<第1セクション【127年前に台北に渡った曽祖父の記録を発見】>
今日は私のファミリー・ヒストリーをご紹介。10年ほど前のこと。2013年の暮れに、台北に旅行で訪れていた父が突然「お前のばあさん、俺のお袋は台湾で生まれた」と言い出した。私にとってはまさに寝耳に水。自分たちの一族が台湾と関わりがあったなどという話は、それまで誰からも聞いたことがなかった。そして、祖母の父、すなわち自分の曽祖父は山形市内出身の梛野尚猪(なぎの なおい)という名の貿易商で、祖母・花子は尚猪が台北滞在中に授かった子だったという。
記録が残っていれば何か面白い事実がわかるかもしれない。淡い期待を寄せながら、ウェブで曽祖父の名を検索してみた。しかし、何もヒットしない。無理も無い、百年以上も前の話だ。歴史に名を残した人物でもない限り、そうそう史料などあるはずがない。結局、祖母が「湾生」だったことは自分の記憶に刻まれたものの、曽祖父の話題はそれきり立ち消えとなった。
それから更に4年ほど経過した2018年2月のことだった。日本の実家から珍しく電話があり、何の話かと思えば、父の夢枕に祖母が立ったという。その日は祖母・花子の命日だった。脳裏にふと4年前の父の言葉がよみがえった。そして、何かに突き動かされるようにパソコンの電源を入れると、以前聞いていた曽祖父の名前を打ち込み、再びウェブで検索してみた。次の瞬間、自分の目は画面に釘付けとなった。
何と曽祖父・梛野尚猪は台湾総督府文書課の文官だった。日本の統治が始まった翌年の明治29年(1896年)5月に海を渡り、明治39年(1906年)5月までの10年間にわたって台湾総督府に勤めていたのだ。 初代総督の樺山資紀とは一瞬だけ重なり、以下、桂太郎、乃木希典、児玉源太郎、佐久間佐馬太まで、五人の歴代総督に仕えたこととなる。もちろん、児玉総督時代の後藤新平民政長官も直属の上司に当たる。
実は、かつては非公開扱いだった台湾総督府文書が、時を経て一般公開されていたのだ。このため、曽祖父の名前もウェブの検索エンジンに引っ掛かるようになったのだと後で知った。しかし、なぜ父は曽祖父が貿易商だと勘違いしていたのだろうか。その答えは意外と早く知ることができた。それから間も無く、友人を介して知り合った日本統治時代が専門の歴史研究者、陳力航さんが突き止めてくれたのだ。陳さんはこう語ってくれた。「馬場さんの曽祖母・梛野トメさんのお兄さんは有名な方でした。堤林数衛(つつみばやしかずえ)さんです。台北最大の貿易の中心地だった大稻埕の茶商、郭春秧氏の下で働いていました」
祖母・花子の母親、すなわち曽祖母・トメは旧姓が堤林で、結婚前の戸主が兄の堤林数衛だったのだ。堤林は山形県新庄の出身で曽祖父・梛野尚猪と同じく明治29年(1896年)に台湾に渡り、最初は台北の監獄で看守の仕事をしていたらしい。その後は台北の塾に通って台湾語を習得し、先ほど述べたの茶商の郭春秧の片腕として活躍した人物だ。郭が会長を務めていた台北茶商組合の書記長兼通訳でもあった。そして、京都大学人文科学研究所と台湾の中央研究院台湾史研究所の共同研究の対象となるほどの著名人で史料も残っていたことから、点と点が一気に繋がった。
堤林は1907年に故郷の新庄にいったん戻り、態勢を立て直してから、1909年に今度はジャワに赴き南洋商会を興した。日本の雑貨を扱う貿易商としてその名を馳せることとなる。貿易商だったのは曽祖父・尚猪ではなく、実はその義兄に当たる堤林数衛だったのだ。父は上の世代の親戚から、この辺りが錯綜した情報を伝え聞いていたらしい。
堤林数衛の資料の中に、日本人の夫婦と思しき一対の男女が写った写真がある。男性は詰襟の制服にサーベルという出で立ち、女性は和服姿だ。被写体が誰か分からず、百年以上も前に撮られたとされるこの写真の主について、先ほどの台湾史研究者の陳さんはこう語った。「この男性の服装は、台湾総督府文官の正装です」
梛野尚猪は堤林数衛の義弟であり、トメはその実妹である。この写真が堤林の資料の中から出てきたものであることから、台湾総督府文官の礼服をまとっている男性は曽祖父の梛野尚猪であり、その傍らの和服の女性が曽祖母のトメと推察するのは、極めて妥当だと思われる。それ以外の可能性を見出す方が難しいだろう。父にこの写真を見せたところ、写真の女性は自分の祖母、すなわち私の曽祖母のトメで間違いないとの証言も得た。
ここからは推測となるが、曽祖父・尚猪と曽祖母の兄・堤林はともに故郷は山形だった。日本の統治が始まったばかりの当時の台北の日本人コミュニティはそれほど大きくはなかっただろうし、東北の、しかも山形の出身者はかなり限られていたはずだ。同郷の尚猪と堤林が台北の地で出会って意気投合したことは想像に難くない。そして、家長だった堤林は、当時の慣習から尚猪に自分の妹・トメを紹介し、嫁がせたと考えるのが自然だろう。あるいは二人は故郷の山形にいた頃から既に知己だった可能性もあるだろう。
ここで台湾のTVドラマ『紫色大稻埕』のオープニング・テーマソングで、主役の施易男(Eli Shih)さんの歌った『大稻埕的天光(大稻埕の日の光)』をOA。このドラマには、私も日本画家の郷原古統役で出演。
曽祖父・梛野尚猪は、台湾総督府任官から10年後の明治39年(1906年)に病気を理由に、台湾総督府の官僚を辞した。台湾総督府文書の尚猪の退職願に記された医師の診断では、神経衰弱で任務に耐えられなくなったためとある。その後は、日本赤十字社台湾支部の主任の肩書で台湾に留まっていた。このことは、当時の台湾総督府の機関紙にして台湾では数少ない邦字紙の一つだった『台湾日日新報』でも報道されてる。当時は「生蕃」と呼ばれた山地の「原住民族」の平定のため、従軍の救護班員として、桃園や新竹の山奥、また台東にも出張したとの記事も見られる。
さらに衝撃的な事実も『台湾日日新報』の記事から判明した。赤十字社に転職してから5年後の明治44年(1911年)10月8日に、曽祖父・尚猪は台北で客死していたのだ。記事には台北医院(現在の台湾大学付属病院旧館)にて病気療養中のところ死去したとある。その翌々日には、台北「三板橋(日本人墓地のあった現在の林森公園一帯)」の祭儀場で荼毘に付されたことまで記されていた。余談だが、当時「三板橋に行く」と言えば「往生する」こと。また、同年10月15日付の『台湾日日新報』には「梛野尚猪氏の事ども」と題する次の内容の追悼文も載っていた。
「此程臺北醫院にて死去したる梛野尚猪氏は、先年退官以來久しく放浪の身たりし為め、窮困殆んど骨に徹し、家族をば曩(さき)に内地に歸し、單獨にて是より奮闘せんとし折柄、不幸不歸の客となりしことゝて、當地には縁故の者も少なき故、遺骨は郷里に送りて送葬する筈なるが、當地の友人等は日を卜し追悼會を催す筈。尚ほ同氏の家族は、未亡人の外に年少なる遺孤四名あり。差當たり路頭に迷ふの悲境に在れば、当地の友人等は出來得るだけ香資を集めて遺族に送る筈にて本社内、尾崎秀眞方にて之を纏めつゝあり。」
台湾総督府を辞してからは、曽祖父・尚猪は相当困窮していたようだ。妻のトメと四人の子どもたち(三番目が祖母の花子)を先に故郷の山形に帰し、これから奮闘しようとした矢先、病を得て単身台北の地で人生の終焉を迎えたのだった。最後は大稻埕の辺りでの居候生活だったらしい。この記事を読み終えて 曽祖父・尚猪の半生を思った。胸が締め付けられる思いだった。パソコンの画面に向かい、 静かに手を合わせた。
今回の自分のルーツ探しの旅はいったんここまでとなる。百年もの時空を越えて史料が残っていたことには感謝したい。一方、この長い歳月は、その先の探索を阻む壁としても立ちはだかっている。今後、曽祖父・尚猪に関する新たな史料が見つかる可能性は極めて低いだろう。ただ、一つだけはっきりと言えることは、自分と台湾との縁は、二十数年前に初めてこの地を訪れた際に結ばれたのでは無かったということだ。百年以上も前に、曽祖父・尚猪の生きた時代から脈々と受け継がれ、今の自分にまで繋がっていたということだ。
つい最近、曽祖父の戸籍資料を台北の戸籍事務所でようやく手に入れた。台湾では日本統治時代の1906年以降は戸籍制度が整備され、そのほとんどが百年以上経った現在でも、デジタル化されて残っている。そして、台湾のどこの市区町村の戸籍事務所からでも申請することができるのは、極めて便利。ただし、昔の戸籍を取得するためには、申請対象の祖先の直系の子孫であることを証明する必要がある。日本に一時帰国した際に、父や自分の戸籍謄本を取得し、今回は満を持しての申請だった。
当時の戸籍抄本によれば、曽祖父は最初に万華に住んでいた。2000年の夏。生まれて初めて台湾を訪れたとき、台北の下町、万華の裏通りを散策中に、既視感にも似た懐かしさを感じたことを思い出す。そのあと、自分が駐在員としてこの土地に派遣されたのも、その後もこの土地に留まり、表現者として活動しているのも、単なる偶然ではない。
曽祖父・梛野尚猪はその後居所を転々とし、最後に暮らしていたのは、台北の当時最大のビジネスエリア、大稻埕であった。私が日本統治時代を背景とした映画『大稻埕』やTVドラマの『紫色大稻埕』に出演したり、大稻埕の小劇場で何度も演劇の舞台を踏んだり、大稻埕で行われた音楽会や大稻埕のカフェで歌ったりしているのも、私は曽祖父・梛野尚猪に導かれているからだという気がしてならない。
以前、ある座談会で司会者から「あなたはなぜ台湾で暮らすことを選んだのか」 と訊かれたことがある。その際に、こう答えたことを今でも覚えている。「自分が選んだのではありません。台湾から自分は選ばれたのです」そう、自分はここにいるべくしている。
最後に私のオリジナル曲で百年前の大稻埕を思い描いて作った曲『百年の恋』をOA。この曲はもともと映画の『大稻埕』の挿入歌に使ってもらおうと書いた曲だが、採用に至らなかったため、今は曽祖父へのレクイエムとして歌っている。本日は今年の6月24日の『島語音樂會(島の言葉コンサート)』でギタリストの大竹研さんと共演したライブバージョンでお届け。