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デュルケーム“社会分業論”から、個人の出現と分業のあり方について、考えさせられました
曰く
"分業は対立させると同時に結合させる。
それは、みずからが分化させた諸活動を収斂させ、ひき離したものを接近させる。"
"個人は、みずからを他者から区別する
個性的な相貌と活動力とをもっていて、その区別されるかぎりにおいて他者に依存し、したがってまた、そうした結合から生じた社会に依存するから社会化されるのである"
"諸個人は分業によってこそ相互に結びあっているのであって、それがなければ孤立するばかりである。
彼らは、てんでに発達する代わりに、自分たちの努力をもちよる。彼らは連帯的である。"
ここから私は思いました
1、民主化が個人を生んだ
→パッションの源の発生
2、個人は分業が必要
→光と影
3、イノベータ3つのフレームと分業
→分業のあり方
衝撃だったのは、個人という概念が、封建制などの元では存在しなく、民主化されて初めて、概念自体が生まれたということでした
確かに生まれながらに役割が決まってる世界では、個人という概念自体が必要ないというのは、今の世界が当たり前と思ってる自分には、想像もつかないなと思います
今の世の中でも、価値観が違う世界は沢山あるので、実は個人という概念自体がない、そんな人たちが沢山いるということは、認識しておくことは大事かなと思いました
私がいつもお話ししている、パッションの源や、そのポートフォリオは、かなり偏りのあるパッションの源となる、または、ほとんどそんなことも考える必要がないとすれば
民主化によって初めて個人が生まれ、そしてパッションの源も初めて生まれてきた、そう考えると、個人がどう生きるべきなのか、パッションの源をどう考えていけばいいのか?ということも、かなり歴史の浅い話なのだなあと、だからこそ、もっと深める必要があるテーマなのかもしれない、そんなことを思いました
また、分業は人類最大の発明という話もありますが、実は、個人という単位が生まれてから、実は、分業の意味自体も、大きく変わってきたのかなと思いました
つまり、個人という概念が発生したからこそ、より分業という概念を、個人が意識する必然性が出てきた、むしろ、分業を意識しないと、個人としての孤立を乗り越えることができない、そんなところまで、分業の必然性が出てきたのかと、考えさせられました
私がいつもお話ししている、イノベータ3つのフレームでいくと、1パッション、2仲間、3大義、でいくと、分業というのは、2仲間との関係性として、とても重要性を増すものと思っていますが
より良い分業とは何か?ということについて考えたときに、私が思うのは、個人という観念が生まれたときに大切なこと、ということを踏まえることが大切だと思っていて
つまり、自らの情熱の源を、無視した分業になることはとてもよろしくなくて、あくまでも個人の情熱の源のパッションと、そして会社や組織などのミッションとのベン図の交わりを、個人が意識している上での分業ということが、できてるかどうか
ということが、個人の観点からの分業のあり方としては、とても大事だと思いました
まとめると、民主化で初めて個人が生まれ、個人には分業がより大切になり、あくまでも個人と他者(組織)との間における価値を、自らが意識し続けた分業を社会として形作っていく
そんなことが、理想的な分業の姿なのかなと、そんなことを思いました
一言で言うと
個人のパッションから分業を考えるノベーション
そんなことを思いました^ ^
参考: NHKEテレ東京 100分de名著 デュルケーム“社会分業論”(3)「連帯 2025/2/17(月)PM10:25~PM10:50 https://www.nhk.jp/p/meicho/ts/XZGWLG117Y/episode/te/6XN56W6WM8/
動画で見たい方はこちら
https://youtu.be/oS-VsoPxRoE
デュルケーム“社会分業論”から、個人の出現と分業のあり方について、考えさせられました
曰く
"分業は対立させると同時に結合させる。
それは、みずからが分化させた諸活動を収斂させ、ひき離したものを接近させる。"
"個人は、みずからを他者から区別する
個性的な相貌と活動力とをもっていて、その区別されるかぎりにおいて他者に依存し、したがってまた、そうした結合から生じた社会に依存するから社会化されるのである"
"諸個人は分業によってこそ相互に結びあっているのであって、それがなければ孤立するばかりである。
彼らは、てんでに発達する代わりに、自分たちの努力をもちよる。彼らは連帯的である。"
ここから私は思いました
1、民主化が個人を生んだ
→パッションの源の発生
2、個人は分業が必要
→光と影
3、イノベータ3つのフレームと分業
→分業のあり方
衝撃だったのは、個人という概念が、封建制などの元では存在しなく、民主化されて初めて、概念自体が生まれたということでした
確かに生まれながらに役割が決まってる世界では、個人という概念自体が必要ないというのは、今の世界が当たり前と思ってる自分には、想像もつかないなと思います
今の世の中でも、価値観が違う世界は沢山あるので、実は個人という概念自体がない、そんな人たちが沢山いるということは、認識しておくことは大事かなと思いました
私がいつもお話ししている、パッションの源や、そのポートフォリオは、かなり偏りのあるパッションの源となる、または、ほとんどそんなことも考える必要がないとすれば
民主化によって初めて個人が生まれ、そしてパッションの源も初めて生まれてきた、そう考えると、個人がどう生きるべきなのか、パッションの源をどう考えていけばいいのか?ということも、かなり歴史の浅い話なのだなあと、だからこそ、もっと深める必要があるテーマなのかもしれない、そんなことを思いました
また、分業は人類最大の発明という話もありますが、実は、個人という単位が生まれてから、実は、分業の意味自体も、大きく変わってきたのかなと思いました
つまり、個人という概念が発生したからこそ、より分業という概念を、個人が意識する必然性が出てきた、むしろ、分業を意識しないと、個人としての孤立を乗り越えることができない、そんなところまで、分業の必然性が出てきたのかと、考えさせられました
私がいつもお話ししている、イノベータ3つのフレームでいくと、1パッション、2仲間、3大義、でいくと、分業というのは、2仲間との関係性として、とても重要性を増すものと思っていますが
より良い分業とは何か?ということについて考えたときに、私が思うのは、個人という観念が生まれたときに大切なこと、ということを踏まえることが大切だと思っていて
つまり、自らの情熱の源を、無視した分業になることはとてもよろしくなくて、あくまでも個人の情熱の源のパッションと、そして会社や組織などのミッションとのベン図の交わりを、個人が意識している上での分業ということが、できてるかどうか
ということが、個人の観点からの分業のあり方としては、とても大事だと思いました
まとめると、民主化で初めて個人が生まれ、個人には分業がより大切になり、あくまでも個人と他者(組織)との間における価値を、自らが意識し続けた分業を社会として形作っていく
そんなことが、理想的な分業の姿なのかなと、そんなことを思いました
一言で言うと
個人のパッションから分業を考えるノベーション
そんなことを思いました^ ^
参考: NHKEテレ東京 100分de名著 デュルケーム“社会分業論”(3)「連帯 2025/2/17(月)PM10:25~PM10:50 https://www.nhk.jp/p/meicho/ts/XZGWLG117Y/episode/te/6XN56W6WM8/
動画で見たい方はこちら
https://youtu.be/oS-VsoPxRoE
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