このブックレビューでは、私の専門分野であるイノベーション・マネジメントと直接関係がなくとも、現にビジネスを担っている方々に読んで欲しいと思う本をご紹介してきました。新型コロナウィルスのパンデミックが発生してから、2年以上が経過し、この間パンデミックの影響で仕事を失った方や、家族や知人を亡くされた方がいらっしゃいます。今回私は、そうした状況に見舞われた方々に読んで欲しい本を取り上げてみたいと思い、いろいろ考えた末、八起正道さんという方の『ぼくのじしんえにっき』という童話を選びました。この作品は、福島正実記念SF童話賞に応募されて1988年に大賞を受賞し、翌1989年に岩崎書店から刊行されています。タイトルが表しているように小学生の少年が描く絵日記の体裁を取っており、本文と共に、伊東寛さんというイラストレータによる絵も、重要な要素になっています。私は、偶々小学生の娘が読んでいた本を手に取って読み始め、大変感銘を受けました。
さて、主人公の少年の日記は、7月22日の日付で「おばあちゃんとママは、いろんなことで、よくけんかをする」という書き出しで始まります。喧嘩の原因は「贅沢」に対する観念の違いです。少年のおばあちゃんには、毎日お風呂を使った後は夜中に掃除し、きれいな水を入れておく習慣があります。また、沢山の缶詰を持っています。その一方、自動車はガソリンや空気の無駄遣いだと言い、電気を沢山使うクーラーや、ビニール袋なども贅沢だと言います。
7月25日、少年が塾でテストをしていると、震度7の大地震が発生します。窓の側にいた友達には割れたガラスがささり、階段で皆が倒れて下敷きになった友達が動かなくなります。やがて辛うじて壊れた建物から脱出した少年を迎えにママがやってきます。ガラスがささった友達や、下敷きになった友達のママも迎えにきたことを、少年は「かわいそかった」と日記に書きます。
翌日から近所の人たちは皆、遠くまで水をもらいにいかなければならなくなりますが、少年の家ではおばあちゃんがお風呂にいっぱい水を入れておいたため、それを飲むことができます。しかし、電車が動かなくなったため、パパは会社に行ったきり帰らず、ラジオは東京が壊滅状態であることを伝えています。
スーパーに買い物に行くと、駐車場の売り場にすごい行列ができています。そこに並んでいると、小さい頃お隣さんだった、としこちゃんとおばさんに会います。としこちゃんは、まだ幼稚園児です。二人は4時間も並んでジュース3本しか買えず、としこちゃんは、ジュースよりお水が飲みたいとぐずっています。少年はママから、家に水があることを他の人に言わないようにと言われていますが、夕方としこちゃんを家に呼んでこっそり水を飲ませてあげます。その夜、としこちゃんのおばさんが来て、ママと何か言い合いになりますが、おばあちゃんは瓶に詰めた水をおばさんに渡します。ママはふくれていますが、おばあちゃんは「情けは人のためならず」と言って笑っています。
7月28日の夕方、汚れて血だらけになったパパが帰ってきます。少年は、おばあちゃんに言われて、としこちゃんのおばさんを呼びに行きます。おばさんは、以前は医者を勤めていた人で、やってくるとパパの手術を始めてくれます。少年は「人のためならず」は、パパを助けることだったのだと悟ります。
その翌日、バス停に給水車が来ますが、順番を守らない大人もいて諍いが起こります。7月30日の日記には、学校で子供たちにカンパンが配られますが、少年がとしこちゃんと一緒に家に帰ろうとしていると、3人の大きな子供たちが現れてカンパンをよこせと言われます。少年は怖くなり、カンパンを奪われますが、としこちゃんは打たれてもカンパンを放さず、ワーワー泣き出したため、3人の子供たちは逃げ出します。少年は勇気のない自分が情けなくなり、涙を流します。その翌日、また学校の帰りに3人の子供が現れます。としこちゃんは、いきなり大声で泣き出しますが、今度は突き飛ばされてカンパンを奪われてしまいます。少年は「頭がパンクした」ようになって、泣きながら喧嘩し、めちゃめちゃにやられてカンパンを取られてしまいます。
8月1日には、猫の大五郎が狂犬病と見られる犬に噛まれるという事件が起こります。もう大五郎が助からないことを知った少年に、おばあちゃんは「愛別離苦」という言葉を告げ、「一緒に暮らしていた者が別れ別れになるのは、とても悲しいことだ。だからこそ、一緒にいられる時だけでも、相手を大切にすること」だと教えてくれます。少年は泣きながら、キャットフードの残りを全部、大五郎に与えます。
8月3日にはまた給水車が来ますが、大人たちが順番で揉めて、すごい喧嘩になり、車にも火がつけられるような暴動になります。
やがて少年の住む町に伝染病が発生し、町が封鎖されます。少年はとしこちゃんが学校に来ていないことに気づき、カンパンと水を持ってとしこちゃんの家に行ってみます。としこちゃんは真っ赤な顔をしており、奥から這うようにして出てきたおばさんは、「もう、きちゃだめよ」と少年に言います。
8月7日には少年も発熱します。この後、日記は途切れ途切れになりますが、8月20日に少年は夢を見ます。川の向こうに、おばあちゃんととしこちゃんと大五郎がおり、おばあちゃんには「ママの所にお帰り」と言われます。
8月28日に、少年は漸く家に帰ることができますが、家にはおばあちゃんがいません。その翌日、少年はおばあちゃんが帰ってこない人になったのだと告げられ、涙をボロボロ流して泣き、「愛別離苦」という言葉の意味を悟ります。こうして少年にいろいろなことを教えてくれたおばちゃんも、少年が必死に守ろうとした少女も、可愛がっていた猫も死んでしまいました。しかし、だいぶ歩けるようになった8月31日の日記に、少年は次のように記します。
「テレビで、「あと60年は、地震の心配はありません」て言っていた。僕がお爺さんになる頃、また地震が来るんだ。その時は、僕がお風呂を毎日掃除して、水をいっぱい溜めて、缶詰を買っとくんだ。」
「ページがなくなったんで、絵日記はこれでおしまい。文房具屋さんが開いたら、ママが新しいノートを買ってくれるんだって。そしたら、また続きを書こう。(中略)そして、生まれ変わった僕が、それを読むんだ。生まれ変わっても、お風呂の掃除を、絶対忘れないようにしなくっちゃ。」
この最後の文章は、この童話が少年による一人称の文体を採るだけではなく、日記という体裁で書かれた理由を、作品全体を通じた作者のメッセージとして明確に伝えていると思います。
今回のまとめ: この童話は、私たちが不条理な事態に直面した時には、将来の再発に備えて、それを記録し、記憶しておくことが大切だということを伝えています。
(引用部分は、ひらがな表記を一部漢字に変えています。)