高千穂さんのご縁です。

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高千穂さんのご縁です。 episodes

  • 【心に涼風を】──蝉の声に映る命の無常と今を精一杯生きる教え

    🔶二十四節気「大暑」と土用の丑の日の由来

    一年の中で最も暑さが厳しくなる二十四節気の「大暑(たいしょ)」を迎え、厳しい酷暑が続いています。この時期の風物詩といえば「土用の丑の日」の鰻(うなぎ)ですが、夏場に鰻を食べる風習は江戸時代、夏場に売上が落ちて困っていた鰻屋から相談を受けた蘭学者の平賀源内が、「本日 土用丑の日」という貼り紙を店先に掲げさせたところ大繁盛したことが始まりとされています。

    こうした猛暑の中、仏嚴寺の前住職である祖父・高千穂将史(まさふみ)が昭和60年(1985年)頃に遺したコラム「心に涼風を」に触れながら、現代を生きる私たちの命のあり方について見つめ直します。


    🔶松尾芭蕉の句「やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声」の二つの味わい

    かつてお寺で配布していたコラムには、境内で激しく鳴く蝉(セミ)と、江戸時代の俳人・松尾芭蕉が詠んだ句「やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声」を通じた二つの深い味わいが記されていました。

    一つ目は「わずか1週間の儚い命であることも知らず、のんきに浮かれてただワシワシと鳴いていることよ」という自省の味わいです。将史元住職は「自分も時折、『お前さん、もう長い命ではないのだよ。何を呆けて暮らしているのか』と自分自身に問いかけている」と述べています。

    二つ目は「やがて死にゆく運命であることを知りながらも、蝉は今の今を力の限り命を歌い上げていることよ」という感銘の味わいです。儚い命だからこそ、投げやりになるのではなく「今日の1日を精一杯生きねばならない」という教えを、蝉の声が私たちに届けてくれています。


    🔶時代が変わっても変わらない「命の無常」

    昭和60年当時、境内に蝉取りに来る子どもたちの姿が減り、室内遊びや塾へと環境が変化していった様子がコラムに綴られていました。現代ではさらに環境が変わり、気温が35度を超える猛暑日には蝉すら鳴かなくなるような酷暑の時代を迎えています。

    しかし、2500年前のお釈迦さまの時代から、昭和、そして現代に至るまで、科学技術が発達し平均寿命が延びたとしても、決して変わらない事実があります。それは「人間は必ず命を終えていく(無常)」という命のあり様です。どれほど時代や環境が移り変わろうとも、私たちは限られた時間の中で生かされているという根本的な真理は変わりません。


    🔶お寺という「心のオアシス」と地域のハブ

    かつてのお寺は、境内が子どもたちの格好の遊び場であり、地域の人々が自然と集うコミュニティの拠点(ハブ)でした。江戸時代には、お寺の軒先でお坊さんとお侍さんが酒を酌み交わして語り合うような、極めて身近で開かれた空間でした。

    「お寺は敷居が高い」と感じられがちな現代ですが、決してそんなことはありません。都市の喧騒や猛暑の中でふと立ち寄り、冷たいお茶を飲みながら心を静め、句やみ教えに触れて「心の涼風」を感じていただくような、地域のオアシスとして気軽にお参りしていただくことが本来のお寺の姿です。


    🔶今週のまとめ

    【1】二十四節気の「大暑」や「土用の丑の日」など夏の節目を迎える中、前住職のコラムを通じて「心に涼風」を届ける命の対話が展開されました。

    【2】松尾芭蕉の句「やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声」には、自らの無常を忘れて呆けて生きる自己への戒めと、有限の命を精一杯生き抜く姿という二つの味わいがあります。

    【3】昭和60年頃と現代では子どもたちの過ごし方や気候環境が変化しましたが、「人は必ず命を終えていく」という仏教の説く無常の理(ことわり)は変わりません。

    【4】昔のお寺は子どもたちの遊び場や地域の交流拠点であり、現代においても敷居が高い場所ではなく、誰でも気軽に心を調えられる空間です。

    【5】慌ただしい日々の中で一息つき、自分自身の命の限界と向き合いながら「今日の1日を精一杯生きる」ことの大切さを学ぶことが、心に確かな涼風をもたらします。


    次回テーマは「仏教とハワイ」です。

    どうぞお楽しみに。


    お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。

    お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

    9 min
  • 【お盆の意味】──盂蘭盆会の由来と世界に広がるお念仏のご縁

    🔶盂蘭盆会の由来と目連尊者の物語

    お盆の正式名称は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といい、その語源は古代インドのサンスクリット語である「ウランバーナー(ullambana)」に由来します。これには「逆さ吊りの苦しみ」という意味があります。

    その由来は『仏説盂蘭盆経(ぶっせつうらぼんきょう)』というお経に説かれています。お釈迦さまの弟子で、優れた神通力を持つことから「神通第一(じんづうだいいち)」と称された目連尊者(もくれんそんじゃ)が、あるとき「亡くなった母は今どこでどうしているだろうか」と自らの神通力で霊界を見渡しました。すると、母親は貪りの罪によって餓鬼道(がきどう)という苦しみの世界に落ちており、まさに逆さ吊りのような凄惨な苦しみを受けていたのです。

    悲しんだ目連尊者が「どうすれば母を救えますか」とお釈迦さまに乞うたところ、「夏の厳しい修行(安居)が終わる 7月15日に、多くの修行僧たちに食べ物や飲み物をお供えして深く供養しなさい。その功徳によって母親は救われるであろう」と教えられました。目連尊者がその通りにお勤めをすると、母親は無事に餓鬼道の苦しみから解き放たれたといいます。これが、私たちが今日営んでいるお盆の始まりです。


    🔶日本のお盆の歴史と浄土真宗の受け止め方

    日本におけるお盆の歴史は非常に古く、『日本書紀』には推古天皇14年(606年)にお盆の行事を行ったという記述が残されています。今からおよそ1400年以上も昔から、日本では亡き人を偲び、命のつながりを確かめる大切な行事として全国へ広がっていきました。

    なお、一般的にはお盆の飾り付けとして「きゅうりの馬」や「ナスの牛」(精霊馬・精霊牛)を用意する風習がありますが、浄土真宗においてはこれらを用いません。これらは日本古来の民間信仰や民俗風習が仏教行事と結びついて生まれたものです。浄土真宗では、亡くなられた方は阿弥陀さまの導きによって即座にお浄土で仏さまとなられている(往生即成仏)と受け止めるため、迷って現世に戻ってくることもなければ、移動のための乗り物を必要とすることもない、という教えの真髄に基づいているためです。


    🔶「7月盆」と「8月盆」──明治の改暦に隠された財政事情

    現在、日本には7月にお盆を行う地域(新暦盆)と、8月に行う地域(月遅れ盆・旧盆)が混在していますが、これには明治時代の「改暦」という近代化政策が大きく関係しています。

    もともとお盆は旧暦の7月15日に行われていましたが、明治5年、明治政府は西洋諸国と暦を合わせるために太陽暦(新暦)の導入を発表しました。これにより、明治5年12月2日の翌日が一気に「明治6年1月1日」となったのです。月の満ち欠けを基準とする旧暦(太陰太陽暦)は1年が約354日であるため、数年に一度「閏月(うるうづき)」が入って1年が13ヶ月になる年がありました。

    実は、当時の明治政府は極めて深刻な財政難に陥っていました。旧暦のままだと翌年に13ヶ月目が訪れ、官吏や軍人への給料を1ヶ月分多く支払わなければならなくなります。それを避けるために急遽新暦を導入し、1ヶ月分の支給を免れるという財政対策の側面がこの改暦には隠されていたのです。

    新暦への突然の移行により、本来の7月15日にお盆をしようとすると、農村部では最も忙しい農繁期と重なってしまい、お盆どころではなくなってしまいました。また、昔の農家にとってお盆は、普段なかなか口にできない大切な白米をいただくお祭りのような意味合いもありました。そこで、生活や農業のサイクルに配慮し、1ヶ月季節を遅らせて平穏にお勤めできるようにしたのが、現在の「8月盆(月遅れ盆)」の始まりです。


    🔶アメリカ日系社会へ渡った盆踊りとアイデンティティ

    お盆の象徴である「盆踊り」は、本来は一遍(いっぺん)上人などが広めた「踊り念仏(おどりねんぶつ)」という別の宗派の文化に由来するため、日本の浄土真宗においては歴史的にあまり馴染みのないものでした。しかし興味深いことに、太平洋を渡ったアメリカやハワイの日系社会において、この盆踊り(Bon Dance)を文化として定着させ、広く発展させたのは浄土真宗の開拓伝道使たちでした。

    異国の地へ移住した日系移民の方々にとって、現地の開拓寺院(お寺)はみ教えを聞く場であると同時に、同じルーツを持つ仲間たちが集うかけがえのないコミュニティの拠点でした。ハワイやアメリカ西海岸のお寺では、お盆の時期になると盛大なバザーが開かれ、お寺の裏に据えられた巨大な石窯やグリルで「テリヤキチキン」を豪快に焼いて売り出し、みんなで盆踊りを踊って遠い日本の故郷に想いを馳せました。

    さらに、第二次世界大戦中に日系人の方々が強制収容所へと隔離された際にも、彼らは収容所の中で欠かさず盆踊りを催していました。過酷な逆境にあっても、自分たちのアイデンティティと文化を守り抜き、お念仏のみ教えを心の拠り所として生き抜くために、お盆と盆踊りは彼らにとって絶対に必要な魂の灯火だったのです。国籍や言語が変わっても、お念仏を喜び、ご縁を大切にする心は世界中で力強く息づいています。


    🔶命のご縁を喜び、本堂へお参りするお盆

    時代や場所が変わっても、お盆の本質は変わりません。それは、先にお浄土へ還られた大切な方々の命を尊い「ご縁」として、いま生きているこの私が、阿弥陀さまの救いのみ教え(お念仏)に出会わせていただくということです。

    お盆の時期にお墓参りへ行かれる際は、お墓の前だけでお参りを済ませるのではないでなく、ぜひお寺の本堂へも足を運び、阿弥陀さまの前でお参りください。故人が遺してくれた尊い結びつきに感謝しながら、本堂の清らかな空間で共にお念仏を称え、いつでも私を見捨てることなく包み込んでくださる阿弥陀さまの大いなる慈悲のぬくもりに、改めて出遇い直す素晴らしいお盆をお過ごしいただきたいと思います。


    🔶今週のまとめ

    【1】お盆の正式名称である「盂蘭盆会」は、お釈迦さまの弟子である目連尊者が、餓鬼道で「逆さ吊りの苦しみ(ウランバーナー)」を受けていた実母を救ったという『盂蘭盆経』の物語に由来します。

    【2】日本のお盆は推古天皇の時代(606年)から続く古い伝統ですが、浄土真宗では、亡き人はすでに浄土で仏となられている(往生即成仏)と受け止めるため、精霊馬(きゅうりの馬やナスの牛)などの飾りは用いません。

    【3】「7月盆」と「8月盆」の混在は、明治5年の太陽暦(新暦)導入が原因であり、当時の明治政府が閏月による給料の重複支給を防ぐという財政難対策の側面も含まれていました。

    【4】一遍上人の「踊り念仏」に由来する盆踊りは、アメリカやハワイの日系社会では浄土真宗の伝道によって広く普及し、戦時の強制収容所でもアイデンティティを守る心の支えとして踊り継がれました。

    【5】お盆は亡き人を縁として今を生きる私たちが心静かにお念仏のみ教えに出会う尊いご縁であり、お墓参りと共にお寺の本堂へもお参りし、阿弥陀さまの救いを喜ぶことが本来の過ごし方です。


    次回テーマは「心に涼風を」です。

    どうぞお楽しみに。


    お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。

    お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

    9 min
  • 【法事の意味】──悲しみを癒し、私がみ教えに出会うご縁

    🔶年忌の数え方と儒教・十王信仰に由来する歴史

    私たちが日常的にお勤めする法事は、正式には「年忌法要(ねんきほうよう)」と呼びます。お葬式やお通夜、四十九日の「満中陰(まんちゅういん)」に始まり、その後は一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌と続いていきます。

    ここで「なぜ一周忌の翌年が三回忌なのか」と疑問に思う方も多いでしょう。これには諸説ありますが、一説には中国の儒教の習慣が元になっているといわれています。儒教の喪服の期間において、亡くなって13ヶ月目を「少祥(しょうしょう)」、25ヶ月目を「大祥(だいしょう)」と呼び、これが日本の一周忌(満1年)と三回忌(数え年で3年=丸2年後)の起源となりました。

    また、なぜ「3」や「7」のつく年に法事を行うのかという点についても、江戸時代に無著道忠(むちゃくどうちゅう)が編纂した辞書『禅林象器箋(ぜんりんぞうきせん)』などの古書に歴史が記されています。『地蔵菩薩発心因縁十王経(じぞうじゅうおうきょう)』に代表される十王信仰や、中国の故事が日本の伝統文化と融合し、長い歴史を経て現在の年忌のサイクルが定着していきました。


    🔶悲しみを癒すプロセスと故人の記憶の継承

    数年ごとに巡ってくる法事のサイクルには、遺された私たちが「悲しみを癒していく大切なプロセス(過程)」としての意味が込められています。

    身近な人を亡くした直後は深い悲しみに暮れますが、一周忌、三回忌とお勤めを重ねる中で、少しずつ心の痛みが和らいでいきます。そして七回忌や十三回忌ともなると、亡くなったおじいちゃんやおばあちゃんの顔を直接知らない小さなお孫さんが同席することもあります。そうした席で「この家はおじいちゃんが建ててくれたんだよ」「こういう優しい人だったんだよ」と、みんなで思い出話を語り合うことこそが何よりの供養となります。時の経過とともに薄れがちな故人の記憶を家族や友人で共有し、次の世代へと受け継いでいくための、法事は実によくできた尊いサイクルなのです。


    🔶浄土真宗における法要の四つの意義

    仏教において法事中にお経をあげることには、大きく分けて四つの大切な意味(意義)があるといわれています。

    一つ目は「仏徳讃嘆(ぶっとくさんたん)」。仏さまの計り知れないお徳を、声を揃えて褒め称えることです。

    二つ目は「仏徳領受(ぶっとくりょうじゅ)」。仏さまの尊いみ教えを、自らの心にしっかりと受け入れることです。

    三つ目は「仏恩報謝(ぶつおんほうしゃ)」。仏さまから注がれている大いなる慈悲に対して、心からの感謝を伝えることです。

    四つ目は「仏徳奉行(ぶっとくぶぎょう)」。いただいたみ教えを日々の生活の拠り所とし、しっかりと歩んでいくことを誓うことです。

    この四つの歩みを参拝者全員で共有することが、法事という儀式の本質なのです。


    🔶追善供養ではなく「私のための法事」

    ここで最も大切なのは、浄土真宗における法事は「遺された者が、亡き人を迷わないようにあの世へ吊り上げるために行うものではない」という点です。

    一般的な仏教では、遺族が善い行いをしてその功徳を故人に届ける「追善供養(ついぜんくよ長)」という考え方がありますが、浄土真宗は異なります。亡くなられた方は、阿弥陀さまの導きによってすでに迷うことなくお浄土で仏さまとなられている(往生即成仏)と受け止めるからです。

    したがって、法事は「これだけ供養してやったからもう安心だろう」と善根を積む場ではなく、他でもない「今を生きるこの私」が、故人を縁としてお念仏のみ教えに出会い、自らの命のあり方を見つめ直すために開かれている場なのです。


    🔶仏前へのお供え物の心得と「向き」の真実

    法事やお墓参りの際、仏前や墓石にお酒やタバコをお供えされる方をよく見かけます。「故人が生前に好きだったから」という優しいお気持ちからでしょう。しかし、仏教(特にお浄土の清浄さを重んじる浄土真宗)においては、実はこれらはあまりふさわしくないお供え物とされています。

    仏前へのお供えの基本は、お香、お灯明(ローソク)、お花、そして仏飯(お仏飯)や果物などの「五聖(五供)」です。故人が欲しがるものをこちらから一方的に送り届けるという「向き」ではなく、仏さまとして完成された清らかな世界に対し、私たちが敬意を持って身構えを調え、み教えに耳を傾けさせていただくという「向き」が大切です。このお供え物の本来の意味を一つ胸に留めておくだけで、法事の合掌の深さは大きく変わるはずです。



    🔶今週のまとめ


    【1】法事(年忌法要)の数え方は、満1年目に行う「一周忌」を除き、すべて数え年(三回忌は丸2年後、七回忌は丸6年後)で計算されます。


    【2】一周忌(少祥)や三回忌(大祥)といった年忌の数字は、中国の儒教の風習や『禅林象器箋』に記される十王信仰などが、長い日本仏教の歴史の中で培われて定着したものです。


    【3】定期的に巡ってくる年忌法要には、遺族が亡き人を偲びながら悲しみを癒す心理的なプロセスとしての役割があり、故人の思い出を次世代へ語り継ぐ大切な機会となっています。


    【4】浄土真宗の法事には「仏徳讃嘆」「仏徳領受」「仏恩報謝」「仏徳奉行」の四つの意義があり、故人を追善供養するためではなく、「今生きる私がみ教えに出会うため」に修されます。


    【5】仏前へのお供えは、故人の嗜好品(お酒やタバコなど)を届けるのではなく、仏さまのお飾りとしてふさわしい五供を調え、私たちが仏さまと向き合わせていただく場であることを心得ることが大切です。


    次回テーマは「お盆(おぼん)のお話」です。

    どうぞお楽しみに。


    お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。

    お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

    10 min
  • 【仏教と七夕】──短冊に託す「人間の願い」と私を案じる「仏の願い」

    🔶棚機津女の神事と中国から伝わった乞巧奠

    7月7日の「七夕」は、古くは「七夕(しちせき)の節句」と呼ばれ、江戸時代には五節句の一つとして庶民の間にも広く定着した日本の伝統行事です。そのルーツは、日本古来の神事と中国の伝説が融合したものといわれています。

    元来、日本では「棚機(たなばた)」という織機を用い、選ばれた清らかな女性が水辺の「機屋(はたや)」にこもって神様のための着物を織り、秋の豊作を祈って人々の穢れを祓う「棚機津女(たなばたつめ)」の神事が行われていました。やがて仏教が伝来すると、この行事はお盆(ご先祖さま)を迎えるための準備として、7月7日の夜に行われるようになります。そこに、中国から伝わった織物や芸事の上達を願う「乞巧奠(きこうでん)」の風習と、織姫・彦星の星祭り伝説が結びつき、現在の七夕の形が形作られていきました。


    🔶夜空に広がる織姫と彦星の星祭り伝説

    プラネタリウムなどでも親しまれている星祭り伝説では、天の川のほとりで神々の着物を織っていた真面目な娘・織女(しょくじょ/織姫)と、牛を飼う青年・牽牛(けんぎゅう/彦星)が登場します。天空で最も偉い神様である天帝の引き合わせで結婚した二人ですが、仲が良すぎるあまり、次第に仕事を忘れて遊び呆けるようになってしまいました。

    織物が滞って神々の着物はボロボロになり、牛たちも病気になってしまったことに怒った天帝は、二人を天の川の両岸に引き離してしまいます。しかし、二人があまりにも悲しみに暮れるため、天帝は「真面目に働くならば、年に一度、7月7日の夜だけ会うことを許す」と約束しました。現在、私たちが夜空を見上げる時、こと座の一等星ベガ(織姫)と、わし座の一等星アルタイル(彦星)の間に、美しく横たわる天の川を観察することができます。


    🔶五色の短冊と笹竹に込められた魔除けの意味

    七夕といえば、笹の葉に色とりどりの短冊を飾る光景が思い浮かびます。古来、笹竹には神聖な力が宿り、神様が降り立つ依り代(よりしろ)であると考えられていました。

    短冊に用いられる「五色(ごしき)」の青(緑)・黄・赤・白・黒(紫)は、中国の「陰陽五行説」に由来しており、魔除けの意味が込められています。同時に、これらは仏教の万国共通の旗である「仏旗」の五色にも通じる清らかな色合いです。江戸時代に庶民の間へ広がると、寺子屋で学ぶ子供たちが「習字や手習いが上手になりますように」と短冊に願い事を書くようになり、現代へと続く七夕の風習が完成していきました。


    🔶「私の願い」と「阿弥陀さまの願い」の逆方向

    仏教的な視点で七夕を見つめ直すとき、そこには「願い」という深い共通点が見えてきます。私たちは短冊に「字が上手になりますように」「お金がたくさん入りますように」と、自らの欲求や願いを書き込みます。織姫と彦星の願いもまた、「大切な人に会いたい」という自らの切実な想いです。これらはすべて、自分を起点として外側へと向かう「人間の願い」といえます。

    しかし、仏教、特に浄土真宗で説かれる「願い」は、これとは全く向きが逆になります。それは、阿弥陀如来という仏さまが「この私」を目当てとして、あらゆる苦しみから必ず救い取るために建ててくださった「仏さまの願い(本願)」です。私たちが自らの小さな願いに一喜一憂している時、その足元では、仏さまの大きな願いに包まれ、常に願われながら生かされている。七夕という行事は、短冊に目を向けながらも、同時に「私を案じてくださる大きな存在」に気づかされる尊いご縁でもあるのです。


    🔶伝統行事を通して振り返る子供の成長と地域の思い出

    かつて熊本市中央区新町にあった「熊本市子ども文化会館」などの児童館でも、七夕の行事は子供たちの健やかな遊びや学びの場として大切にされてきました。学校給食で出された行事食の「七夕ゼリー」を、懐かしく思い出される方も多いのではないでしょうか。

    子供たちが一生懸命に短冊に書いた願い事は、親が我が子の心の成長や変化をそっと知るための、温かい道標(みちしるべ)にもなります。忙しい現代社会だからこそ、季節の伝統行事を通じて日々の生活を振り返り、自分自身の姿を省みるとともに、人と人との繋がりや、仏さまとの尊いご縁を改めて味わいたいものです。


    🔶今週のまとめ

    【1】7月7日の七夕は、日本古来の「棚機津女」の神事とお盆を迎える風習、そして中国から伝わった「乞巧奠」や星祭り伝説が融合して生まれた伝統行事です。

    【2】織姫(こと座のベガ)と彦星(わし座のアルタイル)の伝説は、年に一度の再会を励みに真面目に勤めることの大切さを現代に伝えています。

    【3】神聖な力が宿るとされた笹竹に飾る「五色の短冊」は、陰陽五行説に基づく魔除けの道具であり、江戸時代の寺子屋教育などを通じて広く普及しました。

    【4】短冊に書く「人間の願い」が自分を起点にしているのに対し、浄土真宗の説く「阿弥陀さまの願い(本願)」は、仏さまから私へと注がれる無条件の慈悲の光です。

    【5】伝統行事や地域での思い出を通じて自らの姿を省み、自分が多くの命や仏さまに「願われている存在」であることに気づくことが大切です。


    次回テーマは「法事(ほうじ)の意味」です。

    どうぞお楽しみに。


    お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。

    お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

    9 min
  • 【浄土真宗と聖徳太子(後編)】──親鸞聖人が仰いだ観音の化身

    🔶親鸞聖人が「和国の教主」と讃えた聖徳太子

    先週に引き続き、「浄土真宗と聖徳太子」というテーマでさらに深くお話を伺います。日本仏教の恩人である聖徳太子は、浄土真宗の宗祖・親鸞(しんらん)聖人から「和国の教主(わこくのきょうしゅ)」、すなわち「日本におけるお釈迦さま」として深く敬われました。そのお徳を偲び、浄土真宗の寺院の本堂内陣(仏さまが安置されている空間の向かって右側)には、今も聖徳太子の絵像や木像が大切に掲げられています。親鸞聖人の生涯と聖徳太子の間には、聖人自身の歩みを大きく決定づける極めて深い結びつきがありました。


    🔶『皇太子聖徳奉讃』にみる慈悲の和歌

    親鸞聖人は、聖徳太子を称える多くの和歌(和讃)を残されており、それらは『皇太子聖徳奉讃(こうたいししょうとくほうさん)』として現代に伝わっています。その中の一首をご紹介します。


    「救世観音大菩薩 聖徳皇と顕現し 父のごとくに捨てずして 母のごとくに添うたもう」


    この歌は、「救世観音(くぜかんのん=観世音菩薩)が聖徳太子としてこの世に姿を現し、まるで実の父母が我が子を慈しむように、私たちを見捨てることなくいつも寄り添ってくださっている」という意味です。仏教において観世音菩薩は阿弥陀さまの慈悲の働きを助け、人々の苦しみを救う仏さまです。日本では古くから「聖徳太子は観音さまの化身である」という太子信仰が盛んでしたが、親鸞聖人もまた、太子の中に無限の慈悲を見出されていました。


    🔶六角堂での夢告とお念仏への導き

    親鸞聖人が阿弥陀さまの「お念仏のみ教え」に出会う大きな転機となったのも、実は聖徳太子とのご縁でした。聖人は9歳から20年もの間、比叡山で過酷な修行を重ねられましたが、自らの力で煩悩を断ち切ることができず深く悩まれました。そこで29歳の時、意を決して山を降り、太子にゆかりの深い京都の六角堂へ百日間の参籠(さんろう)に入られます。

    その95日目の暁、聖徳太子の化身である観音菩薩が夢の中に現れ、「示現(じげん)の文」と呼ばれるお告げを授けられました。その内容は、「自力で煩悩を断ち切ろうと苦しむのではなく、ありのままの自分を救い取ってくださる阿弥陀さまにお任せ(他力念仏)しなさい」という、進むべき道を示すものでした。この夢告をきっかけに、聖人は生涯の師である法然(ほうねん)上人のもとを訪ね、浄土真宗の基盤となるお念仏の道へと歩み出されたのです。


    🔶絵像や彫像にみる太子の真実の姿

    お寺に安置されている聖徳太子の姿は、私たちがよく知る旧一万円札の烏帽子姿とは異なります。仏教の世界で広く親しまれているのは、髪を左右でお団子のように結った「角髪(みずら)」姿で、「柄香炉(えごうろ)」という仏具を手にした16歳の頃のお姿(孝養像)です。これは、病の床に伏せった父・用明天皇の平癒を心から祈願し、仏法僧の三宝を大切にされた太子の至純な心を写したものです。

    また、わずか2歳にして東を向いて合掌し、「南無仏(なむぶつ=仏さまに帰依します)」と唱えられた瞬間の愛らしいお姿(南無仏太子像)など、関西をはじめ全国の古いお寺には多様な太子像が残されています。私たちの仏嚴寺にも、そうした歴史の重みを伝える尊い聖徳太子像が大切に受け継がれています。


    🔶日本人のDNAに息づく仏教の始まり

    仏教が日本に伝来した当初、それを国家として受け入れるべきか否かを巡り、物部(もののべ)氏(廃仏派)と蘇我(そが)氏(崇仏派)の間で激しい論争と対立がありました。聖徳太子はその対立を乗り越え、仏教の精神を政治と国づくりの根本に据えることで、日本独自の文化の礎を築かれました。

    もしこれが権力による力ずくの強制であったなら、1500年もの長い間、仏教が民衆に受け入れられ、受け継がれてくることはなかったでしょう。人々が苦しみから救われる道を第一に考えた太子の精神があったからこそ、仏教は日本人の生活や精神の奥深いところ(DNA)にまで溶け込んでいるのです。飛鳥・奈良・平安と時代を経て発展していく日本仏教のすべての始まりの場所には、いつも聖徳太子の温かいまなざしがありました。


    🔶今週のまとめ

    【1】親鸞聖人は聖徳太子を「和国の教主」「日本仏教の父」と仰ぎ、真宗寺院の本堂内陣には今も大切に太子の絵像が掲げられています。

    【2】聖人による『皇太子聖徳奉讃』の和歌では、聖徳太子を観世音菩薩の化身とし、親のように私たちに付き添う慈悲のお姿として讃えています。

    【3】比叡山での修行に悩んだ親鸞聖人は、六角堂の参籠中に聖徳太子(観音の化身)からの夢告を受け、法然上人のお念仏のみ教えへと導かれました。

    【4】太子像には、父の病気平癒を祈る16歳の「孝養像」や、合掌して南無仏と唱える2歳の「南無仏太子像」など、信仰に満ちた姿が伝わっています。

    【5】仏教伝来の論争を経て、太子がみ教えを政治と国づくりの根本に据えたからこそ、仏教は日本人の生活や心に深く根付くこととなりました。


    次回テーマは「仏教と七夕(たなばた)」です。

    どうぞお楽しみに。


    お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。

    お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

    9 min
  • 【聖徳太子】──日本仏教の父と「和国の教主」の精神

    🔶厩戸皇子から聖徳太子へ、激動の時代と仏教伝来

    近年、学校の教科書などでは当時の名である「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」という表記が増えていますが、没後に「聖徳太子」の諡号(しごう)が贈られたこの方は、日本の仏教史上、極めて重要な人物です。浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、太子を「和国の教主(わこくのきょうしゅ)」、すなわち「日本の釈尊(お釈迦さま)」であると深く崇め奉りました。そのため、真宗の寺院の本堂内陣(向かって右側)には必ず聖徳太子の絵像や木像が安置されており、今も大変大切にされています。

    仏教が日本に伝来した時期には、公伝とされる538年や『日本書紀』に記された552年など諸説ありますが、その少し後の574年、用明天皇の第二皇子として太子は誕生されました。当時は、百済などから伝わった未知の教えである仏教を受け入れるべきか否かという「崇仏論争」が激化していた、まさに激動の時代でした。


    🔶十七条憲法に込められた「篤く三宝を敬え」の精神

    わずか20歳で推古天皇の摂政となった聖徳太子は、政治の根本に仏教の精神を据え、国家の基盤づくりに尽力されました。西暦604年に制定された「十七条憲法」の第二条には、「篤く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」と記されています。

    ここでいう「僧」とは、単に個人の僧侶を指すのではなく、サンスクリット語の「サンガ(ともに仏教を学ぶ仲間の集い・教団)」を意味します。太子は、蘇我馬子(そがのうまこ)らと共に仏教を国教的なよりどころとすることで、人々が争いをやめ、互いを尊重し合える平和な国を目指されたのです。


    🔶冠位十二階と法隆寺・四天王寺の建立にみる平等思想

    太子の功績である「冠位十二階」の制定も、非常に仏教的な平等精神に基づいています。それまでの家柄や身分による世襲制を排し、個人の才能や功績に応じて役職(冠位)を与えるというこの制度は、全ての人が平等に仏性(ぶっしょう)を持つという仏教の教えに通じるものがあります。

    また、父である用明天皇の遺志を継ぎ、推古天皇と共に建立した「法隆寺」をはじめ、日本最古の官寺である「四天王寺」など、多くの寺院を建立されました。この大規模な建築事業の功績から、聖徳太子は現代でも大工や建築職人の世界において「職人の守護神」として尊ばれています。江戸時代には、熊本の細川藩の武家屋敷が建てられた際にも、工事の安全を祈願して聖徳太子像が奉納されるなど、地域を超えた篤い信仰を集めました。


    🔶烏帽子姿ではない、お寺に伝わる太子の真実の姿

    かつてのお札に描かれていた烏帽子(えぼし)に笏(しゃく)を持った聖徳太子の肖像画は、後世に描かれたイメージ図です。仏教の世界や古くからのお寺で一般的に安置されている太子の姿は全く異なります。

    幼少期の姿を描いた、頭髪を左右で結ったお団子のような「角髪(みずら)」姿の像や、わずか2歳の時に東を向いて「南無仏(なむぶつ)」と唱えられたお姿を模した、上半身裸の「南無仏太子像」、16歳の時に父の病気平癒を祈った「孝養(くよう)像」など、多様な重要文化財の姿が今に伝わっています。私たちの仏嚴寺にも、そうした古い歴史を持つ由緒ある聖徳太子像が大切に受け継がれています。


    🔶今週のまとめ

    【1】聖徳太子(厩戸皇子)は、親鸞聖人から「和国の教主」と称えられた日本仏教の恩人であり、真宗寺院の本堂にも必ず安置されています。


    【2】十七条憲法で説かれる「三宝(仏・法・僧)」の「僧」とは、単なる僧侶ではなく、共にみ教えを学ぶ仲間(サンガ)を指しています。


    【3】冠位十二階の制定や法隆寺・四天王寺の建立には、身分に捉われず人々が共に手を取り合うという仏教の平等精神が活かされています。


    【4】聖徳太子は建築・大工の世界でも守護神として尊ばれており、熊本の細川藩をはじめ全国各地に太子信仰の形が残されています。


    【5】お札の烏帽子姿は後世の肖像であり、お寺では幼少期の「南無仏太子像」など、み教えを象徴するお姿で親しまれています。

    次回テーマは「浄土真宗と聖徳太子(後編)」です。どうぞお楽しみに。


    お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。

    お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

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  • 【仏教と蓮】──泥中に咲く「妙好人」 み教えの光

    🔶泥中から清らかに咲き誇る悟りのシンボル


    暑い季節を迎えると、水面に美しく大輪の花を咲かせる「蓮(はす)」は、仏教において最も象徴的な植物です。お釈迦さまが誕生されたインドの国花でもあり、仏教では「悟り」や「清らかさ」の象徴とされてきました。蓮は濁った泥の中から茎を伸ばし、泥に染まることなく清浄な花を咲かせます。この姿が、迷いや苦しみに満ちた現実世界(泥)にありながら、それに決して染まらずに清らかな智慧と慈悲(花)を開かせる仏さまの悟りの姿に重ねられているのです。


    🔶『阿弥陀経』が説く「みんな違ってみんないい」の世界


    浄土真宗で大切にされる『仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)』には、お浄土の池に咲く蓮の様子が「池中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光 微妙香潔(ちちゅうれんげ だいにょしゃりん しょうしきしょうこう おうしきおうこう しゃくしきしゃくこう びゃくしきびゃくこう みみょうこうけつ)」と描かれています。青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、それぞれがそのままで輝き、気高い香りを放っています。これは「十人十色」の言葉通り、私たちは誰一人として同じではなく、それぞれが「ありのままの姿」で阿弥陀さまの救いの目当てとなり、お浄土で輝かせていただけるという平等の教えを表しています。


    🔶衆生を救うために一歩を踏み出す前傾姿勢


    阿弥陀如来の立像(立ち姿)を拝すると、蓮の花の台座(蓮台)の上で、少し前方に傾いた「前傾姿勢」をとられていることに気づきます。これは、苦しみの中にある私たちを「必ず救い取る、一刻も猶予していられない」と、座って待つことすらできずに、今すぐこちらへ一歩を踏み出そうとされている慈悲の躍動的なお姿を表しています。どんな時でも私の方を向き、至り届いてくださる阿弥陀さまの強いお心が、その立ち姿に具現化されているのです。


    🔶金子みすゞの詩「蓮と鶏」に響く阿弥陀さまの働き


    浄土真宗の教えに出会い、お念仏を喜びながら人生を歩んだ人々を、仏教では白い蓮華に例えて「妙好人(みょうこうにん)」と称します。26歳という短い生涯を駆け抜けた詩人・金子みすゞさんもまた、真宗のご門徒の家庭に育ち、その豊かな感性で教えを表現した妙好人の一人といえます。彼女の詩「蓮と鶏(にわとり)」にこうあります。泥の中から蓮が咲く。それをするのは蓮じゃない。

    卵の中から鳥が出る。それをするのは鳥じゃない。
    それに私は気がついた。それも私のせいじゃない。蓮が咲くことも、雛が生まれることも、自分の力ではなく自然(じねん)の大いなる働きによるものです。そして「私が今、お念仏を称える身にさせられている」のも自分の力ではなく、前傾姿勢で私を包み込んでくださる阿弥陀さまの「お働き(本願力)」によるご縁だったのだという、深い感謝と喜びがこの詩の背景には息づいています。


    🔶「さびしいとき」の詩にみる摂取不捨の慈悲


    もう一つ、彼女の代表的な詩に「さびしいとき」があります。


    私がさびしいときに、よその人は知らないの。
    私がさびしいときに、お友だちは笑うの。
    私がさびしいときに、お母さんはやさしいの。
    私がさびしいときに、ほとけさまはさびしいの。


    周囲の人がどれだけ寄り添ってくれても、孤独や悲しみを完全に分かち合うことは困難です。しかし、仏さまだけは、私の寂しさをそのままご自身の寂しさとして受け止め、絶対に孤独にはさせない。「摂取不捨(せっしゅふしゃ=おさめとって見捨てない)」という阿弥陀さまの慈悲のぬくもりを、みすゞさんは「ほとけさまはさびしいの」というあまりにも純粋な言葉で表現しました。頭での理解を超え、自らの言葉として阿弥陀さまの真実に出会っていった金子みすゞさんの詩は、今を生きる私たちの心にも、温かい一輪の蓮華を咲かせてくれます。


    🔶今週のまとめ
    仏教において蓮の花は、濁った泥の中から清らかな花を咲かせる「悟り」と「清浄」の象徴です。
    『阿弥陀経』の「青色青光…」の一節は、一人ひとりが個性を保ったありのままの姿で救われていく平等の世界を示しています。
    阿弥陀如来の立像が前傾姿勢なのは、苦しむ私たちを救うため、今すぐに向かおうとされている慈悲の表れです。
    真宗門徒であった金子みすゞさんは、お念仏の喜びを詩に託した「妙好人」ともいえる尊い存在です。
    「蓮と鶏」や「さびしいとき」といった詩の背景には、阿弥陀さまの「お働き」や「摂取不捨」の慈悲が深く息づいています。


    次回テーマは「聖徳太子(しょうとくたいし)」です。

    どうぞお楽しみに。


    お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

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  • 【雨と仏教】──一水四見の智慧と心の安居

    🔶唯識が説く一水四見の教え

    仏教の「唯識(ゆいしき)」という思想の中に、「一水四見(いっすいしけん)」という言葉があります。

    これは「一つの水であっても、見る者の立場や境遇によって四つの異なる見え方をする」という意味です。

    例えば、天上の世界に住む「天人(てんにん)」には美しく透き通った瑠璃(宝石)のように見え、私たち「人間」にはそのままの水に見えます。また、「魚」にとっては大切な住処(すみか)であり、飢えと渇きに苦しむ「餓鬼(がき)」にとっては、燃え盛る炎や恐ろしい膿(うみ)の川に見えるとされています。


    この教えは、私たちが生きる現代社会にも深く通じています。同じ「雨」であっても、仕事や立場、環境が変われば、その捉え方や意味合いは大きく異なります。私たちは誰もが自分自身の価値観や境遇というフィルターを通して世界を見ており、「私の見えている世界がすべてではなく、他者には全く違う世界が見えているかもしれない」と気づくことが、他者を尊重し共生していくための第一歩となります。


    🔶雨季の修行から生まれた「安居」の伝統

    仏教の母国であるインドには、激しい雨が降り続く長い雨季(うき)があります。

    お釈迦さまの時代、古代の仏教教団では、この雨季の期間は外での移動や修行を行いませんでした。

    雨季は多くの小さな生き物たちが地表に這い出してくる時期であり、外を歩き回ることで、それらの尊い命を誤って踏み潰してしまう恐れがあったからです。


    そこで、僧侶たちは一カ所に集まり、外出を控えて熱心に勉強会や修行を行いました。

    このサンスクリット語で「ヴァルシャ」と呼ばれる雨季の引きこもり修行を、漢字では「安らかに居る」と書いて「安居(あんご)」と言います。現在でも、浄土真宗本願寺派をはじめ日本の多くの仏教教団において、この伝統を受け継いだ安居が開催されており、仏教の歴史の中で学問や教理が深く発展していくための極めて重要な契機となりました。


    🔶スマホ社会と読書(晴耕雨読)の大切さ

    雨のために外へ出られない時期は、古くから「晴耕雨読(せいこううどく)」と言われるように、静かに本を開き、学問や読書に励むのに最適な時間です。現代はスマートフォンや電子書籍が非常に便利になり、いつでも手軽に情報を得られるようになりましたが、ともすれば自ら腰を据えて紙の本を読む時間が疎かになりがちです。

    画面をスクロールしてピンポイントの答えだけを拾い上げるネット検索とは異なり、紙の本をめくる読書には、予期せぬ言葉や思想との豊かな出会いがあります。例えば、紙の辞書を引くとき、目的の単語の周囲にある別の言葉がふと目に留まり、それが新たな知識として蓄積されていくような面白さがあります。雨の季節こそ、デジタルから少し距離を置き、自らの手でページをめくる時間を大切にしたいものです。


    🔶AI時代の情報収集と自ら考える力

    近年はAI(人工知能)の進化によって、私たちが検索すらする必要のない時代が到来しています。

    問いかければ一瞬でデータをまとめ、完璧な文章や原稿を作成してくれる非常に便利なツールです。

    実際に、日々の正確なデータ整理などにAIを活用することは有意義ですが、すべてを依存してしまうことには危うさも潜んでいます。

    人間は、どうしても楽な方へと流されてしまいがちな存在です。だからこそ、効率的に得られる答えだけに満足せず、立ち止まって「自分の頭でじっくりと考える」プロセスを失ってはなりません。雨で外に出られない静かな時間は、効率性を求める日常から離れ、自らの内面を見つめ直し、知識を深くインプットするための貴重な「安居」の時間となるのです。


    🔶多様な視点から仏教を学ぶ読書の歓び

    読書を通じて見識を広げることは、自分の狭い殻を打ち破るきっかけをくれます。

    例えば、日本を代表する哲学者・西田幾多郎(にしだ きたろう)の代表作である『善の研究(ぜんのけんきゅう)』や、仏教学者であり哲学者でもある鈴木大拙(すずき だいせつ)の著作は、西洋哲学と東洋の仏教思想を対比させながら、深い知恵を私たちに授けてくれます。

    また、民俗学の創始者である柳田國男(やなぎた くにお)の視点から仏教を紐解くことも、日本人の信仰や生活の根底にある豊かな繋がりを教えてくれます。


    インターネットの世界は、個人の好みに合わせた情報ばかりが流れてくるため、油断すると自分の思想が凝り固まってしまいます。本という開かれたメディアを通じて、自分とは異なる立場や全く新しい視点に触れること。それこそが、一水四見の教えにあるような「多面的なまなざし」を養い、心を柔軟に保つための素晴らしい営みなのです。


    🔶今週のまとめ

    同じ水でも立場によって見え方が変わる「一水四見」の教えは、他者との価値観の違いを理解する智慧を伝えています。

    インドの雨季に生き物を踏まないよう一カ所にこもった「安居」は、仏教の学問が発展する重要な契機となりました。


    スマホやAIの利便性に頼りすぎず、雨の時期こそじっくりと読書をして自ら考えるインプットの時間が大切です。

    西田幾多郎の『善の研究』や鈴木大拙、柳田國男の著作のように、多様な角度から仏教や人間の営みを見つめ直すことが見識を広げます。

    心の凝り固まりをほぐすために、インターネットの枠を超えて多様な視点や言葉に触れることが現代を生きる支えとなります。


    次回テーマは「仏教と蓮(はす)」です。どうぞお楽しみに。


    お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。

    お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

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  • 【お寺の掲示板】──門前から響く「現代のメディア」

    🔶お寺の掲示板の由来と伝道の役割

    お寺の門前に必ずといっていいほど設置されている掲示板は、単なる行事案内(広報)以上の大切な役割を担っています。これらは「伝道掲示板(でんどうけいじばん)」と呼ばれ、明治時代、浄土宗がキリスト教の熱心な伝道活動に影響を受け、仏教の教えを広く一般に伝えるために始めたのがきっかけといわれています。門信徒のみならず、お寺の前を通りがかる人々の目にも留まるよう、仏教の智慧や心のあり方を短く、鋭い言葉で貼り出したのが、現代の形へと受け継がれました。


    🔶「輝け!お寺の掲示板大賞」の広がり

    2018年より、公益財団法人「仏教伝道協会(BDK)」が主催している「輝け!お寺の掲示板大賞」が大きな話題を呼んでいます。SNSの普及により、全国各地のお寺に掲げられたユニークで深い言葉が「バズる」ようになり、ありがたさやインパクト、ユニークさを競うコンテストとして定着しました。これにより、お寺の掲示板は「現代のメディア」として、若い世代を含む幅広い層に仏教の視点を届ける窓口となっています。


    🔶心に刺さる掲示板の言葉たち

    昨年の大賞(2025年)に選ばれたのは、鹿児島県南さつま市の浄土真宗本願寺派・顯證寺(けんしょうじ)の言葉でした。

    「自分ファースト」という貧しさ


    「自分さえ良ければいい」という独りよがりな心を鋭く指摘し、他者への思いやりを問いかける作品です。


    また、第1回(2018年)の記念すべき大賞作品は、岐阜県郡上市の願蓮寺(がんれんじ)によるものでした。


    「おまえも死ぬぞ」釈尊


    衝撃的な一文ですが、これは初期仏典『相応部経典(サンユッタ・ニカーヤ)』にある「生まれたものが死なないということはあり得ない」というお釈迦さまの言葉を、直截的に表現したものです。限られたスペースで、いかに真理を伝えるかという知恵が凝縮されています。


    🔶仏嚴寺の掲示板に込める願い

    私自身、仏嚴寺の掲示板に言葉を書く際は、特に「車からでも読みやすいこと」を意識しています。道路沿いという立地を活かし、大きな文字で、時には漢字一文字でメッセージを届けます。例えば「願(がん)」という一文字を掲げた際は、浄土真宗の根本である「阿弥陀如来の四十八願」や、平和への願いなど、見る人の心に「考察」を促すことを意図しました。かつて祖父が書いた「いのち のびのび」といった、ひらがな主体の柔らかい表現もあり、掲示板にはそのお寺や住職の「カラー」が如実に表れます。


    🔶門前から始まる仏教との対話

    お寺の掲示板は、日常生活の中でふと立ち止まり、自分を見つめ直す「心の鏡」のような存在です。最近では切り絵やイラストを添えたり、謎解きのような深い言葉を掲げたりするお寺も増えており、掲示板を通じて住職との対話や交流が生まれることもあります。掲示板の言葉を見て「どういう意味だろう?」と興味を持たれたら、ぜひ気軽にお寺の門を叩いてみてください。その一言が、仏教という深い智慧の世界への入り口になるはずです。


    🔶今週のまとめ

    お寺の掲示板は「伝道掲示板」と呼ばれ、明治時代にキリスト教の影響を受けて、教えを広めるメディアとして始まりました。

    「輝け!お寺の掲示板大賞」をきっかけに、ユニークで深い言葉がSNSで注目され、仏教の智慧が身近なものとなっています。

    顕正寺の「自分ファーストという貧しさ」や願蓮寺の「おまえも死ぬぞ」など、短い言葉の中に仏教の本質が込められています。

    掲示板は車から見やすい文字の大きさや、見る人が考察できる言葉選びなど、お寺ごとの個性や願いが反映されています。

    掲示板の言葉をきっかけにお寺に立ち寄るなど、門前を起点とした地域との交流も大切にされています。


    次回テーマは「雨と、仏教」です。

    どうぞお楽しみに。


    お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。

    お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。


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  • 【降誕会】──親鸞聖人のご生涯を辿る

    🔶降誕会の由来と激動の時代背景

    5月21日は、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人のご誕生をお祝いする「降誕会(ごうたんえ)」です。聖人は西暦1173年(承安3年)、京都の日野の里(現在の京都市伏見区)にて、日野有範(ひの ありのり)卿の長男としてお生まれになられました。当時は平安時代の末期、平家が栄華を極める一方で、大火災や大飢饉、疫病といった自然災害が次々と都を襲った「末法の世」とも呼べる激動の時代でした。


    🔶比叡山での修行と六角堂の夢告

    親鸞聖人はわずか9歳で出家され、比叡山へと登られました。以来20年間にわたり、煩悩を断ち切り迷いを超える道を求めて懸命に修行に励まれましたが、どうしても真の悟りを見出すことはできませんでした。29歳の時(1201年・建仁元年)、聖人は比叡山を降り、京都の六角堂に百日間の参籠(さんろう)をされました。その95日目の暁、救世観音(くぜかんのん)の夢告を受け、導かれるように法然上人のもとを訪ねられたのです。


    🔶承元の法難と越後への流罪

    法然上人が説く「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」の教えに出会われた聖人は、誰もが等しく救われる道に確信を得られました。しかし当時、この教えは既存の仏教界から異端視され、ついに1207年(承元元年)、「承元の法難(じょうげんのほうなん)」が起こります。後鳥羽上皇の怒りを買った法然上人は土佐へ(後に実質は讃岐)、親鸞聖人は越後(現在の新潟県)へと流罪に処されました。厳しい逆境の中でも、聖人はお念仏の教えを広め続けられました。


    🔶「非僧非俗」の歩みと恵信尼公との生活

    越後の地で、聖人は恵信尼(えしんに)公とご結婚されました。当時の僧侶にとって「肉食妻帯(にくじきさいたい)」は許されないことでしたが、聖人はあえて自らを「非僧非俗(ひそうひぞく)」、つまり僧でも俗人でもない立場に置き、民衆と同じ目線で生活を共にされました。食生活や家族を持つことが救いの妨げにはならないというその姿勢は、どのような環境に生きる人々であっても阿弥陀さまの救いから漏れることはないという、教えの真髄を体現されたものでした。


    🔶関東での布教と九十年のご生涯

    流罪が許された後、聖人は家族と共に拠点を関東(常陸国など)に移し、20年以上にわたって農民などの庶民にお念仏を伝えられました。その後、60歳を過ぎて京都へ戻られ、1263年(弘長2年)1月16日に90歳でそのご生涯を終えられました。聖人が好まれた「小豆(あずき)」にちなみ、現在も各地の寺院では法要の際に小豆粥やお赤飯が振る舞われています。どのような条件もつけずに「ありのまま」を救い取る阿弥陀さまの慈悲を説き続けた聖人の歩みは、今も多くの人々の心の支えとなっています。


    🔶今週のまとめ

    5月21日は親鸞聖人の誕生日を祝う「降誕会」であり、聖人が歩まれた激動の90年を偲ぶ大切な日です。

    比叡山での20年にわたる修行を経て、六角堂の参籠での夢告をきっかけに法然上人の教えに出会われました。

    念仏の禁止という「承元の法難」により流罪となりますが、逆境にあってもお念仏の教えを広め続けられました。

    「非僧非俗」を掲げ、結婚や肉食といった当時の常識を超えて、民衆と同じ目線で生き抜かれたのが親鸞聖人の特徴です。

    阿弥陀さまの救いは身分や職業によらず平等であるという教えは、今も変わらず私たちの日常に寄り添っています。


    次回テーマは「お寺の掲示板」です。

    どうぞお楽しみに。


    お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。

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About 高千穂さんのご縁です。

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