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あなたは今、人生に迷っていませんか?
「このままでいいのか?」と思いながらも、何をしていいかわからない...
そんなあなたに聞いてほしい、一人の男性の物語があります。
埼玉県川越市で生まれた沢野純一さん、通称「Jay」。
現在、サラリーマンをしながら自分の会社も経営するという二足のわらじを履いています。
彼が目指すのは「弱くなった日本の製造業を強くする」こと。
海外進出の支援や、安価な部材の調達、そしてグローバル人材の育成という、まさに彼の経験が活かされる分野での挑戦です。
この配信を聞いてほしいのは、人生の方向性に迷っている学生や社会人、海外経験に興味があるけれど一歩踏み出せない人、転職や起業を考えているビジネスパーソン、そして「普通の人でも人生を変えられる」ということを知りたいすべての人です。
沢野さんの物語から得られるのは、まず勇気です。
「ぼーっと生きていた」人でも人生は変えられるという希望。
そして新しい視点。海外経験が与える価値観の変化の実例。さらに行動力。休学してでも挑戦する決断力の源泉。加えて柔軟性。「何でもあり」という適当さの重要性。最後に実践知。グローバルビジネスの最前線で学んだ生きた知識です。
沢野さんはこう語ります。
「人生に正解なんてない。
でも、一歩踏み出してみれば、必ず何かが変わる。
僕の『適当』な人生が、あなたの背中を少しでも押せたら嬉しいです。」
30年前、新聞社でのバイトがきっかけで海外に飛び出した一人の青年。
その後の歩みは決して順風満帆ではなかったかもしれませんが、彼が手に入れたものは何物にも代えがたい人生の財産でした。
今すぐ再生ボタンを押して、あなたの人生を変える「きっかけ」を見つけてください。
1.新聞社バイトから始まった、30年のグローバル人生ストーリー
小学校から大学まで、彼自身が「ぼーっと生きていた」と振り返るほど、ごく普通の青年でした。勉強もそこそこ、大学でも遊びとバイトに明け暮れる日々。親も「こいつ大丈夫か?」と心配するほどの、どこにでもいる学生だったのです。
しかし、運命は思わぬ形でやってきました。数あるアルバイトの中で選んだ新聞社での仕事が、彼の人生を180度変えることになったのです。
新聞社には多様な人々が集まっていました。芸能人も出入りし、海外から帰国したばかりの人、これから海外に向かう人。ぼーっと生きていた青年にとって、それは全く別の世界でした。
「あ、なんかこれって面白いんだな。こういう世界があるんだな」
そう気づいた瞬間から、沢野さんの中で何かが変わり始めました。
特に印象深かったのは、海外経験のある人たちとの出会いでした。英語もほとんど話せない、高校時代に交換留学の話が出ても「ふーーん」と他人事のように感じていた彼が、突然「海外」というキーワードに引っかかったのです。まるでスイッチがポチッと押されたかのように。
決断は早かった。大学4年生の時、思い切って大学の休学を決意。どうせ勉強の柄じゃないし、ぼーっと生きてきたのだから、いっそのこと「遊学」をしようと決めたのです。遊ぶための留学。なんとも沢野さんらしい発想でした。
2.エアーズロックに呼ばれて──
遊び心が起業家精神を育てた1年
遊学として行き先に選んだのはオーストラリア。
理由は驚くほど単純で「エアーズロックがあるな」という軽いノリ。しかし、22歳の沢野さんがオーストラリアの地に降り立った時、彼はまだ知らなかった。この経験が、彼の人生観を根底から変え、その後の波瀾万丈な人生の原点となることを。
ワーキングホリデービザで渡豪した沢野さんですが、「働ける」ビザなのに基本的にはホリデーしかしていませんでした。
当時のオーストラリアは今とは比べものにならないほど物価が安く、ビール1本が50円という夢のような時代。100万円程度あれば十分暮らせたため、彼の遊学生活が始まったのです。
特に印象的だったのは、フリーマーケットでの商売体験でした。手作りの折り紙や飛び出す絵本のようなポストカードを作って売る。1日の売上は500円程度でしたが、それでも「お酒代になればいい」という気軽さ。この経験が後の起業家精神につながっているのかもしれません。
しかし、オーストラリアで得たものは遊びの経験だけではありませんでした。アングロサクソン系とアジア系が混在する多様な社会で、様々な価値観を持つ人々と出会い。
英語学校で出会ったインドネシアやマレーシアからの留学生たち。イスラム教の彼らとの交流は、沢野さんにとって毎日が驚きの連続でした。
握手一つとっても、左手と右手の使い分け。
お祈りの時間。
宗教的な考え方の違い。
「毎日がスポンジのように新しい学びを吸収していく感覚だった」と振り返る沢野さん。この多様性への理解と興味こそが、彼の人生を貫く大きなテーマとなるのです。
「みんな適当なことやってるな」と感じた彼は、同時に「何でもありなんだ」「適当に生きていいんだ」という新しい人生哲学を身につけました。
3.一晩XX万円使って、左遷された男の物語
帰国後に待っていたのは、全く異なる世界でした。
1989年、バブル絶頂期の富士電機に入社。自動販売機の営業・マーケティング部門で、沢野さんは日本の「イケイケドンドン」な企業文化に飛び込みます。
「お札でタクシーを止める」という話を聞いたことがある人は多いでしょう。でも沢野さんは、それを実際にやっていた人です。
赤坂での接待、深夜1時にお客様のためにタクシーを止める光景。一晩でXX万円を平気で使う接待文化。パナソニック、三洋など競合他社との熾烈な競争の中で、それが当たり前の世界だったのです。
ところが、新人だった沢野さんに転機が訪れます。ある日、お客様とのXX万円の接待について社内稟議が部長に回ると承認印を反対に押された、「やりすぎだろう」とという示唆を直属の上司(課長)から聞かされました。しかし沢野さんは、会社のための接待であり、適切な顧客対応したという自負もあり、部長のところへ謝罪も行くこともなく平然と過ごしていました。
4.左遷すらチャンスに変える“沢野流”
ところが、突然、高額接待が原因かわかりませんが、(後から聞いた話ではそれが起因していたとのこと)、本社から長野県松本市への左遷通告!。え!マジ!、なんで?
都会のバブリーな生活から一転、山と水に囲まれた地方都市での営業活動が始まりました。
ところが、ここで沢野さの真骨頂が発揮されます。
左遷を嘆くのではなく、新たな環境を楽しみ始めたのです。
長野の地域コミュニティに溶け込み、長野オリンピックのボランティア活動にも参加。資格の取得(宅建士、通関士)をして次のステップへの準備を起動!
「住みやすい街だった」「そして自分の充電期間だった」と振り返る沢野さんの前向きな姿勢には、オーストラリアで培った「新しいことを知る楽しさ」が息づいています。
3年間の長野生活を経て、再び沢野さんの心に芽生えたのは海外ビジネスへの憧れでした。そして転職を決意──。
今すぐ聴いてみて下さい
この配信を聞けば、あなたは時代の証言者となります。バブル時代の実態を生で体験した人の話は、もはや貴重な歴史的資料です。しかし、それ以上に価値があるのは、どんな環境に置かれても学びと成長を見つける沢野さんの人生哲学です。
海外で多様性を学び、バブルの狂乱を体験し、左遷という逆境を乗り越えて次のステップへ向かう。現代を生きる私たちにも通じる、人生の転機との向き合い方がここにあります。
22歳での海外体験が人生観を変えた話から、バブル時代のリアルな企業文化、そして逆境を成長の機会に変える思考法まで。沢野さんの人生第一章は、まさに現代のビジネスパーソンが聞くべき生きた教材なのです。
次回は、転職後の海外ビジネス挑戦編をお届けします。沢野さんの冒険は、まだ始まったばかりです。
今すぐこの貴重な体験談を聞いて、あなた自身の人生に活かしてください。そして、この唯一無二のストーリーを、ぜひ大切な人たちとシェアしてください。
人生配信オンリーワン - 一人ひとりの唯一無二の人生ストーリーをお届けします。
岡安さんは、かつてプロスキーヤーとして雪山を駆け抜けていました。
パラアジアカップ役員にも選ばれ、輝かしいキャリアの階段を一段ずつ上っているかのように見えました。
しかし現実は厳しく、「これだけじゃ飯が食えない」という冷酷な事実が彼の前に立ちはだかったのです。
20代でスキー競技を諦めることになった岡安さん。
誰にも悲しみを伝えられない状況の中で、人生のどん底を味わいます。
一時は死すら考えた絶望の淵で、彼は何を思い、どのようにして這い上がったのでしょうか。
【衝撃の人生逆転劇】元アルペンスキー選手が語る「絶望の淵から希望への道」
1.一本の電話が変えた運命の物語
「お前、今何してんだ?」
病院のベッドで、もう誰とも話したくないと心を閉ざしていた岡安さんに届いた一本の電話。
その声の主は、現役の時から関わっていた障害者スキーチームのコーチでした。この何気ない一言が、絶望の底にいた元アルペンスキー選手の人生を180度変えることになるとは、この時誰が想像できたでしょうか。
2.栄光から一転、人生最大の危機
岡安さんは現役のアルペンスキー選手として、雪山を駆け抜ける日々を送っていました。しかし、選手生命を脅かす大怪我により、愛してやまないスキーから離れることを余儀なくされます。
手術への恐怖、そして何より、スキーという人生の全てを失った絶望感は想像を絶するものでした。
「死ぬ一歩手前まで考えていた」と振り返る岡安さん。誰とも話したくない、もう何もかもが終わったと感じていた時期が続きました。まさに人生のどん底でした。
3.運命を変えた電話の向こうの優しさ
そんな岡安さんの状況を知っていたコーチは、あえて電話をかけてきました。
「お前、まだ片足が残ってるだろう?
だったらスキーできるだろ?
選手で戻ってこい!」
その言葉は、岡安さんの心に眠っていた可能性を呼び覚ましました。
「ふざけないでくれ!靭帯ごときで片足選手ができるわけがない!」
「あれ?」
「そうだろ!選手としてではなく、また障害者チームのコーチとして戻ってこい」
この提案は、新たな人生の扉を開く鍵でした。
障害者の方々と長く接してきた経験があった岡安さんは、靭帯がなくても自分のスキーを待ってくれてる人がいる!という前向きな気持ちを取り戻していきます。
そして何より、「みんな待ってるよ」という温かい言葉が、再び人とつながることへの勇気を与えてくれました。
4.パラリンピック黎明期での挑戦
30年以上前、今ほどパラリンピックが注目されていなかった時代。
障害者スキーの指導は、スキーが好きな優しいボランティアの方々が行っていました。そこに、現役に限りなく近い技術を持つ岡安さんが加わることで、チーム全体のレベルが劇的に向上しました。
特にブラインドスキーでは、視覚障害者の選手が強すぎて、その前を走るガイド役のパートナーが見つからないという問題がありました。元プロスキー選手である岡安さんなら、その役割を完璧にこなせる。彼は自分だけのポジションを見つけ、選手を勝利へと導いていきました。
5.夢の舞台への切符と、理不尽な現実
1994年リレハンメルパラリンピック。
岡安さんはナショナルチームのコーチとして、合宿にも参加していました。夢の舞台まであと一歩。しかし、最終選考の段階で政治的な圧力が入り、担当していた選手が代表から外されてしまいます。
「お前だけでも行ってくれ」と言われた岡安さんでしたが、彼の答えは明確でした。
「僕はその選手のためにコーチになった。他の人のコーチはやりたくない。それがオリンピックでもパラでも関係ない」
信念を貫き、大喧嘩の末に干されることになっても、岡安さんは自分の判断を後悔しませんでした。
6.人生の真の価値とは
岡安さんのその後の人生は、ジャパラ(障害者スキーの国内最高峰大会)の役員、アジアカップの運営、長野パラリンピックでのサポートなど、障害者スポーツ界への貢献で彩られています。競技者としての栄光は手放すことになりましたが、多くの人の人生に光を与える存在となりました。
絶望の淵にいた時に受けた一本の電話。それは単なる偶然ではなく、人とのつながりが生み出した奇跡でした。人生は予想もしない形で転機が訪れ、思いもよらない場所に新たな可能性が待っているのです。
7.大手電機メーカーでの24年間、そして運命の一日
「これだけじゃ飯が食えない」という冷酷な事実に直面し、26歳で初めてサラリーマンの世界に足を踏み入れた岡安さん。
大手電機メーカーでイベント業務を担当することになりました。持ち前のリーダーシップと現場を仕切る才能で、イベント現場のリーダーから新会社の事業立ち上げ、社長秘書、そして事業戦略室メンバーへと次々に昇進を重ねていきます。
24年間という長い歳月を大手電機メーカーで過ごし、順風満帆なサラリーマン生活を送っていました。
しかし、47歳のある日、運命が彼を待ち受けていました。
ハードワークが続く中での現場の掛け持ち。ようやく訪れた休日。
その日、脳卒中で自宅で意識を失い、救急搬送されたのです。医師も匙を投げるような状況で、家族が涙を流す中、息子の必死の呼びかけによって奇跡的に意識が戻りました。
8.死の淵で見つけた本当の答え
「毎晩眠るのが怖かった。
目を閉じたら死んでしまうと思って...
でも朝起きると嬉しくて涙が出るんです」
生と死の境界線で、岡安さんが気づいたのは、お金や地位では決して満たされない、本当に大切なもののことでした。20代で味わった絶望の自分を救済できていない。同じように苦しむアスリートたちの心の声を聞いてあげる人がいない。そんな思いが彼の心に蘇ってきたのです。
入院中にキャリアカウンセラーの資格を取得し、ソニーからマクドナルドへ、そして独立へという驚きの転身を遂げることになります。
9.生かされている理由
今の岡安さんは、力強くこう語ります。
「僕が今生きてる理由は、求める人がいるから生かされてる。
その人たちに答えるのが僕の存在価値であり、生きてる理由です」
なぜ彼は、そこまで強い使命感を持てるのでしょうか。死線を越えた人間だけが語れる、生きることの本質とは何なのでしょうか。
10.あなたも岡安さんの声に耳を傾けてみませんか
もしあなたが人生の方向性に迷っているなら、
キャリアチェンジを考えているなら、
困難な状況から立ち直りたいと思っているなら、
本当の生きがいを見つけたいと願っているなら、
この配信はあなたの心に深く響くはずです。
プロスキーヤーからサラリーマン、そして2度の死線を越えてカウンセラーへ。この奇跡的な人生転換ストーリーを、あなたの耳で、心で、確かめてください。きっと、あなたの人生観が変わるはずです。
「人生配信オンリーワン」で検索して、今すぐ再生してください。
岡安さんの生きざまを体感し、一度きりの人生を本当に大切なもののために生きるヒントを見つけてください。
求める人がいるから生かされている──そんな生き方があることを、岡安さんが教えてくれます。
なぜ今、この物語を聞くべきなのか
現代社会を生きる私たちにも、人生の転機は必ず訪れます。
それは挫折かもしれないし、思わぬ出会いかもしれません。岡安さんの物語は、どんな絶望的な状況にあっても、人とのつながりと自分の信念があれば、必ず新しい道が開けることを教えてくれます。
30年以上前のパラスポーツ界の貴重な証言でもあるこのエピソードは、障害者スポーツがどのような人々の情熱によって支えられてきたかを知る貴重な機会でもあります。
そして何より、一人の人間が持つ強さと優しさに、深い感動を覚えることでしょう。
「人生配信オンリーワン」で描く真実の物語
人生にはそれぞれ異なるストーリーがあり、一人ひとりがオンリーワンの体験を持っています。今回の岡安さんの回は、特に心に響く内容となっています。一本の電話が人生を変える。その事実は、あなたの人生にも新たな可能性があることを示しています。
1.いじめられっ子が雪上で覚醒
東京・大森で生まれ育った、体が小さくて弱い一人の少年がいました。
地元のコミュニティでは、いつもいじめられる側の存在。そんな彼の人生が、ある日のスキー教室で劇的に変わることになります。
実は、それは単なるスキー教室ではありませんでした。選手発掘プロジェクトだったのです。そして驚くべきことに、普段はいじめられていたその少年が、スキーを履いた瞬間、先輩たちに勝ってしまったのです。
「スキーを履いていないといじめられるけれど、履くと急に強くなる」—この発見が、彼の運命を決定づけました。
2.小学6年生が白馬村に住込みスキー修行
東京の子が本格的にスキーを続けるには限界があります。小学校を卒業する時、両親は「もういい加減にしなさい」と言われるほどです。
普通なら、そこで夢は終わったでしょう。ところが、コーチが「そんなことを言わないで、なんとか続けさせてください」と両親を説得したのです。
そして提案されたのが、今では考えられない解決策でした。
白馬村の旅館に住み込みで働きながら、地元の子たちと一緒にスキーを続けるという、まさに奇跡のような環境だったのです。
小学6年生の岡安さんは、本当に白馬村へ旅立ちました。大学生たちと同じタコ部屋で生活し、旅館の手伝いをしながら、時にはその大学生たちにスキーを教えて、空いた時間で自分の練習に励むという信じられない日々が始まったのです。
信じられないような環境でしたが、岡安さんにとってそれは苦痛ではありませんでした。なぜなら、スキーが心底好きで仕方がなかったからです。
3.障害者チームをサポートする小学4年生
さらに驚くべきことに、岡安さんは障害者チームのサポートも始めました。片足の方やチェアスキーの方々の東京から白馬への移動や宿での生活、そしてスキー場でのサポートまで、その頃からこなしていたのです。荷物の積み下ろしから現地でのお世話まで、「僕にできることは全部やる」という姿勢で、障害者の方たちと一緒に合宿に参加していました。
中学、高校時代も、この驚異的な生活は続きました。平日は東京の学校に通い、休み前になると夜行を乗り継ぎ土日や長期休みには白馬へ。そしてまた夜行を乗り継ぎ、東京へ戻り荷物を持ったままそのその足で学校へ。
毎週のように行ったり来たりを繰り返しながら、朝6時から夜11時まで、時間がある限りひたすら滑り続けました。普通の学生が遊んでいる時間も、宿での夕食の手伝いや掃除をした隙間時間に、スキー靴を履いて山にいるような生活でした。
4.高校1年生のプルスキーヤー、規格外の挑戦にスポンサーが惚れた瞬間
運命の高校1年生。16歳の時に、岡安さんのこの規格外の生活を「面白い」と評価してくれる人が現れました。某スキーショップがスポンサーがついたのです。
「板を出してあげる」「ウェアを出してあげる」「お小遣いもあげる」
ここからが、本格的なプロスキーヤーとしての道のりの始まりでした。
しかし、岡安さんは表舞台には立っていませんでした。「アングラなので」と本人が語るように、全中やインカレ、インター杯といった公式大会には出場せず、まさに「秘密兵器」として隠され続けていたのです。
それでも彼が戦っていたのは、1/1000秒を削るという異次元の世界。アルペンスキーでは1/100秒は当たり前、トップレベルになると1/1000秒まで見る、そんな狂気じみた精密さが求められる競技だったのです。
大学に進学してからも、岡安さんは数社のスポンサー企業に支えられながらスキー人生を歩んでいました。プロとしての将来への道筋も見えていました。
5.足が違う方向に…16歳の天才を襲った悲劇
しかし、運命は残酷でした。大学2年の時、大会中に転倒、突然の靱帯断裂。
「足が違う方向いちゃってた」という衝撃的な状況でも、興奮状態で痛みを感じず、片足で滑りだそうとしましたが、左足がついてきませんでした。その重大さになかなか気づけなかったといいます。
この怪我が岡安さんの人生を一変させました。
それまで共に切磋琢磨していた友人たちは、実は全員がライバルでした。
親とも喧嘩しながらスキーを続けていた彼には、この悲しみを分かち合える相手がいませんでした。
「誰にも悲しみを伝えられない」状況の中で、岡安さんはどんどん心を閉ざしていきます。
さらに追い打ちをかけたのは、適切な治療を受けられないことでした。
当時の日本では靱帯の再建手術技術が十分でなく、2年間も病院をたらい回しにされてしまったのです。その間に、切断された靱帯は体に吸収されて溶けてしまいました。「要は左の前十字靱帯はなかったので、常に包帯ぐるぐるで、それでも膝の脱臼癖がついてしまって早歩きさえもできなかったんですね、僕ね」と岡安さんは振り返ります。
6.絶望からの復活へ、
アスリート復帰を懸けた奇跡の手術
絶望の淵にいた岡安さんに転機が訪れたのは、2年後のことでした。
スキーのナショナルチームのドクターとの偶然の出会い。そのドクターは「俺なら直せる」と断言し、日本ではまだ症例の少ない最新の人工靭帯を入れた膝の再建手術を提案してくれました。ただし、条件がありました。学会に発表するためのサンプルとして手術を受けること、そして必ず競技復帰を果たすこと。
岡安さんは迷わず「全然戻りたいです」と答えました。この手術は普通の治療とは全く違っていました。アスリート復帰を前提とした特別な手術で、手術の2週間前から入院してひたすらトレーニング。
「体ぶよぶよになっちゃってた」彼を、2週間でみっちり鍛え上げてから手術に臨んだのです。腰から腱を取り出して複雑に組み合わせる大手術でしたが、見事に成功しました。
7.0.004秒の壁──そして訪れた解放の時
手術から1〜2ヶ月後、退院時の検査で反射テストを行いました。
結果は0.004秒の遅延。医師は「全然誤差だろう、もうほぼ大丈夫だよ」と言ってくれましたが、1/1000秒の世界で戦ってきた岡安さんには、この0.004秒が許せませんでした。
「僕は1/100、1/1000削ってやってたので、0.004の遅延はもう異常値であるってことに」なってしまったのです。
加えて2年間のブランクへの不安、もう一度あの状態に戻されることへの恐怖心。様々な要因が重なり、岡安さんは悩みに悩みました。
そして最終的に、せっかく治してもらったドクターに
「俺無理です。引退させてください」と告白したのです。
予想していたのは叱責でした。
しかし、ドクターの反応は意外なものでした。
「お前の人生だから好きにしなさいよ」そう言われた瞬間、岡安さんの中で何かが吹っ切れました。
「すごいすっきりした顔をしてたと思いますね」と本人が振り返るように、長い間抱えていた重荷から解放された瞬間でもありました。
今すぐ聴いてみて下さい
この配信を聞き終えた時、あなたは間違いなく何かが変わっているはずです。
小学生で単身白馬に渡り、逆境をチャンスに変え続けた岡安さんの人生は、まるで映画のようなストーリーです。しかし、これは紛れもない実話なのです。
1/1000秒という想像を絶する精密さの世界で戦っていた男の美学、突然の怪我がもたらした絶望と孤独、2年間の治療困難な状況、奇跡的な手術との出会い、そして最後の引退決断まで。
これほど濃密で劇的な人生を、これほど淡々と、それでいて深く語れる人はそう多くありません。
「普通の人はだって、経験できないっすもん」
岡安さんの言葉通り、この体験は確かに普通では味わえないものです。
だからこそ、この配信には計り知れない価値があります。
挫折を知る人には深い共感を、
順風満帆な人生を送っている人には新たな視点を、
そして全ての人に「人生とは何か」を考えさせてくれる貴重な時間となるでしょう。
天才的な才能を持ちながら突然全てを失い、それでも新たな人生を歩み始めた男の生き様。
高校生でプロになるという栄光から2年間の地獄、
そして奇跡の手術、最後の引退決断まで。
あなたの人生観が確実に変わる20分間がここにあります。
今すぐ「人生配信オンリーワン」岡安さん回を再生して、この奇跡のような人生譚に耳を傾けてください。きっと、あなたの心に深く刻まれる物語となるはずです。
・なぜ日本の若者は3年で会社を辞めるのか?
・なぜ数十年前から問題視されているマネジメントが今でも繰り返されるのか?
・どうすれば誰も犠牲にならない組織を作ることができるのか?
・一社で終わる人生でいいのか?
そう語るのは、人事図書館の創設者・よっさん。
よっさんは東京の人形町に、日本で唯一となる「人事図書館」をオープンさせました。クラウドファンディングで多くの人の協力を得ながら、約半年をかけて実現した夢の場所。
一見すると成功者のような彼ですが、創設するまで、なんと3年間、12回の失敗を経験されています、
もがき苦しみ、長い暗闇の中で、よっさんは何を見つけたのか?
多くの起業家が経験する生々しい現実と、それを乗り越えた先にある深い洞察が隠されています。
1.就職した友達30人が消えた謎
大学院で組論を学んでいたよっさんの周りで、不可解な現象が起きていました。大学を卒業して就職した友達が次々と会社を辞めていくのです。
その数、なんと30人。しかも3年以内という短期間で。
「めっちゃやめるなって思って...企業も個人もお互いダメージを受けてるのはおかしいな」
よっさんは疑問に思いました。
なぜこれほど多くの人が職場を去らなければならないのか?
そして、その友達の一人から聞いた話は、彼の人生を大きく変えることになりました。
2.大手食品会社で起きた信じられない出来事
体育会系の大手食品会社に就職した友人が体験したのは、現代では考えられないような出来事でした。飲み会の席で服を脱がされ、ベランダに出されて、面白いポーズを取らないと中に入れてもらえない。これが実際に行われていたのです。
「そんなことやっていたら辞めるでしょって思うんですけど、でも大手の食品会社で当時は行われていたことを知ったときは衝撃でしたね」
数十年前からこういうマネジメントは良くないと言われているのに、なぜ今だに繰り返されているのか。学んできた組織作りの理論と、現実の世界があまりにもかけ離れていることに気づいたのです。
3.リクルートという修行の場
この現実を変えたい。そう決意したよっさんは、組織作りを支援する会社の中でも最も多くの事例が集まるであろう場所を選びました。リクルートマネジメントソリューションズです。
そこでの14年間は、まさに組織の最前線での修行でした。
適性検査、採用コンサルティング、研修、人事制度、アセスメント。
あらゆる角度から企業の課題解決に取り組みました。
大阪で3年半、東京で3年半、そして次第に一つの思いが募っていきます。
「日本の組織作りのパターンは大体7年ぐらい見てきた。
でももっと知りたい」
4.中国という未知の世界への挑戦
よっさんの中で、ある確信が芽生えていました。
「日本って結構キレイな国。でも人間はもっと生々しい生き物なんじゃないか」
もっと人間の本質的な部分、ドロドロとしたパワーバランスや生々しい現実を知らなければ、どんな組織でも共通する真理は見つけられない。
そう考えた彼は、迷わず手を挙げました。「海外で仕事をしたいです」
こうして始まった中国上海での3年半。
最初の3ヶ月だけで200社を回るという驚異的なスピードで、日系企業、中国系企業、欧米系企業のあらゆるバリエーションを目の当たりにしました。
5.警備員泥棒事件が教えてくれた人間の真実
中国で出会った一つのエピソードが、よっさんの組織観を決定的に変えました。ある日本企業が中国に新しいスーパーを開店した時の話です。
倉庫を守るために警備員を雇ったのに、なぜか商品が盗まれる。
調査してみると、なんと警備員自身が犯人だったのです。
「それなら警備員を2人にしよう」と考えたところ、今度は2倍盗まれるようになりました。
最終的な解決策は意外なものでした。
警備員を3人にして、「盗んでるやつを見つけたらボーナスを支給する」という仕組みを作ったのです。すると、ものがなくならなくなったというのです。
「これ日本の中だったら一番最初から起こらないだろうな。
警備員が盗んでましたっていう話があっても、そいつがおかしいみたいな話になって組織の学びにはならない」
でも人間って、そういう側面が絶対にある。
よっさんはこの時、組織作りの本質を垣間見た気がしたのです。
6.祖父への想いが生んだ使命感
よっさんの行動力の源泉は、実は幼い頃の記憶にありました。
大学教授だった祖父が、食卓で自分の研究について一生懸命話している時のこと。家族は「はいはい」と聞き流していましたが、よっさんだけは最後まで話を聞こうと決めていました。
「一生懸命やってる人が犠牲になっていくのを見るのはすごく嫌で。
だからどうしたら誰も犠牲にならないチーム運営とか組織運営ができるのかっていうのが、すごく大きな問いとしてあって」
この想いが、30人の友達の退職を見た時の憤り、リクルートでの14年間の修行、中国での200社巡り、そして現在の活動すべての原動力になっていたのです。
7.普通なら心が折れる3年間の地獄
40歳という人生の節目で会社を辞めたよっさん。
しかし彼の独立理由は、多くの人が想像するものとは全く違っていました。
「前の会社も好きだったし、やめたい理由なんてなかった。
ただ、一社で終わる人生が嫌だっただけ」という、まるで映画のような動機だったのです。
ところが現実は甘くありませんでした。
独立した瞬間、「一社じゃない人生」という目標は達成されてしまい、今度は「自分はどう生きていきたいか」という根本的な問いに直面することになります。
家族を養う責任もある中で、よっさんは必死に自分の旗を立てようと奮闘し始めました。
「これといえば吉田さんだよね」と言われるような存在になりたい。
その一心で始めた挑戦の数々は、しかし次々と失敗に終わります。
適性検査の使い方をレクチャーする事業では、あまりにも分かりやすく教えすぎて、30分のレクチャーでお客さんが「もう大丈夫っす」と帰ってしまう始末。
「小難しくやればよかったのに...」と周りからアドバイスを受けるよっさんの苦笑いが目に浮かびます。
8.12回の失敗が教えてくれたもの
「不安でしょうがないから、次々と挑戦し続けた」。
この率直すぎる告白が、よっさんの3年間を物語っています。
一つ失敗するたびに、「じゃあ旗が立つようになったか」と自問自答し、答えは常にNO。それでも40歳を過ぎ、このまま60歳、70歳になった時に「今の仕事を自分に頼むかな」と考えると、立ち止まることはできませんでした。
毎回真剣に「これで自分の旗を立ててやっていくんだ」と思いながらも、旗は立たない。普通なら心が折れてしまうような状況でも、よっさんは挑戦を続けました。その背景には、単なる成功への憧れではなく、もっと深い想いがありました。
「誰も犠牲にならないチーム運営をもっと当たり前にするにはどうしたらいいのか」。
この問いが、よっさんの心の奥底にずっとありました。一生懸命やっている人が馬鹿にされたり、自分を犠牲にして燃え尽きていく人を見るのが、どうしても嫌だった。多くの人が当たり前だと思っている「誰かが犠牲になる組織」を、本当に変えることはできないのだろうか。
9.13回目に見つけた本当の答え
12回の失敗を通して、よっさんは自分の特徴を理解し始めました。
「カチッとしたアウトプットを出すことには向いていないらしい」
「対面で会っている方が反応がいい」
「本に関しては信頼を抱きやすい」。
失敗は辛いものでしたが、同時に自分自身を知る貴重な機会でもあったのです。
そして13回目の挑戦として生まれたのが、人事図書館でした。
これは単なるビジネスではありません。
「誰も犠牲にならないで高い成果を出せるんだ」ということを、多くの人に体験してもらい、信じてもらえるような場所。よっさんが長年抱いていた想いを、ついに形にできる場所だったのです。
10.あなたにとっての13回目は何ですか?
この話を聞いて、あなたは何を感じるでしょうか。
・独立や転職を考えているけれど失敗が怖い人?
・何度も挫折を経験して諦めそうになっている人?
・40代で人生の転換点を迎えている人?
よっさんの3年間は、決して華々しいサクセスストーリーではありません。
でもそこには、多くの人が抱える不安や焦りとの向き合い方、失敗を恐れずに進み続ける勇気、そして本当の意味での価値ある人生を築くヒントが詰まっています。
「自分じゃね、なかなか気づかないんで」と謙遜するよっさんですが、彼の経験は間違いなく多くの人の心を支える力を持っています。
現代は成功事例やノウハウに溢れていますが、本当に必要なのは失敗との向き合い方と、自分らしい成功の定義ではないでしょうか。よっさんの生々しい告白と深い洞察が、あなたの明日への一歩を後押ししてくれるはずです。
今すぐこのエピソードを聞いて、よっさんの3年間の軌跡を辿ってみてください。あなたの13回目の挑戦は、もうすぐそこにあるかもしれません。
「変わってるね」って言われるとすごい喜ぶタイプです
そんなよっさんが語る、誰にもマネできない人生設計術。
第1話では、彼の人生の基盤となった幼少期から大学時代までを深掘りします。
小学生の頃、図書室に入り浸っていた一人の少年がいました。本に囲まれて育った彼は、やがて「みんなが知らないバンド」を追いかける中学生となり、そして誰も想像しなかった人生の軌道を描き始めます。
彼の名前は、よっさん(人事図書館 創設者)。
一見普通に見える彼の人生には、実は驚くべき「ある法則」が隠されていました。
1.3歳から始まった"発見癖"が人生を変えた話
3歳のよっさんが札幌の地下鉄のホームに立っていた時、他の子供たちが電車そのものに夢中になっている中、彼だけは違うものを見ていました。車輪です。しかも、ただの車輪ではありません。よく見ると、出っ張っているものと凹んでいるものがあることに気がついたのです。
「なんで出っ張ってるのと凹んでるのがあるんだろう」
この素朴な疑問を両親に投げかけた時、大人たちでさえ「そうなの?」と首をかしげました。その瞬間、よっさんの心に小さな火が灯りました。
「自分しか知らないことかもしれない」というワクワク感。これが、彼の人生を決定づける「発見癖」の始まりでした。
2.「コンビニって何だ?」祖父が育てた思考力
実は、よっさんの家庭環境は極めて特殊でした。
祖父は大学教授、母方の叔父2人も大学教授、そして両親も大学関係者という、まさに学者一家。
食卓で交わされる会話は、一般的な「今日何があった?」ではなく、研究内容や学術的な議論でした。
特に印象深いのは、おじいちゃんとの会話です。
ある日突然「コンビニって何だ?」と聞かれたよっさん。
「ちっちゃいスーパーみたいなやつ」と答えると、「じゃあ小さいスーパーは全てコンビニなのか?」と返されました。
この追求は止まりません。
おじいちゃんは意地悪をしているのではなく、ただ正確に理解したいだけ。適当な受け答えでは納得してもらえない環境で、よっさんは物事を深く考える習慣を身につけていきました。
3.なぜ『ゾロリ』じゃなく『ほうれん草マン』を選んだのか
小学生になると、この好奇心はさらに広がりました。
本は大好きでしたが、みんなが読んでいる『かいけつゾロリ』ではなく、その大元になった『ほうれんそうマン』を選ぶような子供でした。
なぜなら、ゾロリは元々ほうれんそうマンの敵役だったという事実を知っていたから。
「他の人があまり読んでなさそうな本」への偏愛は、一人っ子として大人に囲まれて育った環境で培われた、自分だけのアイデンティティを確立したいという想いの表れでもありました。
ドラゴンクエスト3が大ブームだった小学1年生の時代、よっさんはゲームにも夢中になりました。新しいことをどんどん体験できるゲームの世界は、彼の探究心を満たす完璧な場所でした。
読書とゲーム、そして音楽。小学6年生でCDシングルを大量に買い集めていた彼は、すでに「好きになったものは長い」という、現在も続く特徴を見せていました。
そして運命的な出会いが訪れます。小学6年生の担任の先生が、本格的なバンド活動をしていたのです。ライブにも何度か足を運び、音楽の持つ力に魅了されたよっさん。
4.新しいこと好き×やめない主義、最強の組み合わせ
中学生になるとベースを買ってもらい、バンド活動を開始しました。この音楽活動は、なんと現在も年1回のペースで続いている、彼の人生の重要な柱の一つです。
放送部に入り、剣道も継続し、バンド活動にも精を出す中学時代。
一見バラバラに見える活動の根底には、常に「新しいことへの探究心」と「一度始めたことを長く続ける継続力」がありました。
やめた趣味はほとんどないという彼の言葉通り、幼少期から始まった好奇心は形を変えながらも決して消えることはありませんでした。
5.片道2時間の高校選択が示した、人生の方向性
高校進学の際、よっさんは地元の中学校からたった一人で、片道2時間もかかる新設の私立高校を選びました。
なぜそんな遠い学校を?
周りからは「普通じゃない」と言われましたが、彼は「変わってるね」って言われるとすごい喜ぶタイプだったのです。
この選択が、後の人生を大きく左右することになります。その高校は海外を重視する学校で、ニュージーランドでの3週間研修や6カ国から選べる修学旅行など、グローバルな体験が彼の視野を一気に広げました。そして、この体験が後のアメリカ生活への布石となったのです。
6.90個のバンドが教えてくれた、チーム作りの真実
大学に入ったよっさんは、軽音楽部で驚異的な記録を打ち立てます。
なんと7年間の大学と大学院生活で、90個ものバンドを結成したのです。しかし、この数字の裏には深い学びがありました。
「モテたいのに、モテたいって隠してやると、途中でうまくいかなくなるんですよ」
彼が発見したのは、率直なコミュニケーションの力でした。
好きな子に告白するための曲をやっていたメンバーが、振られた途端にやる気を失う。でも周りは「ライブをやりたい」という想いしか聞けていなかったから戸惑う。そんな体験を通じて、彼は人の本当のモチベーションと向き合うことの大切さを学んだのです。
7.アメリカで見つけた、国境を越えた仲間作り
大学時代、よっさんはアメリカで1年間を過ごします。現地でのインターンや語学学校での学び、そして何より印象的だったのは、水より安いビール(1ドル!)を片手に築いた国際的な友人関係でした。
アジア系、フランス系、現地のアメリカ人たち。言葉や文化の壁を越えて、彼は再び「チーム作り」の魅力に取り憑かれていきます。
8.知識と実践を結びつけた、独自の人生設計術
本に囲まれて育ったよっさんにとって、「本にはたくさんいいことが書いてある」というのは信念でした。しかし彼が本当にすごいのは、その知識を実際の体験で試し続けたことです。組織論の理論を90個のバンドで検証し、目標設定の理論をサークル運営で実践し、コミュニケーション論を海外生活で磨き上げました。
そして今、彼は人事図書館という形で、自分が本から得た学びと実体験を融合させた独自の活動を続けています。
音楽、読書、海外経験、チーム作り。一見バラバラに見えるこれらの体験が、実は一本の太い線で繋がっていたのです。
その「繋がり」の秘密を知ることで、あなたも自分だけの人生の物語を紡げるようになるでしょう。
9.あなたも自分だけの物語を始めませんか?
よっさんの人生が教えてくれるのは、「普通じゃない」選択こそが、人生を豊かにするということです。
みんなが行く道ではなく、自分が本当に興味を持った道を歩む勇気。
そして、その体験を仲間と分かち合う喜び。
彼が大学卒業後にどんな道を歩み、現在の人事図書館にたどり着いたのか?
その答えは第2話で明かされます。
この配信を聞き終わった時、固定観念を打ち破り、あなたの中に眠る「発見者」を目覚めさせ、あなたは「普通じゃない人生」を歩むための最初のヒントを手に入れているはずです。
1.あなたは最後に家族をハグしたのはいつですか?
TEDのステージから降りたマリアさんの元に、一人の高校生がやってきました。目を合わせることもできないほど緊張していた彼は、震え声でこう言ったのです。
「一人でこのスピーチを聞きに来ました。恥ずかしいけど、今日帰ったら親に感謝をハグで伝えます」
2.日本に移住されたフランス人女性はずっと1人だと感じていた
同じ日、フランスから日本に移住してきた女性が、大粒の涙を流しながらマリアさんに近づきました。
「日本に来てからずっと一人だと感じていました。
でも今日、その理由がわかったんです。
ハグしてもらえないことで、こんなにも心の距離が生まれるなんて...」
3.不登校の子供が学校に通えるようになるまで
不登校になった子どもの親御さんの話は、特に心に刺さります。
子どもは部屋に閉じこもり、会話を拒絶していました。何を声かけても、子どものイライラを増すだけ。そんな絶望的な状況で、親御さんができることは食事を運ぶことだけでした。
その時です。マリアさんの話を聞いた親御さんは、恥ずかしがって嫌がる子どもを毎日ハグし続けることにしたのです。言葉では伝わらない愛情を、全身で表現し続けました。すると少しずつ、子どもが学校に行かなくなった理由を話してくれるようになりました。
そして数ヶ月後、ついに部屋から出てきて、学校にも通うようになったのです。
言葉がプレッシャーになってしまうとき、ハグは無条件の愛を伝える最強のツールになります。この事例は、マリアさんの活動が単なる理想論ではなく、実際に人生を変える力を持っていることを証明しています。
これらは決してフィクションではありません。マリアさんが経験された実際に起きている現実の物語なのです。
4.ハグの持つ力
彼らの反応を見れば、ハグが持つ力の大きさは明らかです。
しかし、なぜ日本でこれほどまでに反響があるのでしょうか?
マリアさんは日本人が冷たいからだとは決して言いません。
むしろ、日本の文化的背景を尊重しながら、その中で失われてしまった大切なものを取り戻そうとしているのです。
5.なぜ見知らぬイギリス人が、マリアさんにハグの講演を企画したのか?
人生が変わる瞬間は、いつも予想外の場所で起こるものです。
マリアさんにとって、それはTEDトークの舞台で話した後に訪れました。
そのTEDトークを偶然見た一人のイギリス在住者の心を深く動かしたのです。その人は画面の向こうのマリアさんに強く心を揺さぶられ、「この人の話をもっと多くの人に聞いてもらいたい」と感じました。
そして驚くべきことに、海を越えてマリアさんにハグの講演企画を持ちかけたのです。
6.ハグ文化の国で起きた心の革命
イギリスといえば「ハグ文化」が根付いている国。
マリアさんは最初、そんな文化の本場で自分のメッセージがどう受け取られるのか不安でした。しかし、実際に講演の会場に足を運んでみると、30人の聴衆が集まり、彼女の話に真剣に耳を傾けてくれました。
その中には、メキシコやブラジルといったラテン系の国からイギリスに移住してきた人たちが多くいました。彼らにとって、マリアさんの「ハグ」の話は特別な意味を持っていたのです。
「イギリスは私たちの母国ほどハグをしないし、感情を表に出さない。
だからこそ、ハグを通して感情を伝えることが恋しかった...」
一人の移住者がそう語ったとき、会場全体に共感の波が広がりました。
7.当たり前の中に隠された宝物
さらに驚くべきことが起こりました。
ハグが日常的な習慣だった人たちが、マリアさんの話を聞いて新たな発見をしたのです。
「ハグはもう当たり前すぎて、その意味を考える瞬間なんてなくなっていました。でも改めて気づいたんです。家族とのハグには、ただの習慣じゃない、心が込められているということを。
今度からは、その気持ちを意識してハグしようと思います」
会場にいた一人がそう語った瞬間、マリアさんは自分のメッセージが確実に人々の心に届いていることを実感しました。文化の違いを超えて、人間として大切なものは共通しているのだと。
8.あなたの人生にも起こりうる奇跡
この物語は、マリアさんだけの特別な体験ではありません。私たちの日常にも、実は同じような「当たり前の奇跡」が隠れているかもしれません。
グローバルな視点から自分を見つめ直すことで、人間関係の本質に気づき、一歩踏み出す勇気を得ることができるのです。
見知らぬ人がわざわざ企画してくれたハグの講演会。
30人の心を動かしたハグの物語。
そして、普段何気なくしている行動に込められた愛の発見。
すべてがマリアさんの人生配信に詰まっています。
9.AI時代だからこそ価値が高まる人間らしさ
マリアさんは未来を見据えています。
AIが人間の仕事を代替し、オンラインでのコミュニケーションが当たり前になった時代。スマートフォンの画面越しの「いいね」や絵文字で感情を表現することに慣れてしまい、画面越しでは伝わらない何かがあります。
それが肌と肌が触れ合うことで生まれる安心感、信頼感、そして愛情です。
まさにそんな時代で、「デジタル技術が進歩すればするほど、ハグのような人間的な温かさが宝物のように貴重になる」と彼女は語ります。これは感情的な願望ではなく、冷静な社会分析に基づいた予測です。
マリアさんの活動は革命的な意味を持ちます。彼女は日本の文化を深く理解しながらも、「握手ではなくハグで挨拶する」という新しい可能性を提示しているのです。これは単なる挨拶の変更ではありません。人と人との心の距離を縮める、まったく新しいコミュニケーション革命なのです。
マリアさんの体験談を聞いていると、自分の人生も違った角度から見えてくるはずです。TEDトークから始まったこの奇跡の連鎖が、今度はあなたの人生にも新しい気づきをもたらすかもしれません。
人生は、思いもよらない場所で、思いもよらない人との出会いによって輝き始めます。マリアさんの物語があなたの次の一歩になることを願って、今すぐポッドキャストを再生してみてください。きっと、あなたの中の「当たり前」が「特別」に変わる瞬間を体験できるはずです。
今すぐ聞くべき理由
この配信を聞いた人たちは、すでに行動を始めています。
高校生は家族への感謝をハグで伝え、親御さんたちは毎日の家族ハグを習慣にし、孤独に苦しんでいた女性は人とのつながりを取り戻しました。
あなただけが取り残されていいのでしょうか?
マリアさんは今、仲間を募集しています。
本格的なコミュニティ活動が始まります。「ハグ文化」が日本に根付く前に、この革命の始まりを目撃し、参加する機会があるのは今だけです。
明日から家族との関係を変える具体的な方法を知り、言葉にできない感謝を伝える技術を身につけ、そして孤独感から解放される実践的なアクションを学ぶことができます。さらには、日本社会の未来を変える歴史的な運動の先駆者になる可能性も手に入るのです。
「人生配信オンリーワン」マリアさんエピソードを今すぐ再生して、あなたの人生を変える一歩を踏み出してください。
1.一つの疑問から始まった、愛と孤独の人生
ブラジルで生まれ、3歳半で日本に帰国したマリアさん。
日本で幼稚園のバスに乗る前、彼女は当たり前のように父親に
「パパ、ハグ!」と言いました。
しかし、それを見たクラスメートたちの反応は——
「気持ち悪い」
「なんでパパにハグするの?」
その日から、マリアさんへのいじめが始まりました。
2.封印されたハグ、そして父の死
子供ながらに「みんなと違うことをするといじめられる」と理解したマリアさんは、外でのハグを封印。家族の中だけの特別なコミュニケーションツールとして、ハグを大切にしながら成長していきます。
受験に失敗したとき、失恋したとき——いつも父親のもとへ行き、ハグで慰めてもらう。それが当たり前の日々でした。
しかし、健康だった父親が突然この世を去ります。
人生で一番の衝撃を受けたマリアさんを待っていたのは、日本社会の無言のプレッシャーでした。
3.「大丈夫ですか?」という優しさ
会社の同僚たちは心配して声をかけてくれます。でも、毎回説明した後には「大丈夫です」と答えなければならない空気。
全然大丈夫じゃないのに。 泣きたいのに泣けない。 助けてほしいのに言えない。
「もう誰とも会いたくない」
家から出たくなくなったマリアさんの元に、一人のメキシコ人の友人が訪ねてきました。
4.言葉を超えた愛の力「I am here for you」
ドアを開けると、友人は何も言わずにマリアさんをハグ。
「I am here for you(私はあなたのためにここにいる)」
その瞬間、マリアさんはようやく涙を流すことができました。
無理して「大丈夫」と言わなくていい安心感。
一人じゃないという温もり。
言葉の力を超える、ハグの力を実感した瞬間でした。
5.命を救うハグ大使として
この体験を通してマリアさんは気づきます。
日本では1日平均50人が自ら命を絶っている。
多くの人が「周りに負担をかけたくない」と助けを求められずにいる。
もし誰かが言葉ではなくハグで
「あなたは一人じゃない」と伝えてくれたら?
SOSを出せる瞬間が作れたら?
救える命があるのではないか?
現在、マリアさんは「命を救うハグ大使」として活動を始めています。
6.日本の家族が抱える深刻な問題
日本では、親子でさえハグをしない家庭が大多数。
「お疲れさま」と言葉で伝えても、なかなか伝わらない感謝の気持ち
距離感のある父娘関係
夫婦間でも照れてしまうスキンシップ
マリアさんは気づきました。
日本人は感情を体で表現する方法を知らないのだと。
7.お父さんとの関係に悩む女性
ある女性は、何年も距離感のあった口下手なお父さんとの関係に悩んでいました。
本音で話したこともなく、どうやってコミュニケーションを取ったらいいか分からない状態でした。
でも、マリアさんの話を聞いて勇気を出し、お父さんに後ろからそっとハグをしたのです。お父さんは何も言いませんでしたが、それを静かに受け止めてくれました。
それ以来、会うたびにハグが習慣となり、今まで縮まらなかった父娘の距離が急速に近づいていきました。
8.ハグをしたことがない夫婦
今まで一度もハグをしたことがない夫婦の話もありました。ある男性がマリアさんの話を聞いて帰宅し、勇気を出して奥さんにハグをしたところ、最初は「何急に?」とびっくりされてしまいました。
でも、彼は諦めずに「ありがとう」という感謝の気持ちを込めたハグだということを言葉で説明し続けました。
すると、奥さんも次第にその温かい気持ちを理解し、今では夫婦の新しいコミュニケーション方法として定着しているといいます。
9.カメラマンを使った革命的なアプローチ
でも、いきなり「ハグしましょう」と言っても、日本人は恥ずかしがってできません。
そこでマリアさんが編み出したのが、**「撮影会方式」**という画期的な方法。
プロのカメラマンを呼んで、「撮影のために」という理由で自然にハグをしてもらう。
「カメラマンさんが言ってるからやるんだよ」という言い訳があることで、参加者は恥ずかしさのハードルを越えることができました。
10.ハグの科学的な効果
実は、ハグの効果は科学的にも証明されています。
ハグが文化として根付いているブラジル、スペイン、イタリアなどの国々は、自殺率が低いというデータもあるのです。
体感することでしか得られない、言葉を超えた深いコミュニケーション。
それがハグの持つ真の力なのかもしれません。
しかし、マリアさんの活動は常に誤解との戦いでもありました。
話を聞いた経営者の中には「じゃあ職場でもハグをルールにしよう」と言い出す人もいたのです。マリアさんは慌ててそれを止めました。
強制的なハグには何の意味もありません。
大切なのは、互いの信頼関係の上に成り立つ、自然な感情表現としてのハグなのです。
あなたも最後に家族をハグしたのはいつですか?
大切な人への愛を、言葉以上に伝える方法があります。
あなたも勇気を出して、大切な人に感謝のハグをしてみませんか?
「体感しないと分からない。ハグには、言葉を超えた力がある」とマリアさんは語ります。
きっとあなたの人生観も、そして大切な人との関係も変わるはずです。
勇気を出して、今日から始めてみませんか?
マリアさんの人生から学ぶ、本当の愛のコミュニケーションとは——
今すぐ再生して、心温まる感動の実話をお聞きください。
きっとあなたの人生観も変わるはずです。
あなたは知っていますか?
一度はすべてを失った男が、なぜ今「エネルギーの塊」のような存在になっているのか。
今回のゲストは與良 (よら)さん。
一見すると、穏やかで哲学的な起業家に見える彼ですが、その裏には想像を絶する人生ドラマが隠されていました。
1.その日、37歳の男は人生最大の問いを突きつけられた。
~2度死んで、2度蘇った男の物語~
「君は何のために生きているんだ?」
突然、胸ぐらを掴まれるような勢いで問いかけられた與良さん。
37歳の彼は、その瞬間まで考えたこともない質問に戸惑った。
「そんなことあまり考えたことないから...」
逃げようとした彼に、その男は言った。
「逃げたら君の人生がダメになる。
俺が一緒に本気で考えてやるから」
これが、與良さんの人生を根底から変えた運命の出会いだった。
2.最初の「社会的な死」
物語は與良さんが初めて「社会的な死」を迎えたところから始まる。
食べるために、ただ必死に働く日々。
それまでの人生で培ってきたものが音を立てて崩れ落ちた時、彼が選んだのは組織・人材開発の会社「スコラ・コンサル」だった。
「とりあえず飯食わなきゃいけないから働かなきゃ」
そんな切実な想いでスタートした第二の人生。
しかし、この選択が後に彼の運命を大きく変えることになる。
3.運命を変えた3ヶ月間
スコラ・コンサルで数年が経った頃、與良さんは運命の人物と出会う。
総研会社の元専務取締役。外部からスコラ・コンサルに出入りしていたその男性は、與良さんに執拗に問いかけ続けた。
「何のために働いているんだ?」
「何のために生きているんだ?」
うざいと感じながらも逃げられない。
そして始まった3ヶ月間の濃密な対話。
「最初は、部活の先生みたいに嫌いだったんですけど、最後はやっぱり『いてくれたおかげです』ってなるじゃないですか。そういう感じでした」
與良さんは振り返る。
この3ヶ月で、彼は人生で初めて真剣に自分と向き合った。
4.発見した「復活の3要素」
この体験を通じて、與良さんは人生復活の秘密を発見する:
1. ご縁
人との出会い
2.問いと対話
「本気で聞いてくれる人がいる」
ただ聞くのではない。
一緒に本気で考えてくれる人の存在。
3. 応援
「一人じゃないって思わせてくれる」
しかし、這い上がる過程には時間差がある。
「いつでも戻ってきていいよ」
そう思わせてくれる環境。
5.二度目の試練、そして真の覚醒
しかし物語はここで終わらない。
與良さんは再び「社会的な死」を経験することになる。
だが今度は違った。一度目の経験で身につけた「復活の3要素」が彼を支えた。問いを立て、誰かと対話し、応援してくれる人に力を借りる。
「何かあった時には問いを立てて、誰かと対話して、僕を応援してくれる人に力を借りる」
これが與良さんの新しい人生哲学となった。
6.ギバーの矛盾
復活を遂げた與良さんだが、ここで興味深い発見をする。
お金を意識した時ほどうまくいかない。
無意識に人のために動いた時の方が、結果的にお金も入ってくる。
「無意識でいい時はギバー(与える人)になれるんだけど、意識するとテイカー(受け取る人)になってしまう」
現実世界の不思議なルール。
與良さんは今もこの矛盾と向き合い続けている。
7.新しい世界への扉
この体験が「エール」という事業の誕生につながった。
学生や社会人たちに「何のために働くのか」を考える機会を提供 エール。
辛い経験をした人を問いと対話と応援で支える世界を創造
「僕のような辛い体験をした人が、問いと対話と応援してくれる人が存在する世界を作りたい」
與良さんの新しい挑戦が始まった。
8.栄光から転落へ「上場という夢の終わり」
かつて與良さんには、大きな夢がありました。
起業家として会社を育て、上場を目指していたのです。多くの人が羨む成功への階段を、一歩ずつ登っていました。
しかし、運命は残酷でした。
「一回上場とかで失敗してから...」
さらりと語られるこの一言の裏には、想像を絶する挫折と絶望が隠されていました。すべてを賭けた夢が崩壊した瞬間。それは、與良さんにとって「社会的死」とも言える出来事でした。
普通の人なら立ち上がれないような状況。でも、與良さんの物語は、ここから始まるのです。
9.暗闇の中で見つけた一筋の光
どん底の中で、與良さんは一つの気づきを得ました。
「どこに向かっていくんだろうって思って生きてる...
だけど、なんか どっかに向かって生きていこうとしなくていい という自分もいて」
それは、目標や成果にとらわれることからの解放でした。
大きな方向性として「愛と感謝の地球を作る」という想いは持ちながらも、具体的な道筋にこだわらない生き方。
そして、ついに見つけたのです。
「ご縁の中でどういう風に自分を生かすか」
この一つの答えが、與良さんの人生を根本から変えることになりました。
10.「人生暇つぶし」という名の革命
失敗の経験を通して、與良さんは驚くべき境地にたどり着きました。
「人生暇つぶしという前提で生きてるので」
この言葉を聞いた瞬間、私は息を呑みました。
これは諦めではありません。これは、成功への執着から完全に自由になった者だけが到達できる、究極の人生哲学だったのです。
「売上を大きくしたいとかあんまないんですよ。
飯食えればいいやぐらいで思って」
でも不思議なことに、そう語る與良さんからは、むしろ強烈なエネルギーが溢れ出ていました。話しているだけで、こちらまで元気になってしまう。
それは一体なぜなのでしょうか?
11.執着を手放す魔法
與良さんには、多くの人が持てない特殊な能力がありました。
それは「手放す力」です。
出版の話が進んでいた時のこと。
「次の本が執着に変わってきたので、手放しました。
次の本を出したい、出さなきゃになってきたから...
あ、これ執着だからもう手放そうと思って」
普通の人なら、せっかくのチャンスを逃すまいと必死になるところです。
でも與良さんは違いました。
執着に気づいた瞬間、潔く手放したのです。
「僕は結構、簡単なんで」
この一言に込められた境地の高さ。
それは、すべてを失った経験があるからこそ到達できた境地でした。
12.現在進行形の奇跡「秘密決社での若返り計画」
そんな與良さんが今、取り組んでいるプロジェクトは実にユニークです。
チャクラグラスでのメガネ制作
オンラインサロンと起業塾の運営
そして極めつけは...
「若返りの秘密決社作ろうと思ってて。
内側と外側の若返りを誰にもバレないようにやってく」
すべては「ご縁の中で自分を生かす」という一つの軸から生まれているのです。
13.新時代の起業論「セルフベーシックインカム」
與良さんが提唱する革命的な考え方があります。
「バイトしながら起業でもいいし、派遣しながら起業でもいい」
従来の起業論では、「起業だけで食えないからバイトしている」と考えがちです。でも與良さんは違います。
「焦燥感なく安心した心でいたいから、バイトしながらしている」
この視点の転換が、すべてを変えるのです。
同じ状況でも、見方が変わるだけで「惨めな起業家」から「賢い起業家」に変身してしまう。これが與良さんの言う「世界を見る力のアップデート」なのです。
14.すべてはご縁から始まる
「僕の体験は世の中の体験だと思ってるので、シェアしてなんぼだと思っている」
與良さんがすべてをオープンに語る理由がここにありました。
自分の失敗も成功も、すべて世の中の財産として共有する。
その姿勢が、自然と人を引き寄せているのです。
「なので、もう、さらけ出し人生」
この言葉に込められた覚悟と愛。
それが、與良さんから溢れ出すエネルギーの正体でした。
15.あなたへの招待状
もしあなたが今、人生に迷っているなら。
もしあなたが、失敗を恐れて一歩を踏み出せないでいるなら。
もしあなたが、成功への執着で苦しんでいるなら。
與良さんの物語は、きっとあなたの人生に新しい視点をもたらしてくれるでしょう。
すべてを失った男が見つけた、本当の豊かさとは何なのか?
「人生暇つぶし」と笑える境地に至るまでの道のりとは?
そして、なぜ彼の周りには自然と人が集まってくるのか?
「人生配信オンリーワン」で、この奇跡の物語の続きを聞いてください
與良さんの人生逆転ストーリーには、まだまだ語られていない秘密がたくさんあります。
山あり谷ありの人生を歩み、それでも「ご縁の中で自分を生かす」ことを選んだ一人の男の物語。
それは、きっとあなたの人生にも奇跡を起こしてくれるはずです。
今すぐ視聴して、あなた自身の物語を始めませんか?
16. あなたも主人公になれる
この物語を聞いて、あなたの心にも「問い」が生まれているかもしれません。
あなたは何のために生きていますか?
あなたは何のために働いていますか?
もしその問いに向き合いたいなら、もし人生の次のステージに進みたいなら、與良さんの20分の人生ストーリーを聞いてみてください。
與良さんが執筆された本を読んでみて下さい。
1人起業家マインドセット 「好き」を「稼ぎ」に変えるすごい働き方 | 與良 だいち |本 | 通販 | Amazon
胸ぐらを掴まれるような衝撃は保証できませんが、あなたの人生を変える「何か」がきっと見つかるはずです。
1. エリート街道20代から35歳で人生迷子
大学を卒業して、伊藤忠商事に入社。
25歳で外資系コンサル、アクセンチュア(旧アンダーセンコンサルティング)に転職、戦略コンサルタントに。
29歳のとき、父親が経営するシステム開発会社(社員70名)に後継者候補として転職。
これだけ見ると、
ピカピカなキャリアに見えるでしょう。
僕も、成功の人生の道を歩んでいると
疑いもなく信じていました。
しかし、、、34歳のとき、
父親の会社で社員の退職対応や
リーマンショックによる大幅売上減もあり、
過剰すぎる責任感を勝手に持ってしまい、
僕の力不足もあいまって、心を壊してしまいました。
そこからは、
薬に助けられながらの生活でした。
朝、会社に向かうバスの中では
「このバス、事故にあえばいいのに、、、」
そんなことを毎日思う日々。
そんな生活が1年ほど続いた35歳のある日・・・
「銀座の交差点で叫んで走る」
というところまで追い込まれ、会社にいけなくなりました。
・・・はい、
「社長の息子の役員が、会社に来なくなる事件」
を起こしたんです。
それから一度も会社に行かぬまま、会社を去ることになります。社員のみんなに挨拶もなしに...十字架を背負った気持ちになりました。そして、家から出られなくなりました。恥ずかしいし、情けない気持ちに押しつぶされるような毎日。父親にはものすごい迷惑をかけたと思います。
これが、1度目の社会的「死」でした。
2.2度目の社会的「死」。1円で会社を売却
35歳で父親の会社を辞め、無職・無収入になりました。
子供は1歳、まだ当分終わらない住宅ローン、、、人生、終わったと思いました。しかし、死ぬ勇気もない。家族のためにも、生きていかなければいけない。半年ほど時間が経ち、サラリーマンに戻りました。
前の会社で「人がすべて」とわかったので、組織開発コンサルタントとして転職しました。そこの仕事はとても面白く、僕に合っていたようでした。
2011年の震災を機に「ハタモク(働く目的)」という
学生と社会人が「何のために働くのか」を語り合う場を仲間と立ち上げたら、それが多くの人に共感され、活動は全国に広がるほどに。何度か新聞や雑誌にも取り上げられ、一度終わったと思った人生は、少しずつ良い方向に回復していきました。2013年、この流れを事業にしたいと思い、「株式会社もくてき」を立ち上げました。「目的に向かって生きる・働く人と組織を増やす」というビジョンを掲げた会社です。
いまでこそパーパス経営と言われていますが、その時は「なにいってるの?」と言われる始末でしたが、ときどき見つけてもらって、新聞に取り上げてもらったりしました。
翌年の2014年には人を応援する「エール」というクラウドサービスを立ち上げ、投資家などから1億円近くを調達して上場を目指すことにチャレンジしました。
「多くの人に応援を届けたい」
そういった想いをカタチにしたかったんです。
ですが、僕の力不足もあり、
サービスが思うようにいかず...
情報漏洩問題も起こして顧客はゼロに。
毎月500万近くの赤字が垂れ流れ、、、
3年間、それこそ寝ずに頑張りました。
心の限界も超えていましたが、
なんとか耐えて踏ん張っていました。
・・・しかしある日、倒れました。
・・・一度休んだら、心も折れました。
そして、またやってしまったんです。
今度は「社長がこなくなる事件」を。
心も体も限界を超え、
何もできなくなりました。
弁護士に力を借りながら
投資家と話し合った末、
僕がこれ以上、
会社の経営をするのは無理と判断し、
会社を手放すこととしました。
売却金額は1円です。
翌日、銀行通帳には「1円」の入金が記帳されました。
やってきたことも、社員や仲間も、お金も、すべてなくなりました。命懸けでやってきたことが1円と記帳されただけ。
2016年、42歳。
これが2度目の社会的「死」でした。
人生で最もむくみ、体重も20キロ近く、増えました。
いつもガマンばかりしていて、ストレスをためて
いつも背中が痛くて、呼吸もできない日々でした。
家族には大変な苦労を掛けてしまいました。
このときには絶対に戻りたくない。そんな時代です。
3.生き直しで「半径3m」 x 「好き」の生き方に
また、無職・無収入になりました。人生2度目。
「おれ、そんなに悪いことしたのかよ」
神様に、そう言うしかできませんでした。
「まじめに一生懸命に生きてきただけなのに。なんでこんな目にあわなきゃいけないの。つらすぎるよ。もう生きるの疲れたよ。」
自分を責め続けました。人生を、あきらめたくなりました。
しかし、あるとき、ふと、
「あ、僕の生き方は 何かが間違っていたのかもしれない」
と気づきはじめるように。そこから「生き直し」することに決めました。自分の人生を見つめ直していくと、いくつも気づきがありました。評価や実績など外側ばかりを求めた「他人軸」の生き方をしてきたこと。
売上・利益を気にして「べき・ねば」で動き、「好き」を大切にしてあげなかったこと。
自分や家族、身近な人を充分に大切にしてこなかったこと。
それでも家族は離れずに近くに居続けてくれたこと。
恥ずかしながら、そんなことがわかりました。そして、
「半径3メートルを大切にする」「好きなことを、好きな人としかしない」「家族をいちばん大切にする」この3つを軸に、生き直すことを決意したのです。
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「好き」から生まれたビジョンは
生きる・働くエネルギーになる
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そこから人生は確実に変わり始めました。このとき、2017年、43歳からの再出発です。4.「好き」で生きたら人生が変わった
「半径3メートル」✕「好き」という
自分軸な生き方に変えて、人生は大きく変わっていきます。
売上などの規模を目指すやり方は、僕には合わない。
社員の雇用や事務所などの固定費や借入は、心の負担になるから、豆腐メンタルな僕には合わない。
自己理解が進み、さらには規模は小さくていいから
・「好き」を楽しんで生きるのが僕に合ってる!・「好き」の先に魂が震えるビジョンがある!
そして
・夢やビジョンはバカデカくていい!
こんなことがわかりました。今の僕のビジョンは
「地球がひとつの家族として 人もビジネスも 愛と感謝が流れている時代を創る」
恥ずかしげもなくそれを熱く語り、ビジネスもそこに結びつけています。
「好き」から生まれたエネルギーは、パワフルなことを確信しています。
生き方・働き方も軽やかに変わっていき、ビジネスも連続的に立ち上げて、楽しみながらできるようになりました。
5.14の事業立ち上げと、4社の売却からわかったこと
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「好き」から生まれたビジョンは
生きる・働くエネルギーになる
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これが僕がわかった真理。
そんなビジョンに生きてきた結果、冒頭で話した事業など多くを生み出せました。
さらに、ビジョンに向かって軽やかに動き続けるコツもわかりました。それは「仮決め」(かりぎめ)という技術。「好き」から生まれるビジョンと「仮決め」。
この2つをセットで実践すると、充実した生き方・働き方に向かいます。
それをどんなステップで具体的にどのような取り組めばいいかを描き尽くした1冊がこの本です。
+☆+☆+☆+☆+☆+☆+
1人起業家マインドセット
〜「好き」を「稼ぎ」に変えるすごい働き方〜
はじめに 「好き」と「稼ぐ」を両立する最強の働き方
第0章 僕が1人起業家になったわけ
第1章 1人起業家という新時代の働き方
第2章 「好きなこと」を確実に見つける方法
第3章 「1人起業家マインド」で幸せに成功する
第4章 「ずらし戦略」で競争力を磨く
第5章 「ニッチスター戦略」でオンリーワンになる
第6章 「コミュニティ・コラボ戦略」で次のステージに飛躍する
おわりに 「好き」から始まる大きな循環
+☆+☆+☆+☆+☆+☆+
1人でも多くの人が、軽やかにポップに
「自分らしく、楽しく生きる」
に向かうことができるようになる本です。
「親父が大腸がんになったんです。」
Yoshiさんの転職理由は、多くの人が想像するキャリアアップとは全く違っていました。製薬業界で働く彼にとって、父親の病気は単なる家族の問題ではなく、自分の仕事への向き合い方を根本から変える出来事だったのです。
なぜ、会社が提示した3つの選択肢ではなく、なぜ4つめの選択肢、転職を選んだのか?
そう、従業員3000人の大手外資製薬会社から、たった70人のドイツ系ベンチャーへ転職。
父の病気が変えた人生の軌道。
一つ一つは小さな選択でも、それが積み重なって予想もしない運命が生まれる。
「運命って『命を運ぶ』って書くじゃないですか。僕はその瞬間瞬間の選択が、自分の命をどこに運んでいくかを決めている。そうして運命を作っていると考えてます捉えています」
1. 転職4社目 : 10年間のサバイバル戦 - リストラの嵐を乗り越えた男
「転職エージェントから『それだけでも業績ですね』って言われました(笑)」
入社した会社は「取り扱い要注意」のブラックリスト企業。外国人社長が頻繁に人をクビにし、業界内では悪名高い存在でした。
しかし、Yoshiさんはそこで何を見つけたのか?
製品戦略担当2人のうちの1人から、マーケティング部を立ち上げる部長として14人のチームを率いるまでに成長
会社も70人から200人規模へ拡大
経営者視点での意思決定プロセスを体験
まさに「修羅場」が最高の成長の場となった10年間の物語です。
2. 夢と現実のギャップ - 海外転勤の約束が教えてくれたこと
「海外で働きたい」- ブラックリスト企業に入社時の希望を伝えており、社長も上司ももちろんサポートしてくれると約束していました。実際、私が知るかぎり10年間で3度のチャンスがありました。
1回目・2回目:新製品の臨床試験の失敗により機会消失
3回目:なんと上司が勝手に断っていた!
「日本を抜けられたら困る」という理由で、知らない間に夢を奪われていたYoshiさん。知らないうちに夢を閉ざされてしまった出来事が、Yoshiさんのその後の人生を大きく変える転機の一つとなりました。
3. 転職5社目 : 運命の1週間 - サンフランシスコからの突然の電話
45歳、ある医師の紹介で始まった小さな縁が、思わぬ展開を生みます。
「来週サンフランシスコに来れますか?」
突然のアメリカからの連絡。
たまたま空いていた1泊2日のスケジュールで弾丸渡米。1日で5人との面接をクリアし、なんと日本法人設立という壮大なプロジェクトのオファーを獲得!
日本法人すらない会社との契約という前代未聞の転職劇。
4. 製薬業界のエリートが安定を捨てて見つけた「本当の自分らしい働き方」製薬会社で順風満帆なキャリアを歩んでいたYoshiさん。
周囲からは羨ましがられる安定した地位にいながら、なぜ彼はリスクを冒してまで転職の道を選んだのでしょうか。
その答えは、彼が語る「思考の枠から出た時に見えた、まったく違う景色」にありました。
運命を変えた一つの決断
「このままでいいのか?」
製薬会社のマーケティング部長として働いていたYoshiさんの心に、ある日ふと浮かんだ疑問でした。安定した給料、将来への不安のない生活。でも、心の奥底では何かが物足りない。そんな漠然とした思いを抱えていた時、アメリカの遺伝子検査会社から声がかかります。
それは、日本法人がまだ存在しない、まさにゼロからの立ち上げプロジェクトでした。周囲からは「なぜそんなリスクを?」と驚かれましたが、Yoshiさんの胸には久しぶりのワクワク感が蘇っていました。
業界が騒然とした退職劇
決断の時が来ました。製薬会社を退職すると発表した瞬間、業界内でSNSなど、ちょっとした騒ぎになります。「あのYoshiが製薬会社をやめた」という話題で持ちきりになり、多くの人から「もったいない」「なぜやめたんですか」と質問攻めにあいます。
でもYoshiさんには確信がありました。「戻れる自信があった」から。この自信こそが、リスクを恐れずに新しい挑戦に向かう原動力だったのです。
気づいた時には「日本に数人」の希少人材に
癌領域での専門知識、遺伝子検査という最先端技術、海外組織でのビジネス経験、そして日本ビジネス立ち上げという特殊な経験。これらが組み合わさった時、Yoshiさんは「日本に数人しかいない人材」になっていました。軸をブラさない転職戦略が、気づけば圧倒的な市場価値を生み出していたのです。
5. もう一つの顔:コーチングとの意外な関係
実は、Yoshiさんにはもう一つの顔があります。それがコーチング業です。「製薬やマーケティングと全然関係ないじゃないか」とよく言われますが、その原点は製薬会社時代の挫折体験にありました。
すべては30代の頃、一本の電話から始まりました。
29歳でマーケティングに異動した時、年上の部下との関係に悩み、精神的に追い詰められた時期がありました。そんな時に出会ったのが「コーチング」でした。
外資系企業で管理職になった彼は、会社のコーチング研修を受ける機会を得ました。「コーチングってこんなものかな」と思いながら学んだ知識は、実際に部下を持つと全く通用しませんでした。「全然うまくいかへんやんけ」という関西弁混じりの率直な感想が、彼の探求心に火をつけました。
6. 今、明かされる「思考の枠を超える」威力
Yoshiさんが3度の転職で得た最大の気づき、それは「思考の枠から出ることで見える、まったく違う景色」でした。コンフォートゾーンの中で考えていた時には見えなかった世界が、環境を変えることで一気に開けたのです。
結果として年収は大幅にアップし、様々な機会にも恵まれました。でも何より価値があったのは、「自分らしい働き方」を見つけられたことでした。
7. 製薬マーケティング責任者からコーチング起業家へ——ある男の選択が紡いだ物語
履歴書を見れば、誰もが首を傾げるでしょう。転職回数5回。普通なら「この人、何か問題があるのでは?」と思われても仕方ありません。
しかし、転職エージェントは彼の経歴を見てこう言いました。「素晴らしいキャリアですね」と。
現在は米系のがん遺伝子検査会社の日本法人のシニアディレクターを務めながら、自らの会社を立ち上げてコーチング事業を展開する、まさに現代の「複業」を体現する男です。
8. 製薬会社を辞めた瞬間に見えた世界
45歳、製薬会社を辞めた瞬間、予想外のことが起こりました。多くの人が彼のもとに相談に来るようになったのです。
「製薬企業でのマーケティング責任者をやっていた人が会社を出たら、たくさんコンサルしてとの声がかかりました。薬の売り方や製薬企業へのセールスををアドバイスできる人って結構貴重なんですよね」
広告代理店をはじめ、製薬向けにビジネスを展開する人たちから
「どういったプレゼンをしたらいいか」といった相談が殺到しました。
彼はコンサルタントとして的確なアドバイスを与えました。しかし、しばらくすると「ちょっとうまくいきませんでした」という報告が返ってくるのです。
「やり方や考え方は理解して動こうとしているんだけども、結局人の問題で動けていないケースが多かった」
そこで彼は気づきました。「これはもうコンサルの領域じゃない。コーチングなんだ」
9. 人生を変える責任の重さ
無料で相談に乗って、コーチング的な関わりをすることも多かったYoshiさんですが、あるとき重要なことに気づきました。
「コーチングって、その人の人生を変える可能性があるじゃないですか。」
セッションをきっかけに行動が変わり、その人の人生が変わっている。それは大きな責任を伴うことだと気付いたのです。
「無料でやるというのは、逆に責任感がない。ちゃんとお金をいただいて、それに見合うスキルを身につけて、プロとしてちゃんとやった方がいい」
この責任感が、彼をコーチングスクールへと向かわせました。
10. 本業とのシナジーが生む奇跡
コーチングの認定資格、さらにはトレーナー資格まで取得したYoshiさん。2020年後半から副業としてコーチングを開始し、現在で4年目を迎えています。
特筆すべきは、本業との絶妙なシナジー効果です。製薬業界にいる彼は、多くの医師とのつながりを持っています。
「お医者さんって、めちゃんこ大変なお仕事なんですよね。特に今の働き方改革で、大学病院は本当に最悪な状況」
40代、50代の医師たちは仕事の業績や部下の育成はもちろん、人生やキャリアに悩むことも多く、そこでYoshiさんのコーチングが力を発揮します。結果として、本業の製薬業界での仕事とコーチング事業が有機的につながっているのです。
11. 「失敗はない、あるのはフィードバックだけ」
多くの転職を重ね、副業から起業へと歩みを進めてきたYoshiさんが大切にしている考え方があります。
「やったら、フィードバックがあるということ。失敗はないわけです。期待する結果でなかったとしてもそれはフィードバックを得ただけ。それを踏まえて、また動いていけばいい」
転職する時も、「悩んだら、とりあえずちょっと行ってみるか」という軽やかさがありました。結果的に、それが良い方向につながっています。
「製薬にずっといたら、このコーチングをビジネスとして、今自分の会社まで作ってやることは多分できていない」
その時、その時の選択が、今の彼を作り上げてきたのです。
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