本の朗読

太宰治ー斜陽8


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 風呂場で、手と足と顔を洗い、お母さまに逢あうのが何だかおっかなくって、お風呂場の三畳間で髪を直したりしてぐずぐずして、それからお勝手に行き、夜のまったく明けはなれるまで、お勝手の食器の用も無い整理などしていた。
 夜が明けて、お座敷のほうに、そっと足音をしのばせて行って見ると、お母さまは、もうちゃんとお着換えをすましておられて、そうして支那間のお椅子いすに、疲れ切ったようにして腰かけていらした。私を見て、にっこりお笑いになったが、そのお顔は、びっくりするほど蒼あおかった。
 私は笑わず、黙って、お母さまのお椅子のうしろに立った。
 しばらくしてお母さまが、
「なんでもない事だったのね。燃やすための薪だもの」
 とおっしゃった。
 私は急に楽しくなって、ふふんと笑った。機おりにかないて語かたる言ことばは銀ぎんの彫刻物ほりものに金きんの林檎りんごを嵌はめたるが如ごとし、という聖書の箴言しんげんを思い出し、こんな優しいお母さまを持っている自分の幸福を、つくづく神さまに感謝した。ゆうべの事は、ゆうべの事。もうくよくよすまい、と思って、私は支那間の硝子戸越しに、朝の伊豆の海を眺ながめ、いつまでもお母さまのうしろに立っていて、おしまいにはお母さまのしずかな呼吸と私の呼吸がぴったり合ってしまった。
 朝のお食事を軽くすましてから、私は、焼けた薪の山の整理にとりかかっていると、この村でたった一軒の宿屋のおかみさんであるお咲さきさんが、
「どうしたのよ? どうしたのよ? いま、私、はじめて聞いて、まあ、ゆうべは、いったい、どうしたのよ?」
 と言いながら庭の枝折戸しおりどから小走りに走ってやって来られて、そうしてその眼には、涙が光っていた。
「すみません」
 と私は小声でわびた。
「すみませんも何も。それよりも、お嬢さん、警察のほうは?」
「いいんですって」
「まあよかった」
 と、しんから嬉しそうな顔をして下さった。
 私はお咲さんに、村の皆さんへどんな形で、お礼とお詫わびをしたらいいか、相談した。お咲さんは、やはりお金がいいでしょう、と言い、それを持ってお詫びまわりをすべき家々を教えて下さった。
「でも、お嬢さんがおひとりで廻まわるのがおいやだったら、私も一緒について行ってあげますよ」
「ひとりで行ったほうが、いいのでしょう?」
「ひとりで行ける? そりゃ、ひとりで行ったほうがいいの」
「ひとりで行くわ」
 それからお咲さんは、焼跡の整理を少し手伝って下さった。
 整理がすんでから、私はお母さまからお金をいただき、百円紙幣を一枚ずつ美濃紙みのがみに包んで、それぞれの包みに、おわび、と書いた。
 まず一ばんに役場へ行った。村長の藤田さんはお留守だったので、受附うけつけの娘さんに紙包を差し出し、
「昨夜は、申しわけない事を致しました。これから、気をつけますから、どうぞおゆるし下さいまし。村長さんに、よろしく」
 とお詫びを申し上げた。
 それから、警防団長の大内さんのお家へ行き、大内さんがお玄関に出て来られて、私を見て黙って悲しそうに微笑ほほえんでいらして、私は、どうしてだか、急に泣きたくなり、
「ゆうべは、ごめんなさい」
 と言うのが、やっとで、いそいでおいとまして、道々、涙があふれて来て、顔がだめになったので、いったんお家へ帰って、洗面所で顔を洗い、お化粧をし直して、また出かけようとして玄関で靴くつをはいていると、お母さまが、出ていらして、
「まだ、どこかへ行くの?」
 とおっしゃる。
「ええ、これからよ」
 私は顔を挙げないで答えた。
「ご苦労さまね」
 しんみりおっしゃった。
 お母さまの愛情に力を得て、こんどは一度も泣かずに、全部をまわる事が出来た。
 区長さんのお家に行ったら、区長さんはお留守で、息子さんのお嫁さんが出ていらしたが、私を見るなりかえって向うで涙ぐんでおしまいになり、また、巡査のところでは、二宮巡査が、よかった、よかった、とおっしゃってくれるし、みんなお優しいお方たちばかりで、それからご近所のお家を廻って、やはり皆さまから、同情され、なぐさめられた。ただ、前のお家の西山さんのお嫁さん、といっても、もう四十くらいのおばさんだが、そのひとにだけは、びしびし叱しかられた。
「これからも気をつけて下さいよ。宮様だか何さまだか知らないけれども、私は前から、あんたたちのままごと遊びみたいな暮し方を、はらはらしながら見ていたんです。子供が二人で暮しているみたいなんだから、いままで火事を起さなかったのが不思議なくらいのものだ。本当にこれからは、気をつけて下さいよ。ゆうべだって、あんた、あれで風が強かったら、この村全部が燃えたのですよ」
 この西山さんのお嫁さんは、下の農家の中井さんなどは村長さんや二宮巡査の前に飛んで出て、ボヤとまでも行きません、と言ってかばって下さったのに、垣根の外で、風呂場が丸焼けだよ、かまどの火の不始末だよ、と大きい声で言っていらしたひとである。けれども、私は西山さんのお嫁さんのおこごとにも、真実を感じた。本当にそのとおりだと思った。少しも、西山さんのお嫁さんを恨む事は無い。お母さまは、燃やすための薪だもの、と冗談をおっしゃって私をなぐさめて下さったが、しかし、あの時に風が強かったら、西山さんのお嫁さんのおっしゃるとおり、この村全体が焼けたのかも知れない。そうなったら私は、死んでおわびしたっておっつかない。私が死んだら、お母さまも生きては、いらっしゃらないだろうし、また亡くなったお父上のお名前をけがしてしまう事にもなる。いまはもう、宮様も華族もあったものではないけれども、しかし、どうせほろびるものなら、思い切って華麗にほろびたい。火事を出してそのお詫びに死ぬなんて、そんなみじめな死に方では、死んでも死に切れまい。とにかく、もっと、しっかりしなければならぬ。

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本の朗読By 前川工作室


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