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私の専門とする資源、材料、環境、エネルギーなどの分野を中心として、現在の日本に蔓延する「知を侮辱した流行」を個別に指摘し、知を大切に思う人たちとともに「お金中心の貧弱な日本」から、日本の文化、自然と調和したしっとりとした生活を取り戻したいと思います。 現在の日本に蔓延する「知の侮辱」について、一つずつ解説を加えていくつもりです。... more
May 22, 201412.足し算のできない東大教授「知の侮辱」シリーズとしても「程度の低い知の侮辱」です。まあ、小学校を卒業していればわかるものですが、「瓦礫に反対する奴は非科学的」と言う人がいて、同じレベルなので、一応、書いておきたいと思います。 原発の事故直後、ある東大教授がNHKで「胃のレントゲン1回が600マイクロシーベルトですから、福島市の10マイクロシーベルトは60分の1で問題ない」と発言。多くの人が何しろ{東大―NHK}の組み合わせだから、すっかり信用して大きく被曝しました。 私はこのことを「かけ算のできない東大教授」と書きました。福島市の10マイクロシーベルトというのは1時間あたりですから、福島市に60時間いれば{10×60}で600マイクロシーベルトになるので、もし正しく言うなら、「3日間、福島にいたら胃のレントゲンを超える被曝になり、1ヶ月いたら10回以上の被曝になる」ということでした。 ・・・・・・・・・ 原発事故から2週間ぐらい経った時、今度は茨城産の「こうなご」から1キログラムあたり4000ベクレルを超える汚染が見つかりました。今度は民放にでていた東大教授が「コウナゴは少ししか食べないから安全だ」と発言しました。 今度は「足し算のできない東大教授」の例で、お二人ともあまりに恥ずかしいことと、一般の国民に自分の専門の領域で被曝させたのですから、すでに東大を去っているのではないかと思います。 この「足し算ができない東大教授」はその後、「食品安全委員会」に感染し、次に「瓦礫を引き受けたい市長」へと拡散しています。いったい、何の「足し算」ができないのでしょうか? ・・・・・・・・・足し算・・・・・・・・・ ●外部被曝+内部被曝=被曝限度1年1ミリ ●福島原発事故で直接的に飛んできたセシウムなどによる被曝+3月4月の放射性ヨウ素による被曝+福島からトラックのタイヤで運び込まれることによる被曝+3月4月に衣服についた放射性物質からの長期被曝+家具などに付着したものからの長期被曝+福島から移動する食材の中に入っている放射性物質が生ゴミとして捨てられ焼却場からでることによる被曝+福島からくる人、車、衣服などに付着してくることによる被曝+旅行などで一次的に新幹線などで福島を通過するときに被曝する分+・・・・=外部被曝 ●飲料水からの被曝+日常用水からの被曝+道路から巻き上がる二次飛散から呼吸で入る被曝+樹木の葉から飛び散ったり落ち葉からの放射性物質が空気中に舞う被曝+お米、肉、サカナ、野菜、穀類、お菓子、乳製品、調味料・・・などの食材からの被曝+・・・・=内部被曝 ●内部被曝の内、今までまだ良く研究されていない放射性物質の体に対する影響についての安全係数 「瓦礫の引き受け」について、これらすべてを足し算してから「市民は大丈夫」としている自治体はありません。いずれも「足し算」をしない場合に限定されていて、「引き受けたいから安全」という論理です。 また全体としては瓦礫量が2300万トン、汚染制限が1キログラム8000ベクレルだから、「国が定めた」全体の上限は2300×10の7乗×8000ベクレル=約2×10の14乗となり、それを日本人の人口1.2×10の8乗で割ると、一人あたり100万ベクレルを超えます。 この一人あたり100万ベクレル、もし日本全体の10分の1の自治体が引き受けたら引き受けた地域の住民は一人あたり1000万ベクレルの被曝を受けます。それもストロンチウム、プルトニウムなどの他の核種の被曝を無視した場合です。 ・・・・・・・・・ 私は「足し算もしないで大丈夫という人」、特に計算できない人は仕方が無いとして、専門家は足し算をしなければならないことはよく知っています。つまり、被曝も今から50年ほど前なら「被曝させる方の論理」、つまり「牛肉が1キロ1000ベクレルだが、これだけ食べても大丈夫」ということでしたが、最近は「被曝する方の論理」、一つ一つの被曝は大丈夫だが、日常生活で被曝する総量はどうか?ということに変わりました。 これは、食品安全でも環境保全でもすべてそうで、それが数10年も昔に戻ったような話は聞きたくありません。そして自らは数10年前の論理で話していて、「瓦礫の移動は危険」という人に「非科学的」というレッテルを貼るのです。 もっともあまり理由を言わずにレッテルを貼るのは、これも人格攻撃と同じで、ウソを言っていて支えられないから、テレビで集中的に放送したり、相手を人格攻撃したり、レッテルを貼ったりするのだから、相手の心理状態も判ろうというものです。 瓦礫引き受けの前提:被曝する市民側に経った計算値を公表すること、国全体で汚染の拡散をどのように防ぐかについての基本方針を明確にすること、福島を助けるためにみんなで被曝しようなどという魔女狩り時代の論理を使わないことなどがまずはたいせつです。このブラウザでは再生できません。...more9minPlay
May 22, 201411.野蛮人?2011年の原発事故から約1年が経ちました。この大きな事件でさまざまな面で日本の後進性、知に対する侮辱が見られました。その中で「日本って、こんなに野蛮だったか!」と驚くことも多かったのです。 私は自分でつけたタイトルですが、「野蛮人」という言葉に抵抗があります。この言葉はヨーロッパ人の思想に近く、「文明が人間を人間らしくする」という基本的な仮定があるのですが、自然の中でゆったりと暮らしている人と、競争に明け暮れて訴訟ばかりしているアメリカ人とどちらが「人間として」優れているかは判らないからです。 でも、ここであえて野蛮人という言葉を使ったのは、街角で犯罪人の首をくくり見せしめにする、災害があると普通のおばさんを捕まえて魔女として火あぶりにする・・・こんな現象はやはり野蛮な行為ではないかと思うからです。その点ではここで言う野蛮人というのは、中世のヨーロッパなどの野蛮な行為を意味しています。 ・・・・・・・・・ 福島原発事故で私がもっとも野蛮だと思ったのは、「被曝に負けない子供」という言葉です。県民税、市民税が減ると生活に影響があると心配しているとしか思えない人たちは地域から人が逃げていくのをいやがり、「被曝に負けない子供」という奇妙な発想をしたのでしょう。 水俣で水銀中毒事件が起きたときでも、「水銀に負けない子供」という標語を作り、水銀で汚染されたサカナを食べさせるようなことはしませんでした。新型インフルエンザが流行した時も、「新型インフルエンザに負けない子供」ということで学級閉鎖をしない、隔離しないということもありませんでした。 科学が進み、魔女がいなくなった今の日本で、まさか「被曝に負けない子供」という言葉を作って、子供たちの被曝をそのまま放置する方法の一つとして活用したのは野蛮な行為であり、私は気分が悪くなります。 これに似たのが「農家の人を助けよう」という言葉で汚染された野菜、牛肉を売ったことです。確かに汚染された農作物を食べたいという人はいませんが、「農家の人を助ける」と聞くと「私の食べないといけないかしら」と思うのは、「こころ優しい日本人」のような気がしますが、決してそうではないと私は思います。 被曝した農作物を出荷するという行為は農家の信用を落としますから「農家の人を助ける」ことにもなりませんし、それを食べる人の「健康を損ねる」ことにもなります。もともと「人が食べるのにはふさわしくない」というものを出荷する人は「農家」ではないでしょう。 「農家」という名称は「そこから出荷される農作物を食べて命をつなぐ」というのではないでしょうか。あまりにも当然ですが・・・・・・ これと似た野蛮な言動が「風評被害」という言葉でした。風評被害というのは実質的に被害がないのに、噂を立てて被害を生じさせることを言いますが、1年1ミリ以上の被曝が法律上許されないのに、セシウムだけで1年5ミリシーベルトの被曝を認めた暫定基準を決め、おまけにセシウム量も測らずに出荷する農作物を買わない人に対して、政府が「風評被害だ」といったのには、これも気分がわるくなりました。 ある東北の知事さんが「県民はベクレルなどと言っても判らないから、安全か危険かだけ言うのが良い」と発言したのはびっくりしました。民主主義ですから、知事は「公僕」ですから、県民の召使いです。それが「主人はバカだから数字はわからない」と公言するのですから、なぜ知事になりたいのかも理解できません。 原発事故の直後、「直ちに健康に影響は無い」と政府は繰り返し、1年経ったら、「被曝の影響がすぐ現れることはないのは常識だ」と原子力安全委員長が会見で発言するのですから、これも驚くべきことです。 ・・・・・・・・・ このようなことはここ1年で数限りないほどあり、それは多くの人の心をかなり痛めたような気がします。「自分の住んでいる日本、こんなに誠実で学問を尊重してきた日本、子供を大切にしてきた日本。それが本当の姿はこんな社会だったのか!」と残念に思います。このブラウザでは再生できません。...more8minPlay
May 22, 201410.コンピュータ君は悲観論者コンピュータ君にはなにも悪いところはないけれど、お金が欲しいという研究者に適当に利用されて、不名誉な計算結果を出し続けている。 ● 1970年代初頭、アメリカ・MIT(マサチュセッツ工科大学)のメドウス博士が「地球方程式」を作り、それをコンピュータで解いて「成長の限界」という本を出した。 「人間の成長には限界があり、2010年頃から文明は破壊される」という結果だったが、見事、外れている。その原因はコンピュータにあるわけではなく、コンピュータに数値を入れる人間が間違っていたからだ。 ● 1988年6月23日、アメリカ・NASA(航空宇宙局)のハンセン博士が「地球温暖化方程式」を作り、それをコンピュータで解いて「地球は温暖化する」とアメリカ上院の公聴会で証言した。 「人間活動ででるCO2によって温暖化し、2010年には地球の平均気温が1℃あがる」と言う結果を述べたのだが、見事、外れている。下のグラフでハッキリわかるようにハンセン博士が演説した年からほとんど気温は上昇していない。 Bandicam_20111111_135159310 まったく人騒がせだが、なにしろ「コンピュータ」で計算したというのだから、多くの人がダマされて信じ込んでしまう。でも、方程式を作るのも、コンピュータに近似式を入れるのも(厳密には解けない)、そこで使う数値を入れるのも、みんな人間だから、コンピュータというけれど、人間と言っても良いのだ。 今から5年ほど前、ある専門的な地球温暖化の研究会に出たときに、基本方程式や熱バランスなどの詳しい式の説明があったが、雲の発生、海洋との熱のやりとりなどについて、かなりおおざっぱな数値を使っていた。質問したが、「そこのところは研究が進んでいないので」というお答えだった。 その答えが不誠実であるということではない。研究はその途上で不完全なところを多く含んでいるもので、完璧になってから研究されるものは少ない。だから、研究途上というのはいい加減なものだ。 なにしろ、メドウスの計算もハンセンも、意欲的ではあるし、学問の発展にも寄与したと思うが、結果は間違っていると考える方が普通だ。研究を始めた頃の結果は普通の場合、間違っているものだ。 でも、この頃はマスコミがいるので、「研究の結果はすべて正しい。特に自分の新聞が売れる方向の結果は正しくなければならない」という奇妙な確信を持っている記者が多い。だから、発表から2年も経つと、社会ではすっかり「コンピュータで計算した結果」が正しいことになってしまう。 コンピュータ君にとっては不本意だろう。それに加えてもう一つ、残念なことがあるはずだ。それは「科学の性質から一般的に結果が悲観的になる」、「悲観的な結果しか新聞にでない」という二つの原則があるからだ。 科学は「これまでに判ったこと」から構成されているので、「将来」については無力である。その科学が将来を予測する時には、「過去のことがそのまま続くとして将来は」ということを明らかにしようとするので、もともと原理的に無理がある。だからメドウスは「この計算結果は、現在の状態が何も変わらない場合だけ」と断っているが、それをマスコミが伝えるときに省いた。 コンピュータは人類の発展に役に立つ。だからといって使い方が悪くても役に立つわけではない。将来、コンピュータが自らプログラムを作り、物理や学問を勉強し、自分で入力して計算をするまで、「コンピュータを使って」という表現は慎重にした方が良いだろう。悲観的な結果で社会が右往左往するのは良いことではない。このブラウザでは再生できません。...more6minPlay
May 22, 20149.知に働けば角が立つ?「知に働けば角がたつ。情に棹させば流される」とは夏目漱石の小説に有名なものですが、確かに理屈を言うと角がたち、そうかといって情に訴えると流されると言われるとさすが漱石!という感じです。でも、私のこれまでの人生のいろいろな場面を振り返ってみると、知に働いたから角がたつのではなく、知に働いているのに情が絡むと角がたつという感じです。たとえば、原発の問題で、原発推進派と反原発派の間で「知に働いたこと」は無かった様に思います。原発推進派は政府や権力者からの豊富な資金と権限をもって強引に原発を進めようとしましたし、それに対して反原発派も「知は要らない。運動だけ」ということで反原発運動を繰り返しました。どちらが正しかったかというと、押し切ろうとした推進側が強引だったのが最初です。本当は国民が主人公なのですから、隠し事をせずに民主的手続きを貫く必要がありましたし、反原発側も民主主義の手続きを求める必要があり、その結果を尊重しないのは問題がありました。日本では長く自民党が政権をとっていて、原発についてはハッキリと推進でした。ですから、全体として原発が推進されるのは民主的な国家として適切だったと思います。しかし、原発は作るけれど「核廃棄物の貯蔵所」はどこにも作れないという状態でした。奇妙なことです。ある人がアパート経営を志して営業を開始したとします。その時に「部屋は快適ですが、トイレがついていません」と宣伝したら入居する人はほとんどいないでしょう。家主にとっては部屋は貸してもトイレがなければずいぶん、管理は容易になりますし、アパートも汚れません。でも、「家賃は欲しいけれど、トイレを作るのはイヤだ」と言ったら、アパート経営アドバイザーから「それでは入居する人はいないでしょう。お金は欲しい。損はしたくないでは・・・」というでしょう。大人なら原発を作って電気を買うなら核廃棄物の貯蔵所は必要です。私は「トイレの無いマンション」というのは反原発のスローガンとしては適切ではないと考えています。原発はトイレがないからダメというのではなく、原発も電気も核廃棄物貯蔵所も一緒に考えて賛否を言うようにしないと、いかにも子供のようです。原発推進派と反原発派の人は「知に働くと角が立つ」ということで、まったく議論をせず、妥協点を探ることもしませんでした。この過程で原発の安全議論は硬直化し、「安全だ」という人と「危険だ」という人が感情的にいがみ合い、それが今度の福島の子供たちを被曝させる原因の一つになったのです。かつての日本は社会が単純で、純情な人がほとんど、それにまれに見るほど庶民のことを考えるお殿様・・・という構成でした。だから、政治も人生もお殿様に任せておけば良かったのですが、今は違います。選挙と代議員制度をとっている日本で、「何が民意なのか?」ということもハッキリしていないと感じます。歴代の首相の交代を見ても、マスコミが世論を形成するために特定の人の人気をあおり、その人が首相につくと突然マスコミが態度を豹変させて、悪いことばかりを報道するというのが続いています。首相を選ぶときも政策的ではなく、選ばれた首相は直ちに考え方が変わるわけではないのに、マスコミは1ヶ月も経つと叩きにたたきます。今の原発再開問題も、「原発を再開するべきかどうか」についてのエネルギー、環境、安全性、温暖化などの主要な課題を議論することなく、「ストレステスト」なる用語だけが宙に浮いて活字が踊っているのでは、また同じことの繰り返しでしょう。 ここらへんで日本も「知に働いても角がたたない」という社会風土を作りたいものです。このブラウザでは再生できません。...more10minPlay
May 22, 20148.副流煙(結論が先にある罵倒合戦)これまでこのブログを10年ほど書いてきましたが、その中でもっとも読者の方の反撃が厳しかったのが「タバコ」の問題です。日本人の40%がまだ喫煙しているというのに、タバコのことを話そうとすると、猛烈なバッシングを受けるのですから、これも異常な社会現象の一つでしょう。タバコを忌避する人には2種類があって、一つは日本人を健康にしなければならないという強い使命感を持った医師で、この人たちは他人が「不健康」な生活をするのに異常なほどの嫌悪感を持っています。私の知っている医師で、大きな病院に勤めていて「タバコを吸っているような人は健康に注意をしていないのだから、診察は断る」と言っている先生がいます。そこまでになると、職業倫理としてもやり過ぎと思います。もともと医師というのは戦場でも負傷兵を治療しますが、「戦争など、人殺しをやる人の治療はしない」というのではなく、「医師は患者がどんな状態であっても、治療する」というのが医師の大切な倫理なのです。もう一つは、「煙が臭い」、「タバコを吸う人は図々しい」ということで喫煙を嫌っている人たちです。確かに日本人はきれい好きで臭いのない国で生活をしていますし、タバコの臭いはタバコを吸う人が少なくなればなるほど敏感になりますから、気持ちはわかります。また、タバコを吸う人は確かに図々しく見える人が多いようです.特に人混みでタバコを吸って、プーッと息を吐いているときなど実に図々しい人に見えるし、こちらがタバコも吸わずに仕事をしているのに、「タバコを吸わないと続かない」などと言って仕事中にサボってタバコを吸っている集団を見るとイヤな気がしない方がおかしいと思います.でも、それだけでは社会的にタバコを排斥する理由にはなりにくいと思います。臭いについては人によって違いがありますし、体質的に臭いのきつい人もいて、うっかりすると差別になります.現在の日本のようにタバコを吸うところが限定されていて、日常的にはそれほどたばこ臭いところが無いのですから、問題は無いように思います。また、「図々しい」というのは人の感じですから、これも排斥しようとすると危険でしょう.日本国憲法で保証された基本的人権とは、過度に人に迷惑をかけなければその人の自由な人生を保証しているのです。多くの人が一緒に住んでいる日本、この素晴らしい規定の精神も尊重したいものです。ところで、タバコの問題を「知」として取り扱う場合、喫煙が吸う人の健康に関わるかという問題と、タバコを社会から追放しなければならないほどの毒物かという疑問の二つがあります。喫煙と吸う本人の健康の問題については少し前に整理して、まだ未完成ですが、ここでは「副流煙」を取り上げます.副流煙の人体への害を最初に証明したと言われる有名な平山論文を読んでみましたが、すでに多くの人が指摘しているようにこの論文で「副流煙が肺がんの元になる」ということはまったく言えません.ただ、平山先生が意欲的なご研究をされたことに敬意を表します.この論文を読むと、タバコを吸う人と長年、一緒にいると脳腫瘍になる可能性が高いことは判りました。しかし、この脳腫瘍が一緒に暮らしてきた方のタバコの煙によるものか、別のものが原因かはわかりません。先日のブログに書きましたが、私が学生に注意すること「なにかが原因ではないかと考えて、それで整理をするとほとんどのものが何らかの関係があることになる」という原理原則があるからです.肺がんは脳腫瘍よりかなり少なく(タバコを吸わない人と一緒に住んでいる場合に比較してですが)、副流煙での影響は肺より脳に強いようです。実験結果を忠実に整理して「肺より脳」と言いますと、「そんなことはない。タバコが脳に影響があるはずがないじゃないか」という反論があるのですが、それならもともと「実験や調査」をする必要はありません。人間の脳は不完全なので、実験や調査を行います。その時には、「自分はタバコを吸う人と一緒に住んでいたら肺に影響を受けるとおもうが、(それは自分の浅はかな考えなので自然に聞いてみるという意味で)実験や調査をしよう」ということですから、意外な結果がでるのが大切なのです。その他の資料にも目を通しましたが、現在のところ科学の心を持った人はこの問題に近づかない方が良いように感じました。というのは、どれもこれも非常に感情が高ぶった論文や調査、論評が多く、先入観や最初から「タバコの副流煙は肺に悪いに決まっている」という前提で行われているからです。まるで「魔女狩りとその対抗勢力」のような状態です.ことは人の健康、子供の健康に関することですから、もう少し冷静に議論できないのでしょうか? データは不十分で先入観に満ちていますし、あまりに攻撃が激しいので、反論もまた科学とは言えない状態にあります.私たちがもし「知」というものを尊重するなら、それは相手を誹謗することでも、自分の得になることでもありません。あくまでも人間の「知」を信じて、お互いに憎しむことなく、少しでも前進することです。日本に住む誇るべき民族:アイヌは平和を愛し、戦争をしなかった民族ですが、人間が戦争をしないというのはかなり大変なことで、それを達成するためにアイヌはタバコを愛しました。ケンカをしそうになると相手にタバコを勧め、一服して争いを収めたのです.人間には体の栄養とともに、頭脳の情報を整理するための栄養が必要です.多くのタバコを吸うかたの随筆を読むと、タバコが情報整理の栄養になっていることを否定することは難しいように思います.人間は理解しがたいものであり、体は複雑で、人は多種多様です.その中で、このタバコというものをどのように考えるのか、それを冷静に進めることで人間の「知」を一つ高める方向に行けばと願うところです.このブラウザでは再生できません。...more12minPlay
May 22, 20147.「野菜と健康」に関する知の偽装福島の被曝の問題が出てくると日本の医療関係者、特に国立のガン研究の医師たちは一斉に「被曝はたいしたことはない。それより野菜の不足の方が発がんには危険だ」と奇妙なことを言い出しました。野菜とガンの関係については、今から20年ほど前から研究が始まり、初期のころには次の表にあるようにどちらかというと「野菜はガンを防ぐ」という研究報告が多かったのです。 それを受けて、マスコミなどを中心として「野菜を食べよう!」という運動がはじまりました。でも、もともと人間のガンの発生というのは非常に複雑なことなので、「野菜とガン」などという簡単な関係はおそらく存在しないのではないかと思われます。 その証拠に、その後、調査人数が増えてくると必ずしも野菜不足がガンをもたらさないという大規模な調査が2005年以後は増えています。ある程度、学問や科学というものを研究した人ならわかることですが、ガンというのは非常に複雑な反応ですし、一口に「野菜」といっても内容はさまざまですし、また「野菜を食べたので、相対的に食事が減り、その中に発がん性のものがあった」ということもあり、その場合は「野菜」というのは要因の一つにはなりません。 だから、仮に初期の研究のように「野菜を多く食べる人にガンが少ない」と言うことが判っても、それ故に「野菜はガンを防止する」ということにはならないということです。また、「それでも事実、ガンが少ないのだから」というのも学問ではなく、最近の野菜の研究の中には、カリフォルニア等の20万人の調査で、野菜をとると病気の比率が高いという研究もあります。私は科学者として、少し別の見方をしています。先回、「相関関係」だけでは何の結論もでないことを示しましたが、科学では「因果関係」についても常に同時に考えておかなければなりません。 人間は雑食性の動物ですが、主として「肉、穀類(実)」などを食べる動物で、「草」の類はそれほど取りません。人間が野菜を食べるようになったのは農耕文化に変わってからで、日本ではさらに10世紀から15世紀になってから意識的に野菜をたべるようになってきました。 草食動物ではない人間は草は消化できませんが、コメ、麦、イモ、豆、リンゴのような「実(種)」は主食や副食として積極的に食べてきました。そして、多くの研究が示しているように、動物の体は「数万年間の環境の中でもっとも適切な防御系になっている」ということですから、500年前頃から食べ出した「葉物野菜」などが人間の体に良いということになると、かなりこれまでの学問とは異なる結果と言えます。現在の日本ではほとんど宗教ではないかと思われるほど「野菜主義」のようなものが常識化していて、「野菜は健康に良い」というのを疑う人はいません。そしてそれが「科学」や「学問」の裏付けがあると錯覚をしています。でも、そのような情報の伝え方は「知の侮辱」でもあります。 私は学生(研究生)に対して、「「Aを変えればBがどうなるか」という実験の整理は危険です。自分ではBに対してAが一つの因子として関係があると考えていると、どんな物でもある程度の相関性がありますから、間違った結論が得られます」と指導します。 このようなことは「科学者の基礎教育」ですが、現代の社会はあまりにも「知の初歩的制限」を無視したものが多く、お医者さん、科学者や学者の方は注意をされた方が良いと思います。このブラウザでは再生できません。...more10minPlay
May 22, 20146.温暖化すると南極の氷は増える地球温暖化はそのスタート自体がアメリカ農業団体の作戦で、学問とか環境問題ではないので、その中に知の侮辱があっても当然かも知れません。むしろ、世界中で日本がCO2を実質的に削減しようとしている唯一の国であることを考えると、「知の問題」として温暖化を取り上げること自体、知の侮辱のようにも思われます。でも、人間の排出するCO2が地球の温暖化の主要な原因だと考えている科学者が日本に多いことも確かで、それが子供の教育や生活に大きな影響を与えていることも間違いはありません。たとえば、NHKが映像を流したように「ホッキョクグマが暑いと苦しんでいる」とか「南洋の島、ツバルが沈みかけている」などというような「知の侮辱放送」は日本の子供に大きな影響を与え、結果的には「科学的事実など問題にしなくてよい」という思想を植え付けることになっています。温暖化報道では科学の基礎的な原理に反することが多かったのですが、その中でも特に「温暖化したら南極の氷が融ける」ということを聞いたとき、私は本当にガッカリしました。そして、「融ける」と思っている人にその理由を聞きましたら、「温度が上がったら氷は融けるんじゃない」と言われて、2度、ガッカリしました。 理科の時間に「融点」というのを教えるのですが、これは「物質は温度が上がったら融けるのではなく、融点で融ける」ということを理解させるのです。 ある意味では、この現象は常識外れでもあります。なんとなく普通に考えると「温度が上がると氷は融ける」と思いがちですが、水(氷)は0℃で、アルミニウムは660℃でというように物質によってある温度で融けるのであり、温度が上がっても融けないという基本的な概念だからです。 また、この場合はIPCCという国連の気候変動(温暖化)の機関が正式な報告書(わずか25ページぐらい)で、「南極の氷の温度は低いので(マイナス40℃)、温暖化しても融けない」と記載しているのに文献も見ないという二重の「知の侮辱」になります。 私がある関西のテレビにでて「IPCCの書いてあることを紹介」したところ、「異端児・武田邦彦」と言われました。アナウンサーが「申し訳ないですね。異端児なんて言って」と謝ってくれましたが、私は「いえ、学者にとっては異端児はほめ言葉でもあります」と言いました。 しかし、「温暖化すると南極の氷が融ける」というのは、基礎科学から言っても間違いで、IPCCの文献でも否定されているのに、日本ではすでに「赤信号をみんなで渡ったので、それが正しい」ということになっているのです。恐ろしい社会ですね。 そしてやがて、科学的にも文献でも異なることが日本社会に定着すると、今度は科学的に正しいこと、知を尊重する人、文献をしっかり読んでいる人を「異端児」として社会から排斥しようとする・・・それが私がこのシリーズで言いたい「知の侮辱」なのです。このブラウザでは再生できません。...more9minPlay
May 22, 20145.被曝:現代人の知恵の彼岸最近の原発の事故に関係することで、もっとも大きな「知の侮辱」は「被曝と健康の関係が学問的に判っている」という「学者」が多かったことです。学問というのはそれを専門とする人がデータや理論で論理的に納得し、定説となったものをくみ上げて作るものですから、ある学者は1年0.1ミリ(ドイツの学者が中心)、ある学者が1年100ミリと1000倍の違いがあって、学問とは言えないのです。 学問と言えない段階のものは、学問的には不明と言うのが学問です。学問は、社会の利害、自分の思想、反原発派が憎らしい、神経質な人がいる・・・などと言うこととは全く無関係で、学問的に被曝と健康の関係が判っていれば明確に答え、判っていなければ判らないと答えるものだからです。 放射線が外部から体を貫くと、たまには遺伝子や体の重要な部分を損傷する可能性があります。また放射線が活性酸素を作り出し、それが体のどこかを酸化する可能性があります。さらにはヨウ素やセシウム、ストロンチウムが体の一部に蓄積し、それが病気の引き金を引く場合もあります。 自然放射線は1年1.5ミリですが、それに何ミリぐらいが加算されると健康にどんな害があるか、カリウムには放射性を出す物もありますが、それとセシウムが入った牛肉とを単にベクレルで比較できるのか?そんなことは学問的には判っていません。研究例があり、調査結果があるに過ぎず、それは相互に大きく異なった結果を与えているからです。 このような場合、「環境を守る」という点では世界での合意があります。この合意は水俣病などの辛い経験をもとに人類が築き上げてきたもので、それを「予防原則」 と言います。予防原則はそれ自体が学問と言えるものですが、「科学的に判らないが、危険の可能性もある場合、社会的合意によって規制することができる」というもので、論理的には立派な学問的成果です。 被曝と健康の関係は学問的に判っていないのですから、社会的に必要なら予防原則で規制するわけで、それが「1年1ミリ」です。もちろん、1年1ミリでも「膨大な実験データと調査結果」に基づいて「詳細な被曝計算」をするのですが、実はそれらは「学問」ではなく、「技術」に属することなのです。 つまり、1年0.1ミリまで安全という学者のグループと、1年100ミリまで安全というグループがいるのですから、当然、学問として結論が出ていないのですが、たとえば、それらのデータの平均値を取るとか、安全側を採用するなど、一応のデータに基づくことはできるのです。科学が社会の信用を得るためには、科学者の発言が信用できるものでなければなりません。それは若干、慎重なことになるかも知れず、生産現場や医療現場はそんなことは言ってられないと思いますが、それは現場に限ることで、現場でもないところに非科学的なことをそのまま伝えるのは誤解を招く原因になります。 現在、被曝を心配している一般の人に対して、原子力や放射線の学者は次のように言わなければならないでしょう。 「残念ながら多くの学説はありますが、まだ学問の段階には至っていないので、どのぐらい被曝したらどうなるということは判っていないのです。そこで、社会的には予防原則を採用して「外部被曝と内部被曝の合計が1年1ミリ」を被曝限度としています。それが現在の人間の限界で、日本の法律もすべてこの基準を適応していますし、それから食品や土壌などの1キロ何ベクレルという基準も作っています。」 学問は圧倒的な数のデータがあり、再現性があれば「相関関係(何かの変数を変えると結果が変わる)」だけでも、なんとか学問になることがありますが、普通は「相関関係」だけではなく、その関係が何らかの科学的な「因果関係(原因と結果が論理的に明確であること)」を持たなければなりません。 その意味で、被曝と健康の問題は私たちの現在の学問が及ばざるところで、まだ「彼岸」にあると言えるでしょう。私が原子力委員会の研究開発部会で原子力の安全研究を促進するように進言したのはこの様な認識だったからです。 「なんだか判らないけれど、このような傾向だ」というのはまったく学問ではないので、「どのぐらい被曝したら、患者さんがこの程度でた」というデータはあまり役に立たないのです。このことを温暖化の時、「CO2が増加すると気温が高くなる」という科学者が多かったので、それなら「武田の年齢が増加すると気温は高くなっているのですが」と冷やかしたことがあります。今度の福島の事故で、私は多くの方が学問とはどういうものか、なにが科学的でなにが非科学的かということを考えていただいたのはとても良かったと思っています。でも、学問的な結論もないのに「大丈夫」などと言い、5歳の子供が大人を信じて被曝して15歳で発病したら私たちはどうしてそれを償うことができるのでしょうか? 私たちは判らないのですから、謙虚で慎重でなければなりません。子供は私たちを信じているのです。このブラウザでは再生できません。...more9minPlay
May 22, 20144.イエス・キリストの怒り若い頃、聖書を読んでそのどこにも珠玉のような言葉が満ちあふれていることにビックリしたことを思い出します。まさに神の言葉なのでしょう。 その中に、普段は穏やかなイエス・キリストが怒りに燃えることが書かれています。それは「神を心から信じるか、それとのよい子のフリをするためか」が問われる場面で、腐敗した祈りの場などがそれにあたるようです。 聖書のその場面に強い印象を受けた私は、その後、なにか自らの学問や教育の信念に反することが目の前で行われているのに、腹が立たない自分を情けなく思うことが多くなりました。 たとえば、前々回に書いた「栄のCO2測定」ですが、このように科学をトリックに使うことを知った限りは、担当室長を罵倒し、自分が一人でいって栄のCO2測定器を取り外し、警察から器物損壊で逮捕されなければならない・・・そうしないと私の学問や教育の信念はなんだったのか?という疑問がわくからです。 このシリーズを「知の侮辱」と名付けて始めました。確かに、現代の日本には「知」を侮辱することが白昼堂々と行われ、それは科学者である私には大きなストレスになっています。でも、そう言う私も「知の侮辱」に対して徹底的な行動を取っているわけではなく、イエス・キリストのように知を侮辱する人や物事に対して、自らを捨てて行動にでなければならないと恥ずかしく思います。 いつも、さらにもう一歩激しくでるべきか?と迷うのですが、あるところで引き返します。その点では所詮、自分も人間だから利権をあさって知を侮辱している人とそれほど変わらないと恥ずかしく思うこともあります。 この頃の学生はおとなしくなりましたから、先生にくってかかるような勢いのある学生はあまりいないのですが、それでも時々、「先生っ!そんなこと間違っていますっ!」と激しく迫る学生もいます。そんな学生がいるとうれしくなります。 そんなとき、事実や論理、科学としての考え方を説明するのが普通ですが、あまりに激しく納得しないときには、イエス・キリストやソクラテスの話をすることがあります。 「確かに君の言うことは正しいかも知れない。でも、現代人が誕生してから1,2を争う立派な人といえばイエス・キリストやソクラテスだが、その人たちはいずれも死刑にあっている。君の言うことが正しいのかも知れないが、世の中とあまりに違うときには死刑になるのだろうね」 でも、思い返せばそれが人間ですし、人間社会の中でしか生きることはできないのですから、ここは東洋的にお釈迦様の「中庸」で行くのが良いのでしょう。「知」を盲目的に信じるのでもなく、「知」を侮辱するのでもなく、尊敬し、利用していくのが私たちの知恵というものだと思います。 私が重要だと思う順序があります。第一に「日本の子供」、第二に「日本の土地」、そして第三に「日本のコメ」です。子供、土地、コメの上に「日本」とつけているのは私の力量によるもので、到底「人類」というのは私の視野に入れることができないからです。 イエス・キリストは「神の思し召しのまま」と十字架につき、ソクラテスは「悪法も法なり」と弟子に教えて毒杯を口にしました。科学者である私は「私が正しいと思っていることは間違っている」と言うことが唯一の信念なので、到底、それほど強い行動に出ることはできません。 このシリーズではイエス・キリストやソクラテスの影を遠くに拝みながら、なんとか一つ一つの侮辱を、明日の子供たちのために整理をしていきたいと思っています。このブラウザでは再生できません。...more9minPlay
May 22, 20143.ゴミの量は環境に無関係学問というのはそれほど簡単なものではなく、一つの法則や現象が認められるためには、厳密な観測や理論、考察を経て専門分野の人が繰り返しても同じ結果が得られることが確認されたものが、一つ一つ組み立てられていきます。 もちろん、学問は常に新しいものですから、これまで体系化された学問に対してそれと異なることが出てきた場合は、従来の学問と比較して、これまた厳密に検討されるのです。 ところで、「ゴミの量と環境」に関わるもっとも基礎的な知は「質量保存則」です。人間が生活するには色々なものが必要ですから、それを生物や鉱物、それに空気や水から得ます。たとえば「暖炉で薪をくべる」という比較的単純なことでも、空気中のCO2と根からの水を使って樹木が育ち、それを伐採して薪にするのですが、その時でも山に入るための道路、道路に敷く砂利、そこを走るトラックなどすべてのものを考える必要があります。 また薪をくべると灰がでたりCO2がでたりしますが、それ以外に暖炉を使えば暖炉は少しずつ劣化していきます。これら普通には「無数」とも思われる膨大なことをすべて計算すると、「暖炉で薪をくべる」ということが、環境にどのような影響を与えるかが判ります。 このときの計算の大原則が「質量保存則」で、「地球上にあるものは、何をしても増えも減りもしない」ということです。さて、国家が経済成長をはじめて、そこに生活する人が使うものが増えると、それと同じゴミが発生します。成長をはじめた直後には、社会に投入されるものは「ストック」という形で蓄積されることもあるのですが、成長が一段落すると「フロー」、つまり社会に滞留しているものの量は変化せずに、入ったものだけ社会から出るという状態になります。これを学問的には「定常状態」と表現するのが普通です。 江戸時代の日本は定常状態であり、現在の日本も定常状態です。ただ、そこに蓄積されているものがかなり違うのと、物質の流れが大きく異なります。これを一言で言うのはなかなか難しいのですが、江戸時代を基準とすると現代は約2000倍といったところです。 一つ前の定常状態から、次の定常状態に移るときには、物品の生産量、蓄積量、廃棄物の処理量などが増えていくので複雑な状態になります。その時に、いろいろ思いがけないことが起こります。その一つが「ものが増えると環境が悪化する」ということです。 ヨーロッパでは1950年、日本では1970年、中国では1990年にこのことに基づく環境破壊が見られました。この原因は簡単に言うと、「ゴミが増えたのに、かたづけない」と言うことが原因しています。 社会が経済成長していく過程で、人間はそれまで自分たちのゴミを誰が片付けていたのか忘れてしまいます。もちろん片付けていたのは自然で、自然は人間がゴミを増やしてもそれに合わせてゴミを片付けてはくれないので、その結果、環境が破壊されます。それは大気、水質、ゴミ・・・何でも同じです。 つまり、「ゴミが増えたら環境が悪くなる」というのは間違いで、「ゴミが増えても人間が片付けなければ環境が悪くなる」ということで、「部屋に物ばかり持ち込んで、さっぱり片付けないどら息子」ということです。 「ゴミが増えると環境が悪くなる」というのではなく、「ゴミが増えた時に片付けなければ環境が悪くなる」ということですから、経済成長の過程で痛い目に遭うと、人間はゴミを片付けるので、現在のヨーロッパや日本のように成長が一段落するとかつてより環境は良くなるのが普通です。 これは人間も同じで、成長の過程で思春期(反抗期など)を迎えますが、これは「歳を取ったから」ではなく「歳を取る過程で、身体と心の成長にアンバランスが来るから」です。だから「思春期が来るから歳をとるな」というのが間違えであることは誰もが判ることです。 教育では「論理性」というのはとても大切で、子供には「情緒」ばかりではなく、「論理的思考力」も同時に身につけさせる必要があります。「ゴミが増えたら環境が悪くなる」のか、それとも「ゴミが増えた時のひずみで環境が悪くなる」のかを見分ける力は日本人が持つべき力の大切な一つです。 また、質量保存則は「目に見えるところだけを考えずに、総合的に見る」という心を持つためには無くてはならないことで、工業では「マスバランス」、エネルギーでは「エネルギーバランス」、経済では「マネーバランス」などすべての面で大変、重要な概念です。 道徳的に「ゴミを出さない方が良い」ということと、「ゴミを出したら環境が悪くなるか」ということは違うので、その点でも子供たちに「思想と科学」を混同しないように教育する上でも大切なことです。でも、現代の日本では「思想と科学」を混同する子供がほめられ、キチンと科学の心を持っている子供が、時に先生に怒られていることがあり、残念です。このブラウザでは再生できません。...more15minPlay