあ、あつちはもう絶対です。寒さがちがひます。』
『あなたは何べん行つたね。』
『私は今度二遍目ですが。』
『どうだらう、わしの防寒の設備は大丈夫だらうか。』
『どれ位ご支度なさいました。』
『さあ、まあイーハトヴの冬の着物の上に、ラツコ裏の内外套うちぐわいたうね、海狸びばあの中外套ね、黒狐くろぎつね表裏の外外套ね。』
『大丈夫でせう、ずゐぶんいゝお支度です。』
『さうだらうか、それから北極兄弟商会パテントの緩慢燃焼外套ね………。』
『大丈夫です』
『それから氷河鼠ひようがねずみの頸くびのとこの毛皮だけでこさへた上着ね。』
『大丈夫です。しかし氷河鼠の頸のとこの毛皮はぜい沢ですな。』
『四百五十疋ぴき分だ。どうだらう。こんなことで大丈夫だらうか。』
『大丈夫です。』
『わしはね、主に黒狐をとつて来るつもりなんだ。黒狐の毛皮九百枚持つて来てみせるといふかけをしたんだ。』
『さうですか。えらいですな。』
『どうだ。祝盃しゆくはいを一杯やらうか。』紳士はステームでだんだん暖まつて来たらしく外套を脱ぎながらウヱスキーの瓶びんを出しました。
すぢ向ひではさつきの青年が額をつめたいガラスにあてるばかりにして月とオリオンとの空をじつとながめ、向ふ隅すみではあの痩やせた赤髯あかひげの男が眼をきよろきよろさせてみんなの話を聞きすまし、酒を呑のみ出した紳士のまはりの人たちは少し羨うらやましさうにこの豪勢な北極近くまで猟に出かける暢気のんきな大将を見てゐました。