イギリスの道徳哲学者ジェレミー・ベンサムは、道徳の至高の原理とは苦痛に対する快楽の割合を最大化することだという、功利主義の原理を確立しました。人間がとるべき正しい行いとは、快楽や幸福を増やし、苦痛や苦難を減らす、「効用」の最大化であるというわけです。
1884年、ミニョネット号というイギリス船が沈没し、ボートで漂流していた四人の船乗りたちが、水も食料もない限界状況に追い込まれた結果、悲惨な効用の最大化を迫られました。衰弱して死の淵にあった一人を二人が殺害したのです。残り一人は殺人に断固反対したものの、共に死体を食料とし、三人は生き残りました。数日後に救出された三人は、当局に事実をありのままに告げて逮捕されます。殺人を犯した二人が起訴され、反対した一人は釈放されました。裁判の結果、二人には死刑が宣告されますが、ヴィクトリア女王の特赦により禁固六ヶ月に減刑されました。
二人の殺人行為は、現代では緊急避難と呼ばれるもので、非常事態における違法行為は、それによって生じた損害より、避けようとした損害の方が大きい場合、罪に問われないことになっています。この当時のイギリスでは、まだその制度が論争中で法制化されていなかったため、殺人罪が適用されたのでした。
ベンサムは、公的諸政策の根底に置くべき道徳原理として、「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化するべきだ」とし、幸福計算を提唱しました。これは、データを集めてある行為の生む快と苦の量を計算し、その量によって政策の善悪を決めることです。この計算に基づけば、ミニョネット号の例でも、殺人を犯した二人の行為は正しかったことになります。では、殺人に反対したもう一人は間違っていたのでしょうか。
ベンサムの功利主義を継ぎ、これを改良しようとしたジョン・スチュワート・ミルは、人間の自由意志を重視し、幸福の量よりも質に基づく道徳原理を説きました。「人間は、自分の望む行為が他者に危害を加えない限りにおいて、好きなことをすることが出来る」というのがその主張です。
「ゲド戦記」で有名な、アーシュラ・K・ル=グウィンが「オメラスから歩み去る人々」という小説を書いています。あるところに、オメラスという幸福に満ちた豊かな町がありました。しかし、町の片隅の不潔で劣悪な地下室には、なぜか知能の低い一人の少女が閉じ込められています。少女は「ここから出して」と訴えているのですが、人々に無視され続けます。この町の幸福は、この少女の犠牲と引き換えに与えられていたからです。少女を救えば、町の人々がみな不幸になるよう定められています。ほとんどの人々は時折思い出したように言い訳をしながらも、町の幸福を享受し続けます。ところが、中にはそれを恥じて、この町を歩み去る人々もいます。
あなたなら、この町に居続けますか?
それともオメラスから歩み去りますか?
それとも、少女を救って町中を不幸にしますか。