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森山未來さんと長澤まさみさんという、二代俳優が主演の舞台、「踊る夫婦」に感動し、作•演出の蓬莱竜太さんの言葉に考えさせられました
曰く
"夫婦、というのは一体なんだろうか。
もっと激しい感じなのだろうか。
もっと空気みたいな感じなのだろうか。"
"きっとそれぞれ、それぞれ、違うのでしょう。
不穏な世界を共に近くで生きる、ただ共に生きる。そういう当たり前の営みの中で、それ自体を慈しみ、それ自体の奇跡を感じるような、そんな瞬間を舞台上にのせられたら、そんな思いでこの作品に向かっています。"
私は思いました
1、曖昧性
2、ただ共に生きること
3、日常にある奇跡への気づき
まさに今をときめく二大俳優の森山未來さんと、長澤まさみさんの、自然な夫婦の演技と、飾り気のない舞台にほんの少しの小道具を、役者の皆さんが自在に動かしながら、さらには、舞台中央の主的な演技者と、その周りを取り囲む脇的な演技者の捌けない構造がとても不思議で面白い空間を作っていました
1、曖昧性
淡々と続く日々の中で、強烈な恋愛体験があるわけでもない2人が、自然に一緒になって、そして日々ぶつかりながらも共に生きていく姿が、とてもリアリティあるものとして感じました
そこには先日お話しした受信者型責任言語である、日本語に特有の、あえて曖昧にしておくことで、あえて相手の意を伺いながら、その関係を気持ちの良いものとしていく、そんな夫婦もいていいのかもしれないなあと思いました
別に秘密を持ってるわけではないけども、全てを理解し合うなんて、絶対に思ってもいないし、そこに期待をしないけども、たまにはわかって欲しい的な、そんな関係も良いのかもなあと思いました
それはイノベーションの世界で言えば、ネガティヴケイパビリティに似ていて、わからない答えをわからないけどそれがわかる時が来るまで、探し続ける、そんなことも思いました
2、ただ共に生きること
結婚という形式は、書類を役所に出すか出さないか、だけの違いで、実はお互いの関係性には、何も変わるものがないのだけれども
そこから共に生きていく時間の中で、一緒にいることの意味というのが、生まれてくるものなのかもなあと思いました
にとは必ず1人で生まれて1人で逝くわけですが、それでも、結婚や契約などの形式的なものとは別に、一緒にいたということが、とても意味を持ってくるのかもなあと、それはアドラーさんのいうところの、共同体感覚をどこかでは求めている、それだけでとても素敵なことなのかもしれないとも思いました
3、日常にある奇跡への気づき
外から見るとよくあるお話でも、当事者にとってみると、それは大事件なことというものが、実はたくさんあって、それは良きにつけ悪しきにつけ、日常における奇跡のように、感じることができるなあと思いました
イノベーションの世界でも、日常の中にある何気ない素敵なことや、もしくは違和感などに、いかに気づいていくかということが、イノベーションの種を作る上ではとても大切なので、日々の当たり前なことにこそ、問いを持ったり、感動を持てるような、そんな日々になればいいなあと思いました
米国の哲学者のジョン・デューイは、『Art as Experience(経験としての芸術)』の中で、「創造性とは、見慣れたものに新しい光を当てることだ。日常の中にこそ、驚きの種がある」と言われています
今回の、踊る夫婦、もそんな新しい光を、長澤まさみさん、森山未來さん、そして蓬莱竜太さんから、頂いた気がしました
日常の一瞬一瞬を大切にしていきたいと、そんなことを思いました。そして、特に最後の場面は、これまでいろんなことに、踊らされていた夫婦のようなものが、自らが、踊る夫婦、になっていったような、そんなメッセージも感じました
一言で言うならば、踊らされるのではなく
踊る夫婦ノベーション
そんなことを思いました^^
参考:舞台 踊る夫婦 作・演出:蓬莱竜太 出演
長澤まさみ、森山未來他 会場 THEATER MILANO-Za [主催/企画・製作] Bunkamura https://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/25_odorufuufu/
森山未來さんと長澤まさみさんという、二代俳優が主演の舞台、「踊る夫婦」に感動し、作•演出の蓬莱竜太さんの言葉に考えさせられました
曰く
"夫婦、というのは一体なんだろうか。
もっと激しい感じなのだろうか。
もっと空気みたいな感じなのだろうか。"
"きっとそれぞれ、それぞれ、違うのでしょう。
不穏な世界を共に近くで生きる、ただ共に生きる。そういう当たり前の営みの中で、それ自体を慈しみ、それ自体の奇跡を感じるような、そんな瞬間を舞台上にのせられたら、そんな思いでこの作品に向かっています。"
私は思いました
1、曖昧性
2、ただ共に生きること
3、日常にある奇跡への気づき
まさに今をときめく二大俳優の森山未來さんと、長澤まさみさんの、自然な夫婦の演技と、飾り気のない舞台にほんの少しの小道具を、役者の皆さんが自在に動かしながら、さらには、舞台中央の主的な演技者と、その周りを取り囲む脇的な演技者の捌けない構造がとても不思議で面白い空間を作っていました
1、曖昧性
淡々と続く日々の中で、強烈な恋愛体験があるわけでもない2人が、自然に一緒になって、そして日々ぶつかりながらも共に生きていく姿が、とてもリアリティあるものとして感じました
そこには先日お話しした受信者型責任言語である、日本語に特有の、あえて曖昧にしておくことで、あえて相手の意を伺いながら、その関係を気持ちの良いものとしていく、そんな夫婦もいていいのかもしれないなあと思いました
別に秘密を持ってるわけではないけども、全てを理解し合うなんて、絶対に思ってもいないし、そこに期待をしないけども、たまにはわかって欲しい的な、そんな関係も良いのかもなあと思いました
それはイノベーションの世界で言えば、ネガティヴケイパビリティに似ていて、わからない答えをわからないけどそれがわかる時が来るまで、探し続ける、そんなことも思いました
2、ただ共に生きること
結婚という形式は、書類を役所に出すか出さないか、だけの違いで、実はお互いの関係性には、何も変わるものがないのだけれども
そこから共に生きていく時間の中で、一緒にいることの意味というのが、生まれてくるものなのかもなあと思いました
にとは必ず1人で生まれて1人で逝くわけですが、それでも、結婚や契約などの形式的なものとは別に、一緒にいたということが、とても意味を持ってくるのかもなあと、それはアドラーさんのいうところの、共同体感覚をどこかでは求めている、それだけでとても素敵なことなのかもしれないとも思いました
3、日常にある奇跡への気づき
外から見るとよくあるお話でも、当事者にとってみると、それは大事件なことというものが、実はたくさんあって、それは良きにつけ悪しきにつけ、日常における奇跡のように、感じることができるなあと思いました
イノベーションの世界でも、日常の中にある何気ない素敵なことや、もしくは違和感などに、いかに気づいていくかということが、イノベーションの種を作る上ではとても大切なので、日々の当たり前なことにこそ、問いを持ったり、感動を持てるような、そんな日々になればいいなあと思いました
米国の哲学者のジョン・デューイは、『Art as Experience(経験としての芸術)』の中で、「創造性とは、見慣れたものに新しい光を当てることだ。日常の中にこそ、驚きの種がある」と言われています
今回の、踊る夫婦、もそんな新しい光を、長澤まさみさん、森山未來さん、そして蓬莱竜太さんから、頂いた気がしました
日常の一瞬一瞬を大切にしていきたいと、そんなことを思いました。そして、特に最後の場面は、これまでいろんなことに、踊らされていた夫婦のようなものが、自らが、踊る夫婦、になっていったような、そんなメッセージも感じました
一言で言うならば、踊らされるのではなく
踊る夫婦ノベーション
そんなことを思いました^^
参考:舞台 踊る夫婦 作・演出:蓬莱竜太 出演
長澤まさみ、森山未來他 会場 THEATER MILANO-Za [主催/企画・製作] Bunkamura https://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/25_odorufuufu/
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