Sign up to save your podcastsEmail addressPasswordRegisterOrContinue with GoogleAlready have an account? Log in here.
FAQs about 東京らくごウォーカーズ:How many episodes does 東京らくごウォーカーズ have?The podcast currently has 41 episodes available.
December 11, 2019芝 その2このブラウザでは再生できません。12月の東京らくごウォーカーズは芝界隈をご案内します。今回は、常照院と芝大明神と二箇所の落語スポットを巡ります。早速、今回のルートをご紹介。まずは、白子屋お熊のお墓のある常照院へ。常照院の創建年は不明ですが、もとは芝浦にあったそうで、増上寺が芝へ移転されたのを機に子院になり山内に移転します。増上寺の周辺には、今もたくさんの子院が残っています。今の地理だとわかりにくいですが、どの子院も元は増上寺山内にありました。常照院には、城木屋お駒として名高い、白子屋お熊の墓がある。遺骨は、昭和9年の墓地改葬に伴い、当院墓地の無縁塔に合祀した。墓石は残ったが、先の戦災で火に焼かれ、近年破砕がひどく、戒名等も一部しか判読できない状態となった。そこで、昭和61年が、お熊の260回忌に相当したので墓石の一部を復元し、供養碑を建立した。白子屋一件この事件は、1726(享保11)年丙午年10月20日に、町奉行大岡越前守忠相御役中に訴え出られた事件である。江戸日本橋にある新材木町に白子屋庄三郎の営む材木問屋があった。その娘くまは、下女ひさの取持ちで、その店の手代忠八と密通し、按摩の横山玄柳を利用して、婿養子の夫・又四郎の毒殺を企てた。母つねも、下女きくに、又四郎との密通の疑いを掛け、それを晴らすなら、又四郎を刃物で襲えと迫り、享保11年10月17日暁、下女きくは寝床を襲い又四郎の頭等にき疵を負わせた。事件は、発覚し、御吟味となり、翌1727(享保12)年2月御裁許済んで、26日御仕置落着となった。各人の仕置は、下女きく(17)死罪、下女ひさ(32)町中引廻しの上死罪、按摩横山玄柳(38)江戸追放、母つね(48)遠島、父庄三郎(63)江戸払、手代忠八(37)町中引廻しの上浅草にて獄門、くま(23)町中引廻しの上浅草にて獄門であった。くまは、裸馬に乗せられ町中引廻しの時黄八丈の着物を着ていて、人目を魅く容姿で、見物人の興味を誘ったという。黄八丈は、この時以来しばらく忌み嫌われ、材木が八丈を着て名を残し江戸中の質の流るる黄八丈などの川柳が残されている。また、1775(安永4)年城木屋お駒の「恋娘昔八丈」として浄瑠璃にも組まれ、更に、明治6年河竹黙阿弥によって「梅雨小袖昔八丈」と題された歌舞伎に作られている。 くまの遺骸は、首を継がれ、施主の願により常照院に葬られた。享保十二年丁未年二月二十五日寂 二十三才 法号 浄誉慈月晴雲信女※常照院のホームページより引用数ある大岡裁きの中で、実際に大岡忠相が裁いたのはこの白子屋事件だけとされています。お芝居「梅雨小袖昔八丈」がヒットすると、再び黄八丈の人気に火がつきます。単純ですね^^;また、常照院は歌舞伎俳優の市川團十郎家の菩提寺としても有名です。境内には、三代目團十郎が寄進して七代目が修理したとされる手水鉢があります。三桝紋が入っていますね。九代目が神道に改宗するまでは、代々のお墓もこちらにありました。お次はこちら、芝大神宮。歌舞伎「め組の喧嘩」の舞台で有名ですね。創建年は古く、なんと平安時代は寛弘二年(1005)と歴史のある神社です。伊勢神宮と同じく、天照皇大御神と豊受大御神を主祭神として祀っているので、江戸時代のお伊勢参りブームの時には、お伊勢さんまで行けない江戸庶民は芝大神宮に訪れたそうです。鳥居の左には、生姜塚がありました。昔、この辺り一帯は生姜畑だったそうです。神社でジンジャーというダジャレは、何万回と言われてきたことでしょう。例大祭「だらだら祭り」の期間中には生姜市も行われます。この祭りは、例年9月11日〜21日と長い期間続くので、だらだら祭りといわれるようになったそうです。階段を上がると狛犬が鎮座していますが、なぜか角が生えています。何か理由があって角が生えているのか、調べてみましたがわかりませんでした。ただ古い写真には角がなかったので、後で継ぎ足されたものだそうです。一体何のために?謎は深まるばかりです。本堂の左には、力石がありました。江戸時代には、怪力自慢の男達はこの力石を持ち上げて力比べをしたそうです。この石は五十貫なので、だいたい180kgぐらいですかね。これを片手で持ち上げるなんて恐ろしいほどの怪力です。ちなみにめ組の喧嘩で、お奉行様に裁かれ島流しにあった半鐘は明治時代に芝大神宮に戻ってきて、だらだら祭りと節分祭で一般公開されています。興味のある方は、是非見に行ってください。お腹がへったので、近くにあった蕎麦屋さんに入りました。更科布屋さん。卵とじ蕎麦をいただきました。ぼくは、蕎麦屋に行くと卵とじばかり頼んでしまいます。ふらっと入ったお店でしたが、とても美味しかったです。あまり訪れる機会のない場所ですが、また是非行きたいです。ほんのりと甘い出汁の味がたまりません、全部飲んじゃった。明治期の蕎麦の番付表には、砂場や蓮玉、藪蕎麦とよく聞くお店の名前が並んでいます。次回は、増上寺をメインに、いよいよ芝浜の舞台をご案内いたします。お楽しみに!!...more30minPlay
December 01, 2019芝 その1このブラウザでは再生できません。師走の東京らくごウォーカーズは、港区は芝をご案内!暮れの噺で有名な芝浜の舞台を最終目的地に、芝界隈の落語・歴史スポットをゆる〜くご案内していきます。芝の落語スポットって芝浜だけじゃないの?3回分もネタがもたないんじゃないの?と不安でしたが、思いのほかザクザクと落語スポットが出てきてホッとしました。だけどあんまり期待はしないでくださいね^^;12月上席は、神谷町から、愛宕神社、NHK放送博物館を巡ります。それでは、レッツゴー!!まずは、今回のルートをご紹介。神谷町の3番出口を出て、桜田通りを虎ノ門方面に歩きます。駅の近くの地図に、近くの栄閑院というお寺に杉田玄白のお墓があると書いてありました。落語とは関係ありませんが、せっかくなのでまずはそこに行ってみましょう。杉田玄白は、ターヘルアナトミアというオランダの人体解剖書を翻訳したことで有名です。歴史の教科書に載っている肖像画を、落書きした方も多いんじゃないでしょうか。桜田通り沿いのなか卯は、青森兄さんが前座時代に東京落語会の帰りに毎回通っていたそうです。どうでもいい情報ですね。ごめんなさい。愛宕トンネルの前を曲がってすぐに杉田玄白の眠る栄閑院があります。さる寺と書いてあるので、なんだろうと思ったんですが境内に猿塚がありました。本堂の前には狛犬のように猿がいました。芸名に猿がつく者として、ちょっと気になったのでお寺の方に歴史を聞いてみました。その昔、猿廻しに化けた泥棒がこのお寺に逃げ込んできます。住職が泥棒を諭し、仏門に入り修行の旅に出ることをすすめます。猿はお寺に残されて、とうとう泥棒は帰ってこなかったそうな。資料は残っておらず口伝なので、本当かどうかわかりませんがそんないわれがあるそうです。下調べもせずにたまたま訪問したんですが、不思議な縁があるもんですね。青森兄さんは、まったく興味がなさそうでした。こちらは杉田玄白のお墓です。偉人のお墓は、どっしりとした雰囲気がありますね。隷書体なのでわかりにくいですが、九幸杉田先生之墓と書いてあります。九幸というのは、杉田玄白の号です。お参りするときは、お寺の方にひとこと声をかけるようにしましょう。愛宕トンネルを抜けて、愛宕神社に向かいます。トンネル脇の階段から、回り込んで行く方法もありますが、せっかくなので出世の石段を登ってみましょう。愛宕神社前の交差点を左に曲がります。愛宕神社の男坂、別名は出世の石段。こちらは講談でおなじみの寛永三馬術・出世の春駒の舞台です。「出世の石段」のいわれ愛宕神社正面の石段「男坂」(となりの緩やかな石段は「女坂」)は別名「出世の石段」と呼ばれ、その由来は講談で有名な「寛永三馬術」の一人曲垣平九郎(まがきへいくろう)の故事にちなみます。時は寛永十一年。三代将軍徳川家光公が芝増上寺ご参詣の帰り道、神社に咲き誇る源平の梅の馥郁たる香りに誘われて山頂を見上げて「誰か騎馬にてあの梅を取って参れ」と命ぜられました。しかし目前には急勾配な石段があり、歩いて登り降りするにも一苦労。馬での上下など、とてもとても…と家臣たちは皆一様に下を向くばかり。誰一人名乗りでる者はおりません。家光公のご機嫌が損なわれそうなその時!一人の武士が愛馬の手綱をとり果敢にも石段を上り始めました。「あの者は誰じゃ?」と近習の臣に家光公からお尋ねがあっても誰も答える者はおりません。その内に平九郎は無事に山の上にたどり着き愛宕様に「国家安泰」「武運長久」を祈り、梅の枝を手折って降りてきました。早速家光公にその梅を献上すると「そちの名は?」「四国丸亀藩の家臣、曲垣平九郎にございます」「この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれ。日本一の馬術の名人である。」と褒め讃えられました。一夜にして平九郎の名は全国にとどろき出世をした故事にちなみ「出世の石段」と呼ばれるようになり、現代においても多くの皆様に信仰を頂いております。この急勾配!角度は40度で86段あります。下から見上げるだけで登らない人もいました。危険だからでしょうか、この石段を使ってのトレーニングは禁止されています。登っている最中は振り返らない方がいいです。かなり怖いです。階段の幅も狭いので、不安になります。上から見るとこんな感じ、腰が抜けそうな高さ。隣にある女坂もそれなりの傾斜なので、苦手でなければ男坂を登ることをお勧めします。だけど年配の方やちびっ子は、無理をしないように。安全な裏道もあるので、そっちから登った方がいいかな。ちなみに愛宕神社のある愛宕山は、23区内で一番標高の高い山なんだって。標高は25.7m。なんだか低く感じてしまいますが、江戸の時代は見晴らしの名所でした。今は高層建築が軒を連ねていますから仕方がありませんね。こちらは本堂。愛宕神社は火の神様を祀っています。なぜか若い女性の参拝客が多かったです。メディアで取り上げられたのかな。本堂の左に、曲垣平九郎がとってきたという梅があります。寛永年間からある訳ですから、もうおじいちゃんですね。顔出しパネルで出世を願って記念撮影。愛宕神社のお隣は、NHK放送博物館です。NHKの歴史や、テレビ放送の仕組みが体験しながら学べます。ちびっ子から大人まで楽しめる施設です。せっかくなんで、アナウンサー体験をしてきました。セットの前に立つだけで、雰囲気が出るのですごいです。なかなか様になっていませんか?そんなことはないですかね^^;4階の番組公開ライブラリーでは、過去の放送データの一部が閲覧できます。演芸番組もあるようなので、あの名人の高座も見られるかもしれません。ぜひ探してみてください。次回は、芝大神宮と常照院をご案内します。芝大神宮はお芝居「め組の喧嘩」の舞台、常照院「髪結新三」のお熊のお墓があります。どうぞお楽しみに!!...more28minPlay
November 21, 2019堀ノ内このブラウザでは再生できません。11月下席は、お待ちかねの堀ノ内のお祖師さまへ。中野坂上の駅から、堀ノ内のお祖師さま妙法寺へ向かいます。ルートはこちらです。落語、堀ノ内の亭主が歩いた妙法寺参りの道のりを辿ってみようということで、中野坂上の駅を出て青梅街道を通りに沿って、西の方向に進みます。今回は、ちょっぴり後悔するほどの道のりでした。ほんとくたびれました。青梅街道はこれといって見所がなかったので、無心で進みます。あまりにも見所がないので、新中野駅から出発した方が良かったと思ったほどです。しばらく歩くと鍋屋横丁が見えてきます。交差点には、鍋横道しるべの碑があります。「此処に明治11年に健立された「ほりのうちへ十八丁十間」と、妙法寺までの距離が刻まれた道標がありました。江戸時代後期(文化・文政)お祖師様として親しまれた妙法寺への参詣道の入り口を示すとともに、裏側には鍋屋横丁の由来となった休み茶屋「鍋屋」の証しも刻まれており、中野区の歴史の資料に載る程、貴重なものでした。健立以来百二十五年の永きにわたり、まちの変遷を見つづけてきたこの道標が、平成14年3月をもって、諸般の事情によりゆかりのある妙法寺に移設されました。」ここから妙法寺まで十八丁十間ということは、ざっくり2kmぐらいですかね。鍋横道しるべは、今は妙法寺商店街の入り口に移設されています。こちらは後ほどご案内しましょう。鍋屋横丁は諸説ありますが、渋谷の恋文横丁、品川の青物横丁と並ぶ江戸三大横丁のひとつと言われています。交差点には、江戸時代に鍋屋という茶店があり、多くの妙法寺参りの参詣客が立ち寄り繁盛しました。鍋屋横丁の名前の由来は、この鍋屋という茶店だったんですね。鍋屋は草もちが有名だったそうです。鍋屋横丁を左に曲がり、最初の交差点にあるのがお題目石。お題目石も、妙法寺への道しるべです。お題目石の手前の通りを入って、住宅街を道なりに進んでいきます。同じような景色が続くので、本当に妙法寺にたどり着けるのか、だんだんと心配になってきます。堀ノ内の主人公が何度も道を尋ねて歩いた理由がわかります。今はスマホで現在地が確認できますが、江戸の時代はそうはいきませんからね。和田帝釈天通りに出ます。青森兄さんの顔にも疲れが出ています。途中に妙法寺参詣道の案内がありました。もう少し手前にこの案内板があれば、心細い思いをせずにすみました^^;「この道は、江戸(東京)から日蓮宗妙法寺へ向かう代表的な参詣道で、「堀之内道」「妙法寺道」と呼ばれていました。青梅街道から鍋屋横丁(中野区)でわかれ、堀之内村の妙法寺へと続く道でした。『新編武蔵風土記稿』和田村の項には「北ハ堀ノ内妙法寺道ヲ界トシテ」と、この道が和田村と高円寺村の村境であったことがわかります。江戸の町医者が記した随筆『塵塚談』には「堀の内祖師」について、昔は「地名を知れる人もなかりしに、近頃にいたり祖師堂はもちろん堂宇の設けも伽藍の如くに造建し、新宿より寺の門前まで水茶屋、料理茶屋其外酒食の店、数百軒簷をならぶ、日蓮宗にかぎらず、諸宗門の人も尊敬して、年々月々に賑わしく繁栄なり」と、江戸時代後期、「厄除け祖師」として江戸庶民の信仰を集めた妙法寺とその参詣道の繁栄ぶりが記されています。堀之内道から少し南に位置しますが、平成十九年に実施された本村原遺跡C地点(現、女子美術大学内)の発掘調査では、「しがらき」とある茶碗が出土しました。江戸時代、妙法寺の参詣者で賑わった堀之内道の水茶屋・料理屋の中でも、のっぺい汁をだす「しがらき」は有名で、天保12年(1841)には370人の客がいたと記されています(『江戸月見草』)。明治に入り甲武鉄道(中央線)が開通すると、中野駅から妙法寺へ向かう道が開かれ(堀之内新道)、東京から歩いて向かう参詣道であったこの道の利用者は減少しました。現在、この道は「和田帝釈天通り」として、商店会通りの中程に位置する和田帝釈堂(ここより数十メートル先)を中心に地域の方々に親しまれています。」交通の発展とともに、妙法寺参詣道も利用者が減ってしまったようですね。地名になるほど繁盛していた鍋屋がなくなってしまった理由もこんなところでしょうか。和田帝釈天商店街を抜けて、環七を越えたらもう少し。妙法寺門前商店街のアーケード下に、移設された鍋横道しるべがあります。是より堀之内十八丁十間移設されて形だけのものになってしまいましたが、多くの参詣客がこの道標を頼りに妙法寺を目指しました。江戸の時代を思うと、こういう道標は本当に大きな役割を果たしていたことでしょう。おつかれさまです。商店街を歩くと5分も経たないうちに、妙法寺が見えてきます。「本寺院は日円山と号し、日蓮宗の寺で十界諸尊と祖師像が祀られています。開基は不明ですが、中興開山は妙仙院日円といい、元和7年(1621)寂したと伝えられています。寺伝によれば、祖師堂の日蓮像は、日蓮聖人が42歳の時法難にあい伊豆に流された折、同行を許されなかった日朗上人が、鎌倉の岸辺に流れ着いた霊木を得て、祖師の御影を刻んだものと言われております。その後、目黒の法華寺からこの寺に移され、俗に「堀の内厄除祖師」として信仰されてきました。11代将軍徳川家斉や12代家慶が当書院に立寄って休息されたことから、いっそう有名になりました。毎月の13日、23日は縁日です。とくに元旦、節分会、5月の千部会、3月、9月施餓鬼会、10月の御会式には、江戸時代から善男善女、文人墨客で境内は足の踏み場もない程の賑わいで、浅草観音と並び称せられたと古書に記されています。現在当寺には、国指定重要文化財の鉄門をはじめ、都指定有形文化財の祖師堂、書院、仁王門、麻布油絵日蓮聖人像。その他仏像、絵馬堂、文人の碑など多くの文化財が保存されております。」仁王様の山門を抜けると、正面に祖師堂が構えています。境内は、想像していたよりも遥かに大きくて驚きました。江戸時代には、足の踏み場もない程の賑わいだったと案内板にもありましたが、この敷地面積にそれだけの参詣人が訪れたと考えると相当なものです。ましてや江戸の郊外ですからね。当時、妙法寺参りは一大ムーブメントだったのです。一応、妙法寺のお坊さんにお参りするとそそっかしい性格が直るご利益はありますかと聞いてみましたが、直接そういうご利益はありませんが、お参りすることで心が落ち着くことはありますとおっしゃっていました。心が落ち着けば、そそっかしい性格もいずれは直るでしょう。落ち着きゃあ一人前ですね。恒例のおみくじタイム。インスタ映えを狙ったおみくじがありました。生まれて初めて凶を引きました。ショックです( ; ; )兄さんは、吉でした。浅草寺でも湯島天神でも凶を引いていたので、ご機嫌でした。妙法寺を出ると、すっかり日が暮れていました。商店街に美味しそうな、おでん屋があったので小休憩。◯佐かまぼこ店。お店の前のベンチで、思い思いのタネをいただきました。すじがあったので、せっかくなので頼んでみました。すじは牛すじではなくて、魚のすり身に軟骨がの加えたもの。替り目に出てくるすじは、この魚のすじのことです。秋も深くなってきて、おでんの美味しい季節になってきました。来月はもう12月。ほんと1年はあっという間です。どこか旅行に行きたいなと思いつつも、今年も終わっちゃうなあ。次回はどこに行くやら、らくごウォーカーズ。暮れだから、やっぱりあそこかな。それでは、また12月の上席で!!...more35minPlay
November 11, 2019内藤新宿 その2このブラウザでは再生できません。こんにちは一猿です。今年もあと少し、なんとなく来年のことを意識するようになってきましたね。来年の手帳を用意しないとなぁ。僕は毎年NHKの手帳を使っていますが、師匠方も同じ手帳を使っている方が多いようです。シンプルで使いやすいんですよね。スマホでスケジュール管理をした方が便利なんでしょうが、手帳の方が安心するんですよね。みなさんはどうでしょう。さてさて、11月中席の東京らくごウォーカーズは、前回に引き続き内藤新宿近辺の落語スポットをご案内いたします。ルートはこちらです。太宗寺・成覚寺・新宿末廣亭・天龍寺と四ヶ所を巡ります。今回も各スポットそれぞれ見応えがあって、時間があっという間に過ぎてしまいますのでご注意を。まずは太宗寺へ。前回の終着点、三遊亭圓朝旧居跡の前の通りを新宿方面にまっすぐに進んで、10分ほど歩くと右手に見えるのが太宗寺です。霞関山本覚院太宗寺、広大な敷地内に数多くの文化財が保存されているところから、新宿ミニ博物館とも呼ばれています。慶長元年(1596)に僧侶太宗の建てた太宗庵という草庵が太宗寺の前身です。この辺りは内藤清成という大名の拝領地で、寛永6年(1629)に清成の三男で四代目藩主内藤正勝の葬儀をとりしきり、内藤家代々の菩提寺となります。寛文8年(1668年)に正勝の長男五代目重頼から境内地の寄進を受けて、太宗寺の創立に至ります。ちなみに内藤新宿という名前は、この内藤家からきています。新宿というの新しく開設した宿場町というところから。単純ですね。境内に入って最初に見えるのが、江戸六地蔵のうちのひとつ銅造地蔵菩薩坐像(どうぞうじぞうぼさつざぞう)です。二度言うと舌を噛みそうな名前ですね。「江戸六地蔵の由来は、本像の内部に奉納されていた刊本『江戸六地蔵健立之略縁起』によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治療したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永3年(1706)造立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六か所に地蔵菩薩をそれぞれ一軀ずつ造立したと伝えられています。各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守藤原正儀によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第六番)は、廃仏毀釈で取り壊されて、五軀が残っています。六地蔵のうち、霞関山本覚院太宗寺の地蔵は、三番目として正徳2年(1712)に造立されました。像高は六地蔵の中では一番小ぶりで267cmです。本体には、かつて鍍金が施されていました。江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かち遺例の少ないものであることから文化財に指定されました。」案内板より。見上げるとひっくり返りそうになるほどの大きさです。江戸六地蔵は、江戸の出入り口の六カ所に安置されていました。明治の廃仏毀釈で、一体は廃棄されてしまいました。現存するのは五体のみ、せっかくなので全部を見て廻りたいと思ったんですが残念ですね。その他の六地蔵は、品川区の品川寺(東海道)、台東区の東禅寺(奥州街道)、豊島区の真性寺(中仙道)、江東区の霊巌寺(水戸街道)、江東区の永代寺(千葉街道)※現存せず。です。銅造地蔵菩薩坐像の隣にあるのが、閻魔堂です。お堂の扉に設置しているボタンを押すと、堂内の照明がついて堂内の閻魔像と奪衣婆像がライトアップされます。閻魔像は思っていたよりも大きくてびっくりです。そして閻魔像よりも奪衣婆像の方が怖い。。。閻魔像は運慶の作という記述もありますが、はっきりしていません。奪衣婆像は、亡者の衣服を剥ぎ取るところから商売の神様として、内藤新宿の飯盛女達から深く信仰されていました。閻魔堂は、地獄の釜の蓋があく閻魔の斎日にちなんで、毎年1月と7月の15・16日に開帳されます。地獄が休むくらいだから、みんな仕事を休もうということで16日は薮入り。昔は、太宗寺も薮入りの日は出店が出て賑やかだったそうです。ちなみに弘化4年(1847年)に、酔っ払いに閻魔像の目玉が抜かれるという事件がありました。地獄で舌を抜く閻魔さまが、現世で目を抜かれるというのは、錦絵になるほどの面白ニュースだったようです。太宗寺は他にも、「三日月不動造」「塩かけ地蔵」「吉利支丹灯篭」といった貴重な文化財があります。大変に見所が多いので、時間に余裕を持って見学に行くことをお勧めします。これから新宿二丁目を突っ切って、靖国通り沿いにある成覚寺に向かいます。成覚寺には、身寄りのない飯盛女の共同墓地があります。そういう予備知識をもって境内に入ると、どうしても哀しい雰囲気を感じてしまいますね。こちらは、子供合埋碑という飯盛女の供養碑。「江戸時代の内藤新宿にいた飯盛女(子供と呼ばれていた)達を弔うため、万延元年(1860)11月に旅籠屋中で造立したもので、惣墓と呼ばれた共葬墓地の一角に建てられた墓じるしである。飯盛女の抱えは実質上の人身売買であり、抱えられる時の契約は年季奉公で年季中に死ぬと哀れにも投げ込むようにして惣墓に葬られたという。もともと墓地の最奧にあったが昭和31年の土地区画整理に際し現在地に移設された。宿場町として栄えた新宿を陰で支えた女性達の存在と内藤新宿の歴史の一面を物語る貴重な歴史資料である。」2000人以上の飯盛女が成覚寺に葬られたそうです。投げ込み寺は、吉原の近くにあった三ノ輪の浄閑寺が有名ですが、同じように遊女商売をしていた江戸四宿にもありました。門の近くにある旭地蔵は、もとは玉川上水の北岸にありましたが、道路拡張で成覚寺に移されました。刻まれている戒名は、内藤新宿で心中した飯盛女と客のものだといわれています。隣にあるのは恋川春町の墓、江戸中期に活躍した浮世絵師・狂歌師・戯作者です。青森兄さんがやけに気に入っていた、酒上不埒(さけのうえのふらち)は、恋川春町の狂歌を詠むときの名前です。お次は、都内にある定席のひとつ新宿末廣亭に向かいます。靖国通りを新宿五丁目東の交差点を渡って、左に入ると末広通りです。見上げるとお辞儀をする落語家の看板。末廣亭は、定席で唯一の楽屋口がある小屋です。時々、入門志願者らしき人が、ものすごい形相をして向かいのビルの陰から楽屋口を見ていることがあります。いろんなドラマがありますね。彼は入門が叶ったのかな。歴史ある建物は、新宿区の地域文化財に認定されています。客席には、昔ながらの桟敷席があってイメージ通りの寄席って感じの小屋です。ポッドキャストでは、末廣亭の楽屋での思い出で盛り上がりました。冬場に火鉢の火をいじりたがる人は◯◯◯という楽説には、同意せざるを得ません。このまま新宿三丁目の交差点へ。四谷四丁目の交差点からこのあたりまでが、宿場町内藤新宿でした。今はこんなにも栄えている新宿ですが、昔は長閑な場所だったそうな。甲州街道と青梅街道と道が分かれるので、このあたりは新宿追分と云われていました。青梅街道をまっすぐ行って、鍋屋横丁を左に曲がると堀内のお祖師さま。妙法寺まで江戸の中心地から歩くとかなりの距離があるので、参拝客は内藤新宿で宿をとったそうな。追分だんごを食べながら、小休憩。気力を振り絞って、最後のスポット天龍寺を目指して、明治通りを新宿四丁目の交差点の方向に進みます。天龍寺には、浅草編でも紹介した時の鐘があります。「明和4年(1767)に鋳造された梵鐘で、内藤新宿に時を告げた「時の鐘」である。天龍寺の梵鐘は、元禄13年(1700)に常陸笠間藩主牧野備後守貞長により寄進されたもので、現在の鐘は、銘文によれば元禄13年の初鋳、寛保2年(1742)の改鋳に続く三代目の鐘であることがわかる。総高155センチ、口径85.5センチ、多摩郡谷保(現 国立市)の鋳物師関孫兵衛種久の鋳造である。この鐘は、内藤新宿で夜通し遊興する人々を追い出す合図として「追い出しの鐘」と呼ばれた。また、このあたりは江戸市中の西の端であり、武士が江戸城に登城するのも時間がかかるため、明け六つの鐘を少し早く撞いたとも伝えられる。」もともと城内での政務時間をしらせるものだったので、武士のために早く鐘を撞くことがあったんですね。絶対的な時間を知らせるものではないので、臨機応変に対応しています。これで、9つある時の鐘の2つを巡りました。残り7つ、まだまだ先は長そうです^^;次回は、いよいよ堀ノ内です。お楽しみに!!...more38minPlay
November 01, 2019内藤新宿 その1このブラウザでは再生できません。こんにちは一猿です。11月の東京らくごウォーカーズは、内藤新宿と堀ノ内をご案内します。上席と中席は、内藤新宿近辺の落語スポットをご案内したいと思います。まずは、内藤新宿について簡単にご紹介したいと思います。江戸四宿のうちの一つである内藤新宿は、甲州街道の最初の宿場町でした。今の地理でいうと、四ツ谷四丁目の交差点から、新宿三丁目の交差点のあたりまでです。もともと甲州街道の最初の宿場町は高井戸だったのですが、日本橋から約4里(16km)と遠く不便でした。そこで浅草に住む名主喜兵衛という者が、元禄10年(1697)に同士4名とともに新しい宿場町の開設を幕府に願い出ます。翌年、この願いが受理されて喜兵衛は5600両もの大金を納めて宿場町を開設します。これが内藤新宿です。なぜ、喜兵衛は大金を納めてまで宿場町を開いたのでしょうか。一説によると、喜兵衛ら5人は遊女屋の経営ノウハウを持っていて、それを活かしてお金儲けをしようという算段だったのではないかといわれています。当時の旅籠には、飯盛女という旅人のお世話をする女性が働いていました。飯盛女の中には、遊女のように男性客の相手をする者もいたそうです。もちろん私娼は認められていませんでしたが、旅籠の飯盛女は黙認されていたようです。吉原から何度もクレームがつくほどに、四宿は賑わっていたそうです。遊女の登場する落語で、この内藤新宿が舞台とされているものもありますが、明言はされていません。内藤新宿の開設の歴史は、ざっくりとこんなところです。それではご案内していきましょう、今回のルートはこちらです。新宿歴史博物館・於岩稲荷・四ツ谷大木戸跡・三遊亭圓朝旧居跡という順にめぐります。スタート地点は、東京メトロ「四谷三丁目」駅の4番出口。ここから、最初の目的地である新宿歴史博物館へ向かいます。新宿通りを四谷方面へ。津の守坂通りのひとつ先の通りを左に曲がります。直進すると右手に見えてくるのが、新宿歴史博物館です。新宿歴史博物館には、内藤新宿の古地図やジオラマ、江戸時代の商家の複製が展示されています。町並みはすっかり変わってしまい、町を歩くだけでは宿場町の雰囲気がつかめないので、当時の資料が展示されている博物館は本当にありがたいですね。常設展に入ってすぐに内藤新宿のジオラマがあります。かなり精巧に再現されています。甲州街道の出入り口、四ツ谷大木戸。お地蔵さまの向きが違いますが、新宿ミニ博物館としても有名な太宗寺もあります。双眼鏡でジオラマを見ると、臨場感が増すそうです。ジオラマのお隣は、江戸時代の商家の複製があります。写真や映像で見ることはあっても、実寸で見たことはなかったのでちょっと感動。中はこんな感じ、落語の世界ですね。帳面やそろばんが置いてあります。階段の上から猫が覗いていました。このほかにも石器時代から近代までの新宿の歴史が詰まっていて、見所がいっぱいです。ぜひ行ってみてください、ほんとオススメです。ちなみに、館内は写真撮影のできる場所が限られています。写真を撮るときは気をつけましょう。これから、四谷三丁目の駅に戻りますが、せっかくなんで行きとは違う道を通ります。四谷荒木町は、かつての花街です。今もその面影が残っていて、ぼくの好きな町です。新宿通りには、三味線屋さんがありました。四谷三丁目の交差点を南へ、四谷警察署の先の角を左に曲がる。住宅街をぐんぐん突き進むと見えてくるのが、於岩稲荷田宮神社です。四谷という土地、そして於岩稲荷という名前でピンときた方もいますかね。こちらは、お芝居や講談でおなじみの四谷怪談のお岩さんゆかりの社です。「田宮稲荷神社は、於岩稲荷と呼ばれ四谷左門町の御先手組同心田宮家の邸内にあった社です。初代田宮又左衛門の娘お岩(寛永13年没)が信仰し、養子伊右衛門とともに家勢を再興したことから「お岩さんの稲荷」として次第に人々の信仰を集めたようです。鶴屋南北の戯曲「東海道四谷怪談」が文政8年(1825)に初演されると更に多くの信仰を集めるようになります。戯曲は実在の人物からは二百年後の作品で、お岩夫婦も怪談話とは大きく異なり円満でした。稲荷社は明治12年(1879)に火事で消失し、その際初代市川左団次の勧めで中央区新川に移転しました。しかし、その後も田宮家の住居として管理されており、昭和六年(1931)に指定されました。戦後、昭和27年(1952)に四谷の旧地にも神社を再建し現在に至っています。」四谷怪談は、フィクションですがお岩さんは実在したんですね。しかも、夫婦は円満だったようです。この日は平日でしたが、於岩稲荷はパワースポットとして有名で、たくさんの参拝客が訪れていました。貞水先生からの奉納幕。これから、またまた四谷三丁目に戻りまして新宿通りを新宿方面に進みます。今回は、行ったり来たりで大変^^;四谷四丁目の交差点を越えたあたりにあるのが、四谷大木戸跡です。冒頭でもご紹介しましたが、ここから新宿方面へ1kmほどが内藤新宿という宿場町です。ここに出入り口である四谷大木戸がありました。また、ここは玉川上水番所跡でもあります。水番所では、水量や水質の管理が行われていました。神田上水と並んで江戸の貴重な水源であった玉川上水は、多摩の水源から四谷まで43kmを高低差だけを利用して水を運びました。高低差はなんと92メートル。今の新宿通りを歩いてみると平坦な道だということがわかりますが、本当に少しの高低差を利用して水を運んでいたんですね。この通水工事を請け負ったのが玉川兄弟。農家出身の二人は幕府から6000両の資金を与えられ工事を行います。何度も失敗し、途中で資金が尽きるも自分の家を売ってまで玉川上水を開通させます。そのご褒美に兄弟は玉川上水役を命じられ、玉川姓を名乗ることを許されます。なんだか壮大な物語性を感じますね。この兄弟のドキュメンタリーがあったら見てみたいです。ちなみに石碑の隣の建物は東京都水道局。ただの偶然なんでしょうか気になります。長距離移動で疲れてきましたが、これから今回の終着点へ向かいます。新宿御苑の入り口の前の信号を渡って、そのまま直進。少し進んで左に曲がります。新宿区立花園公園にあるのが、三遊亭圓朝師匠の旧居跡です。「この地は、幕末から明治時代にかけて活躍した落語家三遊亭圓朝(1839〜1900)が、明治21年(1888)から28年(1895)まで住んでいたところである。圓朝は、本名を出淵次郎吉といい、江戸湯島の生まれ、7歳のとき橘家小圓太の名で初高座をふみ、9歳で二代目三遊亭圓生門下となる。話術に長じ、人物の性格や風景の描写を巧みに表現し、近代落語を大成した。また、創作にも優れ、自作自演に非凡な芸を発揮し、人情噺の分野を完成させた。代表作に「塩原多助一代記」「怪談牡丹燈籠」「怪談乳房榎」「真景累ヶ淵」「名人長二」など。今日、古典落語の名作としてよく口演される「文七元結」や「芝浜」も圓朝の作と伝えられる。屋敷地は約千平方メートルで、周囲を四つ目垣で囲み、孟宗竹の藪、畑、桧・杉・柿の林、回遊式庭園などがあり、母屋から廊下で続いた離れは「圓通堂」と呼ばれ、圓朝の居室となっていた。この時期の圓朝は、明治24年に寄席から見を引き、もっぱら禅や茶道に心を寄せていたという。」まさか圓朝師匠が、新宿に住んでいたことがあったとは驚きです。新宿が舞台の怪談乳房榎も、ここに住んでいる時期に創作されたものだとか。今回はここまで、次回も引き続き内藤新宿近辺をご案内します。お楽しみに!...more36minPlay
October 21, 2019浅草 その3このブラウザでは再生できません。こんにちは一猿です。秋の長雨が続いていますが、だんだんと寒さが増してきましたね。今回で、東京らくごウォーカーズの浅草編はファイナルです。前半に飛ばしすぎて、最終回は弾切れぎみですがご容赦ください^^;今回は浅草公会堂から、新仲見世通りを通って、浅草の代名詞でもある浅草寺に向かいます。ルートはこちらです。まずは、新仲見世通りのお店をぶらっと紹介していきましょう。プロマイドのマルベル堂。アイドルのプロマイドに混じって、実は噺家のプロマイドも置いています。あの師匠方の若かりし頃の写真がたくさんあります。実物はお見せできませんので、マルベル堂へGO!!なぜか江利チエミさんのプロマイドを買って、ご満悦の青森兄さん。和装小物のゑり丹。ゑり丹は、半襟の種類が豊富です。見てくださいこのバリエーション。幅の細い衿止めも売っているので重宝しています。鬼献上でおなじみの帯源です。ほとんどの東京の噺家は、帯源の鬼献上を使っています。鬼献上は、普通の博多帯と違って、幅が細くて芯が入っているのでピンとして、とてつもなく格好いいです。店頭には出ていないので、お願いすると出してくださいます。上方では、枝雀師匠も贔屓にしていたそうな。米朝師匠が人間国宝に認定された時に、小さん師匠が帯源の鬼献上を贈呈されたという話を伺ったことがあります。これから仲見世通りに出て、途中右に曲がると弁天堂。この弁天堂にあるのが、時の鐘です。『江戸時代、人々に時刻を知らせる役割を果たしていたのが時の鐘である。当初、江戸城内にあったが、江戸市街地の拡大にともない日本橋本石町にも設置され、さらには浅草寺や寛永寺(上野山内)など、九個所でも時を知らせた。鐘の大きさは、高さ二・一二メートル、直径一・五二メートル。鐘銘によれば、撰文は浅草寺別当権僧正宣存で、元禄五年(一六九二)八月、五代将軍徳川綱吉の命により、深川住の太田近江大掾藤原正次が改鋳し、その費用として下総(現、千葉県)関宿藩主牧野備後守成貞が黄金二百両を寄進した。この鐘は、時の鐘として、あるいは浅草寺の梵鐘として、さまざまな文学作品にも登場しているが、中でも松尾芭蕉の句、 花の雲 鐘は上野か 浅草か は、あまりにも著名である。昭和二十年三月の東京大空襲で火を浴びたが無事に残り、今なお昔のままの姿を見せている。なお、鐘楼は同空襲で焼け落ち、昭和二十五年五月再建されたものである。』と記されている。時計のない江戸時代に、この時の鐘が人々に時間を知らせました。当時は不定時法といって、24時間を夜明けと日暮れを基準にして、昼と夜に分けて六等分した時間を一刻するというかなりアバウトな時間感覚でした。ですから季節によって、昼夜の長さが違うんですが、夏は働く時間が長いなあとか思わなかったのかな?野ざらしの先生が聞いた鐘の音は、この浅草寺の鐘ですね。今でも、明け六つ(午前6時)に鐘が鳴らされるそうですが、僕はまだ聞いたことがありません。早起きするのは苦手なので、夜明けまで浅草で遊ぶことがあれば聞くことができそうですね。でも、できれば終電で帰りたい。。。これから仲見世通りに戻って、仁王様の間を通って浅草寺の本堂へ。青森兄さんのおみくじは凶でした。逆にストイックになれるそうです。僕は大吉^^香炉の煙をめいいっぱい浴びて、新作落語の発想力UPをお願いしています。ご利益あるかな?そして、なんとなんと!とんでもないことを忘れていました!!肝心の浅草寺本堂の写真を撮るのを忘れていたのです( ̄  ̄;)本当にそそっかしい、恥ずかしい。本堂の姿は、現地に行って確かめてください。本堂の写真はないのですが、隣にある五重塔をご紹介します。てっぺんについているのが宝珠。「擬宝珠」の若旦那が舐めたくてたまらなかったのが、この五重塔の宝珠です。橋の欄干に乗っかている擬宝珠というのは、この宝珠に模した形なので擬宝珠というんですって。この日は、天気が良かったのでスカイツリーと並んで見えます。昔は、背の高い建物といえばこの五重塔だったんでしょうね。最後はちょっと失速気味でしたが、浅草編はこれでおしまいです。浅草は、まだまだ落語スポットがありそうなので、再訪してみたいと思います。次回は、お客様からのリクエストにお応えして、堀ノ内に行ってみますよ。そそっかしいのを直してもらってきます。。。東京らくごウォーカーズでは、二人に行って欲しい場所や質問をメールで募集しています。宛先はこちらです。[email protected]ご意見、ご感想もお待ちしていますよ^^...more33minPlay
October 10, 2019浅草 その2このブラウザでは再生できません。こんにちは一猿です。立秋から2ヶ月も過ぎているんですが、ようやく秋らしい風を感じるようになりましたね。楽屋では、師匠方が「昔は10月になるとコートを着ていた」とおっしゃっていました。随分と気候が変わってしまったものですね。ご案内の前にポッドキャストでも話題にあがりました、浅草演芸ホールの高座裏の『昭和元禄落語心中』の作者雲田はるこ先生とドラマの出演者のサインをご紹介していきたいと思います。作者の雲田はるこ先生のサイン。与太郎役の竜星涼さん。助六役の山崎育三郎さん。小夏役の成海璃子さん。高座裏はたくさんの落書きで埋め尽くされているので全体像はお見せできませんが、貴重なサインだけをご紹介させていただきました。今年の1月31日の落語心中寄席でサインを頂いたそうです。前座で一緒にお仕事ができた青森兄さんはラッキーでしたね。それでは東京らくごウォーカーズ、今回は浅草演芸ホールから鎮護堂『幇間塚』、浅草公会堂『スターの手形』までをご案内します。ルートはこちらです。今回は、どのスポットも浅草演芸ホールの近くにあるので、寄席に遊びに来る時は、ぜひ立ち寄ってみてくださいね。それではレッツゴー!!まずは浅草演芸ホールから、鎮護堂『幇間塚』へ向かいますが、その前にちょいと寄り道を。東洋館の前を通って、TX浅草駅出口の近くに向かいます。はい!おなじみの『デリカぱくぱく』という激安のお弁当屋さんです。値段の書いていないお弁当は、すべて250円。台東区で一番安い衝撃プライス!!そして、24時間営業で年中無休です。もちろん大晦日もお正月も営業しています。どでか焼きそば550円。前座の頃に、この巨大おにぎりを川柳師匠が楽屋で召し上がっているのを見たことがあります。巨大おにぎりの重さは、なんと1kg!!びっくりですね。寄席に昼夜で居続けをする時も、このおにぎりがあれば乗り切れそうです。さあ、これから戻りまして、六区通りを通って伝法院通りの『鎮護堂』へ。浅草寺鎮護堂、通称『お狸さま』、狸を祀っている珍しいお堂です。健立の歴史を簡単にご説明すると、上野のお山に住んでいた狸達が戊辰戦争で住処を失い、浅草寺界隈に逃げ出してきます。ところが、この狸達がいたずらをするようになり住民達は困ってしまいます。ある時、住職の夢枕に狸が現れ「狸を祀ってくれると、いたずらをやめて皆んなを火事から守りますよ」とお告げがあったので鎮護大使者として狸を祀ることになります。これが1883年(明治16年)のこと、今のお堂は1913年(大正2年)に建てられました。ご利益があって、関東大震災も戦時中も伝法院は火事から守られたそうです。御本尊のお狸さまは、お堂の後ろの立ち入り禁止スペースに安置されています。柵の隙間から覗くと、座布団にちょこんと座っているのが見えます。画質が悪くて申し訳ないのですが、お狸さまは招き猫のような感じで手を挙げています。お狸さまの座布団は、毎年新調されていて、とても高級なものだとお堂の管理をされている方から伺いました。境内には、たくさんの狸の置物がありますが、どれも御本尊のお狸さまではないのでお間違えのないように。境内に入って、右手には『幇間塚』があります。お座敷では、幇間のことを「たぬき」と呼ぶんだそうです。たぬき繋がりで、この鎮護堂に『幇間塚』ができたんですね。案内板には、『「幇」は、たすける意。幇間とは、客の宴席に侍し、座を取り持つなどして遊興を助ける者。たいこもち、男芸者のこと。幇間有志によって、幇間物故者供養のため、昭和三十八年に健立された。碑には、浅草生まれで、大正・昭和期の小説家・劇作家・俳人・久保田万太郎氏の俳句がある。「またの名の たぬきづか 春ふかきかな」』と記されています。今も幇間の師匠達が、鎮護堂にお参りにいらっしゃると伺いました。落語にもよく出てくる幇間ですが、現在日本には6人しかいないそうです。どちらのたぬきも、少なくなってしまいましたね。幇間塚をヨイショする青森兄さん。いつか謝楽祭で、流しのヨイショ屋をやりたいそうです。そのまま伝法院通りを少し進んで、浅草公会堂に向かいます。オレンジ通り側に、『スターの手形』があります。『「スターの手形」は、芸能界の振興に貢献した方々の功績をたたえるとともに、大衆芸能ゆかりの地”浅草”のシンボルとして末永く後世に伝えるために、設置しているものです。』とのこと。1979年(昭和54年)に設置されて、毎年新たなスターが何人か選出されて、現在は327人の手形が並んでいます。志ん朝師匠の手形からオーラを浴びる青森兄さん。小三治師匠は左利きなので、手形も左手です。「手を取って 共に登らん 花の山」先代円歌師匠の手形です。前座の頃に、師匠が階段を登る時に手をお貸ししたときのことを思い出します。剣道七段の小さん師匠の手形はかなり肉厚です。親指の付け根がポッコリ盛り上がっています。全部は紹介しきれませんが、落語家だけでなく、歌舞伎俳優や歌手など様々な芸能人の手形があります。皆さんも是非、思い思いのスターの手形を探してみてください。それでは、今回はここまで。下席は、浅草界隈のお店の紹介と浅草寺をご案内します。お楽しみに!!...more35minPlay
October 01, 2019浅草 その1このブラウザでは再生できません。こんにちは一猿です。10月の東京らくごウォーカーズでは、浅草界隈の落語スポットをご案内していきたいと思います。吉原や蔵前の方まで足を延ばすと、膨大な情報量になってしまうので、そちらはまたそのうち。今回は、浅草演芸ホールや浅草寺が中心です。上席では、田原町駅から浅草演芸ホールまでをご案内いたします。ルートはこちらです。浅草演芸ホールへ向かうには、銀座線でお越しの場合は、実は浅草駅よりも田原町駅の方が近いのです。このまま演芸ホールに向かいたいところですが、駅の近くに有名な落語スポット「はなし塚」があるので、まずはそちらに行ってみましょう。ではでは、田原町駅の1番出口から出発です。浅草通りを上野方面に向かって歩きます。田原町から稲成町にかけては、仏具屋がたくさん並んでいます。どのお店も商品が日焼けしないように、通りの南側に店を構えています。神保町の本屋さんと同じですね。少し歩いて左に曲がると、戦時中に時局に合わないとして自粛していた落語を納めていたという「はなし塚」のある本法寺に到着です。せっかく青森兄さんが綺麗なポーズを決めてくれましたが、これは別のお寺です。どの区画にもお寺がひとつはあるので、皆さんも間違えないように気をつけくださいね^^;この辺りは、本当にお寺が多いです。近くには、八代目桂文楽師匠と三代目三遊亭金馬師匠のお墓もあります。仕切り直して、浅草通りから左に曲がるとすぐにお寺の外塀が見えてきます。今度こそ、本法寺に到着です。外塀には、名人上手の師匠達の名前が綺羅星のごとく刻まれています。今もご活躍されている師匠方の名前もありますが、ここに刻まれている名前は先代の師匠方のものです。圧巻です!!我らが落語協会の名前も。こんな方の名前まで。「はなし塚」は境内に入って、すぐ右にあります。案内プレートには「この塚が建立された昭和十六年十月、当時国は太平洋戦争へと向かう戦時下にあり、各種芸能団体は演題種目について自粛を強いられていた。落語界では、演題を甲乙丙丁の四種に分類し、丁種には時局にあわないものとして花柳界、酒、妾に関する噺、廓噺等五十三種を選び、禁演落語として発表、自粛の姿勢を示した。この中には江戸文芸の名作といわれた『明烏』『五人廻し』『木乃伊取』等を含み、高座から聴けなくなった。「はなし塚」は、これらの名作と落語界先輩の霊を弔うため、当時の講談落語協会、小咄を作る会、落語講談家一同、落語定席席主が健立したもので、塚には禁演となった落語の台本等が納められた。戦後の昭和二十一年九月、塚の前で禁演落語復活祭が行われ、それまで納められていたものに替えて、戦時中の台本などが納めらた。」と記されています。禁演落語53演目のほとんどが廓噺です。「五人回し・品川心中・三枚起請・突き落とし・ひねりや・辰巳の辻占・子別れ・居残り佐平次・木乃伊取り・磯の鮑・文違い・お茶汲み・よかちょろ・廓大学・明烏・搗屋無間・坊主の遊び・白銅・あわもち・二階ぞめき・高尾・錦の袈裟・お見立て・付き馬・山崎屋・三人片輪・とんちき・三助の遊び・万歳の遊び・六尺棒・首ったけ・目ぐすり・親子茶屋・宮戸川・悋気の独楽・権助提灯・一つ穴・星野屋・三人息子・紙入れ・つづら間男・庖丁・不動坊・つるつる・引越しの夢・にせ金・氏子中・白木屋・せんきの虫・蛙茶番・駒長・おはらい・後生うなぎ」今も寄席の高座で聞いたりするような、演目ばかりですね。廓噺を売りにしていた噺家は、相当困ったのではないでしょうか。禁演落語復活祭で、納められた戦時中の台本というのは、国策落語という国民の戦意を高揚させる為の落語です。テレビのない時代に、演芸の持つ影響力というのは、かなり大きいものだったのでしょう。先人たちは、自分の好きな落語ができずに悔しい思いをしたんだなあと想像すると悲しくなります。繰り返して欲しくない歴史ですね。ポッドキャストで青森兄さんも言っていましたが、落語を自由に楽しめているという時代は平和な時代なんでしょう。これからぐるっとまわり込んで、国際通りに向う途中に、宮内庁御用達のビニール傘の会社がありました。両陛下が園遊会で使われた「縁結」は1本8800円。ちょっと手が出せませんね^^;国際通りに出て浅草演芸ホールに向かいます。寿四丁目の交差点にある「甲州屋」は、よく行くお蕎麦屋さんです。雷門一丁目の交差点を雷門通りの方に曲がります。今は『てんや』になってしまいましたが、以前はここに『和泉屋』がありました。圓生師匠や先代馬生師匠、志ん朝師匠も贔屓にしていた履物屋さんです。閉店前に僕も雪駄を買わせていただきました。幅が細いのが自慢で、お店の人に「こんなに細くてカッコイイ雪駄は、うちにしかないんですよ。」と言われたのを覚えています。雪駄は、幅が細い方が粋なんだそうです。アケードのある通り、すしや通りに入ります。名前はすしや通りですが、寿司屋はそんなにありません。昔はたくさんあったのかなぁ。ROXを越えると、定席のひとつ浅草演芸ホールです。ホールの上は、都内で唯一のいろもの寄席『浅草フランス座演芸場東洋館』通称『東洋館』です。浅草演芸ホールの松倉会長にご挨拶。写真撮影をお願いしたら、快く承諾してくださいました。「どんどん宣伝してね。(東京らくごウォーカーズ)頑張ってね。」と言ってくださいました。嬉しい!!いつも元気に笑顔で、お客様の呼び込みをされている会長は、なんと御年83歳!!ビートたけしさんも大絶賛の松倉会長の著書『起きたことは笑うしかない!』(朝日新書)は、全国の書店にて販売中です。この本を読めば、会長の元気の秘密がわかるかもしれません。テケツでは、看板猫のジロリくんがお出迎えしてくれます。ジロリくんは、すくすく育ってわがままボディになっちゃっていますグッズも販売中。もぎりに座る青森兄さん、似合ってますね〜。次回も引き続き、浅草界隈をご案内いたします。どうぞよろしくお願いします!!...more34minPlay
September 21, 2019湯島・本郷 その3このブラウザでは再生できません。こんにちは一猿です。まだほんの少しだけ蝉の鳴き声が聞こえますが、もうすっかり秋の気候ですね。そんな9月下席ですが、本日より我が落語協会では、新たな真打が4人誕生します。・柳家わさび・柳家喬の字 改メ 五代目 柳家小志ん・初音家左吉 改メ 古今亭ぎん志・柳家ほたる 改メ 柳家権之助兄さん方どうもおめでとうございます。本日より、鈴本演芸場を皮切りに50日間の昇進披露興行が始まります。皆さま、ぜひぜひ寄席にお越しくださいまして、一緒に披露興行を盛り上げましょう。披露興行ならではの豪華な顔付けに、落語協会幹部理事の並ぶ口上は、普段は寄席に来られない方でもお楽しみいただけると思いますよ。さてさて東京らくごウォーカーズ、湯島・本郷編も今回の更新でおしまいです。今回は、前回のゴール地点『本郷若竹亭跡』から中山道をまっすぐ北に進んで、本郷三丁目の交差点にある『かねやす』を経由して『追分一里塚跡』を目指します。ルートはこちらです。まずは、本郷三丁目の交差点にある『かねやす』へ向かいます。中山道をまっつぐ、まっつぐ、進むと左手に見えてくるのが『かねやす』です。案内版には『兼康祐悦という口内医師(歯医者)が、乳香散という歯磨粉を売り出した。大変評判になり、客が多数集まり祭りのように賑わった。(御府内備考による)享保15年大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は三丁目から江戸城にかけての家は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺きを禁じ瓦で葺くことを許した。江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、それからの中仙(中山)道は板や茅葺きの家が続いた。その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。『本郷も かねやすまでは 江戸のうち』と古川柳にも歌われた由縁であろう。芝明神前の兼康との間に元祖争いが起きた。時の町奉行は、本郷は仮名で芝は漢字でと、粋な判決を行った。それ以来本郷は仮名で「かねやす」と書くように。』と記されています。『本郷も かねやすまでは 江戸のうち』という有名な川柳が残っていますが、かねやすより北は江戸ではなかったそうな。ところが色々と調べてみると、もう少し先までは江戸のうちだったようです。案内版にもある通り、かねやすを境に建物の様式が違ったのでこのような川柳ができたのでしょう。しかしまあ、昔も今も元祖争いというものはあるもんで、かねやすも弟に暖簾分けをして芝に新店舗を開店させると問題が勃発します。この大岡裁きが粋だとは思いませんが、店名が平仮名なのはそういう事情があったんですね。ちなみに大岡様の勤めていた南町奉行所は有楽町駅のすぐそばです。またそのうちご案内しましょう。本郷三丁目の交差点を渡ってしばらく歩きますと、右手に東京大学のキャンパスが見えてきます。大学の敷地は、すべて加賀藩上屋敷の跡地です。加賀藩前田家の家紋は加賀梅鉢、前田家は菅原道真の子孫として称して梅の紋を家紋にしていました。そして、前回お話しした映像の中で、先代馬生師匠が美濃部家は菅原道真の子孫と言っていました。ですから志ん生師匠をはじめとする美濃部家の家紋も梅の紋。よく使われている鬼蔦は、古今亭の紋なんですね。湯島天神の近くに加賀藩の屋敷があったのも何か理由があるのでしょうか。調べてみましたが、ごめんなさいさっぱりわかりませんでした。赤門(御主殿門)は加賀藩の上屋敷であった名残です。平日にもかかわらず大勢の観光客が写真撮影に夢中になっていました。青森兄さんも記念撮影。ちなみに落語に出てくる、赤井御門守(あかいごもんのかみ)という殿様、これは架空の人物です。だけど実在しそうな名前ですよね赤井御門守。東大を囲む塀にも歴史を感じます。そろそろ横になりたいのかな。目地は、明治期の煉瓦建築によく見られる覆輪目地です。さらに進むと中山道が日光御成街道と二手に分かれるあたりに、高崎屋という酒屋さんがあります。このあたりが五街道の起点である日本橋からちょうど一里(約4km)の地点です。今はもうなくなってしまったようですが、このあたりに一里塚があったそうな。案内版には『一里塚は、江戸時代、日本橋を起点として街道筋に1里(約4km)ごとに設けられた塚である。駄賃の目安、道程の目印、休息の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた。ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。18世紀中ごろまで、榎が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた。 ここにある高崎屋は、江戸時代から続く酒店で、両替商も兼ね「現金安売り」で繁盛した。』とあります。江戸を出る人にとっては、まだまだスタート地点ですが、江戸を目指して来た人にとってはいよいよゴール直前といったところ。江戸から草津を結ぶ中山道、その距離は532km。この日だけで、普段歩かない二人はすっかりくたびれてしまいました。とてもじゃないですが、歩いて草津なんか行けないだろうなぁ^^;湯島・本郷編これにて完結です。まだまだ勉強不足で物足りないかもしれませんが、引き続き心を込めてご案内をいたしますので、ご贔屓のほどよろしくお願いします。来月は浅草界隈をご案内いたします。おたのしみに!...more33minPlay
September 10, 2019湯島・本郷 その2このブラウザでは再生できません。こんにちは春風亭一猿です。9月8日の謝楽祭では、まだまだ始まったばかりの企画にも関わらず、たくさんの方々から「東京らくごウォーカーズ、聴いてますよ」と声をかけていただきまして、天にも昇る心地でした。皆さんに楽しんでいただけるように、引き続き落語スポットを探していきますね。応援くださいまして、どうもありがとうございます。それでは前回の目的地の湯島天神から、近代落語の祖として知られる三遊亭圓朝師匠も出演していたという寄席、若竹亭の跡地を目指します。ルートはこちらです。湯島天神に沿って大きなカーブを描く、切通坂を登ります。この坂は、講釈ネタでもある『柳田格之進』で、番頭と柳田格之進が再会する場所です。再会した二人は、夫婦坂から湯島天神の境内へと向かいます。ちなみにgoogle検索で柳田格之進と入力すると、関連検索ワードに『嫌い』と出ます。わざわざ『嫌い』と検索しなくてもいいと思うんですが、ほんと好き嫌いの分かれる噺ですね^^;番頭に出会うことなく、そのまま春日通を直進します。途中、明治4年創業の老舗すき焼き屋『江知勝』の前を通ります。先代の金原亭馬生師匠が、娘の池波志乃さん中尾彬さんご夫婦とお店を紹介する古い映像がyoutubeにあったのですが、今はもうなくなっちゃったみたいですね。お酒好きで、ほとんどご飯を食べなかったと伺っている馬生師匠がお肉を食べる姿は、貴重な映像だったのではないでしょうか。池波志乃さんが馬生師匠のことを親父と呼んでいたのも印象的でした。芥川龍之介や夏目漱石といった明治の文豪も通った老舗の名店ですが、2020年1月末に閉店されるようです。残念ですね。さらに進むと、こちらはなんと寛永年間創業の和菓子屋『壺屋総本店』。文政7年(1824)に出版された、江戸のお買い物ガイドブック「江戸買物独案内」にも掲載されているそうです。僕も国会図書館のデジタルコレクションで公開されていた資料を確認してみましたが、見つけることができませんでした。デジタル版は目が疲れますね、いずれ実物を見に行って探してみたいと思います。消防署の前の丁字路を左に入って、5分ほど歩くと大きな交差点があります。この交差点の信号を渡った先にあるSUBARUの販売店のあたりが若竹亭の跡地とされています。現在は都内に4軒しかない寄席ですが、明治期は大小100軒以上あったそうで、若竹亭もそのうちの1つです。プレートには『明治初年から大正12年(1923)まで、この地には「山の手第一の寄席」と評された若竹亭があった。明治40年(1907)の『新撰東京名所図会』によると、若竹亭では毎月前半を落語、後半を義太夫と定め、市内有数の寄席であった。定員は800名、主な客層は学生・官吏・会社員が多かったという。明治後期の若竹亭は、欅造の建物で、高座の間口は3間(約5.5m)、奥行9尺(約2.7m)、客間は6間四方で1階席と2階席があった。 寄席は江戸時代からつづく庶民の娯楽の場であった。若竹亭では、「牡丹灯籠」の三遊亭円朝、娘義太夫の豊竹呂昇などが出演し、それらの演目を見るために多くの人々がつめかけた。文豪夏目漱石や徳田秋声なども、若竹亭に足を運んだ観客の一人であった。 若竹亭は、大正12年9月1日におきた関東大震災により被災し、それをきっかけに廃業した。』と記されています。東京落語会の会場のニッショーホールの定員が742席で、客席の面積が551 m²です。 若竹亭の客間は6間四方で、1間が約1.81mですから、ニッショーホールの4分の1以下の大きさです。2階席があったとしても、800人も入れば相当に窮屈だったんじゃないかと思います。今とは違い椅子席ではないので、そこまで詰めることができたんでしょうね。ある本には、詰めれば1000人ほど入ったとも書いてありました。青森兄さんも言っていましたが、まさに満員電車の中で落語を聴く感じでしょうね。それでもこの若竹亭は、当時数ある寄席の中でもトップクラスの大きさで、正月初席のトリを圓朝師匠が務めると大入りになったそうです。いよいよ、次回で湯島・本郷編はおしまい。配信は、9月下席の初日(21日)です。お楽しみに!...more24minPlay
FAQs about 東京らくごウォーカーズ:How many episodes does 東京らくごウォーカーズ have?The podcast currently has 41 episodes available.