財団法人仏教伝道協会「和文仏教聖典」音訳シリーズ第5回です。
今回は「信」をテーマとするおはなし。極楽や往生の話しを現代人は敬遠しがちです。
仏教でいう「信」とは、何かを信じるということではありません。もしかしたらあなたは、信仰とは何かを確かだとして、それにしがみつくことだと思っているかもしれません。そうではありません。信とは心がきれいに澄んでくるということです。深い智慧に目覚めること、仏教徒はそれを信と呼ぶのです。
世間一般に言う普通の意味での「信」は、なにかじぶんの向こうに措定して、それを信用する(もしくは信仰する)、じぶんと相手の関係のことですが、仏教がいう言う「信」は相手がないのです。だから別の言葉で「一心」というし、「無心」ともいいます。「無我」ともいうし「信心」ともいいます。どれも同義語です。その「信」が外へ向かわず、「信」が「心」を信ずるのです。極楽とか、極楽への往生とか言っても、それが仏教の話であるかぎりは、極楽世界という異世界がどこかに実体としてあるのではないのです。極楽とは覚りの境地(の象徴表現)なのです。それは「信・心」の内景なのです。
この「信・心」に目覚めた人は、世界を正しく、偏りなく見ることができます。そうすれば、その人はきっと世界をより良くするために行動を起こすでしょう。仏教徒はそれを修行と呼びます。
それに完全に目覚めたとき、あなたは仏になるのです。どうかよく気づいてください。お願いします。
どうすれば智慧に目覚めることができるのでしょうか?それは難しい質問ですね。
Aをすれば必ずBが得られるというような安易な答えは出せません。そんなことを言うのは、宗教家のふりをした詐欺師だけです。
ただ、少しはアドバイスができます。
そのひとつは、「疑い」を持ち続けることが大切だということです。疑問は何でもいいんです。形而上学的な疑問でもいいし、身近な問題でもいい。曖昧にせず、永遠に解けない謎として、一所懸命に取り組んでください。当たり前のことを当たり前と思わないでください。なぜ当たり前なのか?を問うことが大切。安易な解決策に固執しないこと。いつの日か、それが知恵に目覚めるための最高の糧であったことに気づくでしょう。
悟りを開くとはどういうことでしょう?
智慧に目覚めるとはどういうことでしょうか。
私の考えでは、それは目覚めた人に会うことです。そして、自分の愚かさを自覚させることです。
自分の愚かさに気づかない人は、全くの愚か者です。
自分の愚かさを知っている人は、愚かではない。
必ずや謙虚な人間に変身します。
そしてその人は、隣人の苦しみを痛感し、社会の不正を見るようになる。その人は、必ず隣人を慰め、社会の不正を批判し、社会を良くするために行動するようになります。
これが悟りです。
第二に重要なことは、すでに悟りを開いている人に会うことです。可能であれば、生きている人に会うべきです。それが無理なら、本の中で出会った人でもいいのです。 声や文章ですでに目覚めている人に会うことです。彼らはきっと、深い叡智をあなたに伝えてくれるでしょう。
この二つが、生きていく上で一番大切なことだと思うのです。そして、それが私の人生の最大の幸せでもあると実感しています。どうか良い師匠(仏様という意味です)に巡り会えますように。
智慧に目覚めるとはどういうことか?
不完全な存在である私たち人間が、いくら隣人の死に心を痛めても、残念ながら助けることは非常に難しいのです。
瀕死の親族の蘇生をどんなに深く願い、涙を流したとしても、周知のように、死から蘇らせることはできないのである。その思いは、崇高ではあるが不完全な慈悲の行為であり、実行することはできないのです。
それでも智慧を目覚めさせることはできる。誰にでもできることです。そして、完全な慈悲の行為を実践し、やがて真の英知に目覚めたら、英知に目覚めたいと願う隣人を助け、その願いを叶える手助けをすればいいのです。それが、智慧に目覚めるということです。
そうやって、素晴らしい人生を送ることができるのです。
聞いてくださってありがとうございます。