われらの文学 レオンラジオ 楠元純一郎

17 鸟居昭美是幼教专家哦 青空文库 夏目漱石 こころ 上 31+32


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オープニングソング「水魚の交わり(魚水情)」

エンディングソング「バイオバイオバイオ(遺伝子の舟)」

作詞作曲 楠元純一郎

編曲 山之内馨


三十一


 その日の談話もついにこれぎりで発展せずにしまった。私(わたくし)はむしろ先生の態度に畏縮(いしゅく)して、先へ進む気が起らなかったのである。

 二人は市の外(はず)れから電車に乗ったが、車内ではほとんど口を聞かなかった。電車を降りると間もなく別れなければならなかった。別れる時の先生は、また変っていた。常よりは晴やかな調子で、「これから六月までは一番気楽な時ですね。ことによると生涯で一番気楽かも知れない。精出して遊びたまえ」といった。私は笑って帽子を脱(と)った。その時私は先生の顔を見て、先生ははたして心のどこで、一般の人間を憎んでいるのだろうかと疑(うたぐ)った。その眼、その口、どこにも厭世的(えんせいてき)の影は射(さ)していなかった。

 私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。しかし同じ問題について、利益を受けようとしても、受けられない事が間々(まま)あったといわなければならない。先生の談話は時として不得要領(ふとくようりょう)に終った。その日二人の間に起った郊外の談話も、この不得要領の一例として私の胸の裏(うち)に残った。

 無遠慮な私は、ある時ついにそれを先生の前に打ち明けた。先生は笑っていた。私はこういった。

「頭が鈍くて要領を得ないのは構いませんが、ちゃんと解(わか)ってるくせに、はっきりいってくれないのは困ります」

「私は何にも隠してやしません」

「隠していらっしゃいます」

「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で纏(まと)め上げた考えをむやみに人に隠しやしません。隠す必要がないんだから。けれども私の過去を悉(ことごと)くあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それはまた別問題になります」

「別問題とは思われません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私にはほとんど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足はできないのです」

 先生はあきれたといった風(ふう)に、私の顔を見た。巻烟草(まきタバコ)を持っていたその手が少し顫(ふる)えた。

「あなたは大胆だ」

「ただ真面目(まじめ)なんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」

「私の過去を訐(あば)いてもですか」

 訐くという言葉が、突然恐ろしい響(ひび)きをもって、私の耳を打った。私は今私の前に坐(すわ)っているのが、一人の罪人(ざいにん)であって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は蒼(あお)かった。

「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果(いんが)で、人を疑(うたぐ)りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好(い)いから、他(ひと)を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」

「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」

 私の声は顫えた。

「よろしい」と先生がいった。「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その代り……。いやそれは構わない。しかし私の過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ。聞かない方が増(まし)かも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいて下さい。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」

 私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。



三十二


 私の論文は自分が評価していたほどに、教授の眼にはよく見えなかったらしい。それでも私は予定通り及第した。卒業式の日、私は黴臭(かびくさ)くなった古い冬服を行李(こうり)の中から出して着た。式場にならぶと、どれもこれもみな暑そうな顔ばかりであった。私は風の通らない厚羅紗(あつラシャ)の下に密封された自分の身体(からだ)を持て余した。しばらく立っているうちに手に持ったハンケチがぐしょぐしょになった。

 私は式が済むとすぐ帰って裸体(はだか)になった。下宿の二階の窓をあけて、遠眼鏡(とおめがね)のようにぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。それからその卒業証書を机の上に放り出した。そうして大の字なりになって、室(へや)の真中に寝そべった。私は寝ながら自分の過去を顧みた。また自分の未来を想像した。するとその間に立って一区切りを付けているこの卒業証書なるものが、意味のあるような、また意味のないような変な紙に思われた。

 私はその晩先生の家へ御馳走(ごちそう)に招かれて行った。これはもし卒業したらその日の晩餐(ばんさん)はよそで喰(く)わずに、先生の食卓で済ますという前からの約束であった。

 食卓は約束通り座敷の縁(えん)近くに据えられてあった。模様の織り出された厚い糊(のり)の硬(こわ)い卓布(テーブルクロース)が美しくかつ清らかに電燈の光を射返(いかえ)していた。先生のうちで飯(めし)を食うと、きっとこの西洋料理店に見るような白いリンネルの上に、箸(はし)や茶碗(ちゃわん)が置かれた。そうしてそれが必ず洗濯したての真白(まっしろ)なものに限られていた。

「カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用いるくらいなら、一層(いっそ)始(はじ)めから色の着いたものを使うが好(い)い。白ければ純白でなくっちゃ」

 こういわれてみると、なるほど先生は潔癖であった。書斎なども実に整然(きちり)と片付いていた。無頓着(むとんじゃく)な私には、先生のそういう特色が折々著しく眼に留まった。

「先生は癇性(かんしょう)ですね」とかつて奥さんに告げた時、奥さんは「でも着物などは、それほど気にしないようですよ」と答えた事があった。それを傍(そば)に聞いていた先生は、「本当をいうと、私は精神的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考えると実に馬鹿馬鹿(ばかばか)しい性分(しょうぶん)だ」といって笑った。精神的に癇性という意味は、俗にいう神経質という意味か、または倫理的に潔癖だという意味か、私には解(わか)らなかった。奥さんにも能(よ)く通じないらしかった。

 その晩私は先生と向い合せに、例の白い卓布(たくふ)の前に坐(すわ)った。奥さんは二人を左右に置いて、独(ひと)り庭の方を正面にして席を占めた。

「お目出とう」といって、先生が私のために杯(さかずき)を上げてくれた。私はこの盃(さかずき)に対してそれほど嬉(うれ)しい気を起さなかった。無論私自身の心がこの言葉に反響するように、飛び立つ嬉しさをもっていなかったのが、一つの源因(げんいん)であった。けれども先生のいい方も決して私の嬉(うれ)しさを唆(そそ)る浮々(うきうき)した調子を帯びていなかった。先生は笑って杯(さかずき)を上げた。私はその笑いのうちに、些(ちっ)とも意地の悪いアイロニーを認めなかった。同時に目出たいという真情も汲(く)み取る事ができなかった。先生の笑いは、「世間はこんな場合によくお目出とうといいたがるものですね」と私に物語っていた。

 奥さんは私に「結構ね。さぞお父(とう)さんやお母(かあ)さんはお喜びでしょう」といってくれた。私は突然病気の父の事を考えた。早くあの卒業証書を持って行って見せてやろうと思った。

「先生の卒業証書はどうしました」と私が聞いた。

「どうしたかね。――まだどこかにしまってあったかね」と先生が奥さんに聞いた。

「ええ、たしかしまってあるはずですが」

 卒業証書の在処(ありどころ)は二人ともよく知らなかった。

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