『芦田の毎日』

『芦田の毎日』

By Hironao AshidaSociety & CulturePhilosophy
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『芦田の毎日』 episodes

  • 『じゃあ、あんたが作ってみろよ』に見る男女のすれ違いについて

    この芦田先生の記事は、TBSドラマ『じゃあ、あんたが作ってみろよ』(谷口 菜津子原作、2025)を題材に、精神分析家ジャック・ラカンの欲望論を読み解いた批評です。芦田先生は、男女が互いに「相手が求める理想」を演じることで生じる認識のズレを、精神医学的な視点から鋭く指摘しています。作中の主人公が直面する苦悩は、自己の欠如を埋めようとするヒステリー症的な愛の表れであり、現代ドラマにおける普遍的なテーマとして描かれています。著者は、近年の作品群に共通する女性心理の露呈を分析し、かつてのトレンディドラマとは異なる人間関係のリアリティを浮き彫りにしています。最終的に、他者の欲望に翻弄される人間の孤独な本質を、ドラマ批評を通じて優雅に考察した内容となっています。

    5 min
  • ウィニコットの「ほどよい母親」と「存在の一体性」について

    この芦田先生のテキストは、イギリスの精神分析家ドナルド・ウィニコットが提唱した**「ほどよい母親」という概念を、独自の視点で深く考察しています。著者は、単なる距離感の調整ではなく、その根底にある「存在の連続性」という名の絶対的な信頼が不可欠であると説いています。これをジェットコースターのレールに例え、揺るぎない分母としての安心感**があってこそ、子供は自律的な活動が可能になると指摘しました。この理論は子育てにとどまらず、学校教育や組織論における人間関係の構築にも応用できる本質的な知見として示されています。

    14 min
  • 帰郷といとこの死と死の原風景と ― 反lumen naturaleとしてのRufの哲学について

    この芦田先生の文章は、数十年間ぶりに帰郷した著者が、その直後に長兄代わりであったいとこの死という予期せぬ喪失に直面し、そこから深い省察を試みる記録である。著者は、病室で冗談を交わしたばかりのいとこの訃報に大きなショックを受け、葬儀のため急遽再び故郷へ戻ることになる。そもそも今回の帰郷は、67年前に歩いた**「孤独の原風景」とも言える幼少期の道を再訪する衝動から始まっており、故郷の風景が著者の内面と深く結びついている。著者はこの個人的な出来事を、ハイデガーやジャン=リュック・マリオンの哲学で重要な概念である「呼び声」(Ruf)と関連づけて考察する。すなわち、個人の意思や思想を超え、死者と風景の両方が「私」を呼ぶ他者性として働いていると論じる。この記録は、帰郷と喪失、そして自己を規定する根源的な風景**が交差する思索的な文章となっている。

    14 min
  • 選択的夫婦別姓問題について ― 近代主義的個人はどこへ行くのか

    この文章は、芦田先生の議論を引用しつつ、夫婦別姓を「個人」の思想から主張することに対して批判的な見解を述べています。筆者は、夫婦別姓の根底にある極端な個人主義は、ヘーゲルの哲学を参照しながら、性愛の本質的な意味である「二人で一つ」という側面や「子供」の存在を否定するものだと論じます。さらに、このような個人主義は最終的に親の否定につながり、それは無力な個人の現れであると指摘しています。結論として、筆者は真の大人とは、親に対して感謝の念を持ち、家族というつながりを受け入れることのできる存在であると主張しています。https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat7/post-467.html

    18 min
  • 選択的夫婦別姓問題について ― 個人主義のなれの果て

    提供された芦田先生の文章は、夫婦別姓を「個人」を重視する思想から主張することに対して、哲学的かつ批判的な視点を展開しています。筆者は、この主張の根底には性愛、特に子供を生み出すという本質的な側面の否定があると考えています。ヘーゲルの哲学を参照しつつ、性愛の本質は「二人で一つ」となり「子供」として具体化される「運命(さだめ)」を引き受けることであると指摘しています。そのため、個人主義的な主張は、最終的には親を含めた他者との関係性を拒絶する無力な個人を生み出すことにつながり、一部の著名な論者を「ガキ(子供)」に過ぎないと断じています。

    15 min
  • ウィーナーのサイバネティクス思想: ― 制御と自由について

    この芦田先生の記事は、ノーバート・ウィーナーのサイバネティクス思想の概要と、それが文化論、文明論、そして世界観にどのように応用されるかを論じています。サイバネティクスとは、「操舵者」を意味するギリシャ語に由来し、もともとは動物と機械における制御と通信の理論として第二次世界大戦前後に登場しました。この思想の中核は、制御可能な変数と制御不可能な変数という二つの要素を通じて世界を捉えることにあり、船の操舵の例を用いて、制御できないもの(風や波)を制御できるもの(舵や動力)を使って相対的に支配する原理が説明されています。この制御の能力はウィーナーによって**「自由」と見なされ、サーモスタットや自動ドアといった身近な例から、人間の思考や行動主義に至るまで、「フィードバック」という概念を通じてその応用が考察されています。最終的に、ウィーナーのサイバネティクスは、人間と機械の区別を不要とする刺激的な思想であり、現代の人工知能論の原型**にもなっていると指摘されています。

    19 min
  • 生成AIと現代思想の衰退 ― 記号接地問題は、素朴実在論に過ぎない。

    この文章は、生成AI時代における言語と哲学の衰退に関する論考の一部であり、特に芦田先生による『生成AI時代における言語論』の書評という形式をとっています。

    著者は、哲学者や社会学者の議論(國分功一郎や大澤真幸など)が、人工知能研究者である松尾豊氏の議論についていけておらず、現代の思想や哲学が衰退していると強く批判しています。具体的には、「フレーム問題」や「記号接地問題」といった従来のAIの限界を指摘する議論は無効であり、AI研究の進展が、人間の身体や行為に関する従来の哲学的理解を超越していると主張しています。また、「食べる」という行為の意味を例にとり、記号と実体の関係に関するカントやハイデガー以来の伝統的な議論を参照しつつ、松尾氏の方がはるかに哲学的であると評価しています。

    40 min
  • SONY文化の意味と地方の電気屋さん

    この文章は、筆者である芦田先生の故郷である福知山の新町商店街と、そこで彼のオーディオ趣味を育んだ「丸天電器」という電気店についての回想録である。筆者は、かつて賑わっていたこの商店街がゴーストタウン化してしまった現状を述べつつ、特に丸天電器のご主人との交流を通して、ソニー製品を中心とするオーディオ文化が地方における**「近代」の象徴であったことを強調している。この店は、テープレコーダーやカセットデッキなど、筆者にとってのソニーとの出会いの場であり、日本の近代化文化**を牽引したブランドとしてのソニーの役割を描写している。文章の結びでは、近代の衰退と街の中心部の衰退を憂いつつ、丸天電器のご主人への感謝と追悼の意を表している。

    14 min
  • 吉田志朗さんとの出会いと別れ ― 家族から自立する機縁を作ってくれる人こそ、指導者と言えるのではないか。

    この文章は、著者が中学校時代にテニスの指導者であった吉田志朗(シロー)さんとの思い出を綴った記事の一部です。著者は、部活の顧問ではなかったものの、情熱的で論理的な指導法を持つシローさんを家族よりも大切な存在として深く尊敬していました。シローさんは、**型破りな練習法や、試合に勝つことよりも「美しく勝つこと」**を重視する独自の哲学を持っており、それが著者の人格形成に大きな影響を与えたことが語られています。記事は、後にシローさんが亡くなっていたことを知り、終活の一環として焼香に訪れた経験と、そこで抱いたシローさんへの変わらぬ敬意が描かれています。

    17 min
  • 文科省「授業の柔軟化」施策について ― 個別最適な教育(個性教育、自主性尊重教育)、地域最適な教育の問題点について

    この文章は、文部科学省が進める時間割の柔軟化に対する芦田先生の批判的な見解を提示しています。芦田先生は、主要科目の時間を削り、「総合的な学習の時間」を増やすなどの柔軟化は、「地域ごとの実情に合わせて」という名目のもと、教育における家庭間および地域間の格差を拡大させると指摘しています。また、「多様な教育」という言葉は実質的な教育の放棄を意味し、通常の基礎科目の指導に自信のない学校が柔軟化を歓迎しているに過ぎないと論じています。先生は、この施策を国家百年の計に基づかないマーケティング的な施策であるとし、現在の教育行政のあり方に強い懸念を表明しています。

    16 min

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2000年から書き続けているプログ記事(一部は2009年から始めたFacebookの記事)、あるいは、拙著『書物の時間』(1989年)、『『努力する人間になってはいけない』(2013年)、『シラバス論』(2019年)の一部をGoogleの「音声概要」による解説会話で再編したもの。