われらの文学 レオンラジオ 楠元純一郎

33 新生活的开始方法 青空文库 夏目漱石 こころ 下 9+10


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オープニングソング「水魚の交わり(魚水情)」

エンディングソング「バイオバイオバイオ(遺伝子の舟)」

作詞作曲 楠元純一郎

編曲 山之内馨


「一口(ひとくち)でいうと、叔父は私(わたくし)の財産を胡魔化(ごまか)したのです。事は私が東京へ出ている三年の間に容易(たやす)く行われたのです。すべてを叔父任(まか)せにして平気でいた私は、世間的にいえば本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、あるいは純なる尊(たっと)い男とでもいえましょうか。私はその時の己(おの)れを顧みて、なぜもっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が口惜(くや)しくって堪(たま)りません。しかしまたどうかして、もう一度ああいう生れたままの姿に立ち帰って生きて見たいという心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知っている私は塵(ちり)汚(れた)後(あと)の私です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう。

 もし私が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならば、その結果は物質的に私に取って有利なものでしたろうか。これは考えるまでもない事と思います。叔父(おじ)は策略で娘を私に押し付けようとしたのです。好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと下卑(げび)た利害心に駆られて、結婚問題を私に向けたのです。私は従妹(いとこ)を愛していないだけで、嫌ってはいなかったのですが、後から考えてみると、それを断ったのが私には多少の愉快になると思います。胡魔化(ごまか)されるのはどっちにしても同じでしょうけれども、載(の)せられ方からいえば、従妹を貰(もら)わない方が、向うの思い通りにならないという点から見て、少しは私の我(が)が通った事になるのですから。しかしそれはほとんど問題とするに足りない些細(ささい)な事柄です。ことに関係のないあなたにいわせたら、さぞ馬鹿気(ばかげ)た意地に見えるでしょう。

 私と叔父の間に他(た)の親戚(しんせき)のものがはいりました。その親戚のものも私はまるで信用していませんでした。信用しないばかりでなく、むしろ敵視していました。私は叔父が私を欺(あざむ)いたと覚(さと)ると共に、他(ほか)のものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました。父があれだけ賞(ほ)め抜いていた叔父ですらこうだから、他のものはというのが私の論理(ロジック)でした。

 それでも彼らは私のために、私の所有にかかる一切(いっさい)のものを纏(まと)めてくれました。それは金額に見積ると、私の予期より遥(はる)かに少ないものでした。私としては黙ってそれを受け取るか、でなければ叔父を相手取って公沙汰(おおやけざた)にするか、二つの方法しかなかったのです。私は憤(いきどお)りました。また迷いました。訴訟にすると落着(らくちゃく)までに長い時間のかかる事も恐れました。私は修業中のからだですから、学生として大切な時間を奪われるのは非常の苦痛だとも考えました。私は思案の結果、市(し)におる中学の旧友に頼んで、私の受け取ったものを、すべて金の形(かたち)に変えようとしました。旧友は止(よ)した方が得だといって忠告してくれましたが、私は聞きませんでした。私は永く故郷(こきょう)を離れる決心をその時に起したのです。叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。

 私は国を立つ前に、また父と母の墓へ参りました。私はそれぎりその墓を見た事がありません。もう永久に見る機会も来ないでしょう。

 私の旧友は私の言葉通りに取り計らってくれました。もっともそれは私が東京へ着いてからよほど経(た)った後(のち)の事です。田舎(いなか)で畠地(はたち)などを売ろうとしたって容易には売れませんし、いざとなると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取った金額は、時価に比べるとよほど少ないものでした。自白すると、私の財産は自分が懐(ふところ)にして家を出た若干の公債と、後(あと)からこの友人に送ってもらった金だけなのです。親の遺産としては固(もと)より非常に減っていたに相違ありません。しかも私が積極的に減らしたのでないから、なお心持が悪かったのです。けれども学生として生活するにはそれで充分以上でした。実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。この余裕ある私の学生生活が私を思いも寄らない境遇に陥(おと)し入れたのです。


「金に不自由のない私(わたくし)は、騒々(そうぞう)しい下宿を出て、新しく一戸を構えてみようかという気になったのです。しかしそれには世帯道具を買う面倒もありますし、世話をしてくれる婆(ばあ)さんの必要も起りますし、その婆さんがまた正直でなければ困るし、宅(うち)を留守にしても大丈夫なものでなければ心配だし、といった訳で、ちょくらちょいと実行する事は覚束(おぼつか)なく見えたのです。ある日私はまあ宅(うち)だけでも探してみようかというそぞろ心(ごころ)から、散歩がてらに本郷台(ほんごうだい)を西へ下りて小石川(こいしかわ)の坂を真直(まっすぐ)に伝通院(でんずういん)の方へ上がりました。電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃(ころ)は左手が砲兵工廠(ほうへいこうしょう)の土塀(どべい)で、右は原とも丘ともつかない空地(くうち)に草が一面に生えていたものです。私はその草の中に立って、何心(なにごころ)なく向うの崖(がけ)を眺(なが)めました。今でも悪い景色ではありませんが、その頃はまたずっとあの西側の趣(おもむき)が違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っているだけでも、神経が休まります。私はふとここいらに適当な宅(うち)はないだろうかと思いました。それで直(す)ぐ草原(くさはら)を横切って、細い通りを北の方へ進んで行きました。いまだに好(い)い町になり切れないで、がたぴししているあの辺(へん)の家並(いえなみ)は、その時分の事ですからずいぶん汚ならしいものでした。私は露次(ろじ)を抜けたり、横丁(よこちょう)を曲(まが)ったり、ぐるぐる歩き廻(まわ)りました。しまいに駄菓子屋(だがしや)の上(かみ)さんに、ここいらに小ぢんまりした貸家(かしや)はないかと尋ねてみました。上さんは「そうですね」といって、少時(しばらく)首をかしげていましたが、「かし家(や)はちょいと……」と全く思い当らない風(ふう)でした。私は望(のぞみ)のないものと諦(あき)らめて帰り掛けました。すると上さんがまた、「素人下宿(しろうとげしゅく)じゃいけませんか」と聞くのです。私はちょっと気が変りました。静かな素人屋(しろうとや)に一人で下宿しているのは、かえって家(うち)を持つ面倒がなくって結構だろうと考え出したのです。それからその駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教えてもらいました。

 それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清(にっしん)戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、市ヶ谷(いちがや)の士官(しかん)学校の傍(そば)とかに住んでいたのだが、厩(うまや)などがあって、邸(やしき)が広過ぎるので、そこを売り払って、ここへ引っ越して来たけれども、無人(ぶにん)で淋(さむ)しくって困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです。私は上さんから、その家には未亡人(びぼうじん)と一人娘と下女(げじょ)より外(ほか)にいないのだという事を確かめました。私は閑静で至極(しごく)好かろうと心の中(うち)に思いました。けれどもそんな家族のうちに、私のようなものが、突然行ったところで、素性(すじょう)の知れない書生さんという名称のもとに、すぐ拒絶されはしまいかという掛念(けねん)もありました。私は止(よ)そうかとも考えました。しかし私は書生としてそんなに見苦しい服装(なり)はしていませんでした。それから大学の制帽を被(かぶ)っていました。あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだといって。けれどもその頃の大学生は今と違って、大分(だいぶ)世間に信用のあったものです。私はその場合この四角な帽子に一種の自信を見出(みいだ)したくらいです。そうして駄菓子屋の上さんに教わった通り、紹介も何もなしにその軍人の遺族の家(うち)を訪ねました。

 私は未亡人(びぼうじん)に会って来意(らいい)を告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらについて色々質問しました。そうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも引っ越して来て差支(さしつか)えないという挨拶(あいさつ)を即坐(そくざ)に与えてくれました。未亡人は正しい人でした、また判然(はっきり)した人でした。私は軍人の妻君(さいくん)というものはみんなこんなものかと思って感服しました。感服もしたが、驚きもしました。この気性(きしょう)でどこが淋(さむ)しいのだろうと疑いもしました。

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