あまりにも仕事が忙しくて1ヶ月以上も止まってしまいましたが、更新再開します! というわけで今回は、『ブルシット・ジョブ』(2018年)などの著作でも日本で注目された人類学者デヴィッド・グレーバーの主著とされる『価値論』(2001年)がテーマ。グレーバーは資本主義をどう捉え、その乗り越え方をどう構想していたのか? 小池さんのレジュメとともに読み解きます。
Photo: Unsplashのnrdが撮影した写真
・著者は、『負債論』(2011)そして『ブルシット・ジョブ』(2018)などの著作でその名を世界中に轟かせ、2020年9月に急逝したアメリカの人類学者デヴィッド・グレーバー。日本でも文化人類学はもちろん、哲学から経済学、あるいはデザインまで幅広く影響を与えている。本書の帯に「21世紀の『経済学批判』」と書かれているが、現代の資本主義社会=企業社会を考えるうえで、最重要な著作の一つと言える。
・本書は、そんなグレーバーが2001年に出版したデビュー作。グレーバーが博士論文の出版を後回しにしてまで自身の課題に取り組んだ「最初の主著」であり、またその後のあらゆる著作に展開される彼のライフワークともなった「価値の総合的理論の構築」へ向けた「最初の一歩」。にもかかわらず、本書が刊行される2022年12月まで、邦訳が出ていなかった。シカゴ大学人類学科でグレーバーと同僚だった藤倉達郎氏の翻訳によって、2022年12月にようやく刊行。
・だが、デビュー作にして最も難しく、読みづらいと言われる。オーストラリアの著名人類学者クリス・グレゴリー氏による書評によると「『価値論』は彼が書いた本のなかで、間違いなく、いちばん難しい本である。正直にいうと、私は、『アナーキスト人類学のための断章』(2004=2006)と、『直接行動 Direct Action』(2009)と、『負債論』(2011=2016)と、『ブルシット・ジョブ』(2018=2020)を読んだあとで、やっと、『価値論』の中心となる議論を理解しはじめることができた"
・まず手始めに、アウトラインを掴むため、いくつか識者による概要紹介を挙げておく。
・政治思想史研究の大家である重田園江氏によると、「グレーバーの狙いとして、遠くには「等価交換」批判がある。彼は、等価交換の場として表象される市場、そして市場をモデルとして編み出される資本主義社会を相対化するために、「等価交換の場としての市場の人間関係をモデルとしない社会」を、具体例を挙げて描出していく」。
・あるいは、経済学者の服部茂幸氏によると「本書は、大切なのは究極的にはモノではなく行為だと前提して、人類学における価値の理論を作ろうとする意欲作である。この問題は、世界には完全に固定された形態ということがあり得るのか、逆に万物は流転しているのかという古代ギリシャにさかのぼる哲学的な論争とも関係する」
・そんなことも踏まえつつ、専門家でもなんでもない、企業社会の隅っこにいる3人で、勝手気ままに読んでいく。全7章だが、今回は第2章まで。
・人類学的な価値理論への貢献を目指した本。社会によって異なる意味体系の理解のみならず、「このようにありたい」「このような状況を実現させたい」という欲望に導かれた行為までをスコープに、すなわち「意味の体系」と「欲望の理論」を橋渡しする。
・また本書は、政治的冊子でもある。1980年代以降のポストモダニズム批判。これらは集合的な政治行動に否定的で、結果的に新自由主義と親和的になり、現実的なオルタナティブを見いだせていない。
・そこで価値理論から始めて、「新自由主義の哲学とでも呼ぶべきもの、すなわち人間の条件に関して新自由主義が基本的な前提としているものへの代替案」を探す。人類学者のみならず、理論と政治的関与とを架橋しようと苦闘している人たちのために──「人類のための、そして新自由主義に対抗するための」という申し立て。
・その背景にある、「価値」に関する3つの考え方の流れ。
価値=モノが欲求される度合い。他の人びとがそれを手に入れるために、どのぐらいのものを差し出す用意があるか。
・これらは基本的に別々のディシプリンで議論が蓄積されてきたが、「究極的には、これらは同じものの、異なる現れ方なのである」。「人生の意味」も、冷蔵庫のセール価格も、言葉の「意味」も、まったく別の話ではない。3つそれぞれについての人類学的考察の歴史を振り返ると、一つのみにフォーカスしすぎたせいで困難に陥ったことがわかる。
・この章で伝えたいことは基本的に以上。後は3つそれぞれについて、学術的議論の経緯と限界に直面した経緯が整理されている。
①1940-50s、クラックホーン(人類学)らの挑戦と挫折。理念のシステムを比較しようとしたが、理念がいかにしてシステムの構成要素となるかについての理論的モデルがなかった。構造主義前夜ゆえの挫折。
②1960s。経済学における「合理的経済人」(利益を最大化する個人)という概念の限界。あらゆる社会関係をモノに還元しても、「なぜあるモノが他のモノよりも大きな喜びを与えるのか」は説明できない。他方、こうした「形式主義」を批判した1960sの経済人類学における「実体主義」は、経済的最大化の原則に基づいていないような交換と分配を発見したが、「分類法をつくり出していただけだった」。
③1970s-80s。ソシュール以降の構造主義。サーリンズ(人類学)の挑戦と挫折。言葉の意味と同じように、価値をシステムの中の差異としてみなす。しかし、これでは人々の価値判断のメカニズムを解明できない。フランスのデュモン派人類学は、①〜③の統合の可能性を見せたが、「全体的」な社会に限った分析であり、個人主義的な西欧近代社会を説明できず。
・このジレンマを無視し、人類学は1980s以降、他の話題に移っていった。価値の理論に関する議論は「もう終わった」という感覚が一般的になった。
⇛議論の前提の学説史整理ではあるが、本筋とは離れた部分においても示唆は小さくない。たとえば、「合理的経済人」モデルはいまだビジネス現場で当たり前のように語られ、実践の根拠になっているように思える(デジタルマーケなど)。また、「実体主義」の陥った「分類法」化についても、昨今の人類学ブームではあまり議論されていないように思える。
・第一章で描いたジレンマ(とりわけ形式主義vs実体主義)が未だ解決されていないということを、現代に至るまでの交換理論をレビューすることで示す。
・1960sの「批判理論」、そして1970sの「生産様式」論をはじめとするマルクス主義人類学など、人類学にもマルクス主義の影響。
・1980s以降にマルクス主義の反動として現れた、二つの交換へのアプローチ。①「創造的消費」研究と組み合わさった、経済的形式主義の復活 ②ネオ・モース学派。
①ポスト構造主義の限界。ブルデューの形式主義化。ブルデューを乗り越える、アパドゥライの「価値の政治」。その商業主義的な帰結。
②前段としての、ワイナーによる「譲渡不可能なモノ」論。ストラザーンによるネオ・モース派アプローチ。ソシュール的な価値の観念、モノの固有な由来かは価値を考える。しかし、普遍化が難しい。
・結局、交換理論は同じ難問に繰り返し直面している。経済学者たちが提示するような価値をとるか、ソシュール的な意味ある差異という観念をとるか、という選択。
・しかし、他のアプローチも提起されている。ナンシー・マンによる「行為の価値」論。価値は社会関係の網の目ではなく、行為のなかから出現する。(「二つの理論」が棄却してきた)マルクスの労働価値説の延長線上ではあるが、マンは「労働」をより広く捉える。価値とは人びとが自分自身の行動の重要性を、他者の認識のもとで、自らに示す方法(cf.クラ交換)。
・エコノミズムの焼き直しも、ソシュール的な「有意味な差異」の変形版も、評価されているものは「静的」である。他方、マンは行為の、隠された生成的な力から始める。問われるべき価値は、社会関係をつくり出す力。可視性ではなく潜在性。価値とは、「社会関係の網の目のなかにすでに存在する、公的な認知の手続き」ではなく、人びとが「自らの行為の重要性を、まさに行為のただなかにあって、評価する方法」であり、「万人が共通して有する、人間的能力に根ざし」た「社会的な過程」。
⇛ハイデガーの存在論を思い出す。プラトン的伝統の制作的存在論を転覆する、ソクラテス以前/アリストテレス的な、生成的存在論。これはエンパワーメントなのだろうし、だからこそグレーバーが2010年代以降、相性がよい?