SCB PODCAST#204は『村上春樹 夏帆を読む』です。今年、一番の話題書でもある村上春樹、3年ぶりの長編小説『夏帆─The Tale of KAHO─』を今回の「課題図書」にしてみました。皆様はどのように読みましたか?
『夏帆─The Tale of KAHO─』/村上春樹/新潮社
〈作品紹介〉
「正直いって、君みたいな醜い相手は初めてだよ」 26歳の絵本作家、夏帆は初対面の男にいきなりこう告げられた。とびきり美しくも賢くもなく、ただ少しばかり好奇心の強い彼女は、怒りよりもショックよりも、ただ純粋に驚いた。しかしそれから彼女の周りでは、実にさまざまな奇妙な出来事が起こりはじめる。」
『高田が腑に落ちなかったモーターサイクルの男の心情』(2次創作)
僕は夏帆に会うまで、守護天使というものは、もっと簡単な仕事だと思っていた。
たとえば誰かが道を間違えそうになったら、少しだけ風向きを変える。誰かが階段から落ちそうになったら、落ちる直前に靴紐をほどいてしまう。そういう小さな仕事だ。
ところが実際には、そんなに簡単ではなかった。
人間というのは、自分がどこへ向かっているのかを、本人がいちばんよく知らないからだ。
だから僕は、夏帆にあの言葉を言った。
「君みたいに醜い女に会ったのは初めてだよ」
言葉にしてしまうと、それはひどく単純な文章だった。
僕はモーターサイクルの上にいた。エンジンはまだ熱を持っていて、金属の匂いがした。少し離れたところで自動販売機が低い音を立てていた。午後だったのか夕方だったのか、そのあたりはもうよく覚えていない。
でも夏帆の顔だけは覚えている。
彼女は怒らなかった。
泣きもしなかった。
ただ僕の顔を見て、それからほんの少し首を傾けた。
まるで僕が外国語で何か言ったみたいに。
そのとき僕は、しまった、と思った。
僕は彼女を傷つけるつもりで言ったのではない。
正確に言えば、彼女が傷つくことで、自分自身について何かを発見することを期待していた。
人間は、自分について本当に大切なことを、誰かから親切に教えてもらうことはできない。
自分で見つけなくてはいけない。
だから時々、少し乱暴な言葉が必要になる。
もちろん、それは守護天使として立派な仕事とは言えない。
僕だってそれくらいはわかっている。
でも僕は昔から、立派なことにはあまり向いていなかった。
僕はジャック・ケルアックだった。
ずいぶん昔、僕は道路の上にいた。
夜のアメリカには、道路の数だけ物語があった。ガソリンスタンドの明かり、紙コップのコーヒー、安いホテルの薄いカーテン。ジャズを聴きながら、僕は何度も考えた。
人はどうして走るのだろう、と。
答えは最後までわからなかった。
死んでからもわからなかった。
だから僕は今でも走っている。
ただし今度は、誰かを置き去りにするためではない。
誰かを、自分の物語の始まる場所まで連れていくためだ。
夏帆にも、その場所が必要だった。
彼女はまだ、自分の人生を自分の物語として見ていなかった。
だから僕は「醜い」と言った。
それは彼女の顔についての言葉ではなかった。
僕が言いたかったのは、もっと別のことだった。
君は、自分が何者なのかをまだ知らない。
君は、自分について他人が作った言葉を、自分自身の言葉だと思っている。
そして、それではいけない。
そういう意味だった。
でも、人間にそんなことを説明するわけにはいかない。
説明してしまえば、魔法は消えてしまう。
だから僕は黙っていた。
夏帆も黙っていた。
しばらくして彼女は言った。
「どうして?」
僕は答えなかった。
答えは簡単だった。
僕は彼女の守護天使だったからだ。
そして、守護天使というのは、ときどき自分がいちばん嫌われる役を引き受けなくてはいけない。
僕はモーターサイクルのエンジンをかけた。
エンジンが一度だけ低く咳をした。
僕はその音が好きだった。
生き物が、まだ生きていることを確かめるときの音に似ていた。
僕は夏帆を見た。
彼女はもう僕を見ていなかった。
どこか遠くを見ていた。
そのことに、僕は少し安心した。
人はいつか、自分を見ていた人から目をそらさなくてはならない。
そして自分の道を見る。
僕はアクセルを回した。
道路はどこまでも続いていた。
僕には行くべき場所があり、夏帆にはまだ行くべき場所がなかった。
でも、それでよかった。
行くべき場所がない人間ほど、遠くまで行くことがある。
僕はそういう人間を、昔から嫌いではなかった。
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