あなたは惨めな思いをしたことがあるでしょうか?
大事な場面での大失敗、経済的な困窮、思い通りにいかない人生…。順風満帆な人生を送っている人と自分を比べて、惨めに思うこともあるでしょう。
もしかすると、歳を重ねれば重ねるほど、惨めさが身に染みるということもあるのかもしれません。誰しも若い頃のように、「人生バラ色」とはいかないことが多くなってくるのではないでしょうか。
クリスチャンとて例外ではありません。神様を信じたからといって、惨めさから完全に抜け出せるわけではないのです。
確かに神様を信頼することで、この世的な失敗や困難を理由に惨めに感じることはなくなるでしょう。なぜなら、クリスチャンは「今見えているものはほんの一部。神様の善き計画は今、この時も着々と進んでいる」と信じることが出来るようになるからです。
しかし、救われていながらなお自分の内に潜んでいる罪、何度も何度も同じ罪を繰り返してしまう自分を惨めに思うことはあります。
あの偉大な使徒パウロですら、「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救いだしてくれるのでしょうか」(ローマ7:24)と自分の罪を嘆いています。これは、クリスチャンであっても生涯向き合っていかなければならない課題なのです。否、あなたが真摯に自分の心を見つめるならば、惨めさのないクリスチャンライフなど、あり得ないのです。
しかし、惨めさに埋もれて、暗い顔をしてうなだれて歩むのがクリスチャンではありません。
私たちは惨めな人間ですが、「圧倒的な勝利者」として生きることが出来るはずなのです。
「惨めさとどう向き合うか」-。この生涯の課題を、若くして夫を亡くし、絶望にあったはずのルツから共に学んでみましょう。