LeoN Radio Sunrise レオンラジオ日の出

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By 楠元純一郎&レオーEducationLanguage Learning
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LeoN Radio Sunrise レオンラジオ日の出 episodes

  • 34 小偷也是有各种各样的 青空文库 夏目漱石 こころ 下 11+12 @ LeoN Radio 我らの文学
    オープニングソング「水魚の交わり(魚水情)」
    エンディングソング「バイオバイオバイオ(遺伝子の舟)」
    作詞作曲 楠元純一郎
    編曲 山之内馨
    十一
    「私は早速(さっそく)その家へ引き移りました。私は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。そこは宅中(うちじゅう)で一番好(い)い室(へや)でした。本郷辺(ほんごうへん)に高等下宿といった風(ふう)の家がぽつぽつ建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好い間(ま)の様子を心得ていました。私の新しく主人となった室は、それらよりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての私には過ぎるくらいに思われたのです。
    室の広さは八畳でした。床(とこ)の横に違(ちが)い棚(だな)があって、縁(えん)と反対の側には一間(いっけん)の押入(おしい)れが付いていました。窓は一つもなかったのですが、その代り南向(みなみむ)きの縁に明るい日がよく差しました。
    私は移った日に、その室の床(とこ)に活(い)けられた花と、その横に立て懸(か)けられた琴(こと)を見ました。どっちも私の気に入りませんでした。私は詩や書や煎茶(せんちゃ)を嗜(たし)なむ父の傍(そば)で育ったので、唐(から)めいた趣味を小供(こども)のうちからもっていました。そのためでもありましょうか、こういう艶(なま)めかしい装飾をいつの間にか軽蔑(けいべつ)する癖が付いていたのです。
    私の父が存生中(ぞんしょうちゅう)にあつめた道具類は、例の叔父(おじ)のために滅茶滅茶(めちゃめちゃ)にされてしまったのですが、それでも多少は残っていました。私は国を立つ時それを中学の旧友に預かってもらいました。それからその中(うち)で面白そうなものを四、五幅(ふく)裸にして行李(こうり)の底へ入れて来ました。私は移るや否(いな)や、それを取り出して床へ懸けて楽しむつもりでいたのです。ところが今いった琴と活花(いけばな)を見たので、急に勇気がなくなってしまいました。後(あと)から聞いて始めてこの花が私に対するご馳走(ちそう)に活けられたのだという事を知った時、私は心のうちで苦笑しました。もっとも琴は前からそこにあったのですから、これは置き所がないため、やむをえずそのままに立て懸けてあったのでしょう。
    こんな話をすると、自然その裏に若い女の影があなたの頭を掠(かす)めて通るでしょう。移った私にも、移らない初めからそういう好奇心がすでに動いていたのです。こうした邪気(じゃき)が予備的に私の自然を損なったためか、または私がまだ人慣(ひとな)れなかったためか、私は始めてそこのお嬢(じょう)さんに会った時、へどもどした挨拶(あいさつ)をしました。その代りお嬢さんの方でも赤い顔をしました。
    私はそれまで未亡人(びぼうじん)の風采(ふうさい)や態度から推(お)して、このお嬢さんのすべてを想像していたのです。しかしその想像はお嬢さんに取ってあまり有利なものではありませんでした。軍人の妻君(さいくん)だからああなのだろう、その妻君の娘だからこうだろうといった順序で、私の推測は段々延びて行きました。ところがその推測が、お嬢さんの顔を見た瞬間に、悉(ことごと)く打ち消されました。そうして私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の匂(にお)いが新しく入って来ました。私はそれから床の正面に活(い)けてある花が厭(いや)でなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。
    その花はまた規則正しく凋(しお)れる頃(ころ)になると活け更(か)えられるのです。琴も度々(たびたび)鍵(かぎ)の手に折れ曲がった筋違(すじかい)の室(へや)に運び去られるのです。私は自分の居間で机の上に頬杖(ほおづえ)を突きながら、その琴の音(ね)を聞いていました。私にはその琴が上手なのか下手なのかよく解(わか)らないのです。けれども余り込み入った手を弾(ひ)かないところを見ると、上手なのじゃなかろうと考えました。まあ活花の程度ぐらいなものだろうと思いました。花なら私にも好く分るのですが、お嬢さんは決して旨(うま)い方ではなかったのです。
    それでも臆面(おくめん)なく色々の花が私の床を飾ってくれました。もっとも活方(いけかた)はいつ見ても同じ事でした。それから花瓶(かへい)もついぞ変った例(ためし)がありませんでした。しかし片方の音楽になると花よりももっと変でした。ぽつんぽつん糸を鳴らすだけで、一向(いっこう)肉声を聞かせないのです。唄(うた)わないのではありませんが、まるで内所話(ないしょばなし)でもするように小さな声しか出さないのです。しかも叱(しか)られると全く出なくなるのです。
    私は喜んでこの下手な活花を眺(なが)めては、まずそうな琴の音(ね)に耳を傾けました。
    十二
    「私の気分は国を立つ時すでに厭世的(えんせいてき)になっていました。他(ひと)は頼りにならないものだという観念が、その時骨の中まで染(し)み込んでしまったように思われたのです。私は私の敵視する叔父(おじ)だの叔母(おば)だの、その他(た)の親戚(しんせき)だのを、あたかも人類の代表者のごとく考え出しました。汽車へ乗ってさえ隣のものの様子を、それとなく注意し始めました。たまに向うから話し掛けられでもすると、なおの事警戒を加えたくなりました。私の心は沈鬱(ちんうつ)でした。鉛を呑(の)んだように重苦しくなる事が時々ありました。それでいて私の神経は、今いったごとくに鋭く尖(とが)ってしまったのです。
    私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな源因(げんいん)になっているように思われます。金に不自由がなければこそ、一戸を構えてみる気にもなったのだといえばそれまでですが、元の通りの私ならば、たとい懐中(ふところ)に余裕ができても、好んでそんな面倒な真似(まね)はしなかったでしょう。
    私は小石川(こいしかわ)へ引き移ってからも、当分この緊張した気分に寛(くつろ)ぎを与える事ができませんでした。私は自分で自分が恥ずかしいほど、きょときょと周囲を見廻(みまわ)していました。不思議にもよく働くのは頭と眼だけで、口の方はそれと反対に、段々動かなくなって来ました。私は家(うち)のものの様子を猫のようによく観察しながら、黙って机の前に坐(すわ)っていました。時々は彼らに対して気の毒だと思うほど、私は油断のない注意を彼らの上に注(そそ)いでいたのです。おれは物を偸(ぬす)まない巾着切(きんちゃくきり)みたようなものだ、私はこう考えて、自分が厭(いや)になる事さえあったのです。
    あなたは定(さだ)めて変に思うでしょう。その私がそこのお嬢(じょう)さんをどうして好(す)く余裕をもっているか。そのお嬢さんの下手な活花(いけばな)を、どうして嬉しがって眺める余裕があるか。同じく下手なその人の琴をどうして喜んで聞く余裕があるか。そう質問された時、私はただ両方とも事実であったのだから、事実としてあなたに教えて上げるというより外(ほか)に仕方がないのです。解釈は頭のあるあなたに任せるとして、私はただ一言(いちごん)付け足しておきましょう。私は金に対して人類を疑(うたぐ)ったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかったのです。だから他(ひと)から見ると変なものでも、また自分で考えてみて、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平気で両立していたのです。
    私は未亡人の事を常に奥さんといっていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんといいます。奥さんは私を静かな人、大人(おとな)しい男と評しました。それから勉強家だとも褒めてくれました。けれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。気が付かなかったのか、遠慮していたのか、どっちだかよく解りませんが、何しろそこにはまるで注意を払っていないらしく見えました。それのみならず、ある場合に私を鷹揚(おうよう)な方(かた)だといって、さも尊敬したらしい口の利き方をした事があります。その時正直な私は少し顔を赤らめて、向うの言葉を否定しました。すると奥さんは「あなたは自分で気が付かないから、そうおっしゃるんです」と真面目に説明してくれました。奥さんは始め私のような書生を宅(うち)へ置くつもりではなかったらしいのです。どこかの役所へ勤める人か何かに坐敷(ざしき)を貸す料簡(りょうけん)で、近所のものに周旋を頼んでいたらしいのです。俸給が豊かでなくって、やむをえず素人屋(しろうとや)に下宿するくらいの人だからという考えが、それで前かたから奥さんの頭のどこかにはいっていたのでしょう。奥さんは自分の胸に描(えが)いたその想像のお客と私とを比較して、こっちの方を鷹揚だといって褒めるのです。なるほどそんな切り詰めた生活をする人に比べたら、私は金銭にかけて、鷹揚だったかも知れません。しかしそれは気性(きしょう)の問題ではありませんから、私の内生活に取ってほとんど関係のないのと一般でした。奥さんはまた女だけにそれを私の全体に推(お)し広げて、同じ言葉を応用しようと力(つと)めるのです。
    1 hr 10 min
  • 35 就算是我也是会恋爱的 青空文库 夏目漱石 こころ 下 13+14 @ LeoN Radio 我らの文学
    オープニングソング「水魚の交わり(魚水情)」
    エンディングソング「バイオバイオバイオ(遺伝子の舟)」
    作詞作曲 楠元純一郎
    編曲 山之内馨
    十三
    「奥さんのこの態度が自然私の気分に影響して来ました。しばらくするうちに、私の眼はもとほどきょろ付かなくなりました。自分の心が自分の坐(すわ)っている所に、ちゃんと落ち付いているような気にもなれました。要するに奥さん始め家(うち)のものが、僻(ひが)んだ私の眼や疑い深い私の様子に、てんから取り合わなかったのが、私に大きな幸福を与えたのでしょう。私の神経は相手から照り返して来る反射のないために段々静まりました。
    奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそんな風(ふう)に取り扱ってくれたものとも思われますし、また自分で公言するごとく、実際私を鷹揚(おうよう)だと観察していたのかも知れません。私のこせつき方は頭の中の現象で、それほど外へ出なかったようにも考えられますから、あるいは奥さんの方で胡魔化(ごまか)されていたのかも解(わか)りません。
    私の心が静まると共に、私は段々家族のものと接近して来ました。奥さんともお嬢さんとも笑談(じょうだん)をいうようになりました。茶を入れたからといって向うの室(へや)へ呼ばれる日もありました。また私の方で菓子を買って来て、二人をこっちへ招いたりする晩もありました。私は急に交際の区域が殖(ふ)えたように感じました。それがために大切な勉強の時間を潰(つぶ)される事も何度となくありました。不思議にも、その妨害が私には一向(いっこう)邪魔にならなかったのです。奥さんはもとより閑人(ひまじん)でした。お嬢さんは学校へ行く上に、花だの琴だのを習っているんだから、定めて忙しかろうと思うと、それがまた案外なもので、いくらでも時間に余裕をもっているように見えました。それで三人は顔さえ見るといっしょに集まって、世間話をしながら遊んだのです。
    私を呼びに来るのは、大抵お嬢さんでした。お嬢さんは縁側を直角に曲って、私の室(へや)の前に立つ事もありますし、茶の間を抜けて、次の室の襖(ふすま)の影から姿を見せる事もありました。お嬢さんは、そこへ来てちょっと留(と)まります。それからきっと私の名を呼んで、「ご勉強?」と聞きます。私は大抵むずかしい書物を机の前に開けて、それを見詰めていましたから、傍(はた)で見たらさぞ勉強家のように見えたのでしょう。しかし実際をいうと、それほど熱心に書物を研究してはいなかったのです。頁(ページ)の上に眼は着けていながら、お嬢さんの呼びに来るのを待っているくらいなものでした。待っていて来ないと、仕方がないから私の方で立ち上がるのです。そうして向うの室の前へ行って、こっちから「ご勉強ですか」と聞くのです。
    お嬢さんの部屋(へや)は茶の間と続いた六畳でした。奥さんはその茶の間にいる事もあるし、またお嬢さんの部屋にいる事もありました。つまりこの二つの部屋は仕切(しきり)があっても、ないと同じ事で、親子二人が往(い)ったり来たりして、どっち付かずに占領していたのです。私が外から声を掛けると、「おはいんなさい」と答えるのはきっと奥さんでした。お嬢さんはそこにいても滅多(めった)に返事をした事がありませんでした。
    時たまお嬢さん一人で、用があって私の室へはいったついでに、そこに坐(すわ)って話し込むような場合もその内(うち)に出て来ました。そういう時には、私の心が妙に不安に冒(おか)されて来るのです。そうして若い女とただ差向(さしむか)いで坐っているのが不安なのだとばかりは思えませんでした。私は何だかそわそわし出すのです。自分で自分を裏切るような不自然な態度が私を苦しめるのです。しかし相手の方はかえって平気でした。これが琴を浚(さら)うのに声さえ碌(ろく)に出せなかったあの女かしらと疑われるくらい、恥ずかしがらないのです。
    [#「出せなかった」は底本では「出せなかったの」]
    あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、「はい」と返事をするだけで、容易に腰を上げない事さえありました。それでいてお嬢さんは決して子供ではなかったのです。私の眼にはよくそれが解(わか)っていました。よく解るように振舞って見せる痕迹(こんせき)さえ明らかでした。
    十四
    「私はお嬢さんの立ったあとで、ほっと一息(ひといき)するのです。それと同時に、物足りないようなまた済まないような気持になるのです。私は女らしかったのかも知れません。今の青年のあなたがたから見たらなおそう見えるでしょう。しかしその頃(ころ)の私たちは大抵そんなものだったのです。
    奥さんは滅多(めった)に外出した事がありませんでした。たまに宅(うち)を留守にする時でも、お嬢さんと私を二人ぎり残して行くような事はなかったのです。それがまた偶然なのか、故意なのか、私には解らないのです。私の口からいうのは変ですが、奥さんの様子を能(よ)く観察していると、何だか自分の娘と私とを接近させたがっているらしくも見えるのです。それでいて、或(あ)る場合には、私に対して暗(あん)に警戒するところもあるようなのですから、始めてこんな場合に出会った私は、時々心持をわるくしました。
    私は奥さんの態度をどっちかに片付(かたづ)けてもらいたかったのです。頭の働きからいえば、それが明らかな矛盾に違いなかったのです。しかし叔父(おじ)に欺(あざむ)かれた記憶のまだ新しい私は、もう一歩踏み込んだ疑いを挟(さしはさ)まずにはいられませんでした。私は奥さんのこの態度のどっちかが本当で、どっちかが偽(いつわ)りだろうと推定しました。そうして判断に迷いました。ただ判断に迷うばかりでなく、何でそんな妙な事をするかその意味が私には呑(の)み込めなかったのです。理由(わけ)を考え出そうとしても、考え出せない私は、罪を女という一字に塗(なす)り付けて我慢した事もありました。必竟(ひっきょう)女だからああなのだ、女というものはどうせ愚(ぐ)なものだ。私の考えは行き詰(つ)まればいつでもここへ落ちて来ました。
    それほど女を見縊(みくび)っていた私が、またどうしてもお嬢さんを見縊る事ができなかったのです。私の理屈はその人の前に全く用を為(な)さないほど動きませんでした。私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。お嬢さんの事を考えると、気高(けだか)い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。もし愛という不可思議なものに両端(りょうはじ)があって、その高い端(はじ)には神聖な感じが働いて、低い端には性欲(せいよく)が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕(つら)まえたものです。私はもとより人間として肉を離れる事のできない身体(からだ)でした。けれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さんを考える私の心は、全く肉の臭(にお)いを帯びていませんでした。
    私は母に対して反感を抱(いだ)くと共に、子に対して恋愛の度を増(ま)して行ったのですから、三人の関係は、下宿した始めよりは段々複雑になって来ました。もっともその変化はほとんど内面的で外へは現れて来なかったのです。そのうち私はあるひょっとした機会から、今まで奥さんを誤解していたのではなかろうかという気になりました。奥さんの私に対する矛盾した態度が、どっちも偽りではないのだろうと考え直して来たのです。その上、それが互(たが)い違(ちが)いに奥さんの心を支配するのでなくって、いつでも両方が同時に奥さんの胸に存在しているのだと思うようになったのです。つまり奥さんができるだけお嬢さんを私に接近させようとしていながら、同時に私に警戒を加えているのは矛盾のようだけれども、その警戒を加える時に、片方の態度を忘れるのでも翻すのでも何でもなく、やはり依然として二人を接近させたがっていたのだと観察したのです。ただ自分が正当と認める程度以上に、二人が密着するのを忌(い)むのだと解釈したのです。お嬢さんに対して、肉の方面から近づく念の萌(きざ)さなかった私は、その時入(い)らぬ心配だと思いました。しかし奥さんを悪く思う気はそれからなくなりました。
    49 min
  • 33 新生活的开始方法 青空文库 夏目漱石 こころ 下 9+10 @ LeoN Radio 我らの文学
    オープニングソング「水魚の交わり(魚水情)」
    エンディングソング「バイオバイオバイオ(遺伝子の舟)」
    作詞作曲 楠元純一郎
    編曲 山之内馨
    九
    「一口(ひとくち)でいうと、叔父は私(わたくし)の財産を胡魔化(ごまか)したのです。事は私が東京へ出ている三年の間に容易(たやす)く行われたのです。すべてを叔父任(まか)せにして平気でいた私は、世間的にいえば本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、あるいは純なる尊(たっと)い男とでもいえましょうか。私はその時の己(おの)れを顧みて、なぜもっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が口惜(くや)しくって堪(たま)りません。しかしまたどうかして、もう一度ああいう生れたままの姿に立ち帰って生きて見たいという心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知っている私は塵(ちり)汚(れた)後(あと)の私です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう。
    もし私が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならば、その結果は物質的に私に取って有利なものでしたろうか。これは考えるまでもない事と思います。叔父(おじ)は策略で娘を私に押し付けようとしたのです。好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと下卑(げび)た利害心に駆られて、結婚問題を私に向けたのです。私は従妹(いとこ)を愛していないだけで、嫌ってはいなかったのですが、後から考えてみると、それを断ったのが私には多少の愉快になると思います。胡魔化(ごまか)されるのはどっちにしても同じでしょうけれども、載(の)せられ方からいえば、従妹を貰(もら)わない方が、向うの思い通りにならないという点から見て、少しは私の我(が)が通った事になるのですから。しかしそれはほとんど問題とするに足りない些細(ささい)な事柄です。ことに関係のないあなたにいわせたら、さぞ馬鹿気(ばかげ)た意地に見えるでしょう。
    私と叔父の間に他(た)の親戚(しんせき)のものがはいりました。その親戚のものも私はまるで信用していませんでした。信用しないばかりでなく、むしろ敵視していました。私は叔父が私を欺(あざむ)いたと覚(さと)ると共に、他(ほか)のものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました。父があれだけ賞(ほ)め抜いていた叔父ですらこうだから、他のものはというのが私の論理(ロジック)でした。
    それでも彼らは私のために、私の所有にかかる一切(いっさい)のものを纏(まと)めてくれました。それは金額に見積ると、私の予期より遥(はる)かに少ないものでした。私としては黙ってそれを受け取るか、でなければ叔父を相手取って公沙汰(おおやけざた)にするか、二つの方法しかなかったのです。私は憤(いきどお)りました。また迷いました。訴訟にすると落着(らくちゃく)までに長い時間のかかる事も恐れました。私は修業中のからだですから、学生として大切な時間を奪われるのは非常の苦痛だとも考えました。私は思案の結果、市(し)におる中学の旧友に頼んで、私の受け取ったものを、すべて金の形(かたち)に変えようとしました。旧友は止(よ)した方が得だといって忠告してくれましたが、私は聞きませんでした。私は永く故郷(こきょう)を離れる決心をその時に起したのです。叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。
    私は国を立つ前に、また父と母の墓へ参りました。私はそれぎりその墓を見た事がありません。もう永久に見る機会も来ないでしょう。
    私の旧友は私の言葉通りに取り計らってくれました。もっともそれは私が東京へ着いてからよほど経(た)った後(のち)の事です。田舎(いなか)で畠地(はたち)などを売ろうとしたって容易には売れませんし、いざとなると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取った金額は、時価に比べるとよほど少ないものでした。自白すると、私の財産は自分が懐(ふところ)にして家を出た若干の公債と、後(あと)からこの友人に送ってもらった金だけなのです。親の遺産としては固(もと)より非常に減っていたに相違ありません。しかも私が積極的に減らしたのでないから、なお心持が悪かったのです。けれども学生として生活するにはそれで充分以上でした。実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。この余裕ある私の学生生活が私を思いも寄らない境遇に陥(おと)し入れたのです。
    十
    「金に不自由のない私(わたくし)は、騒々(そうぞう)しい下宿を出て、新しく一戸を構えてみようかという気になったのです。しかしそれには世帯道具を買う面倒もありますし、世話をしてくれる婆(ばあ)さんの必要も起りますし、その婆さんがまた正直でなければ困るし、宅(うち)を留守にしても大丈夫なものでなければ心配だし、といった訳で、ちょくらちょいと実行する事は覚束(おぼつか)なく見えたのです。ある日私はまあ宅(うち)だけでも探してみようかというそぞろ心(ごころ)から、散歩がてらに本郷台(ほんごうだい)を西へ下りて小石川(こいしかわ)の坂を真直(まっすぐ)に伝通院(でんずういん)の方へ上がりました。電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃(ころ)は左手が砲兵工廠(ほうへいこうしょう)の土塀(どべい)で、右は原とも丘ともつかない空地(くうち)に草が一面に生えていたものです。私はその草の中に立って、何心(なにごころ)なく向うの崖(がけ)を眺(なが)めました。今でも悪い景色ではありませんが、その頃はまたずっとあの西側の趣(おもむき)が違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っているだけでも、神経が休まります。私はふとここいらに適当な宅(うち)はないだろうかと思いました。それで直(す)ぐ草原(くさはら)を横切って、細い通りを北の方へ進んで行きました。いまだに好(い)い町になり切れないで、がたぴししているあの辺(へん)の家並(いえなみ)は、その時分の事ですからずいぶん汚ならしいものでした。私は露次(ろじ)を抜けたり、横丁(よこちょう)を曲(まが)ったり、ぐるぐる歩き廻(まわ)りました。しまいに駄菓子屋(だがしや)の上(かみ)さんに、ここいらに小ぢんまりした貸家(かしや)はないかと尋ねてみました。上さんは「そうですね」といって、少時(しばらく)首をかしげていましたが、「かし家(や)はちょいと……」と全く思い当らない風(ふう)でした。私は望(のぞみ)のないものと諦(あき)らめて帰り掛けました。すると上さんがまた、「素人下宿(しろうとげしゅく)じゃいけませんか」と聞くのです。私はちょっと気が変りました。静かな素人屋(しろうとや)に一人で下宿しているのは、かえって家(うち)を持つ面倒がなくって結構だろうと考え出したのです。それからその駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教えてもらいました。
    それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清(にっしん)戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、市ヶ谷(いちがや)の士官(しかん)学校の傍(そば)とかに住んでいたのだが、厩(うまや)などがあって、邸(やしき)が広過ぎるので、そこを売り払って、ここへ引っ越して来たけれども、無人(ぶにん)で淋(さむ)しくって困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです。私は上さんから、その家には未亡人(びぼうじん)と一人娘と下女(げじょ)より外(ほか)にいないのだという事を確かめました。私は閑静で至極(しごく)好かろうと心の中(うち)に思いました。けれどもそんな家族のうちに、私のようなものが、突然行ったところで、素性(すじょう)の知れない書生さんという名称のもとに、すぐ拒絶されはしまいかという掛念(けねん)もありました。私は止(よ)そうかとも考えました。しかし私は書生としてそんなに見苦しい服装(なり)はしていませんでした。それから大学の制帽を被(かぶ)っていました。あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだといって。けれどもその頃の大学生は今と違って、大分(だいぶ)世間に信用のあったものです。私はその場合この四角な帽子に一種の自信を見出(みいだ)したくらいです。そうして駄菓子屋の上さんに教わった通り、紹介も何もなしにその軍人の遺族の家(うち)を訪ねました。
    私は未亡人(びぼうじん)に会って来意(らいい)を告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらについて色々質問しました。そうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも引っ越して来て差支(さしつか)えないという挨拶(あいさつ)を即坐(そくざ)に与えてくれました。未亡人は正しい人でした、また判然(はっきり)した人でした。私は軍人の妻君(さいくん)というものはみんなこんなものかと思って感服しました。感服もしたが、驚きもしました。この気性(きしょう)でどこが淋(さむ)しいのだろうと疑いもしました。
    54 min
  • 32 今年清明悲断魂 青空文库 夏目漱石 こころ 下 7+8 @ LeoN Radio 我らの文学
    オープニングソング「水魚の交わり(魚水情)」
    エンディングソング「バイオバイオバイオ(遺伝子の舟)」
    作詞作曲 楠元純一郎
    編曲 山之内馨
    七
    「私が三度目に帰国したのは、それからまた一年経(た)った夏の取付(とっつき)でした。私はいつでも学年試験の済むのを待ちかねて東京を逃げました。私には故郷(ふるさと)がそれほど懐かしかったからです。あなたにも覚えがあるでしょう、生れた所は空気の色が違います、土地の匂(にお)いも格別です、父や母の記憶も濃(こまや)かに漂(ただよ)っています。一年のうちで、七、八の二月(ふたつき)をその中に包(くる)まれて、穴に入った蛇(へび)のように凝(じっ)としているのは、私に取って何よりも温かい好(い)い心持だったのです。
    単純な私は従妹との結婚問題について、さほど頭を痛める必要がないと思っていました。厭なものは断る、断ってさえしまえば後(あと)には何も残らない、私はこう信じていたのです。だから叔父の希望通りに意志を曲げなかったにもかかわらず、私はむしろ平気でした。過去一年の間いまだかつてそんな事に屈托(くったく)した覚えもなく、相変らずの元気で国へ帰ったのです。
    ところが帰って見ると叔父の態度が違っています。元のように好(い)い顔をして私を自分の懐(ふところ)に抱(だ)こうとしません。それでも鷹揚(おうよう)に育った私は、帰って四、五日の間は気が付かずにいました。ただ何かの機会にふと変に思い出したのです。すると妙なのは、叔父ばかりではないのです。叔母(おば)も妙なのです。従妹も妙なのです。中学校を出て、これから東京の高等商業へはいるつもりだといって、手紙でその様子を聞き合せたりした叔父の男の子まで妙なのです。
    私の性分(しょうぶん)として考えずにはいられなくなりました。どうして私の心持がこう変ったのだろう。いやどうして向うがこう変ったのだろう。私は突然死んだ父や母が、鈍(にぶ)い私の眼を洗って、急に世の中が判然(はっきり)見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。私は父や母がこの世にいなくなった後(あと)でも、いた時と同じように私を愛してくれるものと、どこか心の奥で信じていたのです。もっともその頃(ころ)でも私は決して理に暗い質(たち)ではありませんでした。しかし先祖から譲られた迷信の塊(かたま)りも、強い力で私の血の中に潜(ひそ)んでいたのです。今でも潜んでいるでしょう。
    私はたった一人山へ行って、父母の墓の前に跪(ひざまず)きました。半(なかば)は哀悼(あいとう)の意味、半は感謝の心持で跪いたのです。そうして私の未来の幸福が、この冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ握られてでもいるような気分で、私の運命を守るべく彼らに祈りました。あなたは笑うかもしれない。私も笑われても仕方がないと思います。しかし私はそうした人間だったのです。
    私の世界は掌(たなごころ)を翻すように変りました。もっともこれは私に取って始めての経験ではなかったのです。私が十六、七の時でしたろう、始めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には、一度にはっと驚きました。何遍(なんべん)も自分の眼を疑(うたぐ)って、何遍も自分の眼を擦(こす)りました。そうして心の中(うち)でああ美しいと叫びました。十六、七といえば、男でも女でも、俗にいう色気(いろけ)の付く頃です。色気の付いた私は世の中にある美しいものの代表者として、始めて女を見る事ができたのです。今までその存在に少しも気の付かなかった異性に対して、盲目(めくら)の眼が忽(たちま)ち開(あ)いたのです。それ以来私の天地は全く新しいものとなりました。
    私が叔父(おじ)の態度に心づいたのも、全くこれと同じなんでしょう。俄然(がぜん)として心づいたのです。何の予感も準備もなく、不意に来たのです。不意に彼と彼の家族が、今までとはまるで別物のように私の眼に映ったのです。私は驚きました。そうしてこのままにしておいては、自分の行先(ゆくさき)がどうなるか分らないという気になりました。
    八
    「私は今まで叔父任(まか)せにしておいた家の財産について、詳しい知識を得なければ、死んだ父母(ちちはは)に対して済まないという気を起したのです。叔父は忙しい身体(からだ)だと自称するごとく、毎晩同じ所に寝泊(ねとま)りはしていませんでした。二日家(うち)へ帰ると三日は市(し)の方で暮らすといった風(ふう)に、両方の間を往来(ゆきき)して、その日その日を落ち付きのない顔で過ごしていました。そうして忙しいという言葉を口癖(くちくせ)のように使いました。何の疑いも起らない時は、私も実際に忙しいのだろうと思っていたのです。それから、忙しがらなくては当世流でないのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。けれども財産の事について、時間の掛(か)かる話をしようという目的ができた眼で、この忙しがる様子を見ると、それが単に私を避ける口実としか受け取れなくなって来たのです。私は容易に叔父を捕(つら)まえる機会を得ませんでした。
    私は叔父が市の方に妾(めかけ)をもっているという噂(うわさ)
    を聞きました。私はその噂を昔中学の同級生であったある友達から聞いたのです。妾を置くぐらいの事は、この叔父として少しも怪(あや)しむに足らないのですが、父の生きているうちに、そんな評判を耳に入れた覚(おぼ)えのない私は驚きました。友達はその外(ほか)にも色々叔父についての噂を語って聞かせました。一時事業で失敗しかかっていたように他(ひと)から思われていたのに、この二、三年来また急に盛り返して来たというのも、その一つでした。しかも私の疑惑を強く染めつけたものの一つでした。
    私はとうとう叔父(おじ)と談判を開きました。談判というのは少し不穏当(ふおんとう)かも知れませんが、話の成行(なりゆ)きからいうと、そんな言葉で形容するより外に途(みち)のないところへ、自然の調子が落ちて来たのです。叔父はどこまでも私を子供扱いにしようとします。私はまた始めから猜疑(さいぎ)の眼で叔父に対しています。穏やかに解決のつくはずはなかったのです。
    遺憾(いかん)ながら私は今その談判の顛末(てんまつ)を詳しくここに書く事のできないほど先を急いでいます。実をいうと、私はこれより以上に、もっと大事なものを控えているのです。私のペンは早くからそこへ辿(たど)りつきたがっているのを、漸(やっ)との事で抑えつけているくらいです。あなたに会って静かに話す機会を永久に失った私は、筆を執(と)る術(すべ)に慣れないばかりでなく、貴(たっと)い時間を惜(おし)むという意味からして、書きたい事も省かなければなりません。
    あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつかあなたに、造り付けの悪人が世の中にいるものではないといった事を。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断してはいけないといった事を。あの時あなたは私に昂奮(こうふん)していると注意してくれました。そうしてどんな場合に、善人が悪人に変化するのかと尋ねました。私がただ一口(ひとくち)金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。私はあなたの不満な顔をよく記憶しています。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時この叔父の事を考えていたのです。普通のものが金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在し得ない例として、憎悪(ぞうお)と共に私はこの叔父を考えていたのです。私の答えは、思想界の奥へ突き進んで行こうとするあなたに取って物足りなかったかも知れません、陳腐(ちんぷ)だったかも知れません。けれども私にはあれが生きた答えでした。現に私は昂奮していたではありませんか。私は冷(ひや)やかな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で体(たい)が動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事ができるからです。
    49 min
  • 31 近亲结婚是不对的 青空文库 夏目漱石 こころ 下 5+6 @ LeoN Radio 我らの文学
    オープニングソング「水魚の交わり(魚水情)」
    エンディングソング「バイオバイオバイオ(遺伝子の舟)」
    作詞作曲 楠元純一郎
    編曲 山之内馨
    五
    「私が夏休みを利用して始めて国へ帰った時、両親の死に断えた私の住居(すまい)には、新しい主人として、叔父夫婦が入れ代って住んでいました。これは私が東京へ出る前からの約束でした。たった一人取り残された私が家にいない以上、そうでもするより外(ほか)に仕方がなかったのです。
    叔父はその頃(ころ)市にある色々な会社に関係していたようです。業務の都合からいえば、今までの居宅(きょたく)に寝起(ねお)きする方が、二里(り)も隔(へだた)った私の家に移るより遥かに便利だといって笑いました。これは私の父母が亡くなった後(あと)、どう邸(やしき)を始末して、私が東京へ出るかという相談の時、叔父の口を洩(も)れた言葉であります。私の家は旧(ふる)い歴史をもっているので、少しはその界隈(かいわい)で人に知られていました。あなたの郷里でも同じ事だろうと思いますが、田舎では由緒(ゆいしょ)のある家を、相続人があるのに壊(こわ)したり売ったりするのは大事件です。今の私ならそのくらいの事は何とも思いませんが、その頃はまだ子供でしたから、東京へは出たし、家(うち)はそのままにして置かなければならず、はなはだ所置(しょち)に苦しんだのです。
    叔父(おじ)は仕方なしに私の空家(あきや)へはいる事を承諾してくれました。しかし市(し)の方にある住居(すまい)もそのままにしておいて、両方の間を往(い)ったり来たりする便宜を与えてもらわなければ困るといいました。私に
    [#「私に」は底本では「私は」]
    固(もと)より異議のありようはずがありません。私はどんな条件でも東京へ出られれば好(い)いくらいに考えていたのです。
    子供らしい私は、故郷(ふるさと)を離れても、まだ心の眼で、懐かしげに故郷の家を望んでいました。固よりそこにはまだ自分の帰るべき家があるという旅人(たびびと)の心で望んでいたのです。休みが来れば帰らなくてはならないという気分は、いくら東京を恋しがって出て来た私にも、力強くあったのです。私は熱心に勉強し、愉快に遊んだ後(あと)、休みには帰れると思うその故郷の家をよく夢に見ました。
    私の留守の間、叔父はどんな風(ふう)に両方の間を往(ゆ)き来していたか知りません。私の着いた時は、家族のものが、みんな一(ひと)つ家(いえ)の内に集まっていました。学校へ出る子供などは平生(へいぜい)おそらく市の方にいたのでしょうが、これも休暇のために田舎(いなか)へ遊び半分といった格(かく)で引き取られていました。
    みんな私の顔を見て喜びました。私はまた父や母のいた時より、かえって賑(にぎ)やかで陽気になった家の様子を見て嬉(うれ)しがりました。叔父はもと私の部屋になっていた一間(ひとま)を占領している一番目の男の子を追い出して、私をそこへ入れました。座敷の数(かず)も少なくないのだから、私はほかの部屋で構わないと辞退したのですけれども、叔父はお前の宅(うち)だからといって、聞きませんでした。
    私は折々亡くなった父や母の事を思い出す外(ほか)に、何の不愉快もなく、その一夏(ひとなつ)を叔父の家族と共に過ごして、また東京へ帰ったのです。ただ一つその夏の出来事として、私の心にむしろ薄暗い影を投げたのは、叔父夫婦が口を揃(そろ)えて、まだ高等学校へ入ったばかりの私に結婚を勧める事でした。それは前後で丁度三、四回も繰り返されたでしょう。私も始めはただその突然なのに驚いただけでした。二度目には判然(はっきり)断りました。三度目にはこっちからとうとうその理由を反問しなければならなくなりました。彼らの主意は単簡(たんかん)でした。早く嫁(よめ)を貰(もら)ってここの家へ帰って来て、亡くなった父の後を相続しろというだけなのです。家は休暇(やすみ)になって帰りさえすれば、それでいいものと私は考えていました。父の後を相続する、それには嫁が必要だから貰(もら)う、両方とも理屈としては一通(ひととお)り聞こえます。ことに田舎の事情を知っている私には、よく解(わか)ります。私も絶対にそれを嫌ってはいなかったのでしょう。しかし東京へ修業に出たばかりの私には、それが遠眼鏡(とおめがね)で物を見るように、遥(はる)か先の距離に望まれるだけでした。私は叔父の希望に承諾を与えないで、ついにまた私の家を去りました。
    六
    「私は縁談の事をそれなり忘れてしまいました。私の周囲(ぐるり)を取り捲(ま)いている青年の顔を見ると、世帯染(しょたいじ)みたものは一人もいません。みんな自由です、そうして悉(ことごと)く単独らしく思われたのです。こういう気楽な人の中(うち)にも、裏面にはいり込んだら、あるいは家庭の事情に余儀なくされて、すでに妻を迎えていたものがあったかも知れませんが、子供らしい私はそこに気が付きませんでした。それからそういう特別の境遇に置かれた人の方でも、四辺(あたり)に気兼(きがね)をして、なるべくは書生に縁の遠いそんな内輪の話はしないように慎んでいたのでしょう。後(あと)から考えると、私自身がすでにその組だったのですが、私はそれさえ分らずに、ただ子供らしく愉快に修学の道を歩いて行きました。
    学年の終りに、私はまた行李(こうり)を絡(から)げて、親の墓のある田舎(いなか)へ帰って来ました。そうして去年と同じように、父母(ちちはは)のいたわが家(いえ)の中で、また叔父(おじ)夫婦とその子供の変らない顔を見ました。私は再びそこで故郷(ふるさと)の匂(にお)いを嗅(か)ぎました。その匂いは私に取って依然として懐かしいものでありました。一学年の単調を破る変化としても有難いものに違いなかったのです。
    しかしこの自分を育て上げたと同じような匂いの中で、私はまた突然結婚問題を叔父から鼻の先へ突き付けられました。叔父のいう所は、去年の勧誘を再び繰り返したのみです。理由も去年と同じでした。ただこの前勧(すす)められた時には、何らの目的物がなかったのに、今度はちゃんと肝心(かんじん)の当人を捕(つら)まえていたので、私はなお困らせられたのです。その当人というのは叔父の娘すなわち私の従妹(いとこ)に当る女でした。その女を貰(もら)ってくれれば、お互いのために便宜である、父も存生中(ぞんしょうちゅう)そんな事を話していた、と叔父がいうのです。私もそうすれば便宜だとは思いました。父が叔父にそういう風(ふう)な話をしたというのもあり得(う)べき事と考えました。しかしそれは私が叔父にいわれて、始めて気が付いたので、いわれない前から、覚(さと)っていた事柄ではないのです。だから私は驚きました。驚いたけれども、叔父の希望に無理のないところも、それがためによく解(わか)りました。私は迂闊(うかつ)なのでしょうか。あるいはそうなのかも知れませんが、おそらくその従妹に無頓着(むとんじゃく)であったのが、おもな源因(げんいん)になっているのでしょう。私は小供(こども)のうちから市(し)にいる叔父の家(うち)へ始終遊びに行きました。ただ行くばかりでなく、よくそこに泊りました。そうしてこの従妹とはその時分から親しかったのです。あなたもご承知でしょう、兄妹(きょうだい)の間に恋の成立した例(ためし)のないのを。私はこの公認された事実を勝手に布衍(ふえん)しているかも知れないが、始終接触して親しくなり過ぎた男女(なんにょ)の間には、恋に必要な刺戟(しげき)の起る清新な感じが失われてしまうように考えています。香(こう)をかぎ得(う)るのは、香を焚(た)き出した瞬間に限るごとく、酒を味わうのは、酒を飲み始めた刹那(せつな)にあるごとく、恋の衝動にもこういう際(きわ)どい一点が、時間の上に存在しているとしか思われないのです。一度平気でそこを通り抜けたら、馴(な)れれば馴れるほど、親しみが増すだけで、恋の神経はだんだん麻痺(まひ)して来るだけです。私はどう考え直しても、この従妹(いとこ)を妻にする気にはなれませんでした。
    叔父(おじ)はもし私が主張するなら、私の卒業まで結婚を延ばしてもいいといいました。けれども善は急げという諺(ことわざ)もあるから、できるなら今のうちに祝言(しゅうげん)の盃(さかずき)だけは済ませておきたいともいいました。当人に望みのない私にはどっちにしたって同じ事です。私はまた断りました。叔父は厭(いや)な顔をしました。従妹は泣きました。私に添われないから悲しいのではありません。結婚の申し込みを拒絶されたのが、女として辛(つら)かったからです。私が従妹を愛していないごとく、従妹も私を愛していない事は、私によく知れていました。私はまた東京へ出ました。
    1 hr 2 min
  • 30 鹰和鹫哪个强?! 青空文库 夏目漱石 こころ 下 3+4 @ LeoN Radio 我らの文学
    オープニングソング「水魚の交わり(魚水情)」
    エンディングソング「バイオバイオバイオ(遺伝子の舟)」
    作詞作曲 楠元純一郎
    編曲 山之内馨
    三
    「私が両親を亡(な)くしたのは、まだ私の廿歳(はたち)にならない時分でした。いつか妻(さい)があなたに話していたようにも記憶していますが、二人は同じ病気で死んだのです。しかも妻があなたに不審を起させた通り、ほとんど同時といっていいくらいに、前後して死んだのです。実をいうと、父の病気は恐るべき腸(ちょう)窒扶斯(チフス)でした。それが傍(そば)にいて看護をした母に伝染したのです。
    私は二人の間にできたたった一人の男の子でした。宅(うち)には相当の財産があったので、むしろ鷹揚(おうよう)に育てられました。私は自分の過去を顧みて、あの時両親が死なずにいてくれたなら、少なくとも父か母かどっちか、片方で好(い)いから生きていてくれたなら、私はあの鷹揚な気分を今まで持ち続ける事ができたろうにと思います。
    私は二人の後(あと)に茫然(ぼうぜん)として取り残されました。私には知識もなく、経験もなく、また分別もありませんでした。父の死ぬ時、母は傍にいる事ができませんでした。母の死ぬ時、母には父の死んだ事さえまだ知らせてなかったのです。母はそれを覚(さと)っていたか、または傍(はた)のもののいうごとく、実際父は回復期に向いつつあるものと信じていたか、それは分りません。母はただ叔父(おじ)に万事を頼んでいました。そこに居合(いあわ)せた私を指さすようにして、「この子をどうぞ何分(なにぶん)」といいました。私はその前から両親の許可を得て、東京へ出るはずになっていましたので、母はそれもついでにいうつもりらしかったのです。それで「東京へ」とだけ付け加えましたら、叔父がすぐ後(あと)を引き取って、「よろしい決して心配しないがいい」と答えました。母は強い熱に堪え得(う)る体質の女なんでしたろうか、叔父は「確(しっ)かりしたものだ」といって、私に向って母の事を褒(ほ)めていました。しかしこれがはたして母の遺言であったのかどうだか、今考えると分らないのです。母は無論父の罹(かか)った病気の恐るべき名前を知っていたのです。そうして、自分がそれに伝染していた事も承知していたのです。けれども自分はきっとこの病気で命を取られるとまで信じていたかどうか、そこになると疑う余地はまだいくらでもあるだろうと思われるのです。その上熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通った明らかなものにせよ、一向(いっこう)記憶となって母の頭に影さえ残していない事がしばしばあったのです。だから……しかしそんな事は問題ではありません。ただこういう風(ふう)に物を解きほどいてみたり、またぐるぐる廻(まわ)して眺(なが)めたりする癖(くせ)は、もうその時分から、私にはちゃんと備わっていたのです。それはあなたにも始めからお断わりしておかなければならないと思いますが、その実例としては当面の問題に大した関係のないこんな記述が、かえって役に立ちはしないかと考えます。あなたの方でもまあそのつもりで読んでください。この性分(しょうぶん)が倫理的に個人の行為やら動作の上に及んで、私は後来(こうらい)ますます他(ひと)の徳義心を疑うようになったのだろうと思うのです。それが私の煩悶(はんもん)や苦悩に向って、積極的に大きな力を添えているのは慥(たし)かですから覚えていて下さい。
    話が本筋(ほんすじ)をはずれると、分り悪(にく)くなりますからまたあとへ引き返しましょう。これでも私はこの長い手紙を書くのに、私と同じ地位に置かれた他(ほか)の人と比べたら、あるいは多少落ち付いていやしないかと思っているのです。世の中が眠ると聞こえだすあの電車の響(ひびき)ももう途絶(とだ)えました。雨戸の外にはいつの間にか憐(あわ)れな虫の声が、露の秋をまた忍びやかに思い出させるような調子で微(かす)かに鳴いています。何も知らない妻(さい)は次の室(へや)で無邪気にすやすや寝入(ねい)っています。私が筆を執(と)
    ると、一字一劃(かく)ができあがりつつペンの先で鳴っています。私はむしろ落ち付いた気分で紙に向っているのです。不馴(ふな)れのためにペンが横へ外(そ)れるかも知れませんが、頭が悩乱(のうらん)して筆がしどろに走るのではないように思います。
    四
    「とにかくたった一人取り残された私(わたくし)は、母のいい付け通り、この叔父(おじ)を頼るより外(ほか)に途(みち)はなかったのです。叔父はまた一切(いっさい)を引き受けて凡(すべ)ての世話をしてくれました。そうして私を私の希望する東京へ出られるように取り計らってくれました。
    私は東京へ来て高等学校へはいりました。その時の高等学校の生徒は今よりもよほど殺伐(さつばつ)で粗野でした。私の知ったものに、夜中(よる)職人と喧嘩(けんか)をして、相手の頭へ下駄(げた)で傷を負わせたのがありました。それが酒を飲んだ揚句(あげく)の事なので、夢中に擲(なぐ)り合いをしている間(あいだ)に、学校の制帽をとうとう向うのものに取られてしまったのです。ところがその帽子の裏には当人の名前がちゃんと、菱形(ひしがた)の白いきれの上に書いてあったのです。それで事が面倒になって、その男はもう少しで警察から学校へ照会されるところでした。しかし友達が色々と骨を折って、ついに表沙汰(おもてざた)にせずに済むようにしてやりました。こんな乱暴な行為を、上品な今の空気のなかに育ったあなた方に聞かせたら、定めて馬鹿馬鹿(ばかばか)しい感じを起すでしょう。私も実際馬鹿馬鹿しく思います。しかし彼らは今の学生にない一種質朴(しつぼく)な点をその代りにもっていたのです。当時私の月々叔父から貰(もら)っていた金は、あなたが今、お父さんから送ってもらう学資に比べると遥(はる)かに少ないものでした。(無論物価も違いましょうが)。それでいて私は少しの不足も感じませんでした。のみならず数ある同級生のうちで、経済の点にかけては、決して人を羨(うらや)ましがる憐(あわ)れな境遇にいた訳ではないのです。今から回顧すると、むしろ人に羨ましがられる方だったのでしょう。というのは、私は月々極(きま)った送金の外に、書籍費、(私はその時分から書物を買う事が好きでした)、および臨時の費用を、よく叔父から請求して、ずんずんそれを自分の思うように消費する事ができたのですから。
    何も知らない私は、叔父(おじ)を信じていたばかりでなく、常に感謝の心をもって、叔父をありがたいもののように尊敬していました。叔父は事業家でした。県会議員にもなりました。その関係からでもありましょう、政党にも縁故があったように記憶しています。父の実の弟ですけれども、そういう点で、性格からいうと父とはまるで違った方へ向いて発達したようにも見えます。父は先祖から譲られた遺産を大事に守って行く篤実一方(とくじついっぽう)の男でした。楽しみには、茶だの花だのをやりました。それから詩集などを読む事も好きでした。書画骨董(しょがこっとう)といった風(ふう)のものにも、多くの趣味をもっている様子でした。家は田舎(いなか)にありましたけれども、二里(り)ばかり隔たった市(し)、――その市には叔父が住んでいたのです、――その市から時々道具屋が懸物(かけもの)だの、香炉(こうろ)だのを持って、わざわざ父に見せに来ました。父は一口(ひとくち)にいうと、まあマン・オフ・ミーンズとでも評したら好(い)いのでしょう。比較的上品な嗜好(しこう)をもった田舎紳士だったのです。だから気性(きしょう)からいうと、闊達(かったつ)な叔父とはよほどの懸隔(けんかく)がありました。それでいて二人はまた妙に仲が好かったのです。父はよく叔父を評して、自分よりも遥(はる)かに働きのある頼もしい人のようにいっていました。自分のように、親から財産を譲られたものは、どうしても固有の材幹(さいかん)が鈍(にぶ)る、つまり世の中と闘う必要がないからいけないのだともいっていました。この言葉は母も聞きました。私も聞きました。父はむしろ私の心得になるつもりで、それをいったらしく思われます。「お前もよく覚えているが好(い)い」と父はその時わざわざ私の顔を見たのです。だから私はまだそれを忘れずにいます。このくらい私の父から信用されたり、褒(ほ)められたりしていた叔父を、私がどうして疑う事ができるでしょう。私にはただでさえ誇りになるべき叔父でした。父や母が亡くなって、万事その人の世話にならなければならない私には、もう単なる誇りではなかったのです。私の存在に必要な人間になっていたのです。
    55 min
  • 29 下部开始啦! 青空文库 夏目漱石 こころ 下 1+2 @ LeoN Radio 我らの文学
    オープニングソング「水魚の交わり(魚水情)」
    エンディングソング「バイオバイオバイオ(遺伝子の舟)」
    作詞作曲 楠元純一郎
    編曲 山之内馨
    下 先生と遺書
    一
    「……私(わたくし)はこの夏あなたから二、三度手紙を受け取りました。東京で相当の地位を得たいから宜(よろ)しく頼むと書いてあったのは、たしか二度目に手に入(い)ったものと記憶しています。私はそれを読んだ時何(なん)とかしたいと思ったのです。少なくとも返事を上げなければ済まんとは考えたのです。しかし自白すると、私はあなたの依頼に対して、まるで努力をしなかったのです。ご承知の通り、交際区域の狭いというよりも、世の中にたった一人で暮しているといった方が適切なくらいの私には、そういう努力をあえてする余地が全くないのです。しかしそれは問題ではありません。実をいうと、私はこの自分をどうすれば好(い)いのかと思い煩(わずら)っていたところなのです。このまま人間の中に取り残されたミイラのように存在して行こうか、それとも……その時分の私は「それとも」という言葉を心のうちで繰り返すたびにぞっとしました。馳足(かけあし)で絶壁の端(はじ)まで来て、急に底の見えない谷を覗(のぞ)き込んだ人のように。私は卑怯(ひきょう)でした。そうして多くの卑怯な人と同じ程度において煩悶(はんもん)したのです。遺憾(いかん)ながら、その時の私には、あなたというものがほとんど存在していなかったといっても誇張ではありません。一歩進めていうと、あなたの地位、あなたの糊口(ここう)の資(し)、そんなものは私にとってまるで無意味なのでした。どうでも構わなかったのです。私はそれどころの騒ぎでなかったのです。私は状差(じょうさし)へあなたの手紙を差したなり、依然として腕組をして考え込んでいました。宅(うち)に相応の財産があるものが、何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位地位といって藻掻(もが)き廻(まわ)るのか。私はむしろ苦々(にがにが)しい気分で、遠くにいるあなたにこんな一瞥(いちべつ)を与えただけでした。私は返事を上げなければ済まないあなたに対して、言訳(いいわけ)のためにこんな事を打ち明けるのです。あなたを怒らすためにわざと無躾(ぶしつけ)な言葉を弄(ろう)するのではありません。私の本意は後(あと)をご覧になればよく解(わか)る事と信じます。とにかく私は何とか挨拶(あいさつ)すべきところを黙っていたのですから、私はこの怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思います。
    その後(ご)私はあなたに電報を打ちました。有体(ありてい)にいえば、あの時私はちょっとあなたに会いたかったのです。それからあなたの希望通り私の過去をあなたのために物語りたかったのです。あなたは返電を掛(か)けて、今東京へは出られないと断って来ましたが、私は失望して永らくあの電報を眺(なが)めていました。あなたも電報だけでは気が済まなかったとみえて、また後から長い手紙を寄こしてくれたので、あなたの出京(しゅっきょう)できない事情がよく解(わか)りました。私はあなたを失礼な男だとも何とも思う訳がありません。あなたの大事なお父さんの病気をそっち退(の)けにして、何であなたが宅(うち)を空(あ)けられるものですか。そのお父さんの生死(しょうし)を忘れているような私の態度こそ不都合です。――私は実際あの電報を打つ時に、あなたのお父さんの事を忘れていたのです。そのくせあなたが東京にいる頃(ころ)には、難症(なんしょう)だからよく注意しなくってはいけないと、あれほど忠告したのは私ですのに。私はこういう矛盾な人間なのです。あるいは私の脳髄(のうずい)よりも、私の過去が私を圧迫する結果こんな矛盾な人間に私を変化させるのかも知れません。私はこの点においても充分私の我(が)を認めています。あなたに許してもらわなくてはなりません。
    あなたの手紙、――あなたから来た最後の手紙――を読んだ時、私は悪い事をしたと思いました。それでその意味の返事を出そうかと考えて、筆を執(と)りかけましたが、一行も書かずに已(や)めました。どうせ書くなら、この手紙を書いて上げたかったから、そうしてこの手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已めにしたのです。私がただ来るに及ばないという簡単な電報を再び打ったのは、それがためです。
    二
    「私(わたくし)はそれからこの手紙を書き出しました。平生(へいぜい)筆を持ちつけない私には、自分の思うように、事件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした。私はもう少しで、あなたに対する私のこの義務を放擲(ほうてき)するところでした。しかしいくら止(よ)そうと思って筆を擱(お)いても、何にもなりませんでした。私は一時間経(た)たないうちにまた書きたくなりました。あなたから見たら、これが義務の遂行(すいこう)を重んずる私の性格のように思われるかも知れません。私もそれは否(いな)みません。私はあなたの知っている通り、ほとんど世間と交渉のない孤独な人間ですから、義務というほどの義務は、自分の左右前後を見廻(みまわ)しても、どの方角にも根を張っておりません。故意か自然か、私はそれをできるだけ切り詰めた生活をしていたのです。けれども私は義務に冷淡だからこうなったのではありません。むしろ鋭敏(えいびん)過ぎて刺戟(しげき)に堪えるだけの精力がないから、ご覧のように消極的な月日を送る事になったのです。だから一旦(いったん)約束した以上、それを果たさないのは、大変厭(いや)な心持です。私はあなたに対してこの厭な心持を避けるためにでも、擱いた筆をまた取り上げなければならないのです。
    その上私は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有といっても差支(さしつか)えないでしょう。それを人に与えないで死ぬのは、惜しいともいわれるでしょう。私にも多少そんな心持があります。ただし受け入れる事のできない人に与えるくらいなら、私はむしろ私の経験を私の生命(いのち)と共に葬(ほうむ)った方が好(い)いと思います。実際ここにあなたという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう。私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目(まじめ)だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。
    私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。暗いものを凝(じっ)と見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお攫(つか)みなさい。私の暗いというのは、固(もと)より倫理的に暗いのです。私は倫理的に生れた男です。また倫理的に育てられた男です。その倫理上の考えは、今の若い人と大分(だいぶ)違ったところがあるかも知れません。しかしどう間違っても、私自身のものです。間に合せに借りた損料着(そんりょうぎ)ではありません。だからこれから発達しようというあなたには幾分か参考になるだろうと思うのです。
    あなたは現代の思想問題について、よく私に議論を向けた事を記憶しているでしょう。私のそれに対する態度もよく解(わか)っているでしょう。私はあなたの意見を軽蔑(けいべつ)までしなかったけれども、決して尊敬を払い得(う)る程度にはなれなかった。あなたの考えには何らの背景もなかったし、あなたは自分の過去をもつには余りに若過ぎたからです。私は時々笑った。あなたは物足りなそうな顔をちょいちょい私に見せた。その極(きょく)あなたは私の過去を絵巻物(えまきもの)のように、あなたの前に展開してくれと逼(せま)った。私はその時心のうちで、始めてあなたを尊敬した。あなたが無遠慮(ぶえんりょ)に私の腹の中から、或(あ)る生きたものを捕(つら)まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜(すす)ろうとしたからです。その時私はまだ生きていた。死ぬのが厭(いや)であった。それで他日(たじつ)を約して、あなたの要求を斥(しりぞ)けてしまった。私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴(あ)びせかけようとしているのです。私の鼓動(こどう)が停(とま)った時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。
    56 min
  • 28 中部结束啦! 青空文库 夏目漱石 こころ 中 17+18 @ LeoN Radio 我らの文学
    オープニングソング「水魚の交わり(魚水情)」
    エンディングソング「バイオバイオバイオ(遺伝子の舟)」
    作詞作曲 楠元純一郎
    編曲 山之内馨
    十七
    その日は病人の出来がことに悪いように見えた。私(わたくし)が厠(かわや)へ行こうとして席を立った時、廊下で行き合った兄は「どこへ行く」と番兵のような口調で誰何(すいか)した。
    「どうも様子が少し変だからなるべく傍(そば)にいるようにしなくっちゃいけないよ」と注意した。
    私もそう思っていた。懐中(かいちゅう)した手紙はそのままにしてまた病室へ帰った。父は眼を開けて、そこに並んでいる人の名前を母に尋ねた。母があれは誰、これは誰と一々説明してやると、父はそのたびに首肯(うなず)いた。首肯かない時は、母が声を張りあげて、何々さんです、分りましたかと念を押した。
    「どうも色々お世話になります」
    父はこういった。そうしてまた昏睡状態に陥った。枕辺(まくらべ)を取り巻いている人は無言のまましばらく病人の様子を見詰めていた。やがてその中(うち)の一人が立って次の間(ま)へ出た。するとまた一人立った。私も三人目にとうとう席を外(はず)して、自分の室(へや)へ来た。私には先刻(さっき)懐(ふところ)へ入れた郵便物の中を開けて見ようという目的があった。それは病人の枕元でも容易にできる所作(しょさ)には違いなかった。しかし書かれたものの分量があまりに多過ぎるので、一息(ひといき)にそこで読み通す訳には行かなかった。私は特別の時間を偸(ぬす)んでそれに充(あ)てた。
    私は繊維の強い包み紙を引き掻くように裂(さ)き破った。中から出たものは、縦横(たてよこ)に引いた罫(けい)の中へ行儀よく書いた原稿様(よう)のものであった。そうして封じる便宜のために、四(よ)つ折(おり)に畳(たた)まれてあった。私は癖のついた西洋紙を、逆に折り返して読みやすいように平たくした。
    私の心はこの多量の紙と印気(インキ)が、私に何事を語るのだろうかと思って驚いた。私は同時に病室の事が気にかかった。私がこのかきものを読み始めて、読み終らない前に、父はきっとどうかなる、少なくとも、私は兄からか母からか、それでなければ伯父(おじ)からか、呼ばれるに極(きま)っているという予覚(よかく)があった。私は落ち付いて先生の書いたものを読む気になれなかった。私はそわそわしながらただ最初の一頁(ページ)を読んだ。その頁は下(しも)のように綴(つづ)られていた。
    「あなたから過去を問いただされた時、答える事のできなかった勇気のない私は、今あなたの前に、それを明白に物語る自由を得たと信じます。しかしその自由はあなたの上京を待っているうちにはまた失われてしまう世間的の自由に過ぎないのであります。したがって、それを利用できる時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の経験として教えて上げる機会を永久に逸(いっ)するようになります。そうすると、あの時あれほど堅く約束した言葉がまるで嘘(うそ)になります。私はやむを得ず、口でいうべきところを、筆で申し上げる事にしました」
    私はそこまで読んで、始めてこの長いものが何のために書かれたのか、その理由を明らかに知る事ができた。私の衣食の口、そんなものについて先生が手紙を寄こす気遣(きづか)いはないと、私は初手から信じていた。しかし筆を執(と)ることの嫌いな先生が、どうしてあの事件をこう長く書いて、私に見せる気になったのだろう。先生はなぜ私の上京するまで待っていられないだろう。
    「自由が来たから話す。しかしその自由はまた永久に失われなければならない」
    私は心のうちでこう繰り返しながら、その意味を知るに苦しんだ。私は突然不安に襲われた。私はつづいて後(あと)を読もうとした。その時病室の方から、私を呼ぶ大きな兄の声が聞こえた。私はまた驚いて立ち上った。廊下を馳(か)け抜けるようにしてみんなのいる方へ行った。私はいよいよ父の上に最後の瞬間が来たのだと覚悟した。
    十八
    病室にはいつの間にか医者が来ていた。なるべく病人を楽にするという主意からまた浣腸(かんちょう)を試みるところであった。看護婦は昨夜(ゆうべ)の疲れを休めるために別室で寝ていた。慣れない兄は起(た)ってまごまごしていた。私(わたくし)の顔を見ると、「ちょっと手をお貸(か)し」といったまま、自分は席に着いた。私は兄に代って、油紙(あぶらがみ)を父の尻(しり)の下に宛(あ)てがったりした。
    父の様子は少しくつろいで来た。三十分ほど枕元(まくらもと)に坐(すわ)っていた医者は、浣腸(かんちょう)の結果を認めた上、また来るといって、帰って行った。帰り際(ぎわ)に、もしもの事があったらいつでも呼んでくれるようにわざわざ断っていた。
    私は今にも変(へん)がありそうな病室を退(しりぞ)いてまた先生の手紙を読もうとした。しかし私はすこしも寛(ゆっ)くりした気分になれなかった。机の前に坐るや否(いな)や、また兄から大きな声で呼ばれそうでならなかった。そうして今度呼ばれれば、それが最後だという畏怖(いふ)が私の手を顫(ふる)わした。私は先生の手紙をただ無意味に頁(ページ)だけ剥繰(はぐ)って行った。私の眼は几帳面(きちょうめん)に枠(わく)の中に篏(は)められた字画(じかく)を見た。けれどもそれを読む余裕はなかった。拾い読みにする余裕すら覚束(おぼつか)なかった。私は一番しまいの頁まで順々に開けて見て、またそれを元の通りに畳(たた)んで机の上に置こうとした。その時ふと結末に近い一句が私の眼にはいった。
    「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう」
    私ははっと思った。今までざわざわと動いていた私の胸が一度に凝結(ぎょうけつ)したように感じた。私はまた逆に頁をはぐり返した。そうして一枚に一句ぐらいずつの割で倒(さかさ)に読んで行った。私は咄嗟(とっさ)の間(あいだ)に、私の知らなければならない事を知ろうとして、ちらちらする文字(もんじ)を、眼で刺し通そうと試みた。その時私の知ろうとするのは、ただ先生の安否だけであった。先生の過去、かつて先生が私に話そうと約束した薄暗いその過去、そんなものは私に取って、全く無用であった。私は倒(さかさ)まに頁をはぐりながら、私に必要な知識を容易に与えてくれないこの長い手紙を自烈(じれっ)たそうに畳んだ。
    私はまた父の様子を見に病室の戸口まで行った。病人の枕辺(まくらべ)は存外(ぞんがい)静かであった。頼りなさそうに疲れた顔をしてそこに坐っている母を手招(てまね)ぎして、「どうですか様子は」と聞いた。母は「今少し持ち合ってるようだよ」と答えた。私は父の眼の前へ顔を出して、「どうです、浣腸して少しは心持が好くなりましたか」と尋ねた。父は首肯(うなず)いた。父ははっきり「有難う」といった。父の精神は存外朦朧(もうろう)としていなかった。
    私はまた病室を退(しりぞ)いて自分の部屋に帰った。そこで時計を見ながら、汽車の発着表を調べた。私は突然立って帯を締め直して、袂(たもと)の中へ先生の手紙を投げ込んだ。それから勝手口から表へ出た。私は夢中で医者の家へ馳(か)け込んだ。私は医者から父がもう二(に)、三日(さんち)保(も)つだろうか、そこのところを判然(はっきり)聞こうとした。注射でも何でもして、保たしてくれと頼もうとした。医者は生憎(あいにく)留守であった。私には凝(じっ)として彼の帰るのを待ち受ける時間がなかった。心の落(お)ち付(つ)きもなかった。私はすぐ俥(くるま)を停車場(ステーション)へ急がせた。
    私は停車場の壁へ紙片(かみぎれ)を宛(あ)てがって、その上から鉛筆で母と兄あてで手紙を書いた。手紙はごく簡単なものであったが、断らないで走るよりまだ増しだろうと思って、それを急いで宅(うち)へ届けるように車夫(しゃふ)に頼んだ。そうして思い切った勢(いきお)いで東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。私はごうごう鳴る三等列車の中で、また袂(たもと)から先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼を通した。
    45 min
  • 27 情感在微妙的变化 青空文库 夏目漱石 こころ 中 15+16 @ LeoN Radio 我らの文学
    オープニングソング「水魚の交わり(魚水情)」
    エンディングソング「バイオバイオバイオ(遺伝子の舟)」
    作詞作曲 楠元純一郎
    編曲 山之内馨
    十五
    「先生先生というのは一体誰(だれ)の事だい」と兄が聞いた。
    「こないだ話したじゃないか」と私(わたくし)は答えた。私は自分で質問をしておきながら、すぐ他(ひと)の説明を忘れてしまう兄に対して不快の念を起した。
    「聞いた事は聞いたけれども」
    兄は必竟(ひっきょう)聞いても解(わか)らないというのであった。私から見ればなにも無理に先生を兄に理解してもらう必要はなかった。けれども腹は立った。また例の兄らしい所が出て来たと思った。
    先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少なくとも大学の教授ぐらいだろうと推察していた。名もない人、何もしていない人、それがどこに価値をもっているだろう。兄の腹はこの点において、父と全く同じものであった。けれども父が何もできないから遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのは詰(つま)らん人間に限るといった風(ふう)の口吻(こうふん)を洩(も)らした。
    「イゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは横着な了簡(りょうけん)だからね。人は自分のもっている才能をできるだけ働かせなくっちゃ嘘(うそ)だ」
    私は兄に向かって、自分の使っているイゴイストという言葉の意味がよく解(わか)るかと聞き返してやりたかった。
    「それでもその人のお蔭(かげ)で地位ができればまあ結構だ。お父(とう)さんも喜んでるようじゃないか」
    兄は後からこんな事をいった。先生から明瞭(めいりょう)な手紙の来ない以上、私はそう信ずる事もできず、またそう口に出す勇気もなかった。それを母の早呑(はやの)み込(こ)みでみんなにそう吹聴(ふいちょう)してしまった今となってみると、私は急にそれを打ち消す訳に行かなくなった。私は母に催促されるまでもなく、先生の手紙を待ち受けた。そうしてその手紙に、どうかみんなの考えているような衣食の口の事が書いてあればいいがと念じた。私は死に瀕(ひん)している父の手前、その父に幾分でも安心させてやりたいと祈りつつある母の手前、働かなければ人間でないようにいう兄の手前、その他(た)妹(いもと)の夫だの伯父(おじ)だの叔母(おば)だのの手前、私のちっとも頓着(とんじゃく)していない事に、神経を悩まさなければならなかった。
    父が変な黄色いものも嘔(は)いた時、私はかつて先生と奥さんから聞かされた危険を思い出した。「ああして長く寝ているんだから胃も悪くなるはずだね」といった母の顔を見て、何も知らないその人の前に涙ぐんだ。
    兄と私が茶の間で落ち合った時、兄は「聞いたか」といった。それは医者が帰り際に兄に向っていった事を聞いたかという意味であった。私には説明を待たないでもその意味がよく解っていた。
    「お前ここへ帰って来て、宅(うち)の事を監理する気がないか」と兄が私を顧みた。私は何とも答えなかった。
    「お母さん一人じゃ、どうする事もできないだろう」と兄がまたいった。兄は私を土の臭(にお)いを嗅(か)いで朽ちて行っても惜しくないように見ていた。
    「本を読むだけなら、田舎(いなか)でも充分できるし、それに働く必要もなくなるし、ちょうど好(い)いだろう」
    「兄さんが帰って来るのが順ですね」と私がいった。
    「おれにそんな事ができるものか」と兄は一口(ひとくち)に斥(しりぞ)けた。兄の腹の中には、世の中でこれから仕事をしようという気が充(み)ち満(み)ちていた。
    「お前がいやなら、まあ伯父さんにでも世話を頼むんだが、それにしてもお母さんはどっちかで引き取らなくっちゃなるまい」
    「お母さんがここを動くか動かないかがすでに大きな疑問ですよ」
    兄弟はまだ父の死なない前から、父の死んだ後(あと)について、こんな風に語り合った。
    十六
    父は時々囈語(うわこと)をいうようになった。
    「乃木大将(のぎたいしょう)に済まない。実に面目次第(めんぼくしだい)がない。いえ私もすぐお後(あと)から」
    こんな言葉をひょいひょい出した。母は気味を悪がった。なるべくみんなを枕元(まくらもと)へ集めておきたがった。気のたしかな時は頻(しき)りに淋(さび)しがる病人にもそれが希望らしく見えた。ことに室(へや)の中(うち)を見廻(みまわ)して母の影が見えないと、父は必ず「お光(みつ)は」と聞いた。聞かないでも、眼がそれを物語っていた。私(わたくし)はよく起(た)って母を呼びに行った。「何かご用ですか」と、母が仕掛(しか)けた用をそのままにしておいて病室へ来ると、父はただ母の顔を見詰めるだけで何もいわない事があった。そうかと思うと、まるで懸け離れた話をした。突然「お光お前(まえ)にも色々世話になったね」などと優(やさ)しい言葉を出す時もあった。母はそういう言葉の前にきっと涙ぐんだ。そうした後ではまたきっと丈夫であった昔の父をその対照として想(おも)い出すらしかった。
    「あんな憐(あわ)れっぽい事をお言いだがね、あれでもとはずいぶん酷(ひど)かったんだよ」
    母は父のために箒(ほうき)で背中をどやされた時の事などを話した。今まで何遍(なんべん)もそれを聞かされた私と兄は、いつもとはまるで違った気分で、母の言葉を父の記念(かたみ)のように耳へ受け入れた。
    父は自分の眼の前に薄暗く映る死の影を眺めながら、まだ遺言(ゆいごん)らしいものを口に出さなかった。
    「今のうち何か聞いておく必要はないかな」と兄が私の顔を見た。
    「そうだなあ」と私は答えた。私はこちらから進んでそんな事を持ち出すのも病人のために好(よ)し悪(あ)しだと考えていた。二人は決しかねてついに伯父(おじ)に相談をかけた。伯父も首を傾けた。
    「いいたい事があるのに、いわないで死ぬのも残念だろうし、といって、こっちから催促するのも悪いかも知れず」
    話はとうとう愚図愚図(ぐずぐず)になってしまった。そのうちに昏睡(こんすい)が来た。例の通り何も知らない母は、それをただの眠りと思い違えてかえって喜んだ。「まあああして楽に寝られれば、傍(はた)にいるものも助かります」といった。
    父は時々眼を開けて、誰(だれ)はどうしたなどと突然聞いた。その誰はつい先刻(さっき)までそこに坐(すわ)っていた人の名に限られていた。父の意識には暗い所と明るい所とできて、その明るい所だけが、闇(やみ)を縫う白い糸のように、ある距離を置いて連続するようにみえた。母が昏睡(こんすい)状態を普通の眠りと取り違えたのも無理はなかった。
    そのうち舌が段々縺(もつ)れて来た。何かいい出しても尻(しり)が不明瞭(ふめいりょう)に了(おわ)るために、要領を得ないでしまう事が多くあった。そのくせ話し始める時は、危篤の病人とは思われないほど、強い声を出した。我々は固(もと)より不断以上に調子を張り上げて、耳元へ口を寄せるようにしなければならなかった。
    「頭を冷やすと好(い)い心持ですか」
    「うん」
    私は看護婦を相手に、父の水枕(みずまくら)を取り更(か)えて、それから新しい氷を入れた氷嚢(ひょうのう)を頭の上へ載(の)せた。がさがさに割られて尖(とが)り切った氷の破片が、嚢(ふくろ)の中で落ちつく間、私は父の禿(は)げ上った額の外(はずれ)でそれを柔らかに抑(おさ)えていた。その時兄が廊下伝(ろうかづた)いにはいって来て、一通の郵便を無言のまま私の手に渡した。空(あ)いた方の左手を出して、その郵便を受け取った私はすぐ不審を起した。
    それは普通の手紙に比べるとよほど目方の重いものであった。並(なみ)の状袋(じょうぶくろ)にも入れてなかった。また並の状袋に入れられべき分量でもなかった。半紙で包んで、封じ目を鄭寧(ていねい)に糊(のり)で貼(は)り付けてあった。私はそれを兄の手から受け取った時、すぐその書留である事に気が付いた。裏を返して見るとそこに先生の名がつつしんだ字で書いてあった。手の放せない私は、すぐ封を切る訳に行かないので、ちょっとそれを懐(ふところ)に差し込んだ。
    55 min
  • 26 家人都在盼我走(误) 青空文库 夏目漱石 こころ 中 13+14 @ LeoN Radio 我らの文学
    オープニングソング「水魚の交わり(魚水情)」
    エンディングソング「バイオバイオバイオ(遺伝子の舟)」
    作詞作曲 楠元純一郎
    編曲 山之内馨
    十三
    私(わたくし)の書いた手紙はかなり長いものであった。母も私も今度こそ先生から何とかいって来るだろうと考えていた。すると手紙を出して二日目にまた電報が私宛(あて)で届いた。それには来ないでもよろしいという文句だけしかなかった。私はそれを母に見せた。
    「大方(おおかた)手紙で何とかいってきて下さるつもりだろうよ」
    母はどこまでも先生が私のために衣食の口を周旋してくれるものとばかり解釈しているらしかった。私もあるいはそうかとも考えたが、先生の平生から推(お)してみると、どうも変に思われた。「先生が口を探してくれる」。これはあり得(う)べからざる事のように私には見えた。
    「とにかく私の手紙はまだ向うへ着いていないはずだから、この電報はその前に出したものに違いないですね」
    私は母に向かってこんな分り切った事をいった。母はまたもっともらしく思案しながら「そうだね」と答えた。私の手紙を読まない前に、先生がこの電報を打ったという事が、先生を解釈する上において、何の役にも立たないのは知れているのに。
    その日はちょうど主治医が町から院長を連れて来るはずになっていたので、母と私はそれぎりこの事件について話をする機会がなかった。二人の医者は立ち合いの上、病人に浣腸(かんちょう)などをして帰って行った。
    父は医者から安臥(あんが)を命ぜられて以来、両便とも寝たまま他(ひと)の手で始末してもらっていた。潔癖な父は、最初の間こそ甚(はなは)だしくそれを忌(い)み嫌ったが、身体(からだ)が利(き)かないので、やむを得ずいやいや床(とこ)の上で用を足した。それが病気の加減で頭がだんだん鈍くなるのか何だか、日を経(ふ)るに従って、無精な排泄(はいせつ)を意としないようになった。たまには蒲団(ふとん)や敷布を汚して、傍(はた)のものが眉(まゆ)を寄せるのに、当人はかえって平気でいたりした。もっとも尿の量は病気の性質として、極めて少なくなった。医者はそれを苦にした。食欲も次第に衰えた。たまに何か欲しがっても、舌が欲しがるだけで、咽喉(のど)から下へはごく僅(わずか)しか通らなかった。好きな新聞も手に取る気力がなくなった。枕(まくら)の傍(そば)にある老眼鏡(ろうがんきょう)は、いつまでも黒い鞘(さや)に納められたままであった。子供の時分から仲の好かった作(さく)さんという今では一里(り)ばかり隔たった所に住んでいる人が見舞に来た時、父は「ああ作さんか」といって、どんよりした眼を作さんの方に向けた。
    「作さんよく来てくれた。作さんは丈夫で羨(うらや)ましいね。己(おれ)はもう駄目(だめ)だ」
    「そんな事はないよ。お前なんか子供は二人とも大学を卒業するし、少しぐらい病気になったって、申し分はないんだ。おれをご覧よ。かかあには死なれるしさ、子供はなしさ。ただこうして生きているだけの事だよ。達者だって何の楽しみもないじゃないか」
    浣腸(かんちょう)をしたのは作さんが来てから二、三日あとの事であった。父は医者のお蔭(かげ)で大変楽になったといって喜んだ。少し自分の寿命に対する度胸ができたという風(ふう)に機嫌が直った。傍(そば)にいる母は、それに釣り込まれたのか、病人に気力を付けるためか、先生から電報のきた事を、あたかも私の位置が父の希望する通り東京にあったように話した。傍(そば)にいる私はむずがゆい心持がしたが、母の言葉を遮(さえぎ)る訳にもゆかないので、黙って聞いていた。病人は嬉(うれ)しそうな顔をした。
    「そりゃ結構です」と妹(いもと)の夫もいった。
    「何の口だかまだ分らないのか」と兄が聞いた。
    私は今更それを否定する勇気を失った。自分にも何とも訳の分らない曖昧(あいまい)な返事をして、わざと席を立った。
    十四
    父の病気は最後の一撃を待つ間際(まぎわ)まで進んで来て、そこでしばらく躊躇(ちゅうちょ)するようにみえた。家のものは運命の宣告が、今日下(くだ)るか、今日下るかと思って、毎夜床(とこ)にはいった。
    父は傍(はた)のものを辛(つら)くするほどの苦痛をどこにも感じていなかった。その点になると看病はむしろ楽であった。要心のために、誰か一人ぐらいずつ代る代る起きてはいたが、あとのものは相当の時間に各自(めいめい)の寝床へ引き取って差支(さしつか)えなかった。何かの拍子で眠れなかった時、病人の唸(うな)るような声を微(かす)かに聞いたと思い誤った私(わたくし)は、一遍(ぺん)半夜(よなか)に床を抜け出して、念のため父の枕元(まくらもと)まで行ってみた事があった。その夜(よ)は母が起きている番に当っていた。しかしその母は父の横に肱(ひじ)を曲げて枕としたなり寝入っていた。父も深い眠りの裏(うち)にそっと置かれた人のように静かにしていた。私は忍び足でまた自分の寝床へ帰った。
    私は兄といっしょの蚊帳(かや)の中に寝た。妹(いもと)の夫だけは、客扱いを受けているせいか、独り離れた座敷に入(い)って休んだ。
    「関(せき)さんも気の毒だね。ああ幾日も引っ張られて帰れなくっちゃあ」
    関というのはその人の苗字(みょうじ)であった。
    「しかしそんな忙しい身体(からだ)でもないんだから、ああして泊っていてくれるんでしょう。関さんよりも兄さんの方が困るでしょう、こう長くなっちゃ」
    「困っても仕方がない。外(ほか)の事と違うからな」
    兄と床(とこ)を並べて寝る私は、こんな寝物語をした。兄の頭にも私の胸にも、父はどうせ助からないという考えがあった。どうせ助からないものならばという考えもあった。我々は子として親の死ぬのを待っているようなものであった。しかし子としての我々はそれを言葉の上に表わすのを憚(はば)かった。そうしてお互いにお互いがどんな事を思っているかをよく理解し合っていた。
    「お父さんは、まだ治る気でいるようだな」と兄が私にいった。
    実際兄のいう通りに見えるところもないではなかった。近所のものが見舞にくると、父は必ず会うといって承知しなかった。会えばきっと、私の卒業祝いに呼ぶ事ができなかったのを残念がった。その代り自分の病気が治ったらというような事も時々付け加えた。
    「お前の卒業祝いは已(や)めになって結構だ。おれの時には弱ったからね」と兄は私の記憶を突ッついた。私はアルコールに煽(あお)られたその時の乱雑な有様を想(おも)い出して苦笑した。飲むものや食うものを強(し)いて廻(まわ)る父の態度も、にがにがしく私の眼に映った。
    私たちはそれほど仲の好(い)い兄弟ではなかった。小(ち)さいうちは好(よ)く喧嘩(けんか)をして、年の少ない私の方がいつでも泣かされた。学校へはいってからの専門の相違も、全く性格の相違から出ていた。大学にいる時分の私は、ことに先生に接触した私は、遠くから兄を眺(なが)めて、常に動物的だと思っていた。私は長く兄に会わなかったので、また懸け隔たった遠くにいたので、時からいっても距離からいっても、兄はいつでも私には近くなかったのである。それでも久しぶりにこう落ち合ってみると、兄弟の優(やさ)しい心持がどこからか自然に湧(わ)いて出た。場合が場合なのもその大きな源因(げんいん)になっていた。二人に共通な父、その父の死のうとしている枕元(まくらもと)で、兄と私は握手したのであった。
    「お前これからどうする」と兄は聞いた。私はまた全く見当の違った質問を兄に掛けた。
    「一体家(うち)の財産はどうなってるんだろう」
    「おれは知らない。お父さんはまだ何ともいわないから。しかし財産っていったところで金としては高(たか)の知れたものだろう」
    母はまた母で先生の返事の来るのを苦にしていた。
    「まだ手紙は来ないかい」と私を責めた。
    44 min

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