インマヌエル長崎キリスト教会で行われた長崎原爆80年の講演
【長崎原爆80年 響き合う平和の祈り】
岩本の講演は、被爆地長崎こそが戦後日本の急速な復興を牽引したということを、これまでに一般には知られていない歴史的事実をもって明らかにするものです。そして、そこには、原爆炸裂時に、常識では考えられない神の直接的な介入があったことを証するものです。
以下、歴史的事実をそのまま述べていきます。
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【長崎原爆炸裂、この世の地獄】
1945年8月9日午前11時アメリカのB29が長崎に襲来。空襲警報が鳴る。
三菱重工業長崎製鋼所所長の久保田豊(岩本遠億の義祖父)は、ラジオで情報を得るために地下室へ。
11時2分原子爆弾が炸裂。工場は爆心地から約1kmの至近距離。
原子爆弾は、長崎の町を一瞬にしてこの世の地獄に。
おびただしい数の人々が瞬時に失われ、焼けただれ、阿鼻叫喚の苦しみの中、命を失っていった。
久保田豊の妻徳子(岩本遠億の大伯母)は一瞬にして原爆の熱線で焼き尽くされ、遺体もこの世に残らなかった。
久保田が地下室から地上に上がるとそこはこの世の地獄。彼は生き残った工員たちを指揮し、三日三晩一睡もせず、負傷した人たちを救護し続け、亡くなった方々の遺体を焼き続ける。
当日の出勤者数1,721名のうち、亡くなった方は1,019名、重傷の方は149名...。
日本は8月15日にポツダム宣言を受諾、敗戦。
【神の呼びかけ】
翌日娘たちが学徒動員から帰ってくる。娘たちは、炊き出しの握り飯を貪るように食らい、事務所の地下室の机の上に寝てしまう。久保田は、呆然自失。絶望に襲われる。その時、突然神が彼に語りかけた。
「恐れるな!進め!汝を助くる者多し!」
久保田は、広島中学校の時、英語教師岩本秀太郎(岩本遠億の曽祖父)の影響でキリスト教に触れ、高校生の時に洗礼。久保田は、神の声を聞き、立ち上がる。
廃墟と化した長崎の人々にパンを与えなければならない。パンを与えるためには産業を復興しなければならない。産業を復興するためには工場を再建しなければならない。
久保田は、すぐに長崎製鋼所再建の計画を立て始める。三菱製鋼の常務取締役中村道方氏が8月20日に長崎製鋼所を視察。翌21日に社長宛に報告を送付。
「長鋼(長崎製鋼所)復興方針に付いては既に復案(復興案)を得居り、保険金の支払いと連合軍の出方を見て此を実行に移す事と可相成候(あいなるべくそうろう)。」
久保田は神の声を聞き、4日後には既に復興案を考えており、それを中村常務に伝えていた。しかし、被爆した長崎製鋼所の復興の青写真を何故こんなに短期間で描くことができたのか。
【神の直接介入】
長崎製鋼所は原爆の爆風で破壊された一方、熱線による焼失を免れた。爆心地を中心に南北1.5km〜2km、東西1kmの圏内では、爆風と熱線によって他の建物はすべて全壊全焼しているにもかかわらず、工場を境とする径300〜750mだけは火災が起きなかったのである。これは、長崎大学原爆後障害医療研究所の長崎原爆全壊全焼地図で確認される。
一つの工場建屋の被害は比較的小さく、これを中心に再建が行われた。爆心地から1km圏内では、原爆の熱線は瓦を溶解させ、爆風は160m/秒以上に達し鉄筋コンクリートの建物を大破させる。しかし、工場の一部の建屋も本館事務所も火災による焼失を免れ、修復継続利用可能であったのである。
久保田は、壊滅した長崎工場再建のために邁進。
【三菱長崎製鋼所再建の道】
三菱長崎製鋼所再建計画は嘲笑の的。日本の鉄鋼産業は膨大な軍事需要に支えられていた。日本は戦争に負けた。もう鉄鋼は必要ない!
当時の商工省の方針1945年8月26日
「これからの日本に鉄鋼業は必要ない。単圧メーカー(屑鉄や加工用の鉄板から製品を作るメーカー)だけで良い。ビレット(加工用鉄板)をアメリカから輸入。製品を輸出すれば良い。」
1945年11月1日 久保田は復員者、生存者を含む全従業員の前で再建の決意を語る。
「事の成否は分からぬが、自分について来てくれる者は残ってくれ!」
多くの退職者。残ったのは百数十名。(被害前の総従業員数5307名)
1945年11月21日 平和産業に徹することを前提とした再建計画を、長崎県知事とGHQ長崎地区司令官に提出。
12月31日GHQから、1946年1月22日長崎県から民需転換指令を受ける。
1946年2月12日 第三工場での操業を開始。
財閥解体と公職追放の嵐の中、軍事産業に関わった三菱製鋼も、整理解散(1949年9月15日)。
再建のために三菱の名を外した第二会社(長崎製鋼)を設立。久保田を社長に任命。
長崎製鋼の得意分野:大型船への鉄鋼製品の供給
GHQが大型船の建造を制限。大型船用の鉄鋼の需要はなかった。
しかし、将来の再開に備え、久保田は1948年に大型船舶用の鉄鋼部品製造計画を立てる。1949年1月完工。1949年5月GHQが制限を撤廃。1949年フィリピン向け豪華客船(7500トン級)3隻の建造許可。
1952年 三菱製鋼株式会社再興
1955年 三菱造船による輸出船ブーム。「もはや戦後ではない。」
戦後日本の復興を可能にしたのは三菱製鋼の再建。
「人は笑った。しかし神の力は偉大だった。満足に残ったのは金床二つぐらいしかなかった所から、不思議な助けが次々と差し伸べられて、ついに再建できた。」(久保田豊談)
工場再建中、社長就任後も社用車は使わず、徒歩で自宅から工場に通勤。その行き帰り「歌いつつ歩まん」を歌いながら、原爆の荒野を歩いた。
【この世の地獄に立つ神】
長崎原爆という地獄の中でご自分のしもべ久保田豊を呼び、この久保田を立ち上がらせて三菱製鋼を再建させた神がこのことを行われた。瓦をも溶解させる原爆の熱線と爆風を受けながら、工場から径300〜750mだけは火災が起きず、長崎製鋼所の一部は継続利用可能だったという歴史的事実がこれに重なる。神ご自身が原爆の只中に立たれた。
原爆は、人類が悪魔の囁きによって作り出した悪魔の兵器。アメリカは悪魔の囁きに屈して多くの人々を殺し、地獄の苦しみに陥れた。
しかし、この世の地獄の中に立ち、ご自分の僕を立たせ、そこに神の国を作る働きを行わせる神がいた。これを神は、長崎の歴史の中で証明なさった。
悪魔の囁きに屈してこの世に地獄をもたらしたアメリカの罪は大きい。日本の軍国主義は、外国人のみならず自国民の命をも奪い、苦しみの中に閉じ込めた。この罪も大きい。
しかし、そこに直接介入して、新たな創造の業を行わせ、この地に神の国を作られる神がおられた。神は、人間が作り出した最悪の状況に介入し、最善手で、そこから祝福を生み出される。神の僕たちを、そのために用いられる。
神は現実的に歴史に介入し、私たちを救われる。私たちを平和を造る者に作り変えられる。この地に平和と喜びを満たすために、私たちをお用いになる。
「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。」 哀歌3:22〜23
「光は闇の中に輝いている。闇は光に打ち勝たなかった。」 ヨハネの福音書1:5