本の朗読

夢野久作ードグラ・マグラ11


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若林博士はここで又、ちょっと息を切って、唇を舐なめたようであった。
 しかし私がこの時に、どんな顔をしていたか私は知らない。ただ、何が何やら解らないまま一句一句に学術的な権威をもって、急角度に緊張しつつ迫って来る、若林博士の説明に脅やかされて、高圧電気にかけられたように、全身を固こわばらせていた。……さては今の話の怪事件というのは、矢張やはり自分の事であったのか……そうして今にも、その恐ろしい過去の事件を、自分の名前と一緒に思い出さなければならぬ立場に、自分が立っているのか……といったような、云い知れぬ恐怖から滴したたり落つる冷汗を、左右の腋の下ににじませつつ、眼の前の蒼白長大な顔面に全神経を集中していた……ように思う。
 その時に若林博士は、その仄青ほのあおい瞳ひとみを少しばかり伏せて、今までよりも一層低い調子になった。
「……くり返して申しますが、そのような正木先生の予言は、今日まで一つ一つに寸分の狂いもなく的中して参りましたので御座います。あなたは最早もはや、今朝から、完全に、今までの夢中遊行的精神状態を離脱しておられまして、今にも昔の御記憶を回復されるであろう間際に立っておられるので御座います。……で御座いますから私は、とりあえず、先刻、看護婦にお尋ねになりました、貴下あなた御自身のお名前を思い出させて差上げるために、斯様かようにお伺いした次第で御座います」
「……ボ……僕の名前を思い出させる……」
 こう叫んだ私は、突然、息詰るほどドキッとさせられた。……もしかしたら……その怪事件の真犯人というのが私自身ではあるまいか。……若林博士が特に、私の名前について緊張した注意を払っているらしいのは、その証拠ではあるまいか……というような刹那的な頭のヒラメキに打たれたので……。しかし若林博士はさり気なく静かに答えた。
「……さよう。あなたのお名前が、御自身に思い出されますれば、それにつれて、ほかの一切の御記憶も、貴下の御意識の表面に浮かみ現われて来る筈で御座います。その怪事件の前後を一貫して支配している精神科学の原理が、如何に恐るべきものであるか。如何なる理由で、如何なる動機の下にそのような怪犯罪が遂行されたか。その事件の中心となっている怪魔人が何者であるかという真相の底の底までも同時に思い出される筈で御座います。……ですから、それを思い出して頂くように、お力添えを致しますのが、正木先生から貴方をお引受け致しました私の、責任の第一で御座いまして……」
 私は又も、何かしら形容の出来ない、もの怖ろしい予感に対して戦慄させられた。思わず座り直して頓狂とんきょうな声を出した。
「……何というんですか……僕の名前は……」
 私が、こう尋ねた瞬間に、若林博士は恰あたかも器械か何ぞのようにピッタリと口を噤つぐんだ。私の心の中から何ものかを探し求めるかのように……又は、何かしら重大な事を暗示するかのように、ドンヨリと光る眼で、私の眼の底をジーッと凝視した。
 後から考えると私はこの時、若林博士の測り知れない策略に乗せられていたに違いないと思う。若林博士がここまで続けて来た科学的な、同時に、極度に煽情的な話の筋道は、決して無意味な筋道ではなかったのだ。皆「私の名前」に対する「私の注意力」を極点にまで緊張させて、是非ともソレを思い出さずにはいられないように仕向けるための一つの精神的な刺戟方法に相違なかったのだ。……だから私が夢中になって、自分の名前を問うと同時に、ピッタリと口を噤んで、無言の裡うちに、私の焦燥をイヨイヨの最高潮にまで導こうと試みたのであろう。私の脳髄の中に凝固している過去の記憶の再現作用を、私自身に鋭く刺戟させようとしたのであろう。
 しかし、その時の私は、そんなデリケートな計略にミジンも気付き得なかった。ただ若林博士が、すぐにも私の名前を教えてくれるものとばかり思い込んで、その生白い唇を一心に凝視しているばかりであった。
 すると、そうした私の態度を見守っていた若林博士は、又も、何やら失望させられたらしく、ヒッソリと眼を閉じた。頭をゆるゆると左右に振りながら軽いため息を一つしたが、やがて又、静かに眼を開きながら、今までよりも一層つめたい、繊細かぼそい声を出した。
「……いけませぬ……。私が、お教え致しましたのでは何にもなりませぬ。そんな名前は記憶せぬと仰言おっしゃれば、それ迄です。やはり自然と、御自身に思い出されたのでなくては……」
 私は急に安心したような、同時に心細くなったような気持ちがした。
「……思い出すことが出来ましょうか」
 若林博士はキッパリと答えた。
「お出来になります。きっとお出来になります。しかもその時には、只今まで私が申述べました事が、決して架空なお話でない事が、お解りになりますばかりでなく、それと同時に、貴方はこの病院から全快、退院されまして、あなたの法律上と道徳上の権利……すなわち立派な御家庭と、そのお家に属する一切の幸福とをお引受けになる準備が、ずっと以前から十分に整っているので御座います。つまり、それ等のものの一切を相違なく貴方へお引渡し致しますのが又、正木先生から引き継がれました私の、第二の責任となっておりますので……」
 若林博士は斯様かよう云い切ると、確信あるものの如くモウ一度、その青冷めたい瞳で私を見据えた。私はその瞳の力に圧おされて、余儀なく項垂うなだれさせられた……又も何となく自分の事ではないような……妙なヤヤコシイ話ばかり聞かされて、訳が判然わからないままに疲れてしまったような気持ちになりながら……。
 しかし若林博士は、私のそうした気持ちに頓着なく、軽い咳払いを一つして、話の調子を改めた。
「……では……只今から、貴方のお名前を思い出して頂く実験に取りかかりたいと存じますが……私どもが……正木先生も同様で御座いましたが……貴方の過去の御経歴に最も深い関係を持っているに相違ないと信じております色々なものを、順々にお眼にかけまして、それによって貴方の過去の御記憶が喚よび起されたか否かを実験させて頂きたいので御座いますが、如何いかがで御座いましょうか」
 と云ううちに籐椅子の両肱に手をかけて、姿勢をグッと引伸ばした。
 私はその顔を見守りながら、すこしばかり頭を下げた。……ちっとも構いません。どうなりと御随意に……という風に……。
 しかし心の中では些すくなからず躊躇ちゅうちょしていた。否、むしろ一種の馬鹿馬鹿しさをさえ感じていた。

……今朝から私を呼びかけたあの六号室の少女も、現在眼の前に居る若林博士も同様に、人違いをしているのではあるまいか。
……私を誰か、ほかの人間と間違えて、こんなに熱心に呼びかけたり、責め附けたりしているのではあるまいか……だから、いつまで経っても、いくら責められてもこの通り、何一つとして思い出し得ないのではあるまいか。
……これから見せ付けられるであろう私の過去の記念物というのも、実をいうと、私とは縁もゆかりもない赤の他人の記念物ばかりではあるまいか。……どこかに潜み隠れている、正体のわからない、冷血兇悪な精神病患者……其奴そいつが描きあらわした怪奇、残虐を極めた犯罪の記念品……そんなものを次から次に見せ付けられて、思い出せ思い出せと責め立てられるのではあるまいか。
……といったような、あられもない想像を逞しくしながら、思わず首を縮めて、小さくなっていたのであった。


 その時に若林博士は、あくまでもその学者らしい上品さと、謙遜さとを保って、静かに私に一礼しつつ、籐椅子から立ち上った。徐おもむろに背後うしろの扉を開くと、待ち構えていたように一人の小男がツカツカと大股に這入って来た。
 その小男は頭をクルクル坊主の五分刈にして、黒い八の字髭ひげをピンと生はやして、白い詰襟つめえりの上衣うわぎに黒ズボン、古靴で作ったスリッパという見慣れない扮装いでたちをしていた。四角い黒革の手提鞄てさげかばんと、薄汚ない畳椅子たたみいすを左右の手に提ひっさげていたが、あとから這入って来た看護婦が、部屋の中央まんなかに湯気の立つボール鉢を置くと、その横に活溌な態度で畳椅子を拡げた。それから黒い手提鞄を椅子の横に置いて、パッと拡げると、その中にゴチャゴチャに投げ込んであった理髪用の鋏はさみや、ブラシを葢ふたの上に掴つまみ出しながら、私を見てヒョッコリとお辞儀をした。「ササ、どうぞ」という風に……。すると若林博士も籐椅子を寝台の枕元に引き寄せながら、私に向って「サア、どうぞ」というような眼くばせをした。
 ……さてはここで頭を刈らせられるのだな……と私は思った。だから素跣足すはだしのまま寝台を降りて畳椅子の上に乗っかると、殆ど同時に八字鬚ひげの小男が、白い布片きれをパッと私の周囲まわりに引っかけた。それから熱湯で絞ったタオルを私の頭にグルグルと巻付けてシッカリと押付けながら若林博士を振返った。
「この前の通りの刈方かりかたで、およろしいので……」
 この質問を聞くと若林博士は、何やらハッとしたらしかった。チラリと私の顔を盗み見たようであったが、間もなく去さり気げない口調で答えた。
「あ。この前の時も君にお願いしたんでしたっけね。記憶しておりますか。あの時の刈方を……」
「ヘイ。ちょうど丸一個月前の事で、特別の御註文でしたから、まだよく存じております。まん中を高く致しまして、お顔全体が温柔おとなしい卵型に見えますように……まわりは極く短かく、東京の学生さん風に……」
「そうそう。その通りに今度も願います」
「かしこまりました」
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本の朗読By 前川工作室


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