あなたは、神様に用いられたいと思っているでしょうか?
自分の賜物を用いて神様のお役に立ちたいという願いがあることは、自然なことです。そして、それはとても素晴らしいことです。
モーセもまた、そのような思いを抱いていたと思います。モーセは、エジプトの王子としてパロの娘に育てられました。しかし、イスラエル人としてのアイデンティティーを失うことなく、「いつか神様は、この奇遇な運命にある自分をお用いになるはずだ」と思っていたのではないでしょうか。
ところが、モーセは神様に用いられる準備が出来ていませんでした。それは、彼には手放さなければならないものがあったからです。
神様に用いられるために手放さなければならないものは、3つあります。
① 自己保身
② 自己理想
③ 自己卑下
あなたは、「そんなことは頭では分かっている。でも手放すことが出来ないからこそ難しいのだ」と思っているかもしれません。
もし、そうであれば、思い出して頂きたいのです。
父なる神様が、私たちを救うために手放されたものを。
今ある苦難や試練は、神様が私たちを「用いられる器」へと変えるため、手放さなければならないものをお示しになっているのかもしれません。
私たちが今日、御言葉によって探られ、握りしめているものを手放す信仰を持つことが出来ますように祈ります。