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FAQs about 東京らくごウォーカーズ:How many episodes does 東京らくごウォーカーズ have?The podcast currently has 41 episodes available.
March 21, 2020飛鳥山このブラウザでは再生できません。いよいよ三月下席、この芝居から新真打の披露興行がはじまります。・三遊亭たん丈 改メ 三遊亭丈助・春風亭一左・三遊亭歌太郎 改メ 三遊亭志う歌 ・柳亭市楽 改メ 六代目玉屋柳勢・三遊亭歌扇5人の兄さん方が、真打に昇進いたします。おめでとうございます!!披露興行は鈴本演芸場からスタートです。落語家にとって真打の披露興行は、生涯に一度きりの記念すべき興行です。こんなご時世ではございますが、皆さまどうぞよろしくお願いいたします。さあ、東京らくごウォーカーズとはいいますと、3月14日に東京でも桜の開花宣言が出たので飛鳥山に行ってまいりました。今年は気温が暖かかったので、例年よりも早い開花宣言でした。降り立ったのは、JR王子駅。中央口を出てすぐに、飛鳥山のてっぺんまで運んでくれるモノレール『アスカルゴ』の乗り場が見えます。このアスカルゴ、なんと無料で乗車できるのです。山頂までの乗車時間は2分。せっかくなので、乗車してみました。アスカルゴから見える景色を、じっくり眺める間もなく頂上に到着します。車内では倍賞千恵子さんのアナウンスが流れていて、内容は季節ごとに変わるそうです。今の季節は、落語の花見の仇討ちが紹介されていました。レール沿いには紫陽花が植えられていて、梅雨時には花を渡るアスカルゴの姿が見えるんだって。きっと車内からの景色も綺麗なんだろうなぁ。あっという間に山頂へ到着!!アスカルゴくん、どうもありがとうね。さてさて、桜は咲いているかな?どうでしょう?咲いてました!!まだまだ咲き始めたばかりですが、とっても綺麗ですね。陽気もポカポカしていて、風が気持ち良いです。言い忘れていましたが、今回ご案内するのは飛鳥山公園だけなので地図はありません。山頂に降りてすぐに、公共基準点と山頂モニュメントがあります。飛鳥山の標高は、25.4m。東京都で一番低い山とされている、愛宕山の標高が25.7m。。。。あれっ!?飛鳥山の方が低いじゃないの。そうなんです飛鳥山の方が低いんです。だけど、飛鳥山は国土地理院から山と認められていないので、一番低い山にはなれなっかたみたい。飛鳥山は丘なんだって、なんだか気の毒です。でも丘ならしょうがないか。ところで、丘と山って何が違うんですかね。今まで、考えたこともなかったでなぁ。ちなみに、今はなくなってしまいましたが、以前はこのあたりに『飛鳥山タワー』という展望塔があったそうですよ。こんなとこに展望塔が?どんな景色が見えたのかなぁ?いろいろと不思議です。桜も上から眺められたのかもしれませんね。公園内の仮設トイレも、この日から解禁されました。たまたまオープン記念に立ち会ったので、俺が一番乗りだと青森兄さんが駆け込みました。仮設トイレにしては綺麗で、鍵もしっかりしてるし、トイレットペーパーもちゃんと備えてあるので三ツ星トイレだそうです。青森兄さんレビューありがとうございました。この日は祝日だったので、お花見をしている方が結構いました。飛鳥山の桜は約600本あって、そのうちソメイヨシノが約400本だそうです。桜の種類は全部で15種類。今の時期に咲いている桜は、ほとんどがソメイヨシノです。中には、違う種類の桜もあるので、探してみると楽しいかもしれませんね。八重紅大島桜高遠小彼岸桜枝垂桜それぞれ開花時期が違うので、2月中旬から4月下旬頃まで花見が楽しめるようです。中には十月桜という、秋から冬にかけて咲く桜もあるようです。飛鳥山公園内をしばらく散策していると、『飛鳥山の歴史』という石碑を見つけました。『飛鳥山公園は、明治六年に定められたわが国最初の公園の一つです。この公園のある台地は、上野の山から日暮里、田端、上中里と続いている丘陵の一部です。このあたりは、古くから人が住んでいたらしく先土器時代(日本で最も古い時代)、縄文時代、弥生時代の人々の生活の跡が発見されています。ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは、昔この丘の地主山(現在の展望台の所)に、飛鳥明神の祠が祀られていたからと伝えられています。江戸時代の中ごろ元文二年(1737)徳川八代将軍吉宗が、この地を王子権現に寄進し、荒地を整備して、たくさんの桜や松、楓などを植えたので、それからは桜の名所として有名になり、随所に茶屋などもできました。その説明は、右手の大きな石碑に詳しく刻まれていますが、この文章がとても難しく、すでにその当時から読み難い石碑の代表になっていました。飛鳥山のお花見は、向島とともに仮装が許されていたので、まるで落語にでてくるような仇討ちの趣向や、変装などのためにたいへんな賑わいでした。また、東側の崖からは、カワラケ投げも行われ土皿を風にのせて遠くまで飛ばす遊びも盛んでしたが、明時の末になって、危険防止のために禁止されました。この山は、東から西へのなだらかな斜面でしたが、道路拡張のためにせばめられ、さきに中央部につくられていた広場の跡地に噴水ができ、夜は五色の光に輝いています。昭和五十五年二月吉日 東京王子ロータリークラブ』1920年に吉宗が享保の改革のひとつとして、飛鳥山に桜を植えて今年で300年。飛鳥山は、今も桜の名所として有名です。落語『花見の仇討ち』は演者によって花見の場所が違いますが、飛鳥山を舞台に選ぶ方は上野と違い仮装が許されていたことを根拠にしているようです。上野は将軍家のお墓があるので、いろいろと決まりごとが厳しかったそうな。そんな窮屈さから解放するために、吉宗は飛鳥山を新しい花見スポットとして桜を植えて、自らPRしたのかもしれませんね。その当時に植えた桜の数はなんと1270本。今の倍以上の数です。もっともその頃は、今より敷地が広かったと思います。満開の頃には、歌舞音曲で大変な賑わいだったことでしょう。東側の崖には、落語『愛宕山』でも馴染みのあるカワラケ投げが行われていたようですが、鉄道の開通とともに禁止されたようです。やってみたいだけにちょっと残念。右隣には、噂の難しくて読めない石碑があります。昔の人たちが読めなかったので、もちろん我々に読めるわけなどなく。。。さっぱりです。しかし、立派な一枚岩ですね。『八代将軍徳川吉宗は飛鳥山を整備し、遊園として一般庶民に開放した。これを記念して、王子権現社別当金輪寺の住職宥衛が、元文二年(1737)に碑を建立した。石材は、紀州から献上されて江戸城内滝見亭にあったものある。碑文は、幕府の儒臣成島道筑(錦江)によるものである。篆額は、尾張の医者山田宗純の書である。建立にいたる経緯については、道筑の子和鼎(かずさだ)(龍洲)の「飛鳥山碑始末」に詳しい。碑文の文体は、中国の五経の一つである尚書の文体を意識して格調高く書かれている。吉宗の治政が行き届いて太平の世であることを喧伝したものと考えられる。碑は、総高218.5cm、幅215cm、厚さ34.5cm。元亨年中(1321〜24)に豊島氏が王子権現(現在の王子神社)を勧請したことが記されている。続いて、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来や、土地の人々が王子権現を祀り続けてきたことが記される。最後に、吉宗が飛鳥山に花木の植樹を行い、王子権現社に寄進した経緯などが記される。異体字や古字を用い、石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解であるが、飛鳥山の変遷を理解する上で重要な資料である。』この難読な石碑についての川柳がいくつかあるようです。『この花を 折るなだろうと 石碑見る』どんなに立派なものでも、読めないようではどうしようもない。良い戒めです。江戸の頃は、10ほどあった茶店も今は1軒だけ。いろいろと歩き回ってくたびれたので、ちょっと休憩。僕が頼んだのは、さくらうどん。桜の花の塩づけが乗っかったうどんです。桜の香りがいっぱいにひろがって、味覚でも春を感じます。ごちそうさまでした。花や風を感じることができて、とても幸せな1日でした。桜は4月上旬まで楽しめそうです。東京らくごウォーカーズでは、二人に行って欲しい場所や質問をメールで募集しています。宛先はこちらです。[email protected]ご意見、ご感想もお待ちしていますよ!!...more33minPlay
March 10, 20203月中席このブラウザでは再生できません。暖かい日が続いたり、急に天気がくずれたりで、いかにも春先といった陽気ですね。3月中席の東京らくごウォーカーズは、ポッドキャストのみの配信です。早咲きの桜が、ちらほらと咲いているところもあるようですが、お花見スポットのご案内は次回から。しかしながら、コロナウィルスの流行でお花見も自粛要請が出ているようで、せっかくご案内しようと思っているのにとても残念です。みんなで集まって、わいわいガヤガヤという訳にはいきませんが、桜を目当てに春のお散歩を楽しんでください。梅は咲いたか 桜はまだかいな演芸や、様々な催しが心置きなく楽しめる日が、一日も早く戻ってくることを願います。東京らくごウォーカーズでは、二人に行って欲しい場所や質問をメールで募集しています。宛先はこちらです。[email protected]ご意見、ご感想もお待ちしていますよ!!...more24minPlay
March 01, 20203月上席このブラウザでは再生できません。3月上席を迎えました!東京らくごウォーカーズです。今月は、飛鳥山と上野と江戸の花見スポットをご案内する予定ですが、せっかくなので開花した頃に行ってみたいと思っています。ですから、今回はポッドキャストの配信のみです。東京らくごウォーカーズのライバルのべらぼうラジオのことや、青森兄さんが花粉症に絶対にならない理由をわいわいガヤガヤ話しています。今年の東京の桜の開花時期は、3月中頃ということなので、お花見スポットは中席か下席にはご案内できるかな。どうぞお楽しみに!!コロナウィルスの感染拡大の影響で、外出を控えている方も多いかと思います。この機会に、東京らくごウォーカーズの過去の記事やポッドキャストを楽しんでくださいますとありがたいです。東京らくごウォーカーズでは、二人に行って欲しい場所や質問をメールで募集しています。宛先はこちらです。[email protected]ご意見、ご感想もお待ちしていますよ!!おまけ。前座の頃に上野でお花見をした時の写真です。左から、文吾兄さん、乃々香さん、あささん、おこうさん。撮影者は一猿。青森兄さんは、もちろんいません。...more0minPlay
February 20, 2020蔵前 その3このブラウザでは再生できません。もう2月下席ですよ、ほんとあっというまに時間が過ぎていきます。今年は閏年ですから、2月は29日まであるのでちょっとお得な気分です。さあ前回に引き続き、蔵前をご案内していきますよ。今回の地図はこちらです。まずは蔵前神社へレッツゴー!!江戸通りを浅草方面へ、途中を左に曲がると蔵前神社があります。こちらは、ほとんどの方がご存じだと思います。そう!元犬の舞台の神社です。そして、忘れがちですが、阿武松の舞台でもあります。僕もすっかり忘れていました^^; 創建は、元禄6年(1693)8月5日。徳川綱吉が岩清水八幡宮を勧請したのが始まりです。勧進大相撲発祥の神社としても知られており、谷風や雷電といった名力士が活躍しました。今はコンパクトになってしまいましたが、昔は大通りに面していて、敷地も広かったようです。※江戸切絵図石玉垣には、相撲協会の名前が刻まれています。もちろん、我らが落語協会も。境内に入ってすぐ右に、元犬のシロの銅像が鎮座しています。モデルは、近くで飼われている北海道犬のナナちゃん。ポッドキャストで、秋田犬といってしまいましたが間違いです。ナナちゃんは、とても温厚で賢いワンちゃんだそうですよ。境内に野良犬はいませんでしたが、猫がいました。社務所で飼っているようで、全部で5匹いるんだって。だけど、最近一匹いなくなっちゃったそうで、宮司さんがとても悲しそうにされていました。もしかして、人間に生まれ変わったのでは?そうだったらいいんですけどね。なぜか、シロのお尻を凝視する青森兄さん。「浮世絵師 歌川國安錦絵 文政七年之春 御藏前八幡宮二於而 奉納力持 この錦絵は、文政七年(1824年)の春に、御藏前八幡宮(現・藏前神社、旧・石清水八幡宮)で行われた「力持」の技芸の奉納を描いたもので、作者は初代歌川豊國門下の三羽烏と言われた歌川國安(1794年~1832年)です。 素人の力持は文化後期より流行し、この錦絵が描かれた頃には絶頂期を迎えたように素人の力持を称える文化がありました。上の絵の「大関金藏」は、当時有名な素人の力持で、神田明神下の酒屋・内田屋の金藏と思われます。これらの錦絵は、奉納力持の記念として製作されたものですが、絵のなかに当時の日本酒の銘柄が入った酒樽が描かれていることから、これら三枚の錦絵は、そのまま宣伝用のポスターとして使用されていたのではないかとも言われています。 また、この奉納力持が開催された御藏前八幡宮は、勧進大相撲の発祥の地であり、天保4年(1833年)に本所回向院が定場所となるまでは、回向院・深川八幡と共に、勧進大相撲が行われた三大拠点の一つでした。この場所では幾多の名勝負が繰り広げられましたが、なかでも天明2年2月場所では63連勝中の谷風梶之助が小野川喜三郎に敗れて江戸中が大騒ぎとなりました。 この錦絵は隅田川遊歩道・テラス(厩橋~藏前橋の間)にも掲示されています。」さあ、きました!力石!僕はこの力石が好きでたまりません。男達がただただ重いものを持つことを競い合う、ロマンがありますよね。しかも、デカイ石とか、米俵を持ち上げるという野蛮な感じがgood!!力持ち界の大スター、大関金蔵についてもっと知りたいな。この時代に情熱大陸があれば、確実に取り上げられていると思いますね。錦絵には、足の裏に乗っけたりしてる人もいるけど、これは果たして力持ちなのか・・・?まあ、こういうよくわからないところも含めて好きなんですけどね。お詣りを済ませて、春日通を隅田川の方向に進み厩橋へ。隅田川にかかる橋は、それぞれ個性があって面白いです。厩橋は重厚感があって、無骨なデザイン。男心をくすぐります。今は隅田川にいくつも橋がかかっていますが、江戸の時代は両国橋、新大橋、永代橋、吾妻橋の4っつのみ。そのため、渡船場がたくさんありました。落語の岸柳島は、御厩の渡しの船の中の出来事。転覆事故が多かったために、三途の渡しともいわれてたんだって。そもそもなぜ、岸柳島という演題なんでしょうか?そのあたりのことはポッドキャストで青森兄さんが解説しています。今は渡し船はありませんが、屋形船の乗船場になっています。以上!蔵前編でした!!次回はどうしましょうかね、花見の季節だから飛鳥山?上野のお山?どうしようかな。う〜ん、お楽しみに!!東京らくごウォーカーズでは、二人に行って欲しい場所や質問をメールで募集しています。宛先はこちらです。[email protected]ご意見、ご感想もお待ちしていますよ!!...more0minPlay
February 11, 2020蔵前 その2このブラウザでは再生できません。二月中席より、松之丞兄さんの伯山襲名興行がはじまって、演芸界の注目を集めていますが、らくごウォーカーズも負けじと更新しています。今回も、引き続き蔵前をご案内していきますよ!!まずは前回の最終ポイントの袋物参考館から、鳥越神社に向かいます。地図はこちらです。鳥越神社は、白雉2年(651年)創建と、とても歴史の古い神社です。主祭神は日本武尊。鳥居の前にある橋は、白鳥橋。この辺りは、昔は白鳥村といわれていたんだって。神社の名前もその昔は白鳥明神。鳥越という名前に変わったのは、奥州の阿部貞任らの乱(前九年の役)鎮定のため、この地を通った源頼義・義家父子は、鳥が大川(隅田川)に止まったのを見て、浅瀬を知り、渡ることができたということから鳥越大明神と名付けました。以後、神社名には鳥越の名を用いるようになり、この辺り鳥越の里と呼ばれるようになったそうな。(境内の立て札より引用)境内は工事をしているのか、所々が板で囲まれていた為、ちょっと狭く感じました。神紋は七曜紋といって、北斗七星をあらわしているそうな。おみくじが大吉でご機嫌な青森兄さん、昨年はどこへ行っても凶ばかりでしたが、今年は調子が良いですね。社務所では、鳥越祭りのビデオとDVDが販売されていました。お祭り好きの方が買っていくんでしょうかね。鳥越祭りは、毎年6月9日に近い日曜日に行われています。都内最大重量の千貫神輿の重さは、なんと4tもあるそうな。仰天ですね。作るのも大変、担ぐのも大変。今年はぜひ見に行ってみたいですね。だけど、大変に荒っぽい祭りだそうで、見物するのにも覚悟がいりそう^^; 火事と喧嘩は江戸の華というけど、喧嘩は苦手です。巻き込まれたくないから、見るのも苦手。これから蔵前橋通りをまっすぐに、隅田川の方に向かいます。江戸通りとの交差点には、旧町名由来案内の立て札がありました。「本町は、付近の九ヶ町を整理統合して昭和九年(1934)にできた。蔵前という町名が初めて付けられたのは元和七年(1621)の浅草御蔵町片町である。この付近に徳川幕府の米蔵があったことから付けられた。米蔵は全国に散在した幕府直轄領地から送られた米を収納するため造られた倉庫で三ヶ所あった。大阪、京都二条の御蔵とあわせ三御蔵といわれた。その中でも特に浅草御蔵は重要であった。米蔵の用地は元和六年に鳥越の丘をけずり、その土砂で隅田河岸を整地し造成された。当時、六十七棟もの蔵があったことから約六十二万五千俵(三万七千五百トン)の米を収納することができた。この米は、幕府の非常蓄米としての役割と領地を持たない旗本・御家人に支給する給料米であった。」なるほど蔵前は、巨大な食料庫だったんですね。川の近くで立地も良かったのでしょう。ちなみに交差点を右に曲がって、須賀橋交番前の交差点のあたりが蔵前駕籠にも出てくる天王橋。今は埋め立てられて暗渠になっていますが、隅田川に向かって小さな川が流れていて、天王橋はそこに架かっていたそうです。隅田川に架かる蔵前橋の近くには、首尾の松があります。「この碑から約百メートル川下に当たる、浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように枝垂れていた「首尾の松」があった。 その由来については次のような諸説がある。 一、寛永年間(一六二四~四三)に隅田川が氾檻したとき、三代将軍家光の面前で謹慎中の阿部豊後守忠秋が、列中に伍している中から進み出て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の松」と称したという。 二、吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上り下りの舟が、途中この松陰によって「首尾」を求め語ったところからの説。 三、首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが訛って首尾となり、近くにあった松を「首尾の松」と称したという。 初代「首尾の松」は、安永年間(一七七二~八〇)風災に倒れ、更に植え継いだ松も安政年間(一八五四~五九)に枯れ、三度植え継いだ松も明治の末頃枯れてしまい、その後「河畔の蒼松」に改名したが、これも関東大震災、第二次大戦の戦災で全焼してしまった。昭和三十七年十二月、これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者とともに、この橋際に碑を建設した。現在の松は七代目といわれている。」名前の謂れには、色々と諸説があるようですが、二の説が楽しくていいですね。首尾の松は、広重の「名所江戸百景」にも描かれています。道路を挟んで向かいには、浅草御蔵跡碑があります。 少し隅田川沿いを歩いていみました。当時このあたりには、米蔵の間に掘がくし型に八番まで並んでいました。堤防にはその頃の絵が、展示されています。首尾の松も、しっかり描かれていますね。さて今回は、これでおしまい。次回は、元犬でお馴染みの蔵前神社をご案内いたします!!東京らくごウォーカーズでは、二人に行って欲しい場所や質問をメールで募集しています。宛先はこちらです。[email protected]ご意見、ご感想もお待ちしていますよ!!...more0minPlay
February 01, 2020蔵前 その1このブラウザでは再生できません。2月の東京らくごウォーカーズは、蔵前界隈をご案内いたします。蔵前が舞台の落語は、蔵前駕籠と元犬、阿武松、後生うなぎなんかがそうです。他にもいくつかありますが、概ねそんなところかな。上席は、浅草橋からスタートして蔵前方面に北上していきます。今回は落語に直接関わりはないスポットばかりですが、行ってみるとかなり知的好奇心をくすぐられる場所ばかりです。そんなこんなで、ご案内していきましょう。東京らくごウォーカーズはじまりはじまり〜。スタート地点は浅草橋の駅。今回の目的地は、日本文具資料館と袋物参考館の2つだけです。とってもシンプルでしょ。別にネタがなかったわけじゃないんだよ^^;地図はこんな感じです。まずは日本文具資料館から。日本文具資料館は、東京文具販売健康保険組合のビルの1階にあります。開館時間は13時から16時まで、土日祝はお休みです。開館時間が短いのと、平日しかやっていないので、訪問するには結構条件が厳しいです。ですが、大変に見応えがあります。館内には、古今東西新旧の文房具が所狭しと並んでいます。入り口には、歴史の教科書でよく見る金印があります。もちろんレプリカ。一辺が2.347cmと想像していたよりも遥かに小さいです。大きな見どころは、この徳川家康と伊達政宗の鉛筆です。まるで道具やの小噺みたいじゃないですか、巴御前の腰巻みたいにありそうでないもの。でもここにあるのは、レプリカですが実在するものです。家康の鉛筆は久能山東照宮博物館に、政宗の鉛筆は仙台市博物館にそれぞれ保存されています。これは矢立という、江戸時代の携帯筆記具です。こんなに沢山見るのは初めて、芭蕉も矢立を懐に旅をしたんだよね。そろばんだけでも、かなりの数がありました。商人が使っていたのは、裏に板がはってある箱そろばん。商談をしている時に、他のお客さんに裏から値段が見られないようにしているんだってね。ギリシャのそろばんもありました。どうやって使うかはさっぱりですが、なんとなく日本のそろばんに近い形ですね。また、建物の敷地内には石塚稲荷神社があります。柳橋という土地柄、花柳界の芸者さんから信仰されていたようですね。お稲荷様に手を合わせて、袋物参考館へ向かいます。袋物参考館は、株式会社プリンセストラヤというハンドバッグの会社の5階にあります。建物の外観を撮影するのを忘れていました。ごめんなさい。。。開館時間は10時から16時まで、土日祝その他いろいろお休みの日があります。観覧の際は、あらかじめ必ず電話予約をお願いします。1階で受付のおねえさんに予約の旨を伝えると、エレベーターで5階に通されます。社員の方が袋物業界の発端から、現代までの歴史を自社ブランドを通して丁寧に案内してくださいます。ちなみに袋物というのはバッグのことで、鞄とは違うそうです。どういうこと?と思うかもしれませんが、形状で考えるとわかりやすいです。鞄というのは、概ね箱型をしています。袋物と鞄は、海外では同じ扱いですが、日本では業界が分かれているそうです。百貨店でも売り場が違うんだって。プリンセストラヤのバッグは、煙草入れから始まったそうです。煙草入れの製造技術を生かして、がま口財布を作るようになり、後にハンドバッグを手がけるようになります。このあたりの歴史は社員の方が丁寧に案内してくださいます。社員の方のお話がとても上手で、好奇心をくすぐられます。ちなみに、プリンセストラヤのハンドバッグは、石原裕次郎主演の映画「銀座の恋の物語」にも出てくるんですよ。映画で使われたハンドバッグは大ヒットしたんだって。袋物記念館の素晴らしさは、青森兄さんがポッドキャストで熱弁しています。ぜひ聞いてみてください。僕もプリンセストラヤさんの、研究熱心なところや、ものづくり精神に大変感動しました。決してヨイショではなくて、袋物参考館を訪れると誰しもがそう思うはずです。ちなみに参考館という不思議な名称は、プリンセストラヤが付き合いのあった人間国宝濱田庄司先生の「益子参考館」という美術館が由来だそうです。館内には、濱田庄司先生のご子息の益子焼の作品がいくつか並んでいます。と、今回はここでおしまい。次回はあの落語の舞台をご案内するよ!乞うご期待!!東京らくごウォーカーズでは、二人に行って欲しい場所や質問をメールで募集しています。宛先はこちらです。[email protected]ご意見、ご感想もお待ちしていますよ!!...more46minPlay
January 21, 2020川崎 その2このブラウザでは再生できません。正月下席の東京らくごウォーカーズは、前回に引き続き川崎周辺をご案内いたします。今回も落語スポットはまったく出てきませんが、川崎宿をざっくりとご紹介していきたいと思います。川崎宿は、東海道の二つ目の宿場町です。品川から神奈川までの距離が遠かったので作られました。うーん内藤新宿と同じ理由ですね。さあ、今回の地図はこちらです。とてもすっきりしているでしょう。京急川崎駅に降り立って、まずは川崎宿の全体像を把握する為に、東海道川崎宿交流館に行ってきました。東海道川崎交流館は、平成25年10月1日に開館した新しい施設です。江戸時代から、現代までの川崎の町の移り変わりを、映像や模型を多く使って紹介しています。川崎の歴史スポットを網羅しているので、ここに来れば川崎のほとんどのことがわかると思います。また4階にある集会室では、様々なイベントが行われていて落語会も開催されています。そういえば、僕も前座の頃に一度こちらの落語会に出演していました。その節はお世話になりました。また呼んでもらいたいですね。東海道かわさき宿交流館公認キャラクターの飛脚の六助と青森兄さん昨今のゆるキャラブームに一石を投じるような見た目です。たぶん人気はないと思いますが、六さんの媚びない姿勢は好きです。こういうキャラクターの方が、長生きするはず。頑張れ六さん!!入口のエントランスには、川崎宿の入口にあった茶屋「万年屋」を再現した休憩スペースがあります。万年屋は江戸時代に旅人や川崎大師の参詣客で大変に賑わったお店です。名物料理の奈良茶飯を「東海道中膝栗毛」の弥次さん喜多さんが作中で食べたことでその名が全国に知られるようになり、お店はますます繁盛したそうです。今でいうところの聖地巡礼という感覚が、この頃からあったんですかね。奈良茶飯は、栗や小豆といった雑穀を煎茶で炊き込んだご飯です。奈良のお坊さんが食べていた料理だそうですが、なぜ万年屋で出されていたのかは分からないとのこと。ちなみに交流館の近くにある「川崎屋東照本店」では、奈良茶飯風おこわを食べることができます。二階の展示室では、主に江戸時代の川崎宿の歴史を紹介しています。宿場町ならではのエピソードが盛りだくさんで、かなりの見応えがあります。今の川崎には、宿場町時代の面影があまり残っていないので、模型や展示資料を使った展示は当時の雰囲気を掴むのに重宝します。旅の衣装に着替えて、記念撮影をしました。川崎宿の背景で、旅人と飛脚の衣装でパチリ。六郷の渡しの背景でパチリ。どっちかが女性の衣装を着ようということを提案したら、青森兄さんが迷わず俺がやると言ってくれました。本当は僕がやりたかったんですけど、二人とも女性の衣装では絵にならないので我慢しました。こういう時でも先輩のいうことは絶対なのです。厳しい世界だなあ。見返り美人。兄さんの女装は、コントにしか見えませんね^^;川崎宿のことがよくわかったところで、旧東海道をまっつぐに多摩川は六郷の渡し跡に向かいます。1600年に家康の命で、六郷大橋が架けられましたが多摩川の洪水で何度も流されては再建を繰り返していましたが、ついに橋は再建されず交通手段は渡し船だけになってしまいます。それだけ多摩川の洪水は凄まじいものだったんですね。東海道を江戸に入るには、必ず多摩川を渡らなくてはいけません。それが為に、六郷の渡しは川崎宿のひとつのシンボルとして、広重の浮世絵にも描かれています。また、徳川吉宗の時代には、将軍家に献上された象が長崎から江戸にやってくるのに、並べた船の上に板を乗せ仮設の橋を架けたそうです。失敗は許されない一大プロジェクトですね。無事に橋を渡り、江戸にやってきた象ですが、飼育するのに莫大な費用がかかるし世話も大変なので中野の農民源助に預けられたそうです。源助は象の見物料をとったり、糞を薬(効果があったのかは不明)といって売ったり、見物客にお饅頭を売ったりしていたそうです。源助さん、とても商才のある人だったんですね。明治天皇が東京行幸で東京に入られた時も同じようにして、船を並べて仮設の橋を作ったそうです。新たに六郷に橋が架けられたのは1874年(明治7年)のことで、その後も何度も流され今の橋は1984年に今の橋が通行できるようになりました。すごく最近のことなんですね、ちょっとびっくり。そんなこんなで、今回も歴史スポットのご紹介だけになってしまいましたが、来月は蔵前に行ってきます。蔵前なら落語スポットも豊富にあるでしょう。きっとなんとかなるはずですが、不安なのでオススメスポットがあれば教えてください。東京らくごウォーカーズでは、二人に行って欲しい場所や質問をメールで募集しています。宛先はこちらです。[email protected]ご意見、ご感想もお待ちしていますよ!!...more37minPlay
January 11, 2020川崎 その1このブラウザでは再生できません。正月二之席からの東京らくごウォーカーズは川崎周辺をご案内!!青森兄さんが落語スポット結構あるよというので行ってきましたが、川崎大師が『大師の杵』に出てくるくらいで落語スポットはほとんどありませんでした。完全に騙されました( ; ; )青森兄さんが、なぜ川崎を勧めてきたかというと、上京してすぐに住んでいた思い出の場所だから久しぶりに行きたかったという驚きの理由でした。そんな逆境にもめげず、死にもの狂いで歴史スポットを探してきたのでどうぞご覧ください。とりあえず今回は、初詣もかねて川崎大師に行ってきましたよ。京急川崎駅から、大師線に乗り換えて、川崎大師駅で下車します。京急はなんとなく、阪急電車に似ていて好きです。お正月ということもあって、乗客のほとんどが参詣客だったのではないでしょうか。大師駅でみんなぞろぞろ降りて行きました。南口を出てすぐのところに、京浜急行発祥の地記念碑がありました。京急はもとは川崎の六郷から大師までを結ぶ路線がはじまりだったそうです。久しぶりに第二の故郷に帰ってきて、ご満悦の青森兄さん。道中に色々な思い出話を聞かせてくださいましたが、ほとんどがあそこのバイトの女の子が可愛かったとかそういうどうでもいい話でしたね。今回の地図はこちら。まずは川崎大師を目指します。お正月ということもあって、参道には屋台がたくさん並んでいて賑やかでした。仲見世通りに入ると川崎大師の名物とんとこ飴を切る音が聞こえてきます。飴を切るのは、厄を切るという験担ぎなんだって。甘酒とぬれおかきをいただきました。大山門をくぐって、境内へ。本堂へ向かいます。『平安時代、第75代崇徳天皇の御代(1123〜1141)、平間兼豊・兼乗という武士の親子が無実の罪により生国尾張(現在の名古屋地域)を追われ、諸国を流浪したあげく、ようやくこの川崎の地に住みつき、漁師を仕事として、貧しい暮らしを立てていました。兼乗は深く仏法に帰依し、特に弘法大師を崇信していました。当時42歳の厄年に当たりましたので、日夜厄除けの祈願を続けていました。ある夜、一人の高僧が、兼乗の夢まくらに立ち、「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未だ有縁の人を得ず。いま、汝速かに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり所願もまた満足すべし」と告げられました。兼乗は翌朝直ちに海に出て、光り輝いている場所に網を投じますと一体の木像が引き揚げられました。それは、大師の尊いお像でした。この地は、「夜光町」と名づけられ大師の浜の古い歴史を今に伝えています。兼乗は随喜してこのお像を浄め、ささやかな草庵をむすんで、朝夕に香花を捧げ、供養を怠りませんでした。その頃、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途中ここ兼乗のもとに立ち寄られ、尊いお像と、これにまつわる霊験奇瑞に感泣し、兼乗と力をあわせ、大治3年(1128)一寺を建立しました。そして、兼乗の姓・平間をもって平間寺と号し、御本尊を厄除弘法大師と称し奉りました。これが今日の大本山川崎大師平間寺の由来であります。』川崎大師の名が広く世に知られるようになったのは、11代将軍徳川家斉が厄除けで川崎大師に参詣したのがきっかけでした。当時の山主である隆円上人が参詣の直前に突然亡くなってしまいます。これが上人が家斉の厄を引き受けて身代わりになったという噂になり、大変にご利益のあるお寺として参詣人がたくさん訪れるようになったそうです。境内には、東京太神楽曲芸協会が健碑した『まり塚』がありました。まり塚は昭和26年に台東区菊屋橋にある熊谷稲荷に建立され、昭和28年に川崎大師に移設されました。毎年5月21日には、まり塚まつりとして法要と境内にて演芸の奉納があります。曲芸の師匠型の名前がずらっと並んでいます。落語協会に所属する師匠方の名前も。ちなみに首都高大師ジャンクションの近くには、自動車交通安全祈祷殿という巨大な祈祷殿があります。お堂正面の祈祷場に車を駐車して、車とドライバーの交通安全祈願を受けることができます。お祓いスルーです。興味のある方は是非行ってみてください、川崎大師の境内からは少し歩きますのでそのつもりで。ここから駅に戻って、金山神社に向かいます。金山神社では、鍛冶の神様が祀られていますが、この神様は性の神様でもあり最近はそっちの方が有名なようです。なんでも川崎宿の飯盛女たちも信仰していたとか。巨大な男根を乗せた神輿を担ぐ奇祭、かなまら祭りは様々なメディアに取り上げられて海外の方にも人気です。青森兄さんは金山神社の裏に住んでいた頃があって、その時分はなぜか大モテだったそうですが、僕は信じていません。こちらはご神体のレプリカ。境内のいたるところにあるマークは、左から鎌・剣・鍵。鎌は農民、剣は侍、鍵は商人をあらわしているとか。はっきり覚えていないので、間違えていたらごめんなさい。当日は、出初式が行われていました。町の消防団の方でしょうか、本堂の前で梯子乗りをされていました。雲ひとつない快晴の空はいつもより高く見えて、梯子をのぼる姿はとてもカッコよかったです。今回はこんな感じでお終い。なんだか、どんどん落語から離れていくような気がする。。。^^;次回は東海道の二つ目の宿場町、川崎宿をご案内します。次回こそご期待ください。...more30minPlay
January 01, 2020正月初席このブラウザでは再生できません。あけましておめでとうございます正月初席の東京らくごウォーカーズは、トークのみのお届けです。ゆる〜く噺家の正月風景をお楽しみください。青森兄さんの写真はありませんが、本年も青森と一猿をどうぞよろしくお願いたします。ニ之席からは、落語スポットをご案内していきます。お楽しみに!!...more37minPlay
December 21, 2019芝 その3このブラウザでは再生できません。令和元年最後の東京らくごウォーカーズは、前回までに引き続き芝界隈をご案内します。今回は、増上寺の大門から増上寺、芝東照宮、芝雑魚場跡を巡ります。増上寺と芝雑魚場跡は芝浜に所縁のある場所です。暮れの代名詞という噺といえば、芝浜を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。まずは今回のルートをご紹介します。スタート地点は増上寺の大門です。読みは、「おおもん」ではなくて「だいもん」です。吉原と間違えないように。明治の上知令で増上寺の領地が没収されてしまいましたが、以前は大門から先は増上寺の境内だったのです。東京タワーもプリンスホテルも増上寺の境内でした。今でも十分広いと思いますが、さらに広かったとは驚きですね。大門の近くにある雰囲気のある建物は、ただの公衆トイレでした。まぎらわしい^^;大門からまっすぐ増上寺の本堂に向かいます。通りにはこんな看板が。首提灯は芝山内が舞台です。お寺の境内に辻切りが出るなんて、物騒な時代だったんですね。三解脱門をくぐり、三つの煩悩「貪欲(とんよく=むさぼり)、瞋恚(しんに=怒り)、愚痴(ぐち=おろかさ)」を解脱します。ここからが増上寺の敷地だと思っていた方も多いんじゃないでしょうか。僕は完全にそう思っていました。門の隣には、今月のお言葉。続きはWebでってやつですね笑 便利な世の中になりました。三解脱門をくぐると右に、増上寺の鐘があります。東日本では最大級の鐘で、その音の大きさは相当なもので木更津まで聞こえたそうです(本当かなぁ)。江戸の庶民からも親しまれ、いくつもの川柳が残されています。江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘。圓朝作の三題噺といわれている、芝浜のお題のひとつが増上寺の鐘という説もあります。反対側にある仏足石はパワースポットらしいです。仏さまの足の裏の相が、石に刻まれています。参道を一直線、大殿が見えてきます。でっかいですね!!後ろには東京タワー。御本尊は阿弥陀如来。西方極楽浄土にて阿弥陀さまが迎えてくださるんで、大門は東にあるんですね。脇道を進んで、裏にまわると徳川将軍家の墓所があります。徳川家の菩提寺である増上寺には、6人の将軍が眠っています。墓所は別料金で拝観できます。入り口は、このしっかりした門ではなくて隣にある勝手口です。中はとても静かな、なんだか背筋がピンとなるような空間でした。将軍だけでなく、その側室も眠っています。増上寺の隣にあるのが、芝東照宮です。ご神体は、家康60歳の時に彫刻させた等身大の寿像。増上寺と比べると、なんだか寂しい雰囲気でした。元々は増上寺の境内に創建されたんですが、明治の神仏分離で増上寺と離されて芝東照宮となりました。今の社殿は昭和四十四年(1969)に再建されたもので、旧社殿は東京大空襲で焼失してしまいました。旧社殿は、国宝に指定されていたようなので残念でなりません。ご神体は、空襲の時に社殿と社務所の間にある井戸に入れて、焼失を免れたそうです。ここから、結構距離がありますが三田駅の方まで歩きます。本芝公園は、芝雑魚場跡という芝浜の舞台です。ついた頃には、すっかり真っ暗。「この附近は、芝の中でも、古川川口の三角州に、江戸時代よりも昔から開けたところで本来の芝という意味で、本芝と呼ばれた。公園の位置は、東海道(現在の第一京浜国道)のうらあたりの海に面した砂浜で、江戸時代には、魚が水揚げされたため雑魚場と呼ばれた。人情話「芝浜の革財布」はこの上地が舞台である。明治5年に開通した鉄道は、軍部の意向で海上の堤防を走ったが、雑魚場はガード下から東京湾に通じていた。最後まで残っていた江戸時代の海岸線であったが、芝浦が明治の末からしだいに埋め立てられ、漁業も行われなくなって海水が滞留したので、昭和43年に埋立てて、港区立、本芝公園として開園した。」青森兄さんは、財布が落ちていないか公園をくまなく探していました。今はその名残は、公園の遊具にしか残っていませんが、埋立てられる前はこのあたりは芝浜という海岸でした。雑魚場というのは魚市場のことで、江戸の庶民はご飯のおかずを求めて雑魚場へやってきたようです。公園の前は電車がびゅんびゅん通っていて、本当に海岸だったのかなぁと疑ってしまいます。そういえば、山手線の新駅の名称は芝浜になりませんでしたね。噺家はみんな期待していたんですが、夢になっちゃいましたね。芝編 〜おしまい〜令和元年9月から始まった東京らくごウォーカーズですが、まだまだ手探りの状態です。10日に1回の更新を目標にやってきましたが、来年はもう少し内容を充実できるように頑張っていきたいと思います。皆さま来年もどうぞよろしくお願いいたします!!...more36minPlay
FAQs about 東京らくごウォーカーズ:How many episodes does 東京らくごウォーカーズ have?The podcast currently has 41 episodes available.