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今回は、頂いた質問
「阿弥陀仏の本願に対する疑いがどうしても晴れません。悩んでいます。救うと誓われているのになぜ獲信者が少ないのでしょうか」
について話をしました。
−−−
今回出てきた和讃は、以下
正像末和讃
(67)
仏智の不思議をうたがへば
自業自得の道理にて
七宝の獄にぞいりにける
善本・徳本たのむひと
辺地懈慢にうまるれば
大慈大悲はえざりけり
−−−
番組に対する感想・質問があれば、ブログ安心問答コメント欄または、[email protected]までお願いします。
https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/03/21/055958
に関連した内容をラジオ版で収録しました。
・スイカ泥棒の話
猿松 2019-02-28 12:03:25
(略)
あれから「おまかせする」ということについて考えておりました。 「弥陀の本願信ずべし」とは「弥陀をたのめ」ということであり「阿弥陀仏におまかせする」ということである。これを詳しく言うと「阿弥陀仏に自分の後生をおまかせする」ということなると思います。 しかし自分の心底を見てみると、本当に阿弥陀仏の存在も自分の後生の存在も信じているのか、かなり怪しいところです。 では、なぜ浄土真宗を求めているのかといえば、「このままではロクなことにならない」という漠然とした将来の不安と「この教えには何かある」という漠然とした希望でしかありません。 こんな私が「阿弥陀仏に自分の後生をおまかせする」には具体的に何をすればよいのか、お念仏すればよいのか、聴聞に行けばよいのか…しかしこういう思考で念仏したり聴聞したりすること自体ダメだというのはわかります。 つまりしてはならないことはわかるが、してよいことがわからない(してよいことを考えること自体ダメですが…)だからしてはならないことを、ついついしてしまうといった感じで、行き詰まっております。 してはならないことを一つ一つ潰していけば最終的に「おまかせする」ことになるのかなあとも愚考します。 とりとめのない質問となりましたが、先生のご指導をいただければと思います。
頂いた猿松さんのコメントについて話をしました。
ブログ記事
https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/02/02/203016
に関連して、
罪障功徳の体となる
のご和讃について話をしました。
過去の理解と今の理解の違い「罪障と功徳が等価にならない」について話をしました。
頂いた質問
「命がけで聞かないと救われないのでしょうか?」について話をしました。
(63)
一 仏法者申され候ふ。わかきとき仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり。ただわかきときたしなめと候ふ。(御一代記聞書)
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