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音声概要の元記事(BLOG『芦田の毎日』)の全文は以下である。
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憲法第九条第二項を改正しないというのは、自衛隊員の人権を無視していることと同じだということについて、リベラル派は何も考えついていないのでは。
自衛隊員を〝国民(=市民)〟の外に置いて、自分は平和主義者だというのは、アホだと思う。どこがリベラルなのだ。
自衛隊員を〝国民(=市民)〟の外に置いて、自分は平和主義者だというのは、アホだと思う。どこがリベラルなのだ。
「自衛隊は軍隊ではない」と言って、軍事裁判制度がない状態で自衛の「交戦権」は認めるというのだから、アホな話だ。
日本の平和主義と自衛権に関わる軍事行動というものを軍事裁判なしでどう裁くのだ。
〝自衛〟であれ、〝侵略〟であれ戦闘行為を認めるのなら、軍事裁判の担保なしにはあり得ない。いちいち〈殺人罪〉で起訴されることを心配していたら、戦闘行為に入ることなどできないからだ。
この不合理を見て見ぬ振りするには、自衛隊員を〝国民(=市民)〟の外に置くしかないのだ。これは、リベラルとは言えない。侵略者を裁く前に、自衛隊員を拘束しているわけだ。
そもそもこの占領軍(1945年~1952年)の条文(GHQ草案)は、まだ中国が共産化していないときの、アメリカの日本論を表現しているだけの条文であって、平和主義とは何の関係もない。
1949年以降(中華人民共和国成立以降)の日本の再軍事化(反共の砦としての)は、アメリカの東アジア戦略の中で生じたもので、これもまたアメリカの日本論の中で変化したに過ぎない。
日本の自衛権としての戦力論は、戦後一度も自律的に考えられたものではない。憲法第九条第二項の位置づけとそれにかかわる平和主義は、よじれによじれている。これに気付かないで、日本の左翼のリベラリズムが存在している。日本の自立を謳うこと自体が〝右翼〟であるかのように。
そのことによって実質的に自衛隊員の人権が疎外されているのである。
芦田先生は元記事は以下のようなものです。憲法第九条第二項を改正しないというのは、自衛隊員の人権を無視していることと同じだということについて、リベラル派は何も考えついていないのでは。
自衛隊員を〝国民(=市民)〟の外に置いて、自分は平和主義者だというのは、アホだと思う。どこがリベラルなのだ。
「自衛隊は軍隊ではない」と言って、軍事裁判制度がない状態で自衛の「交戦権」は認めるというのだから、アホな話だ。日本の平和主義と自衛権というものを軍事裁判抜きでどう(〝自衛〟の)軍事行動を裁くのだ。
芦田先生の記事は、中道改革連合を組織依存の強さから国民政党ではないと断じ、その「平和」の訴えを共産党以上のポピュリズムと批判します。多様性を抱える自民党の寛容さを評価する一方、日本のリベラリズムの思考停止を指摘。保守の本質は天皇制や歴史に裏打ちされた感情性にあり、実力不足な左翼では太刀打ちできないと論じています。
元記事のリンクはこちら→
https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat3/post-470.html
提供された芦田先生のテキストは、増え続ける訪日外国人観光客を貴重な財源と捉え、消費税減税を批判的に論じています。著者は、消費税を外国人や富裕層から確実に徴収できる重要な税収源と位置づけ、安易な引き下げは経済的に合理的ではないと主張しています。特にインバウンド需要による税収は自動車輸出に匹敵する規模であるため、これを福祉政策などの財源として活用すべきだという視点を示しました。さらに、低所得者対策には減税ではなく給付付き税額控除で対応すべきだと提言しています。結論として、円安傾向の中で観光立国としての強みを活かし、戦略的に税制を運用することの重要性を説いています。
元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat3/podcast.html
このテキストは、芦田氏が1999年から四半世紀にわたりブログ**『芦田の毎日』を書き続けてきた背景と動機を詳述したものです。その発端は1995年のグループウェア導入に遡り、学内掲示板での書き込みが公私混同との批判を浴びた経験が、独自のメディアを持つきっかけとなりました。著者はネット上での「公」と「私」の境界線や、言葉のあり方について深く考察し、哲学的な論文の文体と日常的な話体を融合させる新たな表現を模索しています。SNSのような断片的な発信が主流となる中で、ブログという形式を通じて思考の質を維持し、体系的な記述にこだわり続けてきました。2026年のサイトリニューアルを機に、これまでの歩みを振り返りながら、情報化社会における言葉の表出方法**への飽くなき探求心が綴られています。
元記事のリンクはこちら→ https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/about.html
この芦田先生の記事は、令和四年度から導入された高校普通科の再編がもたらす深刻な懸念を批判的に考察しています。著者は、普通科が四つの新学科に分化されることで、主要科目の授業時間が削減され、生徒の基礎学力が著しく低下することを危惧しています。学校教育だけで十分な学力を補えなくなる結果、家庭の経済力に応じた教育格差がこれまで以上に固定化されると論じています。最終的に、この政策は学力の不足を「個性」という言葉で包み隠し、教育の質の低下を招くものであると厳しく指摘しています。
元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/4-2.html
この資料は、高市氏が提唱する衆議院解散の正当性について、二つの段階に分けて論じたテキストです。主な内容は、少数与党の現状を打破し、自民党内の緊縮財政派や親中派といった抵抗勢力を一掃して、自らの政策を強力に推進することの必要性を説いています。特に、財務省主導の財政方針から脱却し、「責任ある積極財政」への転換を通じて、国民の暮らしと経済安全保障を守る重要性を強調しています。また、野党や党内の反対派に対抗するため、選挙を通じて国民から直接的な信任を得るべきだという強い主張が示されています。最終的には、単なる政権維持ではなく、ガソリン税廃止などの即効性のある物価対策を実行し、国の誇りと独立を維持することを究極の目的としています。
元記事へのリンクはこちら→ https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat3/post-469.html
この芦田先生の文章は、朝の連続テレビ小説をきっかけに、昭和という激動の時代を生きた実父と自身の関係性を省察する筆者の心境を綴ったものです。著者は、戦時教育から戦後の平和主義へと価値観が激変した時代に多感な時期を過ごした父親に対し、その内面的な葛藤を詳しく聞き出せなかったことに深い悔恨の念を抱いています。思想家・吉本隆明の理論には傾倒しながらも、身近な親が抱えていたであろう歴史的矛盾を看過していたことに気づき、それが戦後リベラリズムの脆さへの考察へと繋がっています。最終的に、国家と個人のあり方を問い直しつつ、語られぬまま失われた父の真実の記憶を惜しむ、内省的で重厚な内容となっています。
このテキストは、生成AIの誤りを批判する教育者たちの欺瞞を鋭く突いています。筆者の芦田氏は、AIの正確性を疑う前に、閉鎖的な教室で教師が繰り返す無知や誤謬こそが問題であると断じています。教育現場はAIよりも不正確な知識を垂れ流しており、多様性や探究学習といった言葉は学力低下や研鑽不足を隠蔽する言い訳に過ぎません。外部の目に晒されるAIを軽視するのではなく、まずは教育の質そのものを厳格に見直すべきだと強く訴えています。AIの進化に比して、旧態依然とした教師の怠慢を厳しく指弾する内容です。
元記事へのリンクはこちら→ https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat3/ai-1.html
この文章は、芦田先生の年賀状から引用された**「死」と「歴史」に対する哲学的な洞察を綴ったものです。著者は、若者の将来を見届けられないという自己の消滅を、かつて理解できなかった次元で実感し始めています。
この感覚を森高千里の歌詞になぞらえ、若さの美しさが放つ「はかなさ」を、変貌を見ることが叶わないという無力感と不在の願望から分析しています。また、老いという実感を共有できるのは同世代のみであり、時間や世代の間には決定的な断絶が存在すると指摘しています。最終的に、歴史とは単なる予測ではなく、こうした断絶の連続を思考すること**であると定義しています。
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