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『こちら葛飾区亀有公園前派出所』を一話ずつ読みながら、作中に登場するガジェットや風俗、「今も残っているもの/消えたもの」を記録して、昭和後半から現在までをたどるデータベースを作れないか、という話になります。
『美味しんぼ』とは別の、小さなサブプロジェクトとして進める予定……なのですが、問題は企画を思いつく人と、それを最後まで管理する人が同じとは限らないこと。そんな編集者体質の話から、なぜかテトリス、データの欠損、探検家の資質へ。今回も本編前から脇道がよく育っています。
山岡たちが訪れたうどん屋「力屋」は、近所に暴力団の事務所ができたことで客足が激減。一方、柔道家、プロレスラー、力士という三人のアスリートも、それぞれ競技生活の終わりを迎えようとしていました。
そこで山岡がやったのは、新しい能力を与えることではありません。すでに持っている力を、別の場所へ移すことでした。
柔道家とプロレスラーは身体の「腰」を壊し、力士は周囲との比較や挫折によって、いわば心の「腰」を失っている。そんな三人を、店を守る力が必要だった力屋へ結びつける。ここから山岡を「マッチングアプリ」ならぬ「山岡再生工場」として考えていきます。
能力とは本人だけに備わった固定的なものなのか。それとも、置かれた場所や評価基準によって「長所」にも「短所」にもなるのか。アスリートとして行き詰まった力が、うどん屋では店と共同体を守る力へ変わる。その配置転換こそ、この回の面白さではないかと考えます。
さらに落語「文七元結」などの人情噺とも比較。困っている人が別の困っている人を助け、その関係が次の救いにつながっていく構造にも注目します。
ただし最後には、「そもそも三人は本当にうどん屋になりたかったのか?」という少々厄介な問題も。本人の希望より、山岡や先輩たちへの信頼、切羽詰まった状況、既存の人間関係が進路を決めているのではないか。人を救うマッチングと、人の人生を勝手に配置することの境界についても話します。
終盤では、この回を連想させる別の落語・講談の力士出世譚へ。相撲取りのステレオタイプや昭和の力士像の話まで寄り道しつつ、改めて今回は「人情噺っぽくて好きな回」という結論に落ち着きます。
うどんの「腰」から、身体の腰、心の腰、そして人生の腰の据えどころまで。
能力そのものを変えるより、能力が生きる場所を変えた方がいいこともある。そんなことを考えながら、今回も最後は落語の小ネタとともに終了します。
暑い。疲れが取れない。
というところから始まった今回は、なぜか「疲れないためには、力を入れるところと入れないところを決めたほうがいい」という、わりとちゃんとした話になります。
とはいえ、そこからすぐ空調服の話へ。
カインズ、ワークマンを経由し、最終的に作業服屋さんでいろいろ試着した結果、バートルの空調服を購入。スーパーの地下食品売場に入ると、服の中に冷気が送り込まれて最高らしい。見た目はビバンダム君とか北斗の拳みたいになりますが、涼しいので問題ありません。
その後は静岡で食べた寿司から、「大人になるとマグロ丼という単色の選択をしなくなるのではないか」という、よく分からない大人論へ。
さらに、自炊したカレーにウインナーを入れると、カレー全体がウインナー味に支配されることを発見します。シャウエッセンは強い。
そして結局、うなぎが食べたい。
食べ物の話をしているようで、ほぼ「夏をどうやって乗り切るか」の話です。
途中からは、歯が抜けたらどうする、頭ごと取り替えればいい、アンパンマンの身体にメロンパンナちゃんの頭は装着できるのか、ジャムおじさんはそのあたりをきちんと検証しているはずだ、という話になります。
暑さのせいだと思います。
今回取り上げるのは『美味しんぼ』の「旅先の知恵」。
東西新聞文化部の社員旅行で、一行は伊豆の架空の温泉地「白川温泉」へ向かいます。
ところが、ライバルの帝都新聞は巨大なトロピカルホテルで豪華な宴会。一方の東西新聞は昔ながらの民宿です。
しかも、その日の魚はホテル側にほとんど買い占められていて、民宿には肝心の海の幸がない。
そこで登場するのが、電車の中で山岡と酒を飲んでいた漁師のマッサン。
「浜鍋やるだよ」
高級魚ではなく、その辺で獲れた小魚やワカメ、野菜を酒と味噌で煮て、みんなで浜辺を囲んで食べる。
これが、ものすごくうまそうなのです。
考えてみれば、この回は「高級なものより素朴なもののほうが美味しい」という、いつもの『美味しんぼ』的な話だけでもありません。
トロピカルホテルと民宿。巨大資本によるリゾート開発と、そこに昔からある土地の暮らし。
放送当時なら、おそらくホテルのほうが「新しくて豪華」だったはずです。でも2020年代の私たちから見ると、むしろ古い民宿で、浜辺で鍋を作ったり、竹林で掘ったばかりのタケノコを刺身にして食べたりするほうが、ずっと贅沢に見える。
価値というものは、案外簡単にひっくり返ります。
あと今回は、トミーこと富井副部長がかなり主役です。
魚が出ないと知って泣き、浜鍋を食べて機嫌を直し、ライバルに一言余計なことを言う。
相変わらず感情の上下動が、小学生ぐらい激しい。
漫画とアニメの違いも見ていきます。アニメではお風呂のサービスカットが追加され、漫画で「赤板」だった帝都新聞の人物は「赤坂」に変更。
そしてマッサンが持ってきた鯛を、玄関に「ドチャッ」と置く。
食のうんちくより、旅先で何をどう食べると楽しいのか。
タイトルの「旅先の知恵」は、案外そこなのかもしれません。
収録の最後は、山田五郎さんの話になりました。
『出没!アド街ック天国』の映像を見て、元気だった頃の姿がまだ普通に残っている。
当然ですが、人がいなくなっても、映像や音声は残ります。
山田五郎さんが最後まで番組を続け、『メメント・モリ』について話して終わったことから、話はだんだん「自分たちはどう終わるのか」という方向へ。
そこで出てきた結論が、
「『美味しんぼ』136話をちゃんと全部やってから死のう」
でした。
かなり小さなメメント・モリですが、私たちにはそのくらいがちょうどいい。
ただ、人間はいつどうなるか分からないので、後継者も決めておいたほうがいい。ということで、娘にこの番組を継いでもらえばいいのではないか、という話まで進みます。
番組というものは、始めるより、続けるほうが難しい。
でも「永遠に続ける」と考えると嫌になりますが、「あと何話」と考えれば、少しだけ現実的になります。
とりあえず136話。
そこまでは、うなぎでも食べながら生き延びたいと思います。
※『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』本編のネタバレを含みます。
ハチワレは、なぜ「みんなを助ける」ではなく、「島を守る」と言ったのでしょうか。
島民は現在の暮らししか知らない。
セイレーンは、失われた一人の側から島を見る。
ちいかわたちは、目の前の危機に反応する。
そして劇場の観客だけが、それぞれの事情を少しずつ見せられています。
しかし、観客には何もできない。
五丁目ラジオ第140回は、『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』を観た二人が、かわいかった場面を振り返りながら、なぜか次第に倫理学と神話の沼へ入っていく「ぼんやり感想会」です。
今回話したこと
・ハチワレの「島を守る」という台詞への違和感
もっとも、最終的な結論はだいたい、「みんな無事に帰れてよかった」「ちいかわは可愛かった」です。
薪能、ガンダム、ヘーゲル、Studio One、そして『美味しんぼ』の同人誌。一見すると何の集まりなのかよく分からない話題が、今回は「自分の経験を、どう作品に変えていくのか」という一本の線でつながっていきます。
寒空の下で鑑賞した薪能の話からスタート。
ヘーゲル『美学講義』を読む「最高ゼミ」は、詩と歴史記述、弁論術の違いから始まります。歴史は、実際に起きた出来事から離れられない。弁論術は、法廷や政治の場で相手を説得するという目的から逃れられない。それに対して詩は、現実をそのまま報告するのではなく、詩人の内面を通して世界をもう一度組み直すことができる。そこで浮かび上がるのが、ヘーゲルの少し意外な見方です。出来事のただ中にいて、喜怒哀楽に激しく振り回される若者よりも、多くの経験を経て、世界と少し距離を取れるようになった老年期のほうが、優れた詩を生み出せるのではないか。もちろん、年を取れば自動的に名作が書けるという、そんな便利な年金制度のような話ではありません。重要なのは、情熱がなくなることではなく、情熱をそのまま叫ばず、ひとつの形にできることです。ゲーテやホメロスを手がかりに、創作者が自分の経験から距離を取り、それを作品へ変える地点を探っていきます。
後半は、自分たちが制作している『美味しんぼ』のZINEを、どうすればもっと多くの人に届けられるのかという話へ。
薪能の獅子をガンダムとして見ることも、ヘーゲルを読みながら自分たちの同人活動を考えることも、たぶん同じ営みです。
古典をありがたく拝むのではなく、自分たちの日常へ勝手に引きずり下ろし、使える言葉に作り替える。第139回は、伝統芸能と哲学を経由して、「創作は若さでするものなのか」「続けるとは何なのか」を考える回です。
今回は、唐突な改名宣言から始まり、文学フリマの売上報告を経て、ヘーゲル『美学講義』の「詩」へ突入する回です。
「シナモンロール松井」だの「ベイクドチーズケーキ☆TASAKA」だのと言っているうちに、気づけば建築、彫刻、絵画、音楽、詩という芸術の発展をたどり、最後は「歴史とは居抜き物件の連続ではないか」という、妙に使い勝手のよい結論にたどり着きます。
哲学の話ではあるのですが、入り口は文フリのTシャツ在庫と池袋演芸場です。
この落差がひどい。ひどいけれど、たぶんヘーゲルも油断していたところから精神は現れるのです。
オープニングは、いきなりの改名宣言から始まります。
その名も「シナモンロール松井」。ドラァグクイーンのリングネームなのか、町中華の新メニューなのか、よくわからない名前で番組が転がり出します。
続いて、文学フリマの報告へ。
『今日の士郎』関連の頒布は過去最高の30冊突破といううれしい結果に。一方で、Lサイズしか作らなかったTシャツが見事に売れ残るという、商売の神様が小声で「サイズ展開って知ってる?」と囁いてくるような展開もあります。
さらに収録後に向かう池袋演芸場の話、寄席の出囃子、YOASOBI『アイドル』を三味線でやったらどうなるか、という話題へ。
文フリ、Tシャツ、寄席、改名。どれも一見ばらばらですが、共通しているのは「名前をつける」「場に出す」「人に見られる」ということです。ヘーゲルに行く前から、すでに精神がちょっと外に出たがっています。
コーナー「あらいごうゼミ」では、ヘーゲル『美学講義』の「詩」の章について上妻がお話しをしています。
まずは、ヘーゲルが芸術をどう並べているのかを確認。建築、彫刻、絵画、音楽、そして詩。芸術はだんだん物質の重さから離れ、人間の内面に近づいていく。
建築は、石や木でつくられた巨大な器です。ここで飛び出すのが「建築は神様向け賃貸物件である」という、今回の目玉ワード。
神殿も寺院も教会も、建物そのものが神というより、神や意味を迎え入れるための箱です。つまり、中身は後から入る。場合によっては入れ替わる。神様も、案外、居抜きで入居してくるわけです。
彫刻では、精神が美しい身体を得ます。絵画では、物質の厚みが減って、光や色によって内面や気配が描かれます。音楽では、外の形はほとんど消え、感情や気分が時間の中で直接響きます。
そして詩では、ついに素材が「言葉」になります。石も大理石もキャンバスも音もいらない。言葉によって、聴き手や読み手の頭の中に舞台が立ち上がる。これが「内部の劇場」としての詩の強さです。
ただし、ここが少し危ないところ。
詩は自由すぎる。何でも語れてしまう。すると、芸術はだんだん哲学や宗教に近づいていき、感覚的な美から離れていきます。つまり、詩は最強の芸術であると同時に、芸術そのものを解体してしまうかもしれない。自由になりすぎた芸術が、芸術である理由を失いかけるわけです。
大事なのは、「詩が一番すごい」で終わらないこと。
物質から自由になることは、たしかに精神の勝利です。でも同時に、石の重さ、音の響き、エフェクター3kgのだるさ、そういう現実の抵抗も失ってしまう。全部が言葉になると、世界は説明しやすくなるけれど、少し泳がなくなる。魚を解剖すると構造はわかる。でも、その魚はもう泳がない。ヘーゲルを読む面白さは、この勝利と喪失が同時に見えてくるところにあります。
エンディングでは、コーナーで出てきた「建築は神様向け賃貸物件」という話が、さらに広がりと奥行きを持ちます。
ギリシャの神殿が別の宗教施設になったり、パチンコ屋がコンカフェになったり、店の看板だけ変わって中身が別物になったり。歴史とは、もしかすると壮大な居抜き物件の連鎖なのではないか、という話です。
笑い話のようでいて、けっこう使える視点かも。
制度も、建物も、文化も、完全にゼロから作られることは少ない。多くの場合、前の時代の器を使い回しながら、中の意味だけを入れ替えていく。神様も、商売も、サブカルも、だいたい居抜きで始まるのかも。新築の顔をして、実際には前の借主の匂いが少し残っている。社会とは、そういう内装工事の連続なのかもしれません。
そして、「詩の次には何が来るのか」という問いへ。
ヘーゲル的には、芸術は詩によって精神の自由に近づき、その先で哲学へ向かっていくことになります。けれど現代の私たちは、ポッドキャスト、動画、SNS、同人誌、寄席、Tシャツ、全部を混ぜながら生きている。詩の次に来るものは、きれいな新ジャンルというより、居抜きされたメディアの雑居ビルなのかもしれません。
最後は「ベイクドチーズケーキ☆TASAKA」の挨拶でお別れです。
ヘーゲルの話をしていたはずなのに、終わってみれば、文フリと寄席と居抜き物件の話になっている。けれど、それこそが五丁目ラジオらしいところです。難しい思想をありがたい額縁に入れるのではなく、いったん日常の畳に転がしてみる。すると、意外とまだ動くんですよね。魚も、たまには解剖台から逃げる。
第136回と同日収録の続きです。
前回が「150円の風呂とリック・ドム」だったとすれば、今回はそこから一段深く潜って、鯨問題、メタル、PA、うなぎ、政治、文楽、そして正義の商売化まで行ってしまう回です。
話の始まりは、ライブ後の活動限界。
ビールを一口飲んで、ようやくエントリープラグが抜けた身体に電源が戻ってくる。そういう疲労感のなかで、なぜか唱えられる「ベントラ・ベントラ」。疲れている人間の話は、だいたい宇宙人を呼ぶところから始まるのかもしれません。
オープニングでは、ライブ後の虚脱感、活動限界、そして音をめぐる信頼の話へ。
ライブ後の一杯でようやく身体が戻ってくる感覚を、エヴァの内蔵電源みたいに語りながら、話はヘビーメタルと「耳利き」の問題に向かっていきます。
ポイントになるのは、日本が誇るPAエンジニア・内田直之さんの存在です。
ライブ中の即興的なダブミックス、音の飛ばし方、そしてスレイヤー『サウス・オブ・ヘブン』への評価。「あの人が言うなら聴いてみよう」と思わせる耳の信頼が、ここではかなり重要な話として出てきます。
情報が多すぎる時代に、結局頼りになるのは、検索順位でもおすすめ欄でもなく、「この人の耳なら信用できる」という身体感覚なのかもしれません。
スレイヤーの暴力的な音像が、実はものすごく精密に作られているという話は、浦和の中村屋の二段うなぎみたいなものです。開けたら上にうなぎ、掘ったら下にもいる。暴力と贅沢は、たまに同じ顔をします。
今回の『美味しんぼ』コーナーは、「激闘鯨合戦」の続きです。
前回は、鯨を食べる文化と動物愛護の正義が正面衝突するところまででしたが、今回はその裏側にある、もっと生臭い構造が見えてきます。
登場するのは、反捕鯨団体「クジラ十字軍」。
一見すると、鯨を守るための正義の団体に見えるわけですが、その副会長ワット氏は、高級ホテルでシャンパンを飲みながら、鯨は資金集めの看板にすぎないと語ります。日本を野蛮だと叩くことで、欧米から金が集まる。つまりここで描かれているのは、正義そのものではなく、「正義が集金装置になる瞬間」なんですよね。
もちろん、これはかなり極端な描き方です。けれど、少しひねくれた見方をすれば、現代のSNS的な炎上ビジネスにも通じる話です。わかりやすい悪者を作り、怒りを集め、支持と資金を動かす。鯨は鯨である前に、運動のシンボルにされてしまう。
そこへ、角丸副総理と海原雄山が関わってきます。
文楽の人形に使われる鯨の髭。日本の伝統文化と鯨との関係。エスキモーには捕鯨を認めながら、日本の捕鯨は野蛮だとする論理の不均衡。ここで『美味しんぼ』は、食文化の話から、国際政治と文化の尊厳の話へと一気に広げていきます。
ただし、ここで面白いのは、『美味しんぼ』が単純に「日本は正しい」とだけ言っているわけでもないところです。
鯨をめぐる正義のぶつかり合いのなかで、文化を守る側も、環境を守る側も、それぞれに権力や欲望や面子を背負ってしまう。正義はきれいな顔をして登場しますが、裏に回ると、だいたい財布と名誉と支配欲が座っています。位置どりが決めにくい、三人掛けソファです。
エンディングでは、「今日の士郎」シリーズと、五丁目ラジオそのものの立ち位置へ話が戻っていきます。
スレイヤーを聴いて驚き、二段うなぎに喜び、鯨問題の政治性に腹を立てる。そういう一見ばらばらな話が、実は全部「何を信じるか」「誰の目利きに乗るか」という問題につながっているんですよね。
「今日の士郎」は、単なる『美味しんぼ』感想ではなく、食と正義と昭和的な面倒くささを掘り起こす文化アーカイブでもあります。関西でZINEが好評だったという話も、ただ売れたというより、まだどこかに山岡士郎的な偏屈さを求めている人がいる、ということなのかもしれません。
大人になっても、私たちは案外ずっと放課後の部室にいる。
メタルの音、ラジオのノイズ、マンガの一コマ、政治家の変な啖呵、うなぎの湯気。そういうものを持ち寄って、「これって何だったんですかね」と話し続ける場所が、五丁目ラジオなのだと思います。
第137回は、鯨問題の解決編でありながら、正義がいかに商売になり、文化がいかに政治の道具になり、それでも人はなぜ「信頼できる耳」を探してしまうのかを考える回です。
重い話のはずなのに、最後はどこか放課後っぽい。そこが、まあ、五丁目ラジオなのかもしれません。
年度末のざわざわした空気のなか、大阪・名古屋ツアー帰りの滞空時間を引きずったまま始まる第136回です。
世の中は3月31日というだけで妙に帳尻を合わせたがるわけですが、こちらはまだライブの余韻と、メール返信の間合いと、栃木の静かな宿の記憶のなかを漂っています。
大阪のフェス「六感音祭」では、トリプルファイヤー、踊ってばかりの国などが並ぶなか、トップバッターの銀シャリが漫才で会場をつかむという事件がありました。音楽フェスにおける漫才って、場違いなようでいて、むしろ場の空気を一番冷静に測っている感じがあるじゃないですか。そこで見えてくるのは、ライブの熱狂だけではなく、「人と人との反応の仕方」みたいな、案外やっかいな問題なんですよね。
オープニングでは、年度末の落ち着かなさ、大阪・名古屋ツアーの余韻、大阪フェス「六感音祭」の話から、メール返信をめぐる感覚の違いへと話が広がっていきます。
「問題なければ返さない」「ノーリプライならOK」という態度は、ただの無精なのか、それとも現代の即レス圧から自分の時間を守るための小さな技術なのか。
さらに、栃木県塩谷町の自然休暇村にこもった話へ。1泊3,300円、入浴料150円。論文を読むための缶詰合宿のはずが、鞄にはリック・ドムのガンプラ。ネギ間とうどんを煮て、よくわからないWi-Fiのなかでモノアイを光らせる。
知的生産と現実逃避は、本当に別物なのか。まあ、机に向かう人間の横には、たいてい別の欲望が座っていますよね。
今回取り上げるのは、『美味しんぼ』アニメ第27話「激闘鯨合戦(前編)」です。
テーマは、鯨を食べる文化と、動物愛護の正義の衝突。昔の話のようでいて、今見るとかなり現在形の問題に見えてくる回です。
外国人板前のジェフは、「知能の高い動物を食べるべきではない」という立場から、鯨食に反対します。そこで山岡士郎は、食文化の相対性を説きながらも、最終的にはジェフに鯨を食べさせ、「美味しい」と言わせてから正体を明かすという、なかなか危険な手を使います。
正義と正義がぶつかる話に見えて、実際には「相手をどう説得するのか」「相手の信念を壊してよいのか」「文化を守る側は本当に穏健なのか」という、かなり嫌な問いが顕出。
山岡は正しいことを言っているようで、やり方はだいぶひどい。けれど、そのひどさ込みで『美味しんぼ』を読んでしまう。ここがまた困るところです。
鯨料理をめぐる食文化論でありながら、気づけば、正義の押しつけ、文化相対主義、コンプライアンス以前の昭和的説得術まで見えてくる。
「食べればわかる」という言葉の裏側に、けっこう暴力的なものが潜んでいる回です。
エンディングでは、大阪のフェスで『今日の士郎』が完売した話から、関西圏における『美味しんぼ』需要の可能性へ。
銀シャリの漫才で沸く大阪の地で、山岡士郎の偏屈な正義をめぐる冊子が売れていく。これはただの物販の成功というより、「食と正義と、ちょっと嫌な気持ち」への需要が、まだまだ地中に眠っているということなのかもしれません。
そして最後は、なぜかコーラとゲップの話へ。
正義を語り、文化を論じ、ガンプラを作り、鯨を食べる。けれど人間は、最後には炭酸で体が鳴る存在でもあるわけです。どれだけ立派な理屈を並べても、身体は「プスッ」と現実へ戻してくる。
第136回は、年度末の疲れ、ツアーの余韻、返信しないメール、150円の風呂、リック・ドム、鯨合戦、そして宇宙的なゲップが、妙な角度で一本につながる回です。
正義とは何か。休むとは何か。人はなぜ、論文を読むための宿にガンプラを持っていくのか。
答えは出ませんが、聴くと少しだけ、自分の中の面倒くさい部分が肯定されるかもしれません。
というわけで……今回もお時間の許す限り、どうぞ最後までお付き合いください。
第135回の五丁目ラジオは、いきなり埼玉の車文化から始まります。
シャコタン、ハの字のタイヤ、夏場に履き潰されるスタッドレス。そして、なぜか見る「タイヤがパンクする夢」。普通ならそこで「疲れてるんじゃない?」で終わる話なんですが、五丁目ラジオはそこからなぜか文楽へ行くんですよね。道路とタイヤの摩擦から、人形浄瑠璃の浮遊感へ。地面をこすっていた話が、急に舞台の上でふわっと浮く。変な道筋なんだけど、聞いていると妙に筋が通ってくるのが怖いところです。
文楽の蝶が「バサバサ」と舞う。本能寺の変に不吉な気配を差し込む。人形なのに、むしろ人間より自由に動く。重力から解放された身体というか、足が地面に縛られていない感じがある。そこに伊藤せいこうさんの文楽案内の話も重なって、伝統芸能というより、かなり高度なフィクションの身体論みたいになっていきます。最新のガンダム作画と文楽が、同じ「浮遊感」の話として並ぶのも、この番組らしいところですね。
「あらいごうゼミ」では、ヘーゲルの『美学講義』を手がかりに、音楽とは何かを考えていきます。
ただし、いきなり哲学書を開いて難しい顔をするわけではありません。落語の「八っつぁんとご隠居」みたいな掛け合いで、ギターの名人が職工だったからといって、自分も機織り機を持ち込めば音楽家になれるのか、という、かなりひどいようでいて案外本質を突いた話から始まります。道具を持てば芸術になるのか。楽器とはただの物なのか。それとも、そこに精神が入り込んだとき、初めて音楽の器官になるのか。
ヘーゲル的に言えば、音楽は言葉の意味に従属するところから、音そのものが自由に動き出すところへ向かう。歌詞にくっついている音楽から、器楽のように、音だけで内面を動かす音楽へ。メロディとは、ただ気持ちを叫ぶことではなく、叫びが秩序を持ち、形を与えられたものなんだと思うんですね。魂の叫び、と言うと急にロック雑誌みたいになりますが、ヘーゲルを通すと、それがちゃんと芸術哲学の話になる。便利ですね、ヘーゲル。雑に使うと危ない薬味みたいなものですが。
終盤では、音楽を「完成した作品」としてではなく、「その場で立ち上がる出来事」として見ていきます。楽譜は設計図であって、まだ音楽そのものではない。演奏者がそれを鳴らした瞬間に、記号が時間の中で動き出す。だから音楽は、絵画や彫刻のようにそこに置いてあるものではなく、鳴ったそばから消えていく、一回きりの芸術なんですよね。
ここで出てくるのが、イングヴェイ・マルムスティーンやヴァン・ヘイレンに象徴される名人芸の話です。速く弾けるから偉い、というだけではなく、楽器という物質を、演奏者の精神がどこまで貫けるか。安いギターであっても、弾く人の内面がそこに通ったとき、ただの道具が「魂の音」を出し始める。もちろん、これは少し大げさな言い方かもしれない。でもライブを見ていて、機材の値段では説明できない瞬間があるのも確かなんですよね。
最後に、告知です。日常のどうでもよさそうな話から、なぜか芸術や社会や『美味しんぼ』の深部へ潜っていく感じに心当たりのある方は、ぜひ文学フリマ東京42にもお越しください。
2026年5月4日、東京ビッグサイト南1・2ホール、W-28「銀河美味しんぼ学会」にて、アニメ『美味しんぼ』を一話ずつ読み直す批評本『今日の士郎 美味しんぼ完全感想シリーズ』を頒布予定です。
料理、職場、家族、昭和末期、そして山岡士郎という名の少し面倒な自由人。五丁目ラジオで話していることと、たぶん地続きです。
つまり、タイヤの夢からヘーゲルへ行ける人なら、士郎から公共哲学へ行く道も、わりとすぐそこにあります。道は舗装されていませんが。
というわけで……今回もお時間の許す限り、どうぞ最後までお付き合いください。
「バレンタインおめでとうございます」ではじまる第134回。コミケの既刊が山積みになるみたいな生々しい創作の現実から入って、バレンタインの妙な不穏さを経由して、『閃光のハサウェイ』の映像や音の手触りに行き、最後はヘーゲル美学まで届いてしまう。普通なら散らかりそうな話題が、全部「内面ってどう表れるのか」という一本の線でつながってるというわけです。はい。
冒頭のバレンタインの話も、単なる季節ネタじゃないんです。手作りチョコの裏に毒物混入サスペンスを幻視するみたいな、日常をそのまま信じない視線があって、その違和感がそのまま『閃光のハサウェイ』批評につながっていく。とくにガンズの『Sweet Child O’ Mine』が鳴ったときの、あの妙な終わった感、カタルシスですね。あれを、ただの挿入歌じゃなくて、身体でくる感触として捉えてるのが面白いんです。一方でギギ・アンダルシアの人物造形にはかなり冷たくて、古典的すぎる男女像の雑さに違和感を突きつけている。このへん、結末のネタバレじゃなくて、作品の肌触りそのものを批評しているのが上手いんですよね。
「あらいごうゼミ」では、ヘーゲルの音楽論が扱われます。ヘーゲルは、音楽をいちばん内面に近い芸術だと考えるわけですが、その理由が面白くて、音って鳴いた瞬間から消えていくじゃないですか。外に固定されず、生成と消滅を同時に抱えている。だからこそ、抽象的な主観性、つまり内面の表現にふさわしいという話になる。さらにリズム、和声、メロディという要素を通して、不協和音すら精神の対立や痛みとして読む。で、それを乗り越える運動がアウフヘーベンみたいに見えてくる。つまり音楽そのものが、精神の弁証法として理解されているわけです。ここを現代の感覚で読み直してるのがすごく面白かったです。
最後のエンディングでは、難しい文献をどうやって短いトークに圧縮するか、という知の裏側も語られます。詳細なメモより、電車の中みたいな負荷のある環境で、ページの位置ごと身体で覚えるという話が出てきて、これが面白いんです。知識を外に保存するんじゃなくて、自分の中に沈めていく感じなんですよね。しかもヘーゲルを情報としてじゃなく、「文章の味」として読むと言う。この姿勢がすごく大事で、結局この回は、サブカルと哲学の話をしているようでいて、知識をどう自分の声に変えるか、という話まで行っている。そこがこの回のいちばん楽しかったところだと思います。
最後に、告知です。銀河美味しんぼ学会、次は 2026年3月8日(日)開催の「サンシャインクリエイション 2026 Spring」 に出展します。会場は 池袋サンシャインシティ ワールドインポートマート4F A23ホール、時間は 11:00~15:00。2巻を読むと1巻もつい読みたくなる、いつもの雑談をそのまま持っていきます。当日はぜひ、♭遊びに来てください。
というわけで……今回もお時間の許す限り、どうぞ最後までお付き合いください。
『五丁目ラジオ 第133回』のオープニングは、文学フリマ(文フリ)での自由時間に上妻が感じた「買い手としての心理」についてのトークから始まります。
魅力的なブースがいっぱいあって「見たい」と思うのに、女の子に「よかったらどうぞ」と声をかけられると、怖くて目を合わせられない……。 そんな「自分が物を見ている時に、売り手に見られるのが苦手」という実体験から、次回の出店ではブースに「のれん」を立てて、自分たちの顔を隠してみてはどうか?というアイデアを披露しています。
のれんの文字は『美味しんぼ』にちなんで「岡星」にするか、それとも「鯛ふじ」にするか? 書体や枚数にこだわる「岡星のれん問題」に触れつつ、最初は怖い店だった「寿司とも」もあれだしなぁ…、という理想のブース作りについて楽しく語っています。
毎度お馴染み、流浪の番組『今日の士郎』では、テレビ再放送なし、配信サイトでも欠番。幻のエピソード『美味しんぼ』第26話「食べない理由」を徹底解剖。
「私は食べない。スリルがないからだ」 美食の会に参加しておきながら、頑なに料理に口をつけないデパート社長・稲森。彼はなぜ「食べない」のか? 山岡士郎がその堅牢な城壁を崩すために持ち出したのは、伝説の中華スープ「ファッチューチョン(仏跳牆)」でした。
今回の配信では、単なるストーリー紹介にとどまらず、以下の「深読み」ポイントについて激論を交わしています。
なぜこの回は「封印」されたのか? 物語の鍵となる「化学調味料」の扱いか、それとも食材として登場する「ハクビシン」か? 時代背景から読み解く大人の事情。
「飲む」と「食べる」の境界線 頑なに固形物を拒否していた社長が、スープなら口にした理由。それは果たして「食べた」ことになるのか?
美談の裏に潜む「利己主義」 表向きは「病気の妻への願掛け」という美しい夫婦愛で終わるこの物語。しかし、社長の言葉を丁寧に拾っていくと「スリルさえあれば妻の存在はどうでもいいのではないか?」という戦慄の可能性が浮上します。
もし、この食事会の翌日に奥様が亡くなったら、社長はどう行動するのか? 二人が導き出した、原作よりも少しだけブラックな「本当の理由」は、ぜひ本編でお確かめください。
エンディングでは、物語に登場しない「栗田家の祖父」の正体について、想像を膨らませます。
ここで、告知です。銀河美味しんぼ学会、次は 2026年3月8日(日)開催の「サンシャインクリエイション 2026 Spring」 に出展します。会場は 池袋サンシャインシティ ワールドインポートマート4F A23ホール、時間は 11:00~15:00。2巻を読むと1巻もつい読みたくなる、いつもの雑談をそのまま持っていきます。当日はぜひ、♭遊びに来てください。
というわけで……今回もお時間の許す限り、どうぞ最後までお付き合いください。
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