By Takashi Jome
哲学や思想や歴史や心理や脳や倫理などについてのエッセーです。
仏教の十二縁起と、キリスト教の楽園追放の類似性 イヴの原罪とアダムの原罪 ジョン・スチュアート・ミルの質的功利主義、ベンサムの功利主義からの逸脱 異なる3つの論理体系
ポンペオ米国務長官が七月二十三日に、中国の人権抑圧・領土拡張・経済的不公正と、その理念的基盤であるマルクス・レーニン主義に対し、宣戦布告とも解釈できる演説を行ったことで、新型コロナウィルスで混乱の中にある世界は新冷戦時代へ突入することになりました。現代の世界には、エリート階級が政策決定の権限を独占する体制と、自由と民主主義を標榜する体制の二種類の国家に分類することができますが、中国は前者、アメリカは後者の正義を代表する国家だと言えるでしょう。 しかし、中国の不正義を糾弾したポンペオ氏のアメリカの中にも相矛盾する複数の正義があり、必ずしも一枚岩とは言えません。自由と民主主義を標榜する社会の正義の一つには、最大多数の最大幸福を目指して経済的効率性を高めようとする功利主義や、他者の権利を侵害しない限りあらゆる個人の自由を認めるべきだと考えるリバタリアニズム≪自由至上主義≫があります。 例えば、アメリカの軍隊ではベトナム戦争まで徴兵制が実施されていましたが、全国民が兵役の義務を持ち国家の防衛に責任を負うべきだという考え方に対して、功利主義やリバタリアニズムはそれぞれの立場で異議を唱え、金銭を支払って兵役の義務を他者に代行させるという南北戦争時代の制度の正当性を主張します。 まず功利主義は、金銭を支払う者はそれによって兵役を回避するという利益を得るし、兵役を代行する者はそれによって金銭という利益が得られるため、双方の幸福が最大化されていると言います。またリバタリアニズムは、双方が自分の意思で多額の金銭を支払ったり、兵役を代行したりしている以上、この制度は自由の原理に適合していると言います。 その一方で、アメリカには両者の主張に対する反論もあります。その一つは、「兵役は国民が平等に負うべき義務であり、民主主義国家においては、あらゆる階層の人々とその愛する伴侶や子供や孫の全てが戦場に行かなければならない可能性があればこそ、政策決定者も簡単には戦争を起こせないのだ」というものです。平等な兵役こそ戦争を防ぎ平和を守るという論理です。イラク戦争では、戦場に赴いた志願兵の多くが低所得者層で、戦争を主導した政治家など富裕層の割合は低かったという事実があります。兵役の平等が崩れた社会は戦争を起こしやすい一面があるのです。また、兵役代行を引き受ける者の多くが金銭的に貧しい階層出身だという事実は、徴兵回避が貧しい者を奴隷的拘束に置くのと同じ状態になることを示しており、自由の原理にも矛盾しています。 経済効率や自由という正義と、道徳や公平という正義が、ここに対立しているのです。
歴史の教科書には、国王や貴族に奴隷的拘束を強いられていた民衆が、自らの選択と決断によって生きる「自由」を求めて革命を起こす姿が記されています。イギリスの市民革命やアメリカ独立戦争やフランス革命は、近代社会の誕生を象徴する出来事ですが、これらの革命で人々が獲得を目指した最も重要な権利は「自由」でした。そして、権力によって奴隷的に拘束される牢獄のような状態は否定され、自らの意志で行動できることが、現代の人権思想の根本原理となったのでした。 しかし、社会全体の利益を追求する時には、この「自由」が制限されても仕方がないという考え方もあります。例えば、感染力の高いウィルスが流行して人々の命を脅かす時、人間の自由な移動・行動がその繁殖を拡大してしまうなら、それは制限されなければならないという考えです。あるいは、社会全体の発展を促進するためには、指導者が強い権限を発揮して様々な政策を進めていかなければならないため、その体制に批判的な言動は厳しく取り締まるべきだという考えです。 こうした「最大多数の最大幸福」を追求する考え方に対し、それよりも個人の「自由」が優越するとして、他者の自由を制限しない限りどんな行動も認められるべきだと考える思想を「自由至上主義・リバタリアニズム」と言い、この思想を掲げる人々はリバタリアンと呼ばれています。 リバタリアンは、自由を制限するどんな制度も法律も慣習も宗教も全て排除していくべきだと主張し、国家による道徳的規制に反対します。そして、職業選択の自由、信仰の自由、言論の自由、婚姻の自由が認められるべきであるように、働かない自由、信仰を否定する自由、性的・暴力的表現をする自由、同性婚の自由を越えて他の動物と婚姻する自由なども、制限されてはならないと考えます。妊娠中絶が制限されるべきでないのと同様に、自殺する自由や、依頼されれば自殺を助ける自由も人間にはあり、命を捨てても自分の臓器を売る自由さえあると言います。 彼らは、国家による経済的自己選択権の侵害を強く批判し、福祉政策のために税金や社会保険料が徴収されることに反対しています。貧しい人々や身体的ハンディキャップを持つ人々の救済は、国家がやらずとも、マイクロソフト創始者のビル・ゲイツや大投資家ウォーレン・バフェットなどの富豪が自ら好んで行うため、税の徴収による労働意欲や消費意欲の抑制は経済にとって害があるだけだと言うのです。 世界一の先進国であるアメリカ合衆国に現在も公的健康保険制度が無いのは、こうした原理的な自由主義に対する強い信仰があるためだと考えられます。
イギリスの道徳哲学者ジェレミー・ベンサムは、道徳の至高の原理とは苦痛に対する快楽の割合を最大化することだという、功利主義の原理を確立しました。人間がとるべき正しい行いとは、快楽や幸福を増やし、苦痛や苦難を減らす、「効用」の最大化であるというわけです。 1884年、ミニョネット号というイギリス船が沈没し、ボートで漂流していた四人の船乗りたちが、水も食料もない限界状況に追い込まれた結果、悲惨な効用の最大化を迫られました。衰弱して死の淵にあった一人を二人が殺害したのです。残り一人は殺人に断固反対したものの、共に死体を食料とし、三人は生き残りました。数日後に救出された三人は、当局に事実をありのままに告げて逮捕されます。殺人を犯した二人が起訴され、反対した一人は釈放されました。裁判の結果、二人には死刑が宣告されますが、ヴィクトリア女王の特赦により禁固六ヶ月に減刑されました。 二人の殺人行為は、現代では緊急避難と呼ばれるもので、非常事態における違法行為は、それによって生じた損害より、避けようとした損害の方が大きい場合、罪に問われないことになっています。この当時のイギリスでは、まだその制度が論争中で法制化されていなかったため、殺人罪が適用されたのでした。 ベンサムは、公的諸政策の根底に置くべき道徳原理として、「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化するべきだ」とし、幸福計算を提唱しました。これは、データを集めてある行為の生む快と苦の量を計算し、その量によって政策の善悪を決めることです。この計算に基づけば、ミニョネット号の例でも、殺人を犯した二人の行為は正しかったことになります。では、殺人に反対したもう一人は間違っていたのでしょうか。 ベンサムの功利主義を継ぎ、これを改良しようとしたジョン・スチュワート・ミルは、人間の自由意志を重視し、幸福の量よりも質に基づく道徳原理を説きました。「人間は、自分の望む行為が他者に危害を加えない限りにおいて、好きなことをすることが出来る」というのがその主張です。 「ゲド戦記」で有名な、アーシュラ・K・ル=グウィンが「オメラスから歩み去る人々」という小説を書いています。あるところに、オメラスという幸福に満ちた豊かな町がありました。しかし、町の片隅の不潔で劣悪な地下室には、なぜか知能の低い一人の少女が閉じ込められています。少女は「ここから出して」と訴えているのですが、人々に無視され続けます。この町の幸福は、この少女の犠牲と引き換えに与えられていたからです。少女を救えば、町の人々がみな不幸になるよう定められています。ほとんどの人々は時折思い出したように言い訳をしながらも、町の幸福を享受し続けます。ところが、中にはそれを恥じて、この町を歩み去る人々もいます。 あなたなら、この町に居続けますか? それともオメラスから歩み去りますか? それとも、少女を救って町中を不幸にしますか。
電磁波の中の十兆分の一に満たない可視光を、周波数の高い方から赤、橙、黄、緑、青、紫など更に色分けして、私たち動物は周辺環境を把握するのに活用しています。しかし、人間が「赤」と呼ぶ波長と、「橙」と呼ぶ波長の間には明確な境界線がありません。赤と黄、橙と緑など明らかに違う波長の光を反射する物体であれば誰もが同じように色分けできますが、どこまでが「青」でどこからが「紫」なのか決めるのは悩むところで、人によって判断は異なることでしょう。 倫理における正義と不正義の色分けにも、同じことが言えます。どこまでが正義で、どこからが不正義か、そこに境界線を引くのは難しいことです。 あなたが路面電車を運転しているとします。気が付くと、前方に五人の作業員が工具を持って線路に立っていました。ところが電車のブレーキが急にきかなくなり、このままではあなたは確実に彼らを轢いて死なせてしまいます。その時、右へと逸れる待避線が目に入ります。五人を救うにはあなたはそちらへ電車を向けなければなりません。でも、そこにも作業員が一人立っていて、そちらへ進めば確実に彼を死なせることになります。あなたならどうしますか? これは「トロッコ問題」と呼ばれる有名な倫理学上の課題ですが、多くの人は葛藤の末により多くの人命を守る選択肢を選ぶようです。そこでもう一つ、今度はあなたが運転士でなく、暴走する路面電車を鉄橋の上から見ている傍観者とします。電車の前方にはやはり五人の作業員が電車に気づかず作業をしています。ふと隣を見ると大変太ったあなたより体の大きな見ず知らずの人が立っていました。あなた自身の体では電車の暴走は止められそうにありませんが、隣の人の太った体を線路に突き落とせば確実に電車を止めらそうです。あなたはその人を突き落としますか? この場合、同じように五人を救うために一人を犠牲にする行為であるにもかかわらず、あえて殺人を犯すことは不正義だと感じる人が多いそうです。では、作業員が五人ではなく五十人だったらどうでしょう。あるいは、その太った人が死の運命にある作業員たちを見てゲラゲラ笑っていたとしたら? 更に、あなたが一国の首相だとします。あるウィルスが流行し、感染者の二%は確実に死んでしまうとします。感染を防ぐためには経済活動を封鎖しなければなりません。しかし、そうすれば経済危機によりたくさんの命が失われます。あなたなら、どうしますか?
「言語記号の恣意性」という言葉があります。19世紀のスイスの言語学者ソシュールの考えで、言葉とは、それを表す音声・文字(シニフィアン)と、それによって表される意味・概念(シニフィエ)が、合理的な必然性を必要とせずに結び付いて出来ているという考えです。 例えば、「イス」という音声は、「人が座るための台」のことではなく、「食事や仕事や勉強をするための台」のことであってもよく、「ツクエ」という音声は「体を横たえて寝るための台」のことであってもよかったわけですが、たまたま何となく勝手気ままに(恣意的に)現在のような組み合わせになっている、ということです。 この考え自体は、「そりゃそうだね」とすぐに納得できるものだと思います。日本人みんなで、ピーマンのことをナスと呼び、ナスのことをピーマンと呼んだって、みんなでやれば何も怖くはありません。でも、ソシュールが言う「恣意性」はそれだけで終わりではありません。 どこかの星から手も足も腰もないボール型の体の宇宙人が地球へやってきて、日本語を勉強するとします。その時、同じ台状の形をした物体を、イス、ツクエ、ベッドと言い換えていることを知ったら、その宇宙人は「Why,Japanese people⁉」と叫び出すかもしれません。人間は、同質なモノやコトを別々の音声(シニフィアン)で名づけることにより、それぞれを私たちには異なる価値(シニフィエ)を持った存在に見立ててしまいます。そして、その言葉を知らない者には理解不能な独自の現実世界を、言葉で作り出すことが出来るのです。 こうした言葉の恣意性に似た性質を、倫理について説明した人が二五〇〇年前の中国にいました。儒教の祖である孔子です。倫理とは、道徳やモラルに近い意味の言葉で、人間としてしなければならない行動基準のことです。「仁」=【思いやり】と「礼」=【その表現】の結びつきで倫理が出来ていると孔子は言いました。これは、言葉が意味・概念とそれを表す音声・文字で出来ているのに似ています。思いやりを表現する方法はいろいろなので「仁」と「礼」の結びつきは恣意的だし、たくさんの礼儀作法が生まれると、表現される思いやりの種類も増えていってしまいます。 このように倫理は根源的な恣意性を持っているため、人間の心には困ったことが起きてしまいます。「伝染病が流行してるんだから外出を控えるのが思いやり」という考えが生まれる一方、「そんなことしたらいろんなお店が困ってしまうじゃないか」という考えも生まれます。何が正しいか、悩み、惑い、葛藤するのは、私達の心が背負う宿命なのでしょう。
今回のフリートークは、私の世界観として、存在の用具生と他者性、記号的実在と記号前の神々の実在、科学的実在と文学的実在などについて話し、その後、AIに意識を持たせることや、仏教の執着とキリスト教の罪の対応関係などについて話しています。同じようなことに関心のある方は聞いてください。 なお、雑音が多くなってしまった上、音声が小さくなりました。すみません…、
遠い未来の技術で甦ることを期待する人々のため、アルコー延命財団では、顧客の死後その肉体を凍結保存しています。全身凍結ではなく、頭部だけ保存する人々もいます。 凍結した肉体や脳を復活させる技術が登場するかしないかは分かりませんが、脳のデータをコンピューターにコピーして保存しておくことは不可能ではないかもしれません。人間の脳は860億のニューロンで出来ており、各ニューロンには1万の接続があるため、一個の人間の脳には1000兆の脳細胞間接続の独自パターンがあると言われていますが、それは現在の地球にある全てのデジタルコンテンツの合計と同じサイズのバイト数に相当します。しかし、コンピューターの能力は18ヵ月ごとに倍になっているため、あなたの神経回路のマップをコピーできる日が来るかもしれません。 ただし、神経回路図を保存してもそれだけで意識が生じるわけではありません。思考や感情や認識を生み出しているのは、細胞間の接続で実行される毎秒何千兆もの化学的物質の放出や、タンパク質の形態の変化、ニューロン軸索を伝わる電気的活動の波です。そのため、スイス連邦工科大学ローザンヌ校のヒューマン・ブレイン・プロジェクトは、人間の脳のシミュレーションを実行できるハードウェアとソフトウェアのインフラの完成を目指しています。 では、完全な脳のシミュレーションで意識は再現できるのでしょうか。それは知覚し、考え、自己を意識する存在となるのでしょうか。動物のニューロンとて物質でできており、電気的・化学的なやり取りをしているだけなので、細胞を回路に、酸素を電気に置き換えても、心を生み出す科学反応は起こせそうです。それなら、人間の脳のコピーでなく、人工知能でも心を持つことは可能に思えます。 しかし、自律神経も感覚神経も運動神経も、呼吸や栄養摂取といった生理反応によって活動できるものであると同時に、その生理反応を助け維持するために存在しているものです。生理によって心理が生まれ、生理のために心理が働くわけで、生命維持のアルゴリズムが神経系の活動である以上、維持すべき肉体がなければその活動は意義を持たなくなります。糖を必要とする肉体がなければ、「甘い」という快感の報酬系も生成されません。 肉体の生理が障害や矛盾に直面した時、神経系に葛藤が生じます。その問題を解決する新たなアルゴリズムを生む作用が思考であり意識であるなら、心と体は一つのものでしょう。
2007年、ラムッスン脳炎による発作で苦しんでいたキャメロン・モットという少女が、12時間の神経外科手術のすえ、脳の半分を摘出されました。しかし、手術後も彼女は体の片側が弱いだけで、他の子どもたちと同じように言語、音楽、数学、物語を理解でき、スポーツにも参加することが出来ました。脳の残り半分が失われた機能を引き受け、神経の配線をし直し、ほぼ全ての働きが半分のスペースに押し込まれたのです。このように、新しい状況に順応して学ぶたびにみずからを変えるという脳の可塑性が、テクノロジーと生物学の融合を可能にします。 人工内耳は、外部マイクロホンが音声信号をデジタル化して聴覚神経に送り、人工網膜は、カメラからの信号をデジタル化して目の後ろの視神経につながれているグリッド電極に送ります。現在、何十万という聴覚・視覚障害者がこうした装置で自分の感覚を取り戻しています。初めのうち異質の電気信号は脳にとって理解不能ですが、やがて神経ネットワークは入ってくるデータのパターンを抽出し、大ざっぱでもそれを理解する方法を見つけ、他の感覚と相互参照し合って入ってくるデータの構造を探り出し、数週間後には情報が意味を持ち始めるのです。 脳という汎用の計算装置は、入ってくるどんな情報でも活用できるアルゴリズムを構築し様々な感覚を生み出します。そこで、私たちの五感やバランス感覚、温度の感覚などで捉えることのできないものを直接脳に送り込むことを可能にすれば、人間にも紫外線や赤外線や超音波に反応する感覚が身につけられるかもしれません。デイヴィッド・イーグルマンは、小さな振動装置で覆われているべストを作りました。身に着けていると音のデータストリームが胴体に伝わる振動パターンに感覚代行され、5日も経つと話されている言葉が特定できるようになるのです。 感覚は拡張することも可能です。スマホの画面を見ることなく、インターネットの天気や株価のデータを脳で直接理解できるようになるかもしれません。ただ新しい感覚を持つだけでなく、新しい運動を作り出すことも可能です。脊髄障害で筋肉の動かなくなったジャン・シュールマンは、左運動皮質へ2個の電極を埋め込むことで、ロボットアームを動かせるようになりました。 発展すれば、人間は宇宙ステーションにいるロボットを感覚的に操作することさえ可能になることでしょう。
私たちは隣人の微細な表情の変化を見てそれを自分の顔にコピーし、その表情に対応した痛み、悲しみ、怒り、喜びといった感情を自分の中に再現するミラーリングという能力を先天的に持っています。この共感こそが人間社会の道徳の根源で、無意識の集団的共感の連鎖が「見えざる手」となって人間を社会秩序に従わせるのだと、倫理学者で経済学の祖アダム・スミスも『道徳感情論』において説いています。 隣人に共感し、同時に隣人の共感を期待しながら人間は集団の中で生きていますが、そんな個体の集合が一つの生命体として部族や民族や国家の集団的思考と行動を生み出す事は、人間の強みである一方、怖さでもあります。 1995年7月11日 、ボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァで、国連の駐留地から追い出された8000人以上のイスラム系ボスニア人が、外で待っていたセルビア人武装集団の手により、国連軍の目の前で10日の内に殺害されてしまいました。この事件を含め、ユーゴスラビア紛争中の1992年から95年の間に、10万人を超えるイスラム教徒がセルビア人に虐殺されています。第二次大戦中のナチスによるユダヤ人虐殺に恐怖し、二度と同じ事を繰り返さないと誓ったヨーロッパで行われた現代のジェノサイドです。 なぜ隣人の痛みに共感できる私たちに、こんな虐殺をしてのけることが出来てしまうのか?その理由は、外集団と内集団の違いにあります。スレブレニツァでは、ついこの前まで同じ学校で学び、同じ街で働いていた人々が、隣人に銃を突きつけて撃ち殺しました。人間は、自分の属す集団の中で共感し合う一方で、その外にいる人々のことを物として扱えるような感情の神経スイッチを脳の中に持っているのです。 綿棒を手に当てた写真と、注射針を手に突きつけた写真を見比べた時、後者には脳の痛みを感じる領域が活性化します。しかし、この写真にキリスト教徒、ユダヤ教徒、無神論者、イスラム教徒、ヒンズー教徒、サイエントロジストといったラベルを一つ貼り付けるだけで、脳の活性具合は変わります。自分の属す集団のラベルが付いた手の写真には痛みを感じるのに、外集団のラベルが付いた写真だと、内側前頭前野の活性具合が落ちるのです。 内集団と外集団を分けるスイッチは身近なイジメでも押されています。このおかげで、昨日まで友人だった人の痛みに反応せずにいられるわけです。
現在のスマートフォンは、小さくなったコンピューターと言える性能を持っています。しかし、これがインターネットに接続していなかったら、私たちが重宝しているその能力のほとんどは消えてしまうでしょう。一方、世界中のスマートフォンが接続していないSNSというのは想像できるでしょうか。個々の端末が接続していない時、そこにはインターネットも存在していません。 人間も、個々の大脳等の神経ネットワークの働きだけでは、私たちの考える個としての人間の姿を説明できません。私たちの存在の半分は、他者によって出来ているからです。また、私たちは、他者とつながり合った社会的動物として情報交換することで、巨大な集合的生命体として存在しているとも言えます。それは、個々の細胞の集合として生物が存在し、個々のニューロンのシナプス反応により全体としての神経系が生まれるのと同じことです。 ウサギ、電車、モンスター、飛行機、 子どものオモチャ、これらはみなアニメのキャラクターとして登場し、人間はこれらを自分たちと同等の存在とみなして感情移入することが出来ます。心理学者のフリッツ・ハイダーとマリアンヌ・ジンメルが1944年に作った短編映画は、こうした私達の共感能力の強さをよく示しています。映像には大きな三角形と小さな三角形と円が動き回る様子が映っているのですが、それが私達には、大きな三角形に襲われた小さな三角形と円が、協力して戦い、逃走に成功した物語として見えてしまうのです。 無機的な図形の運動にさえ社会的意図を読み取ろうとするこの能力は、まだ話すこともできない赤ん坊の頃から持っています。1歳未満の赤ちゃんに、アヒルをいじめるクマと、そのアヒルを助けるクマの人形劇を見せ、2匹のクマの人形を目の前に持っていくと、ほぼすべての子が親切なクマと遊ぼうとします。生存のためには敵と味方を素早く判断する能力が不可欠であるため、目の前のあらゆる事物がまず他者として現れる能力を、私達は生まれつき持っているのです。 人間は成長に従い、文脈によって複雑化していく社会関係に直面します。そこで脳は、互いの言葉と行動の他、その声の抑揚、顔の表情、身ぶり手ぶりから、他者の意図を読み取みとっていきます。しかし自閉症の人の場合、脳のこの共感機能が活発に働かないため、他者が表情や仕草に表す情報に反応できないようです。 他者の意図を読むためには、ミラーリングが必要です。これは、微細な顔面神経が相手の表情を無意識のうちにコピーして自分の顔でその表情を真似することです。これにより他者の気持ちを脳に再現することが出来るのです。 長年連れ添った夫婦の顔が似てくるのは、このミラーリングの積み重ねの結果だと言われています。
目の前の幾つかの選択肢から一つを選ばなければならない時は、現在の生理的な状態が決断の決め手となります。純粋な情報の比較計算しかできないと、考えられる可能性は無限にあるため、いつまでも決められないのです。では、選択の結果が未来に関わる問題の場合どうでしょう。 今日は日曜日。最近ハマっているゲームをなんとかクリアしたい。でも、二週間後に中間テストが迫っていて、準備を始めないと間に合わない。だが、十歳下の弟が自転車の練習を手伝って欲しいと言う。弟は自分になついているので可愛いし、弟に付き合ってあげれば家族の平和にも貢献できる。こんな未来の査定に迫られる状況にも、生理現象、ドーパミンと呼ばれる神経伝達物質の報酬が、選択の基準になります。つまり、選択肢の中で一番報酬の大きそうな方へ行動を移すわけです。 しかし、未来の事は結果が出るまで時間がかかる上、期待通りの報酬が得られるかも決まっていません。弟に付き合う事を選択した結果、弟が転んで怪我をし、「お兄ちゃんが手を離したせいだ」と泣いて両親に訴えれば、親子喧嘩になってドーパミンの放出は抑制されます。逆に、弟が思った以上に上達して自転車に乗れるようになり、お祝いに家族で高級寿司屋へ行くことになればドーパミンの放出量は急増します。予測以上の結果が出ればその行動の査定額は上がり、逆なら査定額も下がります。 さて、どんなに査定額の高い未来の選択肢でも、現在目の前にある欲求には負けてしまうものです。太ると分かっていても目の前のケーキは食べたくて仕方がない。査定額の高い未来より、悪魔の誘いに惹かれてしまうのです。 ギリシャ神話に出てくる英雄オデュッセウスは船旅の途中、海の精霊セイレーンの海域に入ります。この精霊の歌は大変美しく、聞く者は歌に惹かれて海に飛び込んだり、船を岩にぶつけたりすると言われています。どうしてもこの歌声を聞きたかったオデュッセウスは、船乗りたちの耳に蝋で栓をし、自分の体はマストに縛りつけておきました。歌声が聞こえると彼は海に飛び込もうとするのですが、耳栓をした船乗りたちはそれを無視して船を進め、無事にその海域を通過できました。 上記のオデュッセウスのように事前に行動へ制限を加えられない時には、意志力が必要になります。しかし、食事をしたいのに我慢している時などは生理的に大量のエネルギーが消費され、他の事に使う力が削がれてしまいます。囚人の仮釈放に関する2011年の研究で、1000件の判事の裁定が分析されたところ、食事休憩の直後では仮釈放が認められる割合が65%だったのに対し、休憩直前では20%しか仮釈放が認められませんでした。空腹で、丁寧に裁定する意志力が残っていなかったようです。 選択とはやはり、生理的に決まる現象なのです。
脳外科医は手術中に患者の脳に電極を当て、ニューロン間の電気信号のやり取りをスピーカーに流し、電圧の微小な変化を音声に変換して、それを頼りに手術を行います。電極を当てる場所によって「ポンポンポンポン」になったり、「ポン…ポンポン…ポン」になったり、音のテンポが変化しますが、流れる情報の内容によっても神経ネットワークはそれぞれ異なる音を発します。 脳には痛みの受容体がないので、手術中でも患者と話をすることができます。上の有名な騙し絵「若い女性と老婆」の絵を見せ、若い女性と老婆のどちらが見えるか尋ねると、若い女性と答えた時と、老婆が見えたと答えた時では、「ポン」のテンポが異なります。これは、電極を当てた個所のニューロンが独力で知覚の変化を起こしているわけではありません。一つのニューロンは何千という他のニューロンとつながり合い、蜘蛛の巣のようなネットワークを形成しており、何十億というニューロンの協働の結果、音のテンポが変化するのです。観測者が捉える変化は、脳の広大な領域で起こるパターン変化の反映であり、脳内で一方のパターンが他方に勝つ時、見え方が決定されます。 アイスクリーム屋でバニラとチョコのどちらの味にするか迷っている時も、バニラを選ぼうとするニューロンネットワークと、チョコを選ぼうとするネットワークが拮抗しています。それぞれのニューロン群は必ずしも隣りあっているわけではなく、感覚や記憶に関わる領域にその網を広げ、広範囲にまたがるネットワークになって自己を主張し合います。そして、ネットワーク同士のこの主張合戦こそ、私達が悩み、葛藤している状態です。大脳では、こうしたジレンマが日々起きて、意識を生み出しているのです。 眼窩のすぐ上にある眼窩前頭皮質は、体の状態、空腹、緊張、興奮、当惑、渇き、喜びなどを、脳の他の部分に伝える信号の流れを統合していますが、ここを損傷すると肉体の生理的欲求がその時々の外部からの情報に価値を与えることがなくなるため、複数の選択肢から一つを選ぶことができなくなります。スーパーで買い物しようとしても、全ての商品についてそれを買う意義が、身体の欲求と関わりなく理性的に主張されるので、永遠にそれぞれの商品の有用性を比較計算し続ける人工知能のように、具体的な行動に踏み出すことなく立ち往生してしまうのです。美味しそうなものに出すよだれ。値段の高さに汗ばむ手。魚の缶詰で食当たりした記憶が生む背筋の寒け。それらが私達の選択と行動の源です。 人間は理性だけでは決められません。決断には生理状態や感情が不可欠なのです。
意識とは何かについての仮説(あくまでもこれって私の感想ですが)について話しています。普段は原稿の音読ですが、今回は初めての、原稿無しのフリートークになりました。内容は、「意識とは、苦しみのこと」という仮説の検証を、以下のような仏教の話を交えながら進めています。 仏陀の説いた「一切皆苦」の謎。 世界には、苦しいことも、楽しいこともともにあるではないか? → サンスクリット語、古代パーリ語で言う「一切皆苦」の「苦」と、一般的な「苦しみ」との違い(中村元の著書より)。 仏教でいう「苦」とは、思い通りにならない状況、儘ならない世界における葛藤を表す言葉である。欲しいものが手に入らない渇望の状態ももちろん苦しいが、欲しいものが手に入ることで今度はそれが失われる不安の状態になるのも苦しみだということ。 すなわち、何かが欠けているのは不快だが、快感が失われていくことによっても不快になるということ。 仏教では、世界のあらゆる事物は変化し続けている、つまり「諸行無常」であり、いかなる事物も何らかの因果関係によって現れており単独で存在できる実体は無い、つまり「諸法無我」であるというこの世界のデフォルト設定が、「一切皆苦」の原因として説明されており、その「苦」に満ちた状態からの解放、つまり「涅槃寂静」が目指されている。 「四苦八苦」 「四苦」とは、生老病死という人間には避けようのない四つの「苦」。 「八苦」とは、四苦に加えて誰もが必ず経験する「求不得苦」「怨憎会苦」「愛別離苦」「五蘊盛苦」 という4つ苦しみが人間にはあるということ。 求不得苦(ぐふとくく):お金、地位、名誉、物など手にはらないものがある苦しみ 怨憎会苦(おんぞうえく):妬みや憎しみなど嫌な感情を抱く人と出会う苦しみ 愛別離苦(あいべつりく):どんなに愛するモノであっても、いつかは必ず別れなければならない苦しみ 五蘊盛苦(ごうんじょうく):体や心が思うようにコントロールできない苦しみ
1987年5月23日の夜、自宅でテレビを見ながら眠りに落ちたケン・パークスは、妻の実家で仲の良かった義父と義母を殺害した後、最寄りの警察署に出頭し「僕は誰かを殺した気がする」と告げました。遺伝的な睡眠障害のあった彼は、後に夢遊病であることが裁判で認められ、釈放されることになります。人は意識のない状態で車を運転し、殺人を犯すことも出来てしまうようです。 20世紀初頭の科学者フロイトは、それまで悪魔の憑依や意志薄弱で説明されてきた精神疾患の原因が、目に見えない脳の活動、無意識にあることを発見し、無意識の解明を患者の治療に応用しました。精神疾患に限らず、私たちが何を考えどう行動するかは、無意識によって決められているのです。 先に与えられた刺激が後の刺激の処理の仕方に影響を与える現象を「プライミング効果」と言います。例えば、暖かい飲み物を持った人と、冷たい飲み物を持った人に、家族との関係について質問すると、前者は好意的な意見を言い、後者はやや好ましくない意見を述べます。悪臭漂う環境にいる人は、他人の行為に対して倫理的に厳しい意見を持ったり、ビジネスの取引の場で硬い椅子に座っている人が強硬な交渉をする一方、柔らかい椅子に座っている人は譲歩しがちになったりします。 無意識に人々の行動に影響を与える「ナッジ」と呼ばれる注意喚起や控えめな警告もあります。スーパーで果物を目の高さに並べると客が健康的な食べ物を選択したり、男性便器に蠅の絵を貼るとうまく狙いをつけるようになったり、従業員を自動的な年金積立制度に加入させるとより良い貯金の習慣に繋がったり、人々の行動を無意識のうちにリードすることはできるのです。 無意識が思考と行動を決定するなら、自由意志はあると言えるのでしょうか。人間の脳には小脳と大脳があり、無意識的な運動を担っている小脳には大脳の数倍のニューロンがありますが、意識が発生するのは大脳です。大脳に意識が生まれ、小脳に生まれない理由は、それぞれの情報伝達を担う無数の神経モジュールが繋がっているか否かにあります。大脳では色や形や明るさ、音や臭いや味や熱さなど情報を伝えるモジュールが互いに結びついていますが、小脳にはそうした統合が見られないと統合情報理論では説明しています。百億以上のニューロン統合の組み合わせは如何なる存在にも予測不能なアウトプットを生じますし、外部からの情報と内部の生理との間には矛盾と葛藤が生まれますから、その辺りに無意識の停滞としての自由意志が存在すると言えるのかもしれません。
カップに入ったコーヒーをひと口すする、そんな単純な行動も何兆という電気インパルスが支えています。視覚系がコーヒーカップを捉えるためにその場を見渡すと、過去の同じ状況の記憶がよみがえり、前頭皮質から運動皮質へ信号が送られ、胴体・腕・前腕・手の筋肉収縮を正確に連係させてカップをつかみます。カップに触れると、神経はカップの重さ・位置・温度・取っ手のすべりやすさなどの情報を送り返し、その情報が脊髄を通って脳に流れ込むと、補完情報がまた送り返されます。基底核、小脳、体性感覚皮質、その他さまざまな脳の部位どうしのこうした情報の複雑なやり取りの結果、一瞬でカップを持ち上げる力や握力が調整され、長い弧を描くようにスムーズに口元までカップは持ち上げられ、やけどしないように液体が唇に流し込まれるよう筋肉の調整が行われます。 このような集中的な計算とフィードバックをやってのけるには、世界最速のスーパーコンピュータが何台必要になるか分かりません。ところが、その時意識されているのはテーブルの向こうにいる相手との会話の内容で、しかもその会話を成立させる唇の動きや呼気の調整も、意識されることはありません。私たちの運動のほとんどは、無意識のうちに行われているのです。 イアン・ウォーターマンという男性は、胃腸の流感による神経障害により、触覚と、固有受容覚という手足の位置に関する感覚神経を失いました。しかし、彼はその状態に屈することなく、手足の位置の全てを視覚に頼り、一つひとつの動きに意識を集中させることで、歩行できるようになりました。とはいえ、身体感覚無しに体を動かすということは、全自動で動いていたロボットの手足の動き一つひとつを手動で操作するような困難な作業です。人間と同じように運動することのできる全自動ロボットは、今のところ存在しません。 人間の運動のほとんどは小脳を中心に無意識的に行われています。スポーツや曲芸などは、いかに無意識的に行えるかが重要で、何かを意識するとむしろ動きが鈍くなります。では、行動の大部分が無意識的に全自動で行われるのなら、いつ意識は表れるのでしょう。それは、予想外に無意識の行動が阻害された時や、神経ネットワークが構築されていないような前例のない事をしなければならない時です。そのような状況における神経の葛藤こそ、意識の正体だと言えそうです。
ハンナ・ボスレーという女性は、アルファベットの文字を見ると色を感じるそうです。Jには紫を感じますが、Tは赤く見えます。Hannahという名前なら夕日のように見えます。黄色で始まり、だんだん赤色になったあと、雲のような色になり、また赤と黄色へと戻るという具合です。一方で、Iainという名前などは嘔吐物のように見えてしまいます。これは共感覚と呼ばれる現象で、感覚や概念が混ざり合って経験される状態です。右の例以外にも、言葉に味がする人や、音に色が見える人などがいます。 私たちが見たり聞いたりしているものは、視覚や聴覚や味覚が捉えた光波や音波や分子が電気化学信号に変換され、脳の神経ネットワークで流通された結果生じる内部モデルです。人口の約3%いると言われる共感覚者の脳は、感覚領域間で信号の交じり合いが生じるようになっているため、他の人たちとは異なる内部モデルを作り出すのです。 人間は、周囲の世界には色があるものだと思って暮らしていますが、実際には外部世界に色はなく、電磁放射線の一部が物体に当たって反射したものを私たちの目が捉え、脳が何百万という波長の組み合わせを色として解釈し、内部モデルを作って色の経験が生まれるのです。しかし、人間の視覚でとらえられる可視光線は電磁スペクトルの十兆分の一にも満たず、赤外線や紫外線、電波、マイクロ波、X線、ガンマ線、携帯電話の会話、ワイファイなどは、私たちを素通りして色を生成しません。これらを捉える生物学的受容体がないためですが、他の生物もそれぞれに限定された異なる現実の一片を捉えて自分たちの現実モデルを作っています。ダニなら温度と体臭を、コウモリなら空気の疎密波の反響定位を、ブラック・ゴースト・ナイフフィッシュなら電場の摂動を基に現実を作るわけです。 時間もまた、脳が生み出す現実です。高いところから落下したり、自動車で衝突事故を起こしたりした瞬間、私たちは時間がゆっくりと進むように感じることがあります。内部モデルは新しい情報を入手する必要がない限りアップデートせずにカロリー消費を抑えているのですが、危険な状況では一瞬の間に通常の何倍・何十倍も外部の情報が更新されるため、その情報量が時間に変換して感じ取られ、時間が延びたように感じるのです。情報量が時間感覚を作り出すのです。 さて、日本語には、「つるつる」とか「ごつごつ」といった様子を音声として捉える擬態語がたくさんありますが、これは民族的な共感覚と言えるのかもしれません。
事業家であり、パラリンピックのスキー滑降金メダリストでもあるマイク・メイは、3歳で角膜が傷つき失明しながら、視覚を使うことなくスポーツでも事業でも超一級の結果を出していました。その彼が角膜手術を受けて、約40年を経て再び光を取り戻した時に見たものは、目の前に広がるただの光の大洪水に過ぎませんでした。色も形も無い光のシャワーの中に、ぼんやりとした暗い部分が散在するだけで、彼には物体が何かが分からず、奥行きの概念も分からず、光が戻る前よりもスキーは難しくなりました。 今あなたの目の前に見えている物の色や形や奥行きは、客観的に実在するものではありません。外界にあるのは太陽や電灯から放たれた光の反射だけで、眼球を通して網膜が捉えているのは光の波です。それが電気化学信号に変換され、脳内のニューロン間を駆け巡ることで色や形や奥行きが作られ、感覚として経験されるのです。 人間の脳の三分の一は視覚のために使われていますが、聴覚や臭覚や味覚や触覚にしても同じことは言えます。外界には音も臭いも味も、熱さ冷たさもありません。各器官が、受け取った空気の波・臭いの分子・味の分子・温度・質感を電気化学信号に変換し、その伝達が脳内に感覚経験を生むのです。 感覚経験は努力なしに自然と形成されるものだと思われがちですが、そうではありません。内壁に縦縞の描かれた円筒の中に2匹の子猫を入れ、一方の猫が歩くことで円筒が回転するようにします。もう一匹は中心軸に繋がった吊り篭に乗せられて動かない時、正常に視覚を発達させることができるのは、自ら動く子猫だけです。ヒトの赤ちゃんも運動によるフィードバック無しには見えるようにも聞こえるようにもなりません。車の運転席で運転する者と、ぼんやり助手席に座る者を比べると、前者の方が多くの物を見ています。 左右が反対に見えてしまうプリズムゴーグルを着けると、あるべき所にあるべき物がない世界でヒトの脳は混乱し、吐き気さえ催すようです。ところが、その状態で2週間も生活してみると、左前方に見えているものを違和感なく右手で右前方から取れるようになり、料理さえできるようになります。 画家や写真家は美しい絵や写真を生み出すために、観察力を全開にして風景を見ます。運動神経にとって有意義な情報を生み出そうとする努力が五感を発達させ、脳内に意味を持った感覚を形成するのです。
近代合理主義の父である哲学者ルネ・デカルトは、魂が身体の一部である脳とは別に存在すると主張しました。脳の要素のほとんどは左右一対ずつあるのに対し、二つの大脳の間、脳の正中線上にある松果腺は肉体と精神をつなぐ特別な器官であり、感覚器官からの入力はこの魂の入り口に流れ込み、非物質的な魂の思考に作用する、というのが彼の説明です。松果腺は、概日リズムを調整するホルモン、メラトニンを分泌する内分泌器だと現代では解明されており、魂への入り口ではありませんでした。また、彼の言う魂・精神・心が、「意識」のことを指すのなら、その心身二元論は神経科学を無視した考えだと言わねばなりません。 1966年8月1日、チャールズ・ホイットマンという25歳の青年が、テキサス大学の構内で無差別に銃を発砲、13人を殺害し、自身も警察によって射殺されるという事件が発生しました。事件前夜、彼は既に妻と母を殺害しており、遺書も書いていました。そこには、「最近、わけのわからない異常な考えが次々と襲ってくる。・・・死んだら検死解剖をして、目に見える身体疾患があるかどうか調べてほしい。」と書いてありました。 事件後、検死解剖をした彼の脳には5セント硬貨ほどの腫瘍が見つかり、恐怖と攻撃に関与する偏桃体と呼ばれる脳の領域が圧迫されていました。小さな腫瘍が、穏やかで快活な青年として評判だった彼を殺人鬼に変貌させたのです。悪魔にではなく、腫瘍に魂を奪われたと言えるでしょう。 人の脳の構築プロセスには25年かかると言われ、幼少期と思春期直前に脳の中で大量の神経細胞の接合・シナプスが生成された後、不要なシナプスは刈り込まれ、有用なシナプスは強化されます。十代の頃は、内側前頭前皮質という自分のことを考えるときに活発になる領域の成長がピークに達するため、成人に比べ非常に強い自意識のストレスが生まれます。また、側坐核など快楽追及に関わる領域の活動は成人と変わらないのに、実行の決断や配慮、未来に対するシミュレーションに関わる眼窩前頭皮質の活動は子供の頃と変わりません。強い自意識と未熟な判断力による若者の危険行為は、認知面の問題というより、成長過程にある神経が引き起こす物理的必然性の結果なのです。 このように、脳の神経作用という物理的反応が意識=心であるなら、心と身体は不可分です。ただし、デカルトの言う魂が、思想など「情報」のことであるなら、それは言語によって伝達可能な、脳の中を出たり入ったりする、身体とは別の非物質的存在と言えるのかもしれません。
もし人類が意識を持たなかったら、この世界は存在していると言えるのでしょうか。もしある人が生涯を無意識のまま終えるとしたら、それは人生と言えるのでしょうか。私たちを取り囲む空間も時間も、私たちの意識無しには有り得ないものかもしれません。 一般に、意識は脳が作り出していると考えられています。確かに脳がなければ意識は生まれようがないでしょう。でも、脳だけで意識が生まれるとも言えません。何かが意識されるには、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚などの五感を請け負う目や耳が必要です。もちろん、五感等の感覚神経を失っても、思考することはできます。「われ思うゆえに我あり」と17世紀の哲学者デカルトが言ったように、思考があれば意識もあると言えるかもしれません。しかし、考える対象・情報がなければ私たちは何も考えようがありません。五感にしても、その対象となるものがなければ見ることも聞くこともできず、意識は生まれようがありません。意識は、脳を構成する神経細胞と目や耳などの感覚器官だけでなく、対象となる事物や情報によって生成されるとも言えるでしょう。 事実、睡眠状態と覚醒状態の脳波を測定すると、脳を構成する何十億というニューロン・神経細胞は、睡眠中でも覚醒中と同じくらい活動していることが分かっています。脳の活動だけでは意識にはならないのです。ただ、睡眠中の脳波は低周波で振幅が大きく単純なリズムであるのに対し、覚醒中のそれは高周波の小さな振幅で不規則かつ複雑になっています。この不規則性に、意識の謎が隠れているようです。 人間のニューロンは大人と赤ちゃんで数は同じです。両者の違いはニューロン同士の接合・シナプスの量にあり、生まれた時のニューロンはそれぞれ異質でまだ繋がっていません。ところが生後の2年間で、外界からの不規則で多様な感覚情報を取り込む間に、毎秒200万ものシナプスが形成されるようになり、2歳までにその量は100兆以上、大人の2倍に達するのです。新規の情報に接する度にシナプスは形成され、その状況に対応しようとします。意識とは、新しいシナプスの形成が進行する状態を指すのかもしれません。 さて、大量に増えた赤ちゃんのシナプスはやがて半減してしまいます。これは、それぞれの自然環境・社会環境に適応するために不要なシナプスを除去し、有用なシナプスを強化するためです。日本人も赤ちゃんの時は英語の「R」と「L」の発音が聞き分けられるのですが、日本語では共に同じラ行音として聞こえる必要があるため、一つに統合されてしまうというわけです。
人類の歴史は、その幸福にどんな意味を持っているのでしょうか。農業革命は大量の余剰食糧を生み、人口増加と文明化をもたらしました。しかし、人々は農耕可能な限られた土地に縛られ、穀物に依存して栄養状態は偏り、厳しい身分制や国家による戦争と殺戮を受け入れなければならず、狩猟採集時代の行動の自由や多彩な栄養を得る機会は失われました。 近代科学革命と資本主義により、人類の富は指数関数的に増大し、小児死亡率と平均寿命も改善しました。しかし、環境破壊で大量の生物種が絶滅し、交通事故による死、経済不況や社会関係による自殺、帝国主義戦争による大虐殺を引き起こしました。現代は比較的紛争が少ないですが、それも核の恐怖による平和です。 幸福についての研究は、富が拡大すれば一定水準までは確かに幸福度が上がると報告しています。しかし、貧困家庭が宝くじで一千万円を獲得するのと、億万長者が株取引で一億円得るのとでは、前者の方が喜びは大きいでしょう。一定水準を越えた富は幸福に影響を与えません。 生化学者は、人の主観的な快を決めるのは富や社会的関係ではなく、セロトニンやドーパミン、オキシトシンなどの生化学物質が血液や神経で働く複雑なシステムであると言います。快感は人によって一定の水準が決まっており、一~十の段階があるとしたら、ある人は六~十の間で揺れ動きながらレベル八で落ち着き、ある人は三~七の間で変動してレベル五に落ち着くそうです。生化学物質が安定レベルより上に快を引き上げれば幸福を感じ、下げれば不幸を感じますが、その上限下限は決まっているわけです。 生化学に対し、経済学者ダニエル・カーネマンは、生活や人生に意義を感じられるかどうかで幸福は決まると言います。子育ては種々の不快を親にもたらしますが、多くの親は子供こそ幸福の源泉だと感じます。哲学者ニーチェは、再び繰り返したいと思えるような意義ある人生を生きるべきだと言いました。 人類は認知革命後、貨幣などの諸制度や、倫理と価値を生む諸信仰を創造し、そうした共同主観的現実=虚構の中で子を産み、育て、死んできました。その社会は、大宇宙と大自然の脅威の中に浮かぶサピエンスの巨大で繊細な揺り籠のようなものです。その小さな揺り籠の中で人類は今後も飽くことなく快感や意義を求め続けることでしょう。現代の科学は、遺伝子操作やサイボーグ工学によってAIと脳の接続や不老不死まで目指し、人類を神の高みへと上げつつあります。 そんな欲求の先に人類の幸福があるのか、別の幸福もあるのか、私たちは汝自身を知る必要がありそうです。
ある人が銀行を始める。そこに建設業者が一億円預金する。パン職人がその銀行から開店のため一億円を借りようとする。その将来性を信頼した銀行は一億円を融資して、パン職人の口座へ入れる。パン職人は前出の建設業者に店の建設を依頼し、建設業者の口座へ借りた一億円を振り込む。この時、建設業者の口座には二億円が入っている。しかし、この銀行に実際にある現金は一億円だけ。 資本主義社会では、このような架空のお金を「信用」と呼びます。銀行は実際に所有する現金以上の額を、利子をつけて返済できる様々な個人や企業に貸すことで、実際の何倍もの架空のお金「信用」という虚構を生み出しているのです。 近代ヨーロッパは、科学革命が示す「進歩」と帝国主義が示す「拡大」を根拠に、「成長」という新しい信仰を創造しました。経済学者アダム・スミスは一七七六年に出版した『国富論』で、「利益を得た起業家がその利益を投資に使い、人を雇って更に利益を増すことが、全体の富と繁栄を生む」と論じていますが、科学と帝国への投資が、その進歩と拡大という利益を生み、資本主義への信仰を強めたのでした。 きっかけは、コロンブスなど探検家への投資でした。新大陸や新航路の発見は、植民地の拡大と富の獲得をもたらし、冒険や征服事業への更なる投資がなされ、スペインとポルトガルの大帝国が誕生しました。その後、オランダがこれを抜いて海上帝国を作り、イギリスが更にそれを抜いて、フランスと競いながら大英帝国を築きます。これらヨーロッパの帝国は、税と略奪に依存したアジアの帝国に対し、信用制度や株式制度に基づく資本家の投資に依存したため、はるかに多くの資金に恵まれたのでした。また、征服事業を実際に請け負っていたのは国家ではなく、東インド会社などの民間企業であり、イギリスがインドなど植民地を直接統治したのはずっと後のことでもありました。 資本主義を飛躍させたのは、一七世紀イギリスに始まる産業革命です。それは、今まで化学的なエネルギーの変換を、食物を筋力に変える肉体に頼っていた人類が、蒸気機関によって熱をエネルギーに変換する術を身につけた革命でした。その後、石炭、石油、電気、原子力、バイオエネルギーなど、科学は新たなエネルギーを発見し、またアルミニウムやプラスチックなど新たな材料も発見し続け、農作物や家畜の命も増産し続けているため、その限界は知識の限界に過ぎなくなりました。 全利益を投資に回す資本主義はある意味で禁欲的宗教ですが、それは無限にエネルギーと材料を浪費する消費主義と裏表の関係で今この瞬間も回転しています。
西暦一〇〇〇年頃のスペインの農夫が、五〇〇年後の同じ土地にタイムスリップしたとしても、見知らぬ人々が営むその生活にカルチャーショックは受けなかったかもしれません。しかし、コロンブスに雇われた水夫がiphone 時代のニューヨークに到達したら、そこは天国か、地獄か、全くの異世界に見えることでしょう。 人類は認知革命や農業革命の前後で、全く異なって見える社会を形成し、人口と財と消費カロリーは飛躍的に拡大しました。しかし、五〇〇年前にユーラシアの西の辺境で始まった革命は、それ以前の革命を圧倒する急速な変化を人類社会に今も与え続けています。科学革命です。 歴史は原因と結果の連鎖ですが、その連鎖は必然的な運命に定められたものとは言えません。そこには常に偶然性が宿り、仏教やキリスト教やイスラム教ではなく、ゾロアスター教やミトラ教やマニ教が三大宗教と呼ばれていた可能性を否定する絶対的な根拠はありません。同様に、科学革命が中国やインド、イスラム社会や中米ではなく、ヨーロッパで起きたことにも絶対的な必然性はありません。この地が、中国やインドやギリシア・ローマの諸学を吸収したイスラム世界や、大西洋を挟んで南北アメリカ大陸に接していたことが、偶然のきっかけとなったのです。 近代科学にはそれ以前の知の体系と全く異なる三つの形式があります。それは、①真理について無知であることを自覚し、②観察したあらゆる現象を数学で示し、③数学化した知をテクノロジーに変換することです。近代以前は、孔子やブッダやキリストやムハンマドなど、いにしえの聖人や預言者が全ての真理を発見したことを前提とし、それを理解するのが学問でした。ところが近代科学は、誰もまだ知らないことを理解するのが学問だと考えたのです。イスラム経由で伝えられた古代ギリシアの諸学は、カトリック教会の神学に批判の目を向けさせ、「どうも教会は真理を知らないらしい」という認識を生みました。それはやがて、「キリスト教自体が真理を知らないらしい」という認識や、「神様ご自身が真理を知らないらしい」という認識にまで至り、人間こそ無限に広がる未知を知りうる唯一の存在だという新たな信仰をヨーロッパに創り出します。 でも、信仰の変化だけで革命にはなりません。新大陸という未知の世界を発見すると、空白の地図を埋めるように植民地獲得を続ける帝国が生まれます。そして、帝国が科学に投資をしてテクノロジーを獲得、その力で征服事業を進めて財を成し、更に研究に投資をするという循環が成立します。科学と帝国主義のコラボレーション、それが科学革命だったのです。
サピエンスの世界を統一、グローバル化していった最強の秩序は「貨幣」でした。あと二つ、これに匹敵する秩序として挙げられるものがあります。「帝国」と「宗教」です。 帝国と言えば、映画や小説の中ではたいてい悪役を演じ、多くの国々や民族を強力な軍事力によって侵略していく存在として、否定的に扱われています。しかし、文明化された社会で暮らすほとんどの人々は、何らかの帝国によって統一された文化を継承することで、そんな映画や小説を楽しんでいるのです。古代のヌマンティア人はローマ帝国の支配と戦って滅び、後にスペイン民族の精神的支柱となりましたが、彼らを讃えるスペインの言語と文化はローマ帝国のそれを継承するものでした。世界の大半は、何らかの帝国に侵略された悲劇を経験すると同時に、その帝国の文化を継承しているのです。 最初の帝国アッカドは周辺の諸民族を支配し、皇帝サルゴンはメソポタミアの一角を統治したにすぎないものの、全世界の統一者を自任していました。その後のアッシリアや新バビロニアの皇帝たちも同様に諸民族を統一し、無限の拡大を志向しますが、ペルシア帝国のキュロスなどは「お前たちを征服するのはお前たちのため」という明確な信念を持っていました。この信念はマケドニアやローマ、イスラムやインド、中国、アステカ、そして後のソヴィエトやアメリカにも共有されていました。帝国は、分断されていた世界に思想・制度・習慣・規範の統一をもたらし、それによって効率的な支配をしつつ、流血の正当化をしていったのです。 宗教も、そんな諸帝国によって広まり、世界を統一する秩序の一つとなりました。マウリヤ朝は仏教を、ローマ帝国はキリスト教を、漢王朝は儒教を、アラブはイスラム教を、イギリスは自由主義を、ソヴィエトは共産主義を、アメリカは民主主義や人権を広め、サピエンスの社会秩序に超人間的な根拠を与えていったのです。 狩猟採集生活の頃は森羅万象や死者の霊を他者として尊重するアニミズムが信じられていましたが、農耕の開始とともに人間に特別な地位を与える神々への信仰、多神教が生まれます。そして、その中から善悪二元論のゾロアスター教やマニ教、古代エジプトのアテン神信仰やユダヤ教に始まる一神教のキリスト教とイスラム教、自然の法則を信奉するジャイナ教や仏教、儒教や道教、ストア主義やエピクロス主義、自由主義や社会主義や人権など、布教される宗教が登場します。 これにより世界は、普遍的秩序という虚構を共有できるようになったのでした。
農業革命以後、想像上の構造物はますます複雑になり、サピエンスの子供たちは生まれた時から既存の神話と虚構を刷り込まれ、特定の方法で考え、行動し、特定の欲望を持って、特定の秩序の中で生きるように習慣づけられました。そうした人工的な本能のネットワークを、人間は文化と呼びます。 二〇世紀前半まで学者たちは、どの文化にもそれを特徴づける普遍の本質があると考えていましたが、現代では、近隣の文化との接触や、自らのダイナミクスによって、文化は絶えず変化するものだと考えられるようになりました。 中世のヨーロッパの文化には、富や欲や名誉を超越することを理想とするキリスト教の価値観と、富や欲や名誉の獲得に命を賭ける騎士道の価値観がありました。そして、この二つの信念の矛盾を解消する取り組みとして、十字軍の遠征や騎士団の創設が行われたのです。近代ヨーロッパには、好きに行動することと格差の拡大を是とする自由という人権と、行動の制限と公平の促進を是とする平等という人権が、互いに矛盾しながらも文化としての正当性を持ちました。そして、その矛盾を解消するために、様々な思考と行動が生まれ、改革・革命・戦争を通して社会の形を変えていきました。こうした矛盾、「認知的不協和」が、文化のスパイスとなって変化を促していったのです。 こうした文化の変化には一つの方向性があります。それは、小さく単純な多数の文化が、大きく複雑な少数の文化にまとまっていく、統一・グローバル化という方向性です。「私たち」と「彼ら」に分断された世界を統一していく秩序は幾つか挙げられますが、その中でも最強のものとして考えられるのは「貨幣」です。 貨幣は、人類の生み出した最大の共同主観的現実であり、十字軍の頃、激しく対立するキリスト教徒とイスラム教徒の間でもこの秩序だけは共有されていました。貨幣のなかった時代には、物々交換で交易が行われていましたが、これでは各商品間でそれぞれ交換価値が決まるため、百種類の商品間で四九五〇通りのレートの暗記が必要になります。しかし、皆がタカラガイの貝殻の交換価値を信じれば、全ての品は貝殻幾つ分かを考えるだけで良くなり、それと交換できるのです。 古くは貝殻のほか、塩や穀物、珠や布が貨幣の役割を果たし、今日でも監獄などではタバコが貨幣として流通しています。現代の硬貨も紙幣も仮想通貨も、それ自体に物理的な価値は無いのに、みんなが信じていると信じることで、何にでも化け、どんな敵対者同士にも共有されています。最強の虚構だと言えるでしょう。
農業革命後、サピエンスは文明社会を築きますが、その文明には不可欠なものがありました。書記能力です。数万~数十万の人々の税や裁判の記録を全て脳の中に記憶しておくことはできません。脳の外部に記録するというデータ処理でこれを初めて可能にしたのは、古代メソポタミアのシュメール人でした。初めは、モノの名前と数量しか記すことのできない不完全なものでしたが、やがては神話や歴史、ハンムラビ法典のような法律を記録する完全な書記体系も人類は獲得したのです。 文明を支えたものは書記だけではありません。ハンムラビ法典では人々は上層自由人・一般自由人・奴隷の三つの身分に序列化されていましたが、大規模な協力ネットワークを維持するための秩序には常に、人間を階層化するヒエラルキーがありました。貴族が奴隷より、白人が黒人より、金持ちが貧乏人より、多くの権利を持っていることは、それぞれの時代・地域の共同主観的秩序において常識とされています。スーパーでお金を払って買った人がその商品を持って帰れるのは当然ですが、お金を払わないで持って帰れば罪になります。それと同じように、黒人が白人専用のバスの座席に座るのも、奴隷の男が貴族の娘とデートをするのも、それぞれの時代では罪とされました。生物学的には優劣がなくても、財産、人種、身分、性別、あるいは学歴に応じて権利の有無が決まることは、神の定め、あるいは自然の摂理として認識されるのです。 こうしたヒエラルキーは、全て偶然の成り行きで形成されます。インドのカースト制は、侵略した集団が侵略された集団を支配した結果に過ぎません。アメリカ大陸で黒人が奴隷となったのは、アフリカ大陸の奴隷マーケットがヨーロッパより発展しており、アフリカ人奴隷がヨーロッパ人奴隷より熱帯の環境に適応した優れた労働力だったからにすぎません。しかし、作られた序列環境が進行していくと、実体的な格差が拡大し、各階層のアイデンティティも強化されてしまいます。 どの地域や時代にも見られる序列に男女のヒエラルキーがありますが、男は男らしさを、女は女らしさを示すことで社会に承認されようとするので、その違いがますます強くなるのです。同様に、貴族は貴族らしく、奴隷は奴隷らしく、白人は白人らしく、黒人は黒人らしく振る舞って、想像主観的秩序の中での社会的評価を得ようとするため、それがヒエラルキーの正当性を更に支持してしまうのです。 その形態や組み合わせは変わっても、ヒエラルキーが想像上の秩序によって生み出され、同時にそれを強化し、それに客観的正当性を与える仕組みは普遍的です。
農業革命は、サピエンスに繁栄と進歩をもたらした大きな一歩だという考えがある一方で、地獄のような苦痛との戦いをもたらしたという考えもあります。 確かに、スマートフォン一つで様々なサービスを享受できる今の私達にとっては、現代文明を築くために不可欠な革命だったと言えます。しかし、近代以前の人類の歴史において人口の9割以上を占めていた農民の長く過酷な日々を思う時、広大なエリアを住み処としていた狩猟採集生活より、地球上極端に限定された猫の額のような農耕地に寄り集まって、人口の1割に満たない上層階級に身をすり減らして生産物を貢納し続ける日々が幸福だったとは、簡単には言えないでしょう。 それでも、ひとたび農耕生活に入った人類は決して後戻りすることなく、地上のわずか2%の土地に家を作り、村を作り、町を作り、国を作り、広大な未開地に囲まれたそんな人工の島から抜け出せない生き物になっていくのでした。 ところで、人工の島で生きるようになったサピエンスの社会には、偉大な発明とも言える二つの虚構が発達していきます。その一つは時間です。もちろん、狩猟採集生活においても物語を共有する人類には、過去・現在・未来の意識はありました。でも、必要な食物だけを日々入手していた狩猟採集と異なり、農耕生活は季節に応じて作業を進めていく必要がありますし、旱魃や洪水などの脅威に備えて食料を貯蔵しておく必要もあります。何日も先、何年も先の、未来に対する不安を語り合い、対処していくことで、概念世界に時間が拡大していき、暦や時間に追われる人類の性質が生まれてきたのでした。 人工の島で発達したもう一つの虚構は秩序、または、正義・倫理・道徳と呼ばれるものです。狩猟採集民も数十人から数百人の人々が、語り合いを通して秩序を共有していましたが、農耕とともに生まれてきたエジプト、アッカド、アッシリア、バビロニア、ペルシア、秦朝、ローマなど諸帝国では、何十万~何百万もの臣民を支配し、何万もの兵士や役人を抱えていたため、より強力な秩序が必要でした。アリやハチの群れのように遺伝子レベルで秩序立った行動ができるわけではない人類は、容易に悲劇的な対立に陥ります。それを防ぐ働きを果たすのが、神話の共有です。 古代のハンムラビ法典が説く身分制と「目には目を」の原理も、近代のアメリカ独立宣言が説く自由・平等の人権も、人々が共有する神話に基づいた共同主観的想像上の秩序であることに変わりはありません。ハンムラビ法典は、ハンムラビ王ではなくエンリル神やマルドゥク神が定めたもの、自由と平等の人権は、トマス・ジェファソンではなく創造主に約束されたもの、あるいは市場原理は、アダム・スミスではなく自然法則なる神の見えざる手が決めたもの、そう人々が信じることでそれぞれの社会の秩序は守られます。更にこの秩序が、王宮や聖剣や宝冠、国会議事堂やバリアフリーの公共バスやナイキのスニーカーなど、建物・道具・装飾具といった人工物の形を定め、それらを求める私達の欲望を作るため、人々からの一層の支持と信仰を得ることができるのです。
一万年ほど前、サピエンスの一部は幾つかの動植物の生命を操作する知恵を得て、それに時間と労力のほぼ全てを傾け出しました。土を耕し、種をまき、水をやり、雑草を抜き、羊を草地に連れていき、朝から晩までそうやって働いてより多くの食料を確保する、農業革命です。 農耕は、紀元前九五〇〇年~八五〇〇年ごろ、トルコ南東部・イラン西部・レヴァント地方といった限られた範囲でゆっくり始まりました。七万年前にこの地域へ進出したサピエンスは、その後の数万年間は狩猟採集をしていましたが、一万八〇〇〇年前に氷河期が終わり温暖化が始まると、小麦など穀類にとって理想的な環境が生まれ、これを食する機会が増えました。穀類は選り分け、挽き、調理しないと食べられないので、一時的な野営地で処理するようになります。人が採集して棲み処へ運ぶと、途中で幾粒もの穀類が落ちてその生息範囲が周囲に広がります。また、狩りのために森や藪を焼き払うと、穀類はその土地の日光と水と養分を独占でき、ますますその数は増えたので、人はこうした一部の植物種の世話にのめりこむようになっていきます。放浪生活は次第に捨てられ、季節的な野営地や永続的な野営地を作り、手の込んだ方法で特定の植物種を栽培するようになりました。 こうして紀元前三五〇〇年までの数千年間に、中東・中国・中央アメリカで、現代人が摂取する九割以上の植物種、小麦・稲・トウモロコシ・ジャガイモ・キビ・大麦などが栽培されるようになりました。この結果、人に栽培された植物種は、それよりはるかに多くの植物種が森林の焼き払いで絶滅していくのを尻目に、種としては空前の大繁栄を達成したのです。 一方で、馬・羊・牛・豚・鶏などの動物種も人の家畜となることで、大小様々な動物種が狩り尽される中、種としての繁栄は獲得しました。しかし動物の場合、種としての繁栄が個の幸福を意味するわけではありませんでした。野生の鶏の寿命は七~一二年、牛は二〇~二五年ほどですが、家畜化された彼らは生後数週間から数か月で殺され、食肉処理されます。農耕用の牛は、何年も殺されずに済むとはいえ、生来の衝動や欲望や社会性を絶たれ、去勢され、鞭振る霊長類に屈し、意味も分からず死ぬまで鋤を引き続けます。 でも、それは彼らだけの悲劇ではありませんでした。農耕による食料自給で人口は増えましたが、人が増えれば需要も増え、飢饉による餓死や、定住による感染症、栄養失調も増えます。貧富の格差や争いの規模も拡大し、狩猟時代より労働時間も増えて、腰は曲がります。あるいは人類も、穀類の家畜となったのかもしれません。
言語による物語、虚構の世界を手に入れる認知革命を経たサピエンスは、ネアンデルタールなど先輩の人類種が絶滅していく中で、その勢力範囲を次々と拡大していきました。7万年前にアフリカ大陸からユーラシア大陸に進出した後、4万年前にはオーストラリア大陸へ、1万6千年前にはアメリカ大陸に行き着きます。 このようにユーラシアの外、南太平洋の大海原や北極圏の大氷原を越えていくことができた人類種はサピエンスだけでした。認知革命は、あらゆる環境を活用する術を身につけ、大海を越える筏や櫂、氷雪に耐える毛皮の防寒着など、様々な道具を作り出すことを可能にしたのです。更に、言語ネットワークで繋がる社会性がこの大冒険を実現させたと考えられます。 サピエンスの生活圏拡大は、一方で他の生物種、特にタンパク質の豊富な大型動物にとって最悪の脅威でした。海は人類だけでなく、あらゆる陸上動物にとって障壁だったため、オーストラリア大陸やマダガスカル島など遠隔地の生物は、地球上で独自の進化を遂げていましたが、サピエンスの侵入によって大絶滅に追いやられていきます。オーストラリアには独特の有袋類が数多く生息していましたが、数千年の内に、体重200キロ体長2メートルのジャイアントカンガルー、大陸最大の捕食者だったフクロライオン、2.5トンもある巨大なディプロドトンなど、50キロ以上の有袋類24種のうち23種が絶滅しました。アメリカ大陸では、マンモスやマストドン、クマほどもある巨大な齧歯類、馬やラクダ、巨大ライオン、サーベルタイガー、身長6メートルのオオナマケモノなどが、サピエンスの侵入後2千年の間に姿を消しました。北米では大型哺乳類47属のうち34属が、南米では60属のうち50属が失われ、何千種というもっと小さな哺乳類や爬虫類、鳥類、昆虫やその寄生虫が絶滅させられたのです。彼らにとってサピエンスは、史上最も危険な種でした。 さて、認知革命後サピエンスは、この狩猟採集生活を数万年間続けていましたが、農業革命後の1万2千年や、産業革命後の200年に比べ、それは非常に貧しく、不健康で、知的レベルの低い野蛮な生活だったと考えられがちです。確かに子供の死亡率は非常に高く、今日ではたいしたことのない怪我で命を落とし、動けなくなった怪我人や老人など弱者は置き去りにされました。しかし、運動能力や器用さや自然に関する知恵に優れた彼らは、農耕民のように麦や稲の世話のため一日中働く必要がなく、企業社会の過労死もない、3日に1日3~5時間の狩猟採集で偏りのない様々な食料を好きなだけ摂取することが許された、エデンの園の住人だったとも言えます。
私達は言葉を、どんなことに最も多く使用しているかというと、噂話の類でしょう。学校でも職場でもテレビでも、ゴシップほど盛り上がり、人間に快感を与えるものはないのかもしれません。一説に、この快感が私たちの祖先の脳に、クジラなどの高い知能を持つ動物や、ネアンデルタールのような他の人類種を圧倒する、認知革命を引き起こしたと考えられています。噂話が人間に語る力を与え、記号と情報の世界を発展させたのです。 7万年前のアフリカで起きたとされるこの認知革命と器用な手指により、サピエンスは先行したどの人類種よりも、更に多くの道具を作ることができるようになります。しかし、この革命が持つそれ以上に大きな意義は、自然界には存在しない存在、つまり虚構を語ることができるようになったことです。 自然界に存在しない存在としては、例えば霊魂や神々や半獣神の物語が挙げられますが、民族や国家、権利や義務、正義と悪といった概念も自然界には無いものです。過去・現在・未来といった時間の流れも、自然界にあるのは今この瞬間だけですから、虚構と言えます。万有引力の法則や相対性理論も見たり触れたりできないという意味で虚構です。私たちの文明を支える様々な概念は、自然界には存在しない虚構であり、人間はその虚構の共通認識を前提に、見ず知らずの他人同士でも集団として協力し合える社会を形成しているのです。もちろん、それを逆手にとって他人を騙す人たちもいますが、そうした嘘と虚構は別のものです。 アリやミツバチの群れは遺伝情報を数世代で共有しますが、それは同じ巣の近親者同士に限定されています。オオカミやチンパンジーなどの動物も群れを作りますが、実際に触れあう少数のごく親密な個体同士でなければなりません。実際に触れ合うことで上下関係のある組織化された社会を形成する場合、集団の大きさには限界があり、100頭を超す群れを動物学者が観察する例はごくわずかです。 認知革命によりサピエンスは、噂話の助けでずっと大きな集団の形成が可能になりますが、そこにも限界はあり、噂話でまとまることのできる集団はせいぜい150人だと言われています。今日でも、軍隊の中隊や中小企業は、互いに噂し合える規模では機能的な関係を維持しますが、150人を超えるとそうはいきません。 人類が数千数万人の軍隊や企業を運営し、数百万数千万人の都市や国家で秩序を維持できるようになったのは、神や人権、法や正義、国民や貨幣といった、自然界には存在しないものの存在、虚構を一緒に信じることができたからなのです。
どんな動物も、何かしらの言語を持っています。ミツバチやアリのような昆虫でさえ、複雑な意思疎通の方法を持っています。サバンナモンキーは鳴き声で「気をつけろ!ライオンだ!」と群れの仲間に警告したり、逆にライオンがいない時に「ライオンだ!」と嘘をつき、怯える仲間を騙して獲物を奪ったりします。クジラやゾウもそれに引けを取らぬ 言語能力を持っていますが、ではサピエンスの言語は、他の動物の言語と何が違うのでしょう。 直立二足歩行のアウストラロピテクスが、石器を使って死肉の骨髄を啜る生活を始めてから200万年間、人類種はサバンナで小動物を狩る程度の存在でしたが、40万年前の原人ホモ・エレクトスの頃には、大型動物を狩るほどに体も脳も道具の質も発展し、アフリカ大陸からユーラシアに広がっていきました。火を使って調理するようにもなり、これにより人類は腸の負担を減らし、その分のエネルギーを脳に回せるようになります。 20万年前にホモ・エレクトスとの生存競争に勝ったネアンデルタールに至ると、165センチを超える身長と現生人類より大きな脳を獲得し、衣服を着て氷期のヨーロッパで強力な狩人となり、死者を弔う文化と、独自の言語を持っていたと言われます。ユーラシア系の現代人のDNAの中には、1~4%だけ彼らのDNAが発見されており、アフリカを出た我々サピエンスの祖先と一部交雑していたことが分かっていますが、体格に優れ、言語を使う大きな脳も持ちながら、なぜかネアンデルタールはサピエンスに敗れ、絶滅してしまいます。 サピエンスの何が彼らより優れていたのか、はっきりとしたことは不明です。しかし、ネアンデルタールがユーラシアで活動していた頃、アフリカのサピエンスの脳に何かが起き、現生人類と同じ言語能力を獲得したという仮説が立てられています。 サピエンスの言語は、限られた音素の組み合わせでこの世界の物や現象に名前を付けて分節化する働きを持ち、分節化で生まれた単語が見ず知らずの人々の間を流通します。そして、切り分けられた事物が要素となって、物理的な現実とは別の、記号的実在の世界が創出されます。この記号的実在が生存に寄与する何がしかの道具としての性質を持つため、サピエンスは強いのです。 ところで、サピエンスの言語がその様な用具性を獲得したのは、噂話のおかげだと考えられています。群れの中の誰かについての愚痴や陰口が、サピエンスに物語る力を身につけさせたということです。 言うなれば、ゴシップがもたらした認知革命です。
ライオンは全ての草食獣を捕まえ、他の肉食獣に邪魔させないために、鋭い牙と強靭な筋力を獲得しました。動物とは、生存環境で起こる生命維持に矛盾した事態を解消するため、「動く」ことを選択した生物であり、種々の動きに伴って身体に掛かる負荷を克服しながら自己を強化して、その状況に適応した個体のみが生き残ることで、様々な種へと進化していきます。では、我らサピエンスは? 今から135億年前に物質とエネルギーが誕生し、やがて原子と分子が現れ、45億年前に地球が形成、38億年前に有機体が出現しました。その後数十億年の時を経て600万年前、DNAの98.4%が等しいと言われるヒトとチンパンジーが分岐し、250万年前にアフリカでホモ属が進化して最初の石器を使用、200万年前にはアフリカ大陸からユーラシア大陸へ拡がって、複数の異なる人類種へ進化していったというのが、古人類学で認識されているサピエンス誕生以前の人類の歩みです。 現在までのところ、アウストラロピテクスを始め、ホモ・ソロエンシス、ホモ・フローレシエンシス、ホモ・ルドルフェンシス、ホモ・エルガステル、ホモ・エレクトス等々、20種ほどの人類が確認されています。 環境や身体上の要因で直立二足歩行をするようになった人類は、やがて空いた手で道具を使うようになり、旧石器時代が始まります。更に、これと並行して言語による情報交換が、群れの中の個体間で行われるようになりました。こうした行動の選択は神経細胞を成長させ、脳を巨大にし、学習能力と社会構造を発展させることになったため、種としての大躍進を果たしたように見えます。ところが、実のところ道具の使用開始から200万年間、この特技は大した強みにならず、人類はサバンナの辺境で大型肉食獣におびえて生きる、取るに足らない負け組の種であり続けたのでした。 気候変動による森林の減少で樹上生活ができなくなったせいか、人類はエネルギー効率の悪い直立二足歩行を強いられますが、道具と言語の使用で肥大化したその脳も燃費の悪い器官で、過剰に栄養を必要としました。現代人の脳は体重の2~3%を占めるだけですが、体の消費エネルギーの25%を使います。更に、二足歩行は女性の産道を狭めたため、未成熟な子を出産せざるを得なくなり、養育に時間がかかるようになりました。偉大なはずの石器も、肉食獣が食い散らかした動物の死骸の骨を割って骨髄液を啜るために仕方なく使用していたものであり、雄々しい狩猟用の武器などではありませんでした。 しかし、この逆境こそが道具と言語と養育のための社会的連帯を発展させ、やがて人類を百獣の王へと昇らせるのです。
動物は自らの生命維持に矛盾する状況が立ち現れた時、その矛盾を解消しようと神経系統が働くことで「動く」生き物です。しかし、こうした感覚神経と運動神経による矛盾解消の作用が働く時、神経細胞には負荷がかかります。この負荷がかかっている状態がいわゆる意識だとすると、身体はできる限り早く負荷をなくして無意識に戻りたがるもののようです。 このように、神経の負荷をなくそうとする傾向は、身体の運動だけでなく、精神活動にも当てはまります。1973年に発表した論文で、ダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーはこの傾向「代表性ヒューリスティック」について述べました。では、ここでクイズです。「ドナルドは大学時代、成績優秀だったが独創性には乏しかった。人並外れて几帳面だが、その文章は感情に乏しく、SFの話をよくする。人付き合いは苦手だが、倫理観は強い。」これは、30人のエンジニアと70人の弁護士の中からピックアップしたある人物の性格描写ですが、ドナルドはエンジニアでしょうか、それとも弁護士でしょうか。 たいていは、彼をエンジニアだと答えます。しかし、実際には70%の確率で弁護士のはずです。人は思い悩むことを省略できる「代表制」によって予測し、確率を無視してしまうのです。 初対面の人に会った時、その人がどんな人なのか分からないカオスのままだと判断が下せず、神経は張りつめて休まりません。そんな時に、神経細胞に安らぎを与える役割を果たすのが、偏見やステレオタイプといった「代表性」です。相手の職業が弁護士だったらこんなキャラ、技術者だったらこんなキャラ、医者だったら、運動選手だったら、芸人だったらと、なんとなくその人物の性格に判断を下すことができます。もちろん、職業だけで人格が決まるわけではないということも分かってはいますが、それでも私たちはこうした偏見を頼りにし、人種、宗教、民族、国籍、県民性などで相手の人物像をなるべく早く決めてしまいたがるものです。 既に持っているイメージをもとにして判断を下すことを「予断」とも言いますが、これによって誤った判断や差別が引き起こされる可能性は十分にあります。先の例でも、客観的にはドナルドは弁護士である確率の方が高かったのですから。 とはいえ、人類はこれまで森羅万象に名前を付けてイメージを共有し、それをみんなが道具として活用することで、生命に襲いかかる矛盾を解消してきました。偏見は危険ですが、カオスに秩序を生み出し、文明を築くことこそ、私達ホモ・サピエンス最大の能力でしょう。
等速直線運動をする物体の速度を大幅に速くしたり遅くしたり停止させたりするには、大きな力が必要になります。同じように、動物の習慣化した行動を大幅に変えるには、大きな荷重を神経系に加えなければなりません。人間だって、ダイエットや禁煙はそれまでの習慣を大きく変えることなので、ある一定以上の力が必要になります。それは、習慣を維持しようとする「消去抵抗」を上回る力です。 動物の習慣的行動は、条件づけによって形成されます。条件づけとは、「こうすればああなる」という因果を学習させることです。特に「これをすればあれがもらえる」「これをしないとあれがもらえない」というように、報酬や罰によって自発的な行動が強化されることは、オペラント条件付けと言います。心理学者のバラス・スキナーは、このオペラント条件付けにより、ネズミにレバーを押すと餌がもらえることを学習させたり、鳩に単語を覚えさせたり、複雑な仕事を条件づけることに成功しました。そして、人間の行動もすべて条件づけによるもので、合理的思考によって行われるのではないと考えました。 一度条件づけられた行動も、報酬が与えられなくなれば行われなくなるのですが、すぐには消去されません。給料をもらっていた社員は、給与がもらえなくなっても、ではさようならとすぐに会社を去りはせず、労働者の権利を守ろうと戦います。おいしいケーキを毎日食べていた人も、ダイエット開始の2,3日後には全身が抵抗を始め、再びケーキを食べてしまいます。身体に条件づけられた習慣を消去するには、この抵抗力を超えなければならないわけです。 習慣は甘い報酬による強化で形成されますが、一方で、どんなに抵抗しても自分では取り除く術がないと思われる苦痛が続くと、動物は抵抗するのをやめて「学習性無力感」に陥るようです。 1965年にマーティン・セリグマンは、ベルを鳴らすと電気ショックが加えられるという条件づけを、抵抗できない状況で犬に行いました。その後、フェンスを越えて隣の部屋に行けば電気ショックを回避できるようにしたのに、ベルを鳴らしても犬は身をこわばらせながら電気の痛みに耐えていたそうです。 自力では解けないような課題を与え続けると人間も諦念を持ち、挑戦することをやめてしまいます。この習慣を絶つ方法は、小さくても解決できる課題と解決する経験を持たせ、無力感をはね返す力を取り戻させることです。
友人が集まって昔話をしている。その中の二人が、ゆで卵をいくつ食べられるか挑戦し、五つ食べたところで吐き出した話で盛り上がる。が、他の一人が「それをやったのはオレだし。てゆーかオレがお前らに聞かせた話で、お前らその場にさえいなかったし。」と言い出す。そんな馬鹿な、これは確かに自分の思い出だ、いや、どうだろう・・・? 人の記憶というのはビデオのように録画されるわけではなく、録画されたテープのように再生できるものでもないと、心理学者のエリザベス・ロフタスは言います。たとえて言えばレゴのブロックのような記憶のピースが、思い出そうとする時に作り出され、その時々の状況に矛盾しない形で組み立てられるものだというわけです。 1974年、彼女は自動車の衝突事故を見せるという実験を行いました。映像を見た被験者は数組に分けられ、異なる質問をされます。「激突した時、車のスピードはどれぐらいでしたか」「衝突した時、車のスピードは・・・」「ぶつかった時、・・・」「当たった時、」「接触した時、」それぞれに異なる質問を受けた各組の答えた時速(マイル)の平均は、「激突」が40・8、「衝突」が39・3、「ぶつかった」が38・1、「当たった」34・0、「接触」31・8という結果でした。質問のされ方だけで、被験者の記憶は変化しています。「ガラスが割れるのが見えたか」という質問には、「激突」の組では他の組の2倍の割合で「見えた」と答えましたが、実際の映像では一枚も割れていません。ロフタスは、こうした外部からの誤情報効果によって記憶がいかに組み替えられるものかを示し、抑圧された記憶を掘り起こす精神分析や、犯罪の目撃証言・容疑者の面通しなどを批判しました。 記憶はまた、同調という本能によっても書き換えられます。心理学者ソロモン・アッシュは、一本の線を描いたカードを見せた後に、同じ線の上下にそれより短い線と長い線を加えた三本線が描かれたカードを何組か見せ、どれが初めのカードの線と同じかを数人へ同時に聞く実験をしました。何もしなければ間違えるのは2%だけでしたが、グループの中に役者を混ぜて誤った答えを言わせると、75%の人が少なくとも一問は答えを間違えたそうです。 自分は独立した人間で、独立した記憶と精神を持っていると考えていても、人は群れで生きる動物です。記憶を同調したほうが、群れとしては合理的。 あなたの記憶も思い出も、ほんとうにあなたのものですか?
心の中に怒りをためておくとストレスになるから、適度に放出するべきだ、とよく言われます。サンドバッグを怒りの対象に見立てて思い切り殴ってみたり、ゲームで敵を倒しまくったり、物を壊したり、時には直接大声で怒鳴ってみたり。そうやってガス抜きをしてスッキリしておかないと、怒りはどんどん膨らんで頭がおかしくなってしまう、と言われます。でも、実際は? 古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、師のプラトンが詩や演劇は人々に愚かさを吹き込み、心のバランスを失わせると唱えたのに対し、むしろ逆だと反論しました。彼は、人が悲劇にあがき勝利に導かれるのを見れば、観客は代償性の涙を流し、興奮し、感情を吐き出して心のバランスを取り戻すと考えたわけです。人々の心に対する詩や演劇のこうした浄化作用を「カタルシス」と言います。 近代心理学の父フロイトも、精神分析によって心中の抑圧された恐怖や欲望、未解決の口論、癒されなかった傷を発見し、それを外に出すことで汚染された心を浄化しようとしました。 しかし、実は放出しても怒りは消えず、逆に増幅するようです。アイオワ大学の心理学者ブラッド・ブッシュマンは、ガス抜きが本当に役立つか実験しました。まず、学生を3つにグループ分けし、①には中立的な論文を、②には怒りの放出は有効という論文を、③には怒りの放出は無意味という論文を読ませます。次に、感情を喚起しやすい妊娠中絶についての小論文を賛成か反対の立場で書かせます。そして、その論文の半分を「すばらしい」と称賛し、半分は「ひどい作文」と侮辱します。その上で、彼らに今やりたいことを選択させると、②のグループで侮辱された学生は、①と③のグループで侮辱された学生より、サンドバッグを殴りたいと答えた割合が多くなり、褒められた学生は非攻撃的な活動を選びました。更に、侮辱された学生を二つに分け、片方にはサンドバッグを殴らせ、もう片方には2分間じっと座らせました。そして、侮辱した人を相手に、勝てば相手へ大音量を浴びせられるというゲームをさせると、前者は音量レベルを最大にし、後者はレベルを小さくしました。 実験は、怒りの放出が有効だと思えば怒りっぽいキャラになり、実際に放出させると攻撃性が増すことを示しました。怒りの放出や発散には麻薬的快感がありますが、それはむしろ怒りを表に出しがちな性格を作るだけです。
世界の中心はどこかと言えば、間違いなくそれは「あなた」です。世界で一番優れた人間は誰かと言えば、それも間違いなく「あなた」です。もちろん、「あなた」なんかいなくても地球は周り、「あなた」より能力の高い人はあらゆる領域で星の数ほどいるでしょう。それでも「あなた」は自分を最も高く評価する「自尊心」という生物学的仕組みを脳の中に持っています。 人は、何かに成功した時は自分の力によるとし、失敗した時は他人や状況や世界や神のせいにします。生物として自己の生命を守るため、精神において自尊心を保とうとするこうした思考は「自己奉仕バイアス」と呼ばれます。 自分は他の人より有能で、正義感が強く、愛想がよく、頭がよく、魅力的で、偏見がなく、若々しく、運転がうまく、親孝行で、平均寿命より長生きする。あるいは、そんなことを思うほど愚かでなく、自分の無能や無知を誰よりもよく自覚している。私たちはほとんど全員そう思っています。こうした考えも「自己奉仕バイアス」から生まれる傾向で「優越の錯覚」と言います。過去の自分は現在の自分より愚かで、未来の自分より現在の自分のほうが大事に思えるのも、同類の思考です。 外交やビジネスでは、交渉で双方が契約内容の解釈を巡って後になって揉めることがあります。どちらも自分にとって都合の悪い部分を見ず、都合の良い部分を膨らませてしまうため、異なる二つの内容が一つの契約として成立してしまうのです。相手のことを騙しているのではなく、これも自分を巧妙に騙すバイアスのせいだと言えます。 社会に自分と対立する意見を持つ人たちがいる時に、「彼らはメディアやネットに騙されている」と、子どもや若者や他国民などの愚かな想像上の第三者が、自分なら騙されない誤った情報に影響されることを警戒し、情報規制を求めてしまう「第三者効果」も、同じ「自己奉仕バイアス」の一つです。 人間の自己中心性を表す脳の傾向の一つとして、「スポットライト効果」というのもあります。1996年にコーネル大学で、被験者にひどく派手なTシャツを着せて教室に入っていかせるという実験が行われました。本人は教室の半分ぐらいの人が自分を見ていたと感じましたが、アンケートを取ると25%ほどしか気付いていませんでした。電車やお店の中で失策をした時、ニキビのある時、体重の増えた時、周囲が自分を見ているように思うことがありますが、本人が思うほど他の人は「あなた」のことなんか見ていないということです。
プラスとマイナス、○と×、「良いもの」と「悪いもの」、何かとっさに判断しなければならない時、人はこうした二項対立または、瞬間の好き嫌いで決断します。理性的で数学的で合理的で計画的な思考はコツコツ頭を使い、頭の容量を必要としますが、不合理で感情的で本能的な直観は電光石火に決断でき、時間も労力も不用です。私たちは、できるなら全て楽に済ませたいので、二項対立的な思考、二進法的な行動に傾くようです。 ネズミは毎日体重の約15%の餌を必要とし、危険を冒して探し求めます。危険と報酬を天秤にかけ、進むか退くかの二者択一を迫られる状況で、彼らは餌を求めて走り、ネズミ取りに捕まります。理性的に判断するとか、経済的な利益と身体的損失を慎重に分析するとか、そんなことができない原始的な脳でネズミは生きていますが、大脳新皮質が発達しているはずの人間も実際には同じ行動原理、進むか退くかの二者択一を、感情という形式で保持しています。それは、「良い」「悪い」を概念的に思案して判別するというより、「選ぶ」「選ばない」を考える前に決断してしまう機能です。 1982年、有能な会計士だったエリオットという男性が、眼窩前頭皮質にできた腫瘍摘出の手術をきっかけに、この機能を失いました。その結果、彼は朝着るシャツを選ぶにも、理性をフル活動してどれが最も適正か永遠に考え続けて溜息を漏らす人間になりました。どんなに合理的な思考が優れていても、感情が無ければ決断はできません。 生存本能に基づく感情的決断力は、私たちの生活に欠かせないものですが、「選ぶ」か「選ばない」、「良い」か「悪い」という二進法が、人の合理的判断にバイアスをかける時、それは「感情ヒューリステック」と呼ばれます。 天然ガス、食品保存料、原子力発電について、どれぐらい危険でどれぐらい有用かを十段階で評価するという心理実験がありました。最初の評価の後、被験者を二つのグループに分け、一方には危険について、もう一方には利点についての資料だけ見せて再び評価させると、当然のように前者は危険の点を上げ、後者は有用の点を上げたのですが、同時に前者は有用の点を下げ、後者は危険の点を下げたのでした。資料的根拠は無いのに、自分の選択を正当とするため、逆の選択が不当となるよう点数に差を付けた訳です。 合理的に判断すれば簡単には是非を決められない問題なのに、反対意見に猛烈な批判を下せる人は、感情ヒューリステックの二進法に陥っています。
霊長類である人間は、生きるために群れをなします。そして外部からの攻撃や危険からその集団を守ろうとして団結し、その結束に傷がつくことを恐れます。傷をつける言動をする者がいれば、「空気を読め」と同調を求めます。それは、群れの中で群れに結びつけられた個々の神経のごく自然な反応であり、学校も会社も隣近所も、そうした神経の同調作用で平穏が保たれています。 しかし、このような集団が合議を行う時は、「複数の人が集まっているから問題は解決しやすくなる」というよりも、「同意したい、対立を避けたいという欲求のために、話はなかなか進まない」可能性が強くなります。場合によっては、決定的に不合理で危険な意思決定が容認されてしまうこともあります。こうした現象を集団思考、あるいは集団浅慮といいます。 1959年、革命によってカストロ政権が誕生したキューバは、旧政権を支援していたアメリカと対立します。その後、キューバと国交を断絶したアメリカでは1961年にケネディが大統領に就任し、前任のアイゼンハワー大統領時代からCIAが進めていたキューバ侵攻計画を承認します。 こうしてキューバからの亡命者で編成された1400人の部隊がCIAによる軍事訓練を受けて、カストロ打倒を目指してキューバ南部のピッグズ湾に侵攻します。しかし、アメリカの政権交代を跨いで進められたこの計画は、CIAの強い自信に反して形式に堕した杜撰で滑稽なもので、これにアメリカ軍の直接介入を禁じたケネディの命令なども加わって作戦は失敗、待ち構えていた20万のキューバ軍を前に兵士たちは無残に虐殺されました。更にこの事件を機にキューバはソ連に急速接近し、その核ミサイルを持ち込もうとするキューバ危機が発生して、人類は危うく核戦争に巻き込まれかけたのでした。 大統領とその顧問、CIAと軍、みな優秀な人々で多くの情報も持っていながら、発足直後の政権内での対立を避けて作戦の検証を怠り、非常に愚かな結果を招いたこの事件を、心理学者アーヴィング・ジャニスは集団思考の典型的な例として提示しました。他にも、真珠湾攻撃、朝鮮戦争、ベトナム戦争、ウォーターゲート事件など、いくつかのアメリカ政権の誤断が集団思考の例として挙げられています。 集団思考は、①集団の成員同士の仲がよく、②その集団が孤立していて、③重要な決断を下す期限が決まっている時、起こりやすいようです。集団の合意を合理化し、会議の場では誰も反対していなかったのに、後で個別に話してみるとみんな「うまくいかないと思っていたよ」と言ったりする。しばしばあることです。
あなたの性格を占います。あなたは他者から好かれたい、称賛されたいと思っていますが、自分自身に対しては批判的になりがちですね。性格的な弱点がありますが、たいていはそれをうまく補っているようです。また、充分に活用されていない大きな能力を眠らせていますね。ときに自分が正しい決断を下したか悩むことがあるようです。ある程度の変化や彩りは好ましいと考え、規則や制限に囲まれていると不安に感じることもあります。自分の頭で考え、充分な証拠が無ければ人の話を鵜吞みにしませんが、自分をさらけ出すのは賢明でないと気づいていますね。外交的で愛想よく社交的に振る舞うこともできる一方、内向的で心配性で引っ込み思案になる時もあるようです。 さて、当たっていたでしょうか。これは、1948年にバートラム・R・フォアラーが実験に使った文章です。学生たちに自分の性格診断としてこれを読ませ点数をつけさせたところ、平均して85点という好成績を得ました。フォアラーが実験用に星占いの言葉を集めて適当に作ったこの文章は、どんな人が読んでも自分の性格として読めてしまったわけです。星占いや血液型、姓名判断、数秘術、タロットカードの予言は、なぜあんなに当たるのか。その理由を心理学では、上記の実験にちなんで呼ばれるフォアラー効果で説明します。つまり、ほぼ誰にでも当てはまりそうなあいまいなことを、この自分だけに該当することとして説明されると、人は信じてしまうということです。 誰しも自分には特有の何かがあると思いこみたい気持ちを抱えていますが、同時に自分で思う以上に人は似ています。同じ種の遺伝子で脳が作られ、その脳が心を生み、その心でものを考えます。文化的な違いはあるし、環境が人格を形成するにしても、深いところではクローンのように同じなのです。あいまいな内容でも、それが自分だけに向けられていると思うと、その内容と自分の知る自分についての情報を一致させるよう努めるわけです。これを心理学では主観的評価と呼びます。 心理学者レイ・ハイマンは若い頃、手相の占い師をしていました。彼の占いはよく当たると評判でした。相手を見て手がかりを探し、焦点を絞ってその人の魂を見抜く強力な洞察に至るのが彼のやり方でした。ところがある時、手相に表れたことと全く反対のことを、いつもの説得力ある口ぶりで話したところ、人々はいつもと同じように彼の能力に驚嘆したのでした。内容がどんなものであっても、自分と一致させることができてしまったようです。 この後、ハイマンは占いや霊能力を疑う懐疑論の著名な心理学者になりました。
人間の脳は右脳と左脳に分かれており、一般に右脳は左半身を、左脳は右半身を統率しています。また、それぞれの脳には得意分野があり、ふつう右脳は感覚情報を、左脳は言語情報を処理しています。そして、二つの脳は脳梁という神経線維の束でつながっています。 突発的な全身痙攣に襲われ、薬物療法で改善の見られない難治性てんかんの患者に対し、この脳梁を離断して痙攣を抑制する手術があります。脳梁を離断されると右脳と左脳の間で情報交換が行えなくなりますが、通常の生活はそれほど支障なく行えます。しかし、例えば右視野を隠して左視野にだけトラックの絵を見せると、「何の絵か」と聞かれても言葉では「分からない」と答えるのに、見たものを左手で絵に描くよう指示されるとトラックを描くことが出来るという、奇妙な応答をしたりします。左視野から右脳にトラックの情報は伝わっているのですが、左脳との連絡は絶たれているため、左脳はまだそれを知らないわけです。ところが右脳は情報を得ているので、左手を使って質問に答えられてしまうというわけです。 心理学者マイクル・ガザニガとロジャー・スペリーのこの実験で、人間の脳は右脳と左脳で二つの異なる意識を持ち得ることが示されましたが、この分離脳患者に対する実験には、さらなる不思議な現象が報告されています。それが「作話」です。 分離脳の患者の左視野に「鐘」の絵を、右視野に「音楽」という語を見せます。その後、「ドラマー」「オルガン」「トランペット」「鐘」の絵を同時に見せて、左手でどのカードだったか指すように言うと、左手は「鐘」の絵を示します。問題はその後です。患者になぜ「鐘」の絵を指さしたか聞くと、ある人は「さっき鐘楼から音楽が鳴るのを聞いたからだ」と答えました。別の実験では、左視野だけに「歩く」という言葉を見せたところ患者が立ち上がったので、なぜ立ったのか尋ねると、「飲み物を取りに行こうと思って」と答えました。 人間は、自分がなぜそうしたのか、たいてい分かっていません。そこで、自分の決断や感情や過去の体験を説明するために架空の物語を創り出し、しかも自分でもそれに気づきません。と言うより、感覚的、感情的に何らかの原因があって起こした行動であっても、それらの感覚や感情をすべて言葉で表現することは不可能であるため、他人だけでなく自分自身を納得させる物語を「作話」することが、左脳の言語情報処理に多くを占拠されている人間の意識には必要なのかもしれません。 言葉は真実を伝えるものではなく、真実を創るものだと言えそうです。
因果応報という言葉があります。世の中のたいていの人は、悪いことをすれば当然罰せられるべきだと思います。また、誰かが失敗したり、敗北したリするのを見ると、そうなって当然のことをその人はしたのだと考えます。犯罪や事故には、必ず原因があると信じています。 スウェーデンにあるリンショーピン大学のソーンバーグとクヌートセンが2010年に発表した研究によると、学校でのいじめの原因について生徒に尋ねたところ、大半はいじめっ子が悪いからだと答えたのですが、42%はいじめられっ子にも原因があると答えました。実際、私たちもいじめられている子を見ると、どうしてもっと歯向かわないんだとか、もっといじめられないように振る舞えばいいのにと考えます。ドラマでは、いじめられっ子が立ち上がって初めていじめっ子はその報いを受け、視聴者はスッキリします。いじめられているのは、いじめている方も悪いけれど、本人がその苦しい状況を変える努力をしないせいだというわけです。先の研究では他に、いじめを傍観している自分も悪いと答えた生徒が21%いました。なんにせよ、必ず誰かに責任があるのだと考えるらしく、社会や人間の本性が原因だと答えた生徒はもっと少なかったそうです。 世界は公平公正な場所であり、悪いことが起こるのはそこに暮らす人々に責任がある、そういう考えを「公正世界仮説」と言います。私たちは、頭で信じていなくても心の底では、正義は悪に勝つべきで、努力は必ず報われると信じています。因果応報とか、カルマといった観念も、公正世界仮説の一種です。 ところが、現実世界はもっと複雑怪奇で不合理で不条理なものです。悪いことをしても裁かれない人もいれば、何の理由もなく殺害される人もいます。生まれ育った条件によって、何の努力もなく恵まれた生活をしている人もいれば、どんなに努力しても貧困から抜け出せない人もいます。でも、そんな不条理を人はなかなか受け入れられず、何らかの原因・理由を世界に求めます。裕福な人も貧しい人も、それぞれに何か理由があってそうなったのだから、福祉や所得再分配など余計なことを政府はするべきでないと考えたりします。ある日どこかで空から原爆が落ちてきたら、落とされた方にも何か原因があるべきだ、と考えたりもします。 意識というものが矛盾を解消しようとする神経作用なのだとしたら、心が世界に原因・理由を見出そうとするのは逃れようのないことかもしれません。が、世界の公正が約束されていないことを見失うと、逆に責めを負うべき本来の原因を見逃してしまうことになります。
あまり仲の良くないAさんとBさんが天気の話をしていました。Aさんは「私は雨の日が嫌いだ」と言います。それに対してBさんは「雨が降らなかったら干ばつで農作物は枯れるし、ダムは枯渇する。食べるものも飲むものもなくなって人間は餓死するが、君はそれでも雨が無くなった方が良いと言うのか」と答えました。 Bさんのこのような議論の仕方を「藁人形論法」と言います。Aさんは「雨が嫌いだ」と言っただけで、「雨は無くなった方が良い」などとは言っていません。相手の言葉尻を取って、相手が言ってもいない立場を藁人形のようにでっち上げて攻撃する、すり替えの論法です。これをやられたAさんは、意図せず人類破滅のシナリオを支持する立場に立たされてしまったわけです。 論理的矛盾を抱えている状態は私たちにストレスを感じさせます。動物は、運動神経を働かせて肉体にかかる負荷を解消したり回避したりしますが、人間の言語に関わる神経も、様々な概念の論理的な矛盾によって脳にかかる負荷を解消しようと、考えたり、議論したりします。そして、それがなかなか解消しがたいものだったりすると、無茶な論理を展開してでもスッキリしたくなったりします。 そうした無茶な論理は一般に「詭弁」と呼ばれます。特に他者との議論においては、論理的矛盾の解消だけでなく、プライドの損傷回避も神経活動の大事な目的となり、相手に負けないために論理的無茶度が上がりがちになります。そんな詭弁の一つとして人がよく使う論法の一つが「藁人形論法」です。 日本で憲法改正議論をする人に、「お前は徴兵制を復活させたいのか!」と攻撃する左派の人、選択的夫婦別姓を唱える人に、「お前は伝統の破壊と家族の解体を目指すのか!」と声を荒立てる右派の人。これら政治的議論において「藁人形論法」は盛んに使用され、テレビでも国会でもよく目にする機会はありますが、政治家やコメンテーターばかりでなく、日常的にも私たちは気づかぬうちにこの論法を使い、使われているものです。 論理のすり替えには、「人身攻撃」といって、前科のある人や、不適切発言の多い政治家との議論で負けそうになった時に、相手の意見ではなく、その人格に攻撃目標をすり替える論法などがあります。これには、尊敬する人間の議論を中身と無関係に支持してしまうという逆の危険性もあります。
アメリカのベイラー大学で、無印のコップにコカコーラとペプシを注いで被験者に飲ませ、脳をスキャナーで測定する実験を行いました。すると、スキャナーの表示からはペプシをおいしく感じたと判断されたのに、今飲んだのはペプシだと告げられると、脳から快感の信号が消え、どちらがおいしかったかという質問には、コカコーラの方がおいしいと答えた人たちがいたそうです。彼らコカコーラの愛好者たちは、初めの快感に対しては嘘をついていると言えますが、全ての後では本当にコカコーラの方がおいしいと感じています。つまり、コカコーラに対する忠誠心により、その感情に合わせて脳が記憶を書き換えたため、味覚ではペプシをおいしく感じたのに、自分自身にそれを認めることが出来なくなったわけです。 こうしたブランド忠誠心は、どうしても必要なわけではない商品で、しかも高額になればなるほど強くなります。なぜなら、それを選択したということを正当化しなければ、自己イメージに傷がつき、心に矛盾が生まれ、神経に負荷がかかるからです。 大事なのは、MacとWindows、iPhoneとAndroid、サムスンとソニー、どちらの製品がどれだけ優れているのかではなく、自分はそれを所有する様な人間なんだぞと、思えることです。「自分がいま持っていないものに比べ、持っているものの方を好ましいと思うのは、そもそも買うときに合理的な選択をしたから」ではなく、「自分の持っているものを好ましいと思うのは、自己意識を守るために過去の選択を合理化しているから」ということです。脳は出来るだけ身体に加わるストレスを取り除こうとし、常日頃、私たちの心をうまくだましてくれているわけです。 ブランド忠誠心は、車や服や家具やアクセサリーなどの商品に限りません。本や映画や音楽、スポーツや趣味、右か左かといった政治的信条など、それに費やした時間や労力が無駄なものだと思えないように、脳は私たちの過去の選択を合理化し、心の帳尻を合わせてくれます。それがどんなに優れているか人に主張することで、私たちは自分を説得し、納得させているのです。 脳の感情中枢が損傷し、論理でしか行動できない人は、どのブランドのシリアルを買うかという簡単なことも決められず、考え込みます。私たちの選択は多くの場合、過去の理性的判断の結果ではなく、偶然の出会いに伴う感情の高揚が決定し、脳が言葉でそれを整合化する仕組でできているようです。
太宰治 作
文章を書くには動機が必要です。それは、何かを伝えたい相手であり、誰かに伝えたい何らかの思いです。作文を書けない子が作文を書けない最大の理由は、大抵この動機が欠けていることにありますが、物語も、作家には書くべき動機、つまり、想定する読者や、その読者に伝えたい何かが必要です。 中二国語教科書に掲載されている「走れメロス」は、友情や信頼の尊さを伝える作品として広く知られています。アニメ作品になったり、演劇になったり、パロディ化されたり、原作を読んでいなくとも内容は知っているという人は少なくありません。道徳性の強い内容から、教育の場で使用されることも多い作品ですが、「人間失格」などの作品で知られる作者の太宰治は、不倫や心中の常習犯で、あまり道徳的とは言えないエピソードを豊富に持つことで有名です。 「走れメロス」はドイツの文豪シラーの詩「人質」を原作としています。暴君ディオニュソスの殺害を試みたメロスは捕縛され、死刑を宣告されるものの、妹の婚礼を済ませて帰ってくるまで刑の執行を待つように頼み、親友を人質として差し出す。三日後、橋無き激流の川、盗賊の襲撃、焼けつく太陽などの障害を潜り抜け、死刑執行直前、親友の前に現れるメロス。心打たれた国王は彼と友を許し、改心する。「人質」の内容は「走れメロス」とほぼ同じで、メロスは道徳的なヒーローです。でも、太宰が物語を書く動機となった出来事は、あまり道徳的とは言えません。 ある時、熱海の旅館で太宰は、友人で作家の檀一雄と一緒に数日飲み歩き、二人は金を使い果たして支払い不能になります。そこで、太宰は檀を人質として宿に残し、東京へ借金に行きます。しかし、何日待っても彼は戻りません。しびれを切らした檀は、支払いを待ってもらい、東京へ行ってみると、彼は恩師の井伏鱒二の家でのんきに将棋を打っていました。激怒する檀に太宰は、「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。」と呟いたそうです。 「走れメロス」と「人質」を比べると、前者には、友の信頼を守ろうとする自分に酔い痴れるナルシストな独白や、困難を前にしてする言い訳が目立ちます。道徳的解釈は、正義を貫く者が障壁に直面した際に見せる葛藤としてそれを説明します。しかし、檀を裏切った太宰治にとってこの作品は、その悪しき記憶を払拭し、誠実な人間としてのアイデンティティを守るため、シラーの詩に託してこしらえた、自分自身への言い訳だったのかもしれません。
ヘルマン・ヘッセ 作 高橋 健二 訳
文芸批評は、「不透明な批評」と「透明な批評」に分類されます。「不透明な批評」というのは、対象とする作品を言語的な構築物として捉え、その形式上の仕組みを作品の外側から分析する方法です。対して「透明な批評」は、作品世界と読者の世界との間の仕切りを取って、作品の中に入り込んで論じるような方法です。前者は、作品に描かれた客観的事実だけが批評の対象ですが、後者では作品に描かれていないこと、例えば「桃太郎の黍団子が不味かったら、犬と猿と雉は鬼退治を手伝ってくれたか?」といった問題設定を立てたりします。 「透明な批評」は作品からの逸脱として嫌われる面もありますが、自由な想像は物語を読む楽しみの一つでもあります。また、「もしも私が主人公なら」という仮定は、道徳の時間や読書感想文には欠かせない常套句です。 中一国語教科書には、ノーベル賞作家ヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」という小説が、60年以上もの間、掲載され続けています。日本では有名なのに、本国ドイツではほとんど知られていないという少し変わった作品です。 物語は、「私」の家に訪れた客の「僕」が、「私」の蝶の標本を見て、蝶の採集に夢中だった少年の日に犯した出来事を語るというものです。少年の日の「僕」は、エーミールという子が持つ珍しい蛾の標本を盗んだ上に傷つけてしまいます。エーミールに謝りに行くのですが、軽蔑の目で冷たくあしらわれた「僕」は、「一度起きたことは、もう償いのできないものだ」と悟り、自分の集めた蝶を全て押しつぶすのでした。 この作品について、もし自分が「僕」だったらという感想を述べ合い、「僕」の心情やエーミールの言動について、互いに共感したり、反発したりしながら、道徳的な議論をすることには、もちろん意義があります。「透明な批評」。 しかし、今一度「不透明な批評」に戻り、作品の客観的な構成に目を向けてみます。この物語は一見、「僕」が「私」に語った話という構造に見えます。でも、実際にこの物語を読者に語っているのは「私」です。そして、その読者の中には「僕」も含まれ得るのです。苦い少年の日の思い出を第三者である「私」に語り直されることで、その暗い思い出は客観化・相対化され、僕の中の怒りや屈辱や罪悪感が、ようやく氷解していくのです。「僕」と一体となった読者が「僕」の立場に立ってその気持ちを理解しようとする主観的な「透明な批評」の存在が、「僕」の立場を公平に批評できる客観的な構成の中で、それを保証しています。
宮沢 賢治 作
「クラムボンはわらったよ。」 「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」 かつて書物は声に出して読むものであり、物語とは文字通り「物」を「語る」ことでした。それが近代になり短時間で学習・情報収集するための読書が一般化したことで、読書はふつう黙読で行うものになりました。ところで、声に出して読むことを音読、または朗読と言います。音読は文字を音声に変換することだとして、朗読とは何でしょう。 『花もて語れ』という漫画があります。片山ユキオ・作、東百道・原案、テーマは朗読です。社会人一年目の女性が、ひょんなことから朗読の才能を見出され、その魅力に目覚めていくという異色ストーリーの第一巻で、主人公はある引きこもりの女性のために朗読することになります。その際に読まれた作品が、小六国語教科書にも掲載されている宮沢賢治の「やまなし」です。 『やまなし』は、谷川の底の蟹の兄弟が目にした生き物たちの世界を描いた作品です。宮沢賢治には、一読した後に読者が、「で、だから何・・・」と言いたくなる作品がよくあります。起承転結のはっきりした他の作家の児童文学に比べ、主題のよく分からない、不思議な物語が多いのです。「やまなし」も、作者の意図した主題が捉えにくい作品で、「かぷかぷ」わらう「クラムボン」なる正体不明の存在が登場し、わらったり、殺されたりします。 この捉えどころのない作品が、「花もて語れ」の主人公によって朗読される時、物語とは朗読されなければならないものであることが、痛切に理解されます。主人公は、『やまなし』冒頭の「クラムボンはわらったよ。」というセリフを蟹兄弟の兄、「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」を弟の声音で読みます。更に、1cm大の彼らの視点で地の文を読み、水深30cmの川底を、人間なら30mに見える深い水中世界として再現します。そして、その「読み」の根拠を問われると適格に回答し、「クラムボン」とは何かにも答えを出します。 「一行たりとも意味が分からなければ朗読はできない。」この漫画はそう伝えます。それは、正しい朗読ができるようになった時には、既に本文の読解は達成されているということを意味します。もちろん、解釈は一つではありません。ですから正しい読解とは、作品を譜面としてその物語世界を再現する、無限の数の優れた朗読のことだと言えるのかもしれません。