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2006年に秋川雅史さんがNHK紅白歌合戦で歌唱し話題となった「千の風になって」。アメリカ発祥の詩「Do not stand at my grave and weep」を2001年に芥川賞作家の新井満さんが翻訳、自ら作曲、歌唱した「千の風になって」が朝日新聞 朝刊1面のコラム「天声人語」へ掲載され、2004年に新垣勉さんが歌唱、そして2006年には秋川雅史さんが歌唱し今なお心に響く「千の風になって」との出会いをご紹介します。新井満さんからのお電話を朝妻が直接お受けした経緯、そのきっかけにはキングレコード 森直美さんの一言があったことなど、時機と人との繋がりを実感したエピソード。
●「千の風になって」:アメリカ合衆国で話題となった詩「Do not stand at my grave and weep」の日本語訳。2001年、新井満がアメリカ発祥とされるこの詩を日本語に訳し、自ら曲を付けた。原詩の3行目”I am a thousand winds that blow”を借りて『千の風になって』のタイトルがつけられた。
【「千の風になって」との出会い】
●新井満(1946/5/7 –2021/12/3):作家、作詞作曲家、歌手、写真家、環境映像プロデューサー、絵本画家と多彩な顔を持つアーティスト。
【新井満氏との出会い】
●「ワインカラーのときめき」(1977年):新井満が歌った1977年のカネボウCMソングで、作詞は阿久悠、作曲は森田公一。
●天声人語:2003年8月28日付の朝日新聞『天声人語』で「Do not stand at my grave and weep」が取り上げられた際に新井満の訳詩が掲載され徐々に話題になった。
【「千の風になって」をポニーキャニオンから世に】
【朝妻に連絡がきたわけ】
●森直美(1946/4/5 –):元キングレコード洋楽部で、バークレー・レーベルを担当。その後、キング、テイチクで邦楽ディレクターを経て、現在は算命学などの占い師澪奈莉母として活動している。
【音楽出版社は音楽業界のクォーターバック】
●新垣勉(1946/5/7 –):沖縄出身のテノール歌手、バプテスト教会牧師。
【2006年秋川雅史「千の風になって」のヒット】
●「千の風になって」秋川雅史による歌唱(2006年):2006年に発表され、同年の第57回NHK紅白歌合戦への出場を機に一般的に知られることとなった。
【恵まれた出会いとご縁に感謝】
●「この街で」(2006年):松山市で開催された「21世紀に残したいことば」あなたの言葉で元気になれる『だから、ことば大募集』で松山市長賞を受賞した桂綾子の作品に着目した新井満が、エッセイスト三宮麻由子と即興的に作った曲で、2006年5月に新井自身の歌唱で発売され、その後、中島啓江やトワ・エ・モア、城之内早苗with布施明らによっても歌われた。
カーペンターズ「トップ・オブ・ザ・ワールド」を世界に先駆けシングルカットしたキングレコードの寒梅賢さん、カンツォーネの権威 河合秀朋さん、ライナーノーツ執筆のきっかけとなった武田一男さんをはじめ、ポリドール 折田育造さん、東芝レコード 高嶋弘之さんとの仕事を懐古します。
【キングレコード武田一男氏との出会いと仕事】
●武田一男:ロンドン・レコードほかを担当。ロイ・オービソンなども手掛けた。
●『魅惑のリズム』友の会:ラジオ番組「魅惑のリズム」(→#30参照)の友の会で、300人程の規模で、月例会には常に約20人が集った。
【キングレコード河合秀朋氏との仕事】
●河合秀朋:カンツォーネ担当のディレクターを務め、後に洋楽部長として活躍。セブンシーズレーベルの総括担当としても知られる。
【キングレコード寒梅賢氏との仕事】
●寒梅賢:ディレクターとして活躍。カーペンターズ邦題名の名付け親としても知られる。
●ビタースウィート・サンバ(1965年):トランペット奏者で音楽プロデューサーのハーブ・アルパートが、自身のグループバンドで録音した曲。
●あめんぼうとバラ(1961年):ジャック・ジョーンズが歌った1961年発表のヒット曲。
【日本で初めて活字で紹介されたカーペンターズ】
●カーペンターズ:リチャードとカレンの兄妹デュオ。独自の音楽スタイルで大成功を収めたが、1983年カレンの死で活動を終えた。
●スティーヴ・バリ(1942/2/23 –):1960~70年代、ボビー・ブランドなどのミュージシャンをプロデュースし、ママス&パパスらに作詞を提供。
●バート・バカラック(1928/5/12 –):アメリカの作曲家、編曲家、ピアニスト、音楽プロデューサー、歌手にして楽団指揮者。ヒット曲多数。
●(They Long to Be)Close to You クロース・トゥ・ユー(1963年):邦題「遥かなる影」。多くの歌手によってレコーディングされたが、カーペンターズは1970年発表、全米シングル・チャート1位。
【「トップ・オブ・ザ・ワールド」シングルカットの功績】
●トップ・オブ・ザ・ワールド:カーペンターズが1972年に発表した曲。ビルボード・チャート1位で代表曲のひとつ。
●リン・アンダーソン(1947/9/26 – 2015/7/30): カントリー・シンガー。代表曲「ローズ・ガーデン」。
●アルファレコード:村井邦彦が設立したレコード会社。数々のヒット作を発表した。
【ポリドール折田育造氏の仕事】
●折田育造(1941/11/29 – 2021/9/1): 1965年ポリドール入社。ワーナーパイオニアに移り邦楽/洋楽部長を歴任。ワーナーミュージック・ジャパン代表取締役社長を経て、95年ポリドール代表取締役社長。洋楽シーンを牽引する存在だった。
●加藤和彦「ヨーロッパ三部作」:AL『パパ・ヘミングウェイ』『うたかたのオペラ』『ベル・エキセントリック』の三作品を指す通称。
【東芝レコード高嶋弘之氏との仕事】
●高嶋弘之(1934 –):音楽ディレクター・プロデューサー。東京芝浦電気レコード事業部の洋楽ディレクターでキャリアをスタート。ビートルズの初代ディレクターとしても知られる。
●「帰ってきたヨッパライ」(1967年)ザ・フォーク・クルセダーズ: (詳細は#12を参照)
1968年にフランスのグルノーブルで行われた第10回冬季オリンピックの記録映画「白い恋人たち」のメインテーマ曲であり、フランスが生んだ名曲フランシス・レイ作曲の「白い恋人たち」について。キングレコードの河合秀朋さんに勧められ出会った、甘美なメロディが印象的な「白い恋人たち」を電報を駆使しながら日本地域の権利を獲得したエピソードをご紹介します。
●「白い恋人たち」: 1968年2月6日から13日間にわたって仏グルノーブルで開催された第10回冬季オリンピック大会のドキュメンタリーで、クロード・ルルーシュ監督が映像詩に仕上げた。日本では1968年11月9日に公開された。レイは4つのテーマを作曲、クリスチャン・ゴーベールが巧みなアレンジを施している。
【「白い恋人たち」との出会い】
●河合秀朋:キングレコードでカンツォ―ネ担当のディレクターを務め、のちに洋楽部長として活躍。<セブンシーズ>レーベルの総括担当としても知られる。
●フランシス・レイ(1932年4月26日-2018年11月7日):フランス・ニース出身の作曲家。多くの映画音楽を作曲したが、とりわけ『男と女』や『白い恋人たち』の監督、クロード・ルルーシュとの名コンビで知られる。1970年度アカデミー賞作曲賞受賞(『ある愛の詩』)。
●クロード・ルルーシュ(1937年10月30日-):フランス・パリ出身の映画監督、映画製作者。主な監督作品に『男と女』、『パリのめぐり逢い』、『白い恋人たち』、『愛と哀しみのボレロ』、『しあわせ』など。多くの自作の音楽にフランシス・レイを起用しており、名コンビとして認識されている。
●『男と女』(1966年): 1966年のフランス映画。監督はクロード・ルルーシュ、音楽はフランシス・レイ。出演はアヌーク・エーメ、ジャン=ルイ・トランティニャン、ピエール・バルーら。カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞し、クロード・ルルーシュの名を世界に知らしめた作品。
【電報を駆使した当時の外国曲獲得】
●Edition23: フランシス・レイがクロード・ルルーシュら仲間と共に自身の楽曲を管理するために作った音楽出版社。「23」はフランシス・レイとクロード・ルルーシュのラッキーナンバーで、今もパリ8区のオッシュ通りに存在する。
●ピエール・バルー(1934年2月19日-2016年12月28日):シンガー・ソングライター兼俳優。フランシス・レイとも多数の曲を書いた。また、インディーズレーベル(サラヴァ)の主宰者にして、映画監督、プロデューサーでもある。
【「白い恋人たち」について提示されたアドバンス】
●永田文夫(1927年3月28日-2016年5月13日):シャンソンを中心とする洋楽の訳詞をはじめ、並行して音楽評論家としても活動した。
【コミュニケーション手段の移り変わり】
音楽業界に進むきっかけとなる、ニッポン放送でのアルバイトを通じて経験した仕事について。ラジオ番組『森永キャンデー・ベスト・ヒット・パレード』で、アシスタントとして高崎一郎さんと選曲をした経験や、初めてライナーノーツを執筆したころのエピソードをお話します。ライナーノーツの執筆にあたり、現在のように情報が氾濫していない当時に楽曲やアーティストの背景についてどのように調べていたかなどもご紹介します。
【『キャンデー・ベスト・ヒット・パレード』でアシスタント】
●「森永 キャンデー・ベスト・ヒット・パレード」:1960年代はじめよりジョニー高崎(高崎一郎)がパーソナリティを務めた音楽番組。提供は森永キャンデー・ストアで、西銀座サテライトスタジオから生放送されていた。TBSラジオの「今週のベストテン」、文化放送の「ユア・ヒット・パレード」と共に人気だった。
【初めてのライナーノーツ執筆】
●「君にダウン」(1963年)レニー・ウェルチ:原題「Since Fell For You」。1945年にバディ・ジョンソンが作曲した曲で、彼のオーケストラと共に妹のエラ・ジョンソンが歌ったのがオリジナル。その後、1963年にレニー・ウェルチの歌唱でヒットしたほか、イーディ・ゴーメやバーブラ・ストライサンドらもレコーディングしている。
●「シュガー・シャック」(1963年)ジミー・ギルマーとファイア・ボールズ:1963年5月にジミー・ギルマーとファイア・ボールズのシングルとして発表され、全米1位を記録したほか、カナダやオーストラリアでも1位を記録するヒットとなった。
●ケネディ大統領暗殺:1963年11月22日金曜日、現地時間12時30分にテキサス州を遊説中の第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディがダラス市内をパレード中に銃撃され死亡した事件。
【幻のライナーノーツ「シュガー・シャック」】
●「恋のかけひき」のレコードのコピー:朝妻一郎 たかなる心の歌#12-加藤和彦と北山修「あの素晴しい愛をもう一度」の回参照。
【幻となったライナーノーツの行方】
【舞い込むライナーノーツの依頼】
【朝妻一郎流ライナーノーツの書き方】
【ライナーノーツ執筆に役立ったもの】
●イエナ書店:銀座五丁目、晴海通り沿いの現在クリスチャン・ディオールが店を構える場所で営業していた近藤書店の3階にあった洋書店。ここには、デザイナーやイラストレーター、カメラマンをはじめ広告・放送・音楽関係などに従事する人々が資料を求めて集まった。
ニッポン放送でのアルバイトや、音楽業界に進むきっかけとなる高崎一郎さんとの出会いを導いてくださったヤマハ・ミュージックの楊華森さんについて追想します。音楽出版業界だけでなく訳詞家や作詞家としても名を馳せた楊華森さんをはじめ、当時の音楽業界の成熟に貢献した先輩たち。またニッポン放送のラジオ番組『魅惑のリズム』を提供していた友の会に在籍し、後に音楽業界で活躍する方々とのエピソードもご紹介します。
【ニッポン放送でのアルバイト】
●ケン田島(1930/10/20 – 2021/4/27): →#30を参照
【楊華森の功績】
●三木鮎郎(1924/6/26 – 1997/6/6): →#30を参照
●村井邦彦(1945/3/4 –):作曲家・編曲家・プロデューサー。慶応大学在学中より本格的に作曲を始め、森山良子、赤い鳥、タイガースらに作品を提供。山上路夫とコンビで書いた「翼をください」は現在も愛唱されている代表曲。また自身が創設したアルファレコードにてプロデューサーとして荒井由実(現・松任谷由実)を見いだし、YMOを世界に送り出して成功に導いた。
●山上路夫(1936/8/2–):ビクター専属作家としてキャリアをスタート。いずみたく主宰オールスタッフで書いた佐良直美「世界は二人のために」(67年)、由紀さおり「夜明けのスキャット」(69年)が大ヒット。それ以降も小柳ルミ子「瀬戸の花嫁」、梓みちよ「二人でお酒を」、ガロ「学生街の喫茶店」など多数のヒットを手掛けた。とりわけ作曲家/村井邦彦とは鉄壁のコンビとして知られる。
●本城和治(19339/12–):1962年に日本ビクターに入社。洋楽部門のディレクターとしてポールとポーラを筆頭に60'sポップスを日本に根づかせ、66年からは邦楽部門にてザ・スパイダース、テンプターズなど数多くのグループサウンズのディレクションを務める。一方、マイク真木や森山良子などの日本のフォーク草創期を彩る歌手の作品や、尾崎紀世彦、大橋純子らも手がけ、日本のポップス界を支えた。
【訳詞家 草野昌一の仕事】
●漣健児(1931/2/4 – 2005/6/6):→#29を参照
【流行の発信地 ヤマハ・ミュージック】
●「ルイジアナ・ママ」:アメリカのシンガーソングライター/ジーン・ピットニーが1961年に発表した自作自演の楽曲。日本では漣健児の訳詞で飯田久彦が歌ったシングルが1961年に発表され、翌年に40万枚を売り上げる大ヒット。飯田の代表曲となった。
●シュローダー・ミュージック:アーロン・シュローダー(1926/9/7 – 2009/12/2)が創設した音楽出版社。多くのヒット曲を手掛けたソングライターとしても知られるが、プロデューサーとしてジーン・ピットニーほかランディ・ニューマン、バリー・ホワイトらを見出した。
【音楽業界での恩人 楊華森】
●安井かずみ(1939/1/12 – 1994/3/17):作詞家・訳詞家、エッセイスト、歌手。愛称はズズ(ZUZU)。アルバイトで訳詞したことが縁で作詞家に。フランス語の語学力と独自の発想による歌詞で人気を集める。代表曲に小柳ルミ子「わたしの城下町」、沢田研二「危険なふたり」、郷ひろみ「よろしく哀愁」など多数。1977年に加藤和彦と結婚、おしどり夫婦としても知られた。
●楊華森:→#30を参照
【『魅惑のリズム』友の会による繋がり】
●『魅惑のリズム』:→#30を参照
ヤマハ・ミュージック楊華森さんとの出会いから音楽業界に入るきっかけとなったニッポン放送でのアルバイトに繋がるエピソードを紹介します。ラジオ番組『魅惑のリズム』が提供していた友の会への入会からポール・アンカのファンクラブの二代目会長に就任するなど、思い出の曲も交えながら回想します。
【音楽業界と繋がるきっかけ『魅惑のリズム』友の会】
●『魅惑のリズム』:1960年代に月~金曜日の深夜に放送されたニッポン放送のラジオ番組。
●ポール・アンカ(1941/7/30~):カナダ出身のシンガー・ソングライター。ポップスの草創期を代表するアーティスト。
●エドムンド・ロス(1910/12/7 – 2011/10/21):トリニダード・トバゴのミュージシャンで、「アマポーラ」や「ブラジル」などのヒット曲がある。
【『魅惑のリズム』友の会ポピュラー研究会】
【ポール・アンカ ファンクラブ二代目会長に】
【ヤマハ・ミュージック 楊華森との出会い】
●楊華森:ヤマハ~渡辺音楽出版に移り、さまざまな作家に活躍の場を作る役割を担った。
また「加茂亮二」などの変名で、安倍理津子「愛のきずな」をはじめ作詞も手掛けている。
【高崎一郎との出会い】
●高崎一郎(1931/5/13 – 2013/8/10):元ニッポン放送プロデューサー、パシフィック音楽出版(フジパシフィック音楽出版の前身)社長。深夜ラジオ番組の草分け『オールナイトニッポン』を企画立案し、初代パーソナリティも務めた。
【先輩 亀渕昭信】
●亀渕昭信(1942/3/1~):日本のラジオ・ディスクジョッキー、ラジオパーソナリティ、フリーアナウンサー、ポピュラー音楽研究家。ニッポン放送の社員として深夜番組『オールナイトニッポン』に出演し、人気を集めた。
●ヤマハ・エアメール・スペシャル:1950~60年代にかけて冊子とフォノシートを組み合わせた「音の出る雑誌」。各社から書店販売されていたが、これはヤマハミュージックが1961年から販売を始めたもので、エアメールを模した封筒に冊子と最新の洋楽ヒット曲の入ったフォノシート2枚を同封して販売された。
【貴重な情報源『エアメール・スペシャル』】
●ビリー・ヴォーン(1919/4/12 – 1991/9/26):アメリカの歌手、マルチプレイヤー、指揮者。ポピュラー、イージー・リスニング界におけるヒットメーカー。「Melody of Love」をリリース、ビルボードのシングル・チャートに27週間ランキングされるヒットとなった。
●リンダ・スコット(1945/6/1~):アメリカの女性歌手。1950年代から70年代にかけて、ポップシンガーとして活躍。最大のヒットとなったデビューシングル「I’ve Told Every Little Star/星に語れば」は、現在、TBSの番組『マツコの知らない世界』のテーマソングに使われている。
【高崎一郎と亀渕昭信】
【ニッポン放送でのアルバイト】
●ケン田島(1930/10/20 – 2021/4/27):本名・漆原一郎。イギリス生まれの同時通訳者でラジオ関東の番組「ポートジョッキーショー」などディスクジョッキー、アナウンサーとして活躍した。
●三木鮎郎(1924/6/26 – 1997/6/6):ジャズ評論家、司会者、放送作家、エッセイスト、翻訳家。本名は繁田文吾。兄は我が国におけるCM音楽の開祖・三木鶏郎。「スター千一夜」などのテレビ番組の司会・構成作家などとして活躍した。
譜面の販売から始まった音楽出版社が外国曲の著作権を管理するきっかけとなったSACEMによる視察や、日本で初めての音楽著作権管理会社“水星社”についてもご紹介します。また外国曲のカバーが流行することにより、後に日本を代表する作詞家として名を馳せる訳詞家たちの活躍や、プロダクションの誕生がレコード制作にもたらした影響等を当時の流行音楽の背景と照らし合わせご紹介します。
【昭和初期の日本の音楽出版社】
【水星社による外国曲著作権の獲得】
●水星社:1956年10月6日に設立された日本初の音楽著作権管理会社。
●SACEM:Societe des auteurs,compositeurs et editeurs de musiqueの略。作詞家作曲家楽譜出版者協会。音楽業界では最古となるフランスの著作権管理団体のこと。
【ASCAPによる日本視察とその目的】
●ASCAP(American Society of Composers Authors and Publishers)音楽や音楽に関連する著作物を保護するために、1914年2月13日に設立された、米国作曲家作詞家出版者協会。
●ルー・リーヴィー(1910/12/3 – 1995/10/31):作詞家のサミー・カーンと作曲家のソール・チャップリンとともにリーズ・ミュージック・コーポレーションを設立した。ヘンリー・マンシーニらを見出したことでも知られ、ビートルズのアメリカで最大のヒット曲「I Want To Hold Your Hand」の出版をはじめ数々のヒット曲に関わった。
【NOSK(日本音楽出版社協会)誕生】
●NOSK: 日本音楽出版社協会のこと。1973年にNOSKと全日本音楽出版社連盟(JAMP)が合同で、音楽出版社協会(MPA)を設立した。
【オリジナル・パブリッシャー(OP)とサブ・パブリッシャー(SP)】
【外国曲の一般化と訳詞家の台頭】
●漣 健児(1931/2/4 – 2005/6/6):本名:草野昌一。日本の音楽出版ビジネスの先駆者。作詞家・訳詞家として作品多数。代表作に「ステキなタイミング」「可愛いベイビー」など。
●岩谷時子(1916/3/28 – 2013/10/25):日本の作詞家。詩人、翻訳家。歌手・越路吹雪のマネージャーを務めたことでも知られる。代表作にザ・ピーナッツの「ふりむかないで」や「恋のバカンス」、岸洋子「夜明けのうた」など。舞台『レ・ミゼラブル』などの訳詞も手掛けた。
●なかにし礼(1938/9/2 – 2020/12/23):シャンソンの訳詞家を経て作詞家に。「石狩挽歌」や「時には娼婦のように」をはじめ数多くのヒット曲を生み、「天使の誘惑」「今日でお別れ」「北坂場」で日本レコード大賞を3回受賞。ほかにも受賞歴多数。小説家として「兄弟」、直木賞受賞作「長崎ぶらぶら節」なども発表した。
【プロダクションの誕生とレコード制作】
●ザ・フォーク・クルセダーズ:1960年代後半にデビューした音楽制作集団で、当初5人のメンバーで活動を始めるがメンバーが異動、プロデビュー時には、加藤和彦、北山修、はしだのりひこの3人で活動した。
●「帰ってきたヨッパライ」(1967年):ザ・フォーク・クルセダーズのデビューシングルで、同グループの代表曲。テープの早回しと奇抜な歌詞で反響を呼び、“アングラ・フォーク”ブームを生み出した曲。オリコンチャート史上初のミリオン・シングルで、日本のコミックソングの代表作。
【高まる音楽出版社の存在感】
【音楽出版社の使命】
【ルー・リーヴィーの活躍】
日本の音楽著作権ビジネスの黎明期と“プラーゲ旋風”について。楽曲の著作権がレコード会社に帰属していた時代に始まり、昭和初期にヨーロッパの著作権使用料を徴収する代理人となったウィルヘルム・プラーゲというドイツ人とそれに対抗した日本側の動きが日本における音楽著作権に対する認識と著作権利管理というビジネスを欧米とは異なる方向に向けてしまうきっかけとなった“プラーゲ旋風”についてご紹介します。
【日本の音楽ビジネス黎明期】
【プラーゲ旋風のはじまり】
●ウィルヘルム・プラーゲ(1888/10/8- 1969/6/19):ドイツ人外交官で、のちに日本の多くの旧制高等学校でドイツ語を教えた人物。1931年に欧州の楽曲について日本の放送局などに高額の使用料を請求する著作権使用料の取立業を始め、それによって引き起こされた様々な著作権紛争事件を指して”プラーゲ旋風”と呼ばれた。
●BIEM:正式名称「Bureau International des Societes Gerant les Droits d’Enregistrement et de Reproduction Mecanique」。録音権協会国際事務局。音楽著作権のうち録音権と機械的複製権の効果的な管理を目指して、また録音権を管理する団体を結集させることを目的として、1929年にパリで設立。現在は、58カ国・地域から60団体が加盟し、録音権、機械的複製権の国際レベルでの保護および進展に貢献している。
【プラーゲからの破格の要求】
【内務省によるプラーゲ対策】
●ベルヌ条約:正式名称「Berne Convention for the Protection of Literary and Artistic Works」。文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約といい、万国著作権条約と並んで、著作権の国際的保護のための条約のひとつ。
【大日本音楽作家出版者協会の設立】
●山田耕筰(1886/6/9- 1965/12/29):日本の作曲家、指揮者。日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。また、北原白秋と共に数多くの国民的歌謡、校歌等を創作した。代表作として「からたちの花」「この道」(いずれも作詞:北原白秋)、「赤とんぼ」(作詞:三木露風)など。
【大日本音楽著作権協会の設立と仲介業務法】
●社団法人大日本音楽著作権協会:1939年12月28日に設立した日本人による音楽著作権団体で、現在のJASRACの前身。ちなみに、著作権信託契約第一号は島崎春樹(藤村)。
【プラーゲが日本の音楽著作権に与えた影響】
音楽著作権の歴史、最終回は映画に初めて音声が加わり、1927年世界初の"トーキー"として大成功を収めた『ジャズ・シンガー』、以降ASCAPは新たにシンクロ権を誕生させるなど映画の大衆化とともに拡大し変革した音楽ビジネスについてお話します。ロックンロールに音楽の将来を見据えた音楽出版社アルドン・ミュージックの才気あふれる活躍についてもご紹介します。
●徳川夢声(1894/4/13 – 1971/8/1):本名、福原駿雄。弁士、漫談家、作家、俳優、ラジオ・TV等で活動した日本の元祖マルチタレント。
●トーキー:映像と音声が同期した映画のことでサイレント映画の対義語として「トーキー映画」と呼ばれることもある。
●映画『ジャズ・シンガー』:1927年10月6日にアメリカで公開された長編映画として「世界初」のトーキー。第1回アカデミー賞 脚色賞部門にノミネート。
●アル・ジョルソン(1886/5/26 – 1950/10/23):リトアニアで生まれたアメリカの歌手、俳優。20世紀のアメリカを代表するエンターテイナー。
●ASCAP:#26を参照
●Girls Town(邦題:非情の青春):チャールズ・ハースが監督した1959年の青春映画。音楽担当ではないが、ポール・アンカが出演していることから彼の曲が5曲も演奏される。
●ドン・カーシュナー(1934/4/17 – 2011/1/17):アメリカの音楽プロデューサー、音楽出版社経営者、マネージャー、ソングライター。
●ボビー・ダーリン(1936/5/14 – 1973/12/20):作曲家、俳優。ジャズやポップス、ロックンロール、カントリーなど様々なジャンルを手掛けた。37歳で早逝。
●アル・ネヴィンス(1915/5/3 – 1965/1/25):1940年代から50年代にかけて最も人気を博したアメリカのポップ・グループ、スリー・サンズの創設メンバーのひとり。
●アルドン・ミュージック:#26を参照
●ニール・セダカ(1939/3/13 - ):ポール・アンカと並びアメリカン・ポップス界を代表する歌手兼作曲家で、作詞家ハワード・グリーンフィールドとのコンビで知られる。代表作は「カレンダー・ガール」など多数。
●コニー・フランシス(1938/12/12 - ):女性初のロックンロール歌手と言われ、様々なジャンルの楽曲を歌った。日本でもカバーヒットで知られる。
●キャロル・キング(1942/2/9 - ): 16歳でデビューし1960年代初頭からは夫ジェリー・ゴフィンとのコンビでヒット曲を連発。70年代には、シンガー・ソング・ライター・ブームの代表的な女性歌手となった。
●ハワード・グリーンフィールド(1936/3/15 – 1986/3/4):作詞家。ニール・セダカなどブリル・ビルディングの作曲家とのコンビで数々のヒット曲を生み出した。
●ジェリー・ゴフィン(1939/2/11 – 2014/6/19):作詞家。最初の妻キャロル・キングとのコンビで数多くの曲を書いた。1990年にキャロル・キングとともに、ロックの殿堂入りを果たす。
●バリー・マン(1939/2/9 - ):数々のヒット曲を書いたブリル・ビルディング・ポップの重要な作曲家。
●スナッフ・ギャレット(1938/7/5- 2015/12/16):ラジオDJ、A&R、レーベルやプロダクション経営者として知られ、1959年からリバティ・レコードに在籍。数々のヒット曲を手掛けた。
前回に引き続き、音楽ビジネスがレコードの誕生に伴い大きく飛躍していったプロセスについてお話します。出版社や作詞家・作曲家が得るべき収入が支払われていない、と22の音楽出版社と170人の作家が主に演奏使用料の権利を求め、ASCAPという団体を発足した経緯や、ASCAPに対抗し発足したBMIの設立から、現在までアメリカの音楽を二分する二大演奏権協会として常に勢力争いを続けているライバル関係についてお話しします。また、ジョージ・ガーシュウィンを始め、楽曲を売り込むソング・プラッガーについて、A&Rの起源についてもご紹介します。
●エンリコ・カルーソ(1873/2/25 – 1921/8/2):オペラ史上において有名なテノール歌手の一人。
●ソングプラッガー:出版社が管理する楽曲を歌手やレコード会社のA&Rマンに売り込むため、ピアノを弾きながら歌った人のこと。
●A&R(Artists and Repertoire):アーティストの発掘・契約・育成とそのアーティストに合った楽曲の発掘・契約・制作を担当するレコード会社における職務の一つ。
●ジョージ・ガーシュウィン(1898/9/26 – 1937/7/11):ポピュラー音楽、クラシック音楽の両面で活躍したアメリカを代表する作曲家で、出世作は1919年の歌曲「スワニー」。1920年代以降は、作詞家となった兄アイラと組んで、レビューやミュージカル向けに多くのポピュラー・ソングを送り出した。
●ジェローム・カーン(1885/1/27 – 1945/11/11):20世紀初頭に活躍したミュージカル作曲家の一人で、40年以上のキャリアにおいて作曲数は700以上に及ぶ。代表曲に「煙が目にしみる」など。
●ASCAP(American Society of Composers Authors and Publishers):アメリカで音楽やその他音楽に関連する著作物を保護するために、1914年2月13日に設立。
●BMI(Broadcast Music, Inc.):アメリカの実演権団体のひとつ。ソングライター、作曲家、音楽出版社に代わって楽曲の実演に許諾を与える対価として著作権使用料を徴収し、演奏される作品の著作権者たちに印税を分配している。
●アーヴィング・バーリン(1888/5/11 – 1989/9/22):ベラルーシ生まれのアメリカの作曲家・作詞家。半世紀にわたる音楽活動で膨大な量の優れたポピュラー・ソングを作詞・作曲し、ジョージ・ガーシュウィンをして「アメリカのシューベルト」と言わしめた人物。
●キャッシュボックス:『ビルボード』と同様に音楽チャートを掲載する事で知られたアメリカの雑誌。
●「You Are My Sunshine」:アメリカのポピュラーソングで、作詞・作曲はジミー・デイヴィスとチャールズ・ミッチェル。ジミー・デイヴィスは、後にルイジアナ州知事となり、その際の選挙活動にもこの曲が使われた。現在、ルイジアナ州の州歌にもなっている。
●「テネシー・ワルツ」:1948年に出版されたアメリカのポピュラー、カントリー歌曲。1950年にパティ・ペイジのカヴァー盤がマルチミリオンセラーとなった。
●アルドン・ミュージック:アルドン・ミュージックはニューヨークの音楽出版会社。アル・ネヴィンスとドン・カーシュナーが1958年に設立。1950年代末から1960年代のブリル・ビルディング・サウンドに貢献した。
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