LeoN Radio Sunrise レオンラジオ日の出

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By 楠元純一郎&レオーEducationLanguage Learning
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LeoN Radio Sunrise レオンラジオ日の出 episodes

  • ラッセル『哲学の諸問題』10 (『哲学の諸問題』第1章第8段落)@ LeoN Radio 我らの哲学

    <われらのラッセル哲学第10回(『哲学の諸問題』第1章第8段落)>

    ラジオ収録20200729

    Similar difficulties arise when we consider the sense of touch.

    我々が触覚について考えるときに、同様の問題が生じる。

    当我们谈及触感时也会有同样的问题。

    It is true that the table always gives us a sensation of hardness, and we feel that it resists pressure.

    食卓はいつも我々に硬さの感覚を与えるのは事実であり、そして、我々はそれが圧力に抵抗していることを感じている。

    的确桌子总是会给我们以坚硬的感觉,我们觉得它可以抵抗压力。

    But the sensation we obtain depends upon how hard we press the table and also upon what part of the body we press with; thus the various sensations due to various pressures or various parts of the body cannot be supposed to reveal directly any definite property of the table, but at most to be signs of some property which perhaps causes all the sensations, but is not actually apparent in any of them.

    しかし、我々が得ている感覚は、その食卓をどれほど強く押すか、また身体のどの部分で押すかにかかっている。したがって、様々な圧力または身体の様々な部分による様々な感覚は、その食卓のある特定の性質を直接明らかにすることはできず、せいぜい、おそらくあらゆる感覚を引き起こすある性質の記号にすぎないように思われるが、しかし、食卓の特定の性質(any definite property of the table)は、そのような感覚(the various sensations)のいずれにおいても、実際には明らかではない。

    be supposed to ~と思われる

    at most せいぜい

    「要するに触覚は、物の性質を特定するのに必ずしもあてにならない。」

    但是我们获得的这种感觉取决于我们用多大的力道和身体哪个部位按压桌子;于是通过不同的按压桌子的力道和身体部位而产生的不同的感觉并不能直接揭示桌子的任何确定的性质,而至多是某种性质的符号,这种性质才引发了所有上述这些的感觉,但是这些感觉无论哪个都不是明确的。

    depend on(upon) 取决于

    And the same applies still more obviously to the sounds which can be elicited by rapping the table.

    そして同様のことが、その食卓を叩くことによって引き出されうる音にも、より明確に当てはまる。

    同样的情况也更明显地适用于敲击桌子所发出的声音。

    elicit v. 引出,这里指的是我们敲打桌子的结果是“使得桌子发出声音”

    49 min
  • ラッセル『哲学の諸問題』09 (『哲学の諸問題』第1章第7段落)@ LeoN Radio 我らの哲学

    <われらのラッセル哲学第9回(『哲学の諸問題』第1章第7段落)>

    ラジオ収録20200722

    【ラジオパーソナリティー】

    楠元純一郎 (K)   (日本語翻訳・法学者)

    レオー          (中国語翻訳・美術家・録音編集者)

    【ゲスト】

    松尾欣治       (監修・哲学者・大学外部総合評価者)

    冯宪中(F老師)  (監修・国際経済学者)

    ※ 今回、レオンレイディオのラッセル本読解の新たな方針を明らかにします。まず、日本語の訳を固めて、その後、その日本語に合わせて中国語に翻訳し、日本語訳と中国語訳に齟齬ができるだけ生じないようにいたします。翻訳についての議論は重要で、その思考過程の披瀝こそが本企画の「命」であると思っておりますが、ラジオ放送の時間的制約もあるため、翻訳者が監訳者の意見を参考にしつつも、最終的には翻訳者が全責任を負います。その意味で、とくに、日本語翻訳者である私の責任が重大です。(K)

    The shape of the table is no better.

    その食卓の形に関しても、同様に状況はよくならない(感覚でとらえたものが必ずしも本当の形ではないということは、食卓の形に関してもいえる)。

    从桌子的形状来看,情况也没有好到哪里去。

    We are all in the habit of judging as to the 'real' shapes of things, and we do this so unreflectingly that we come to think we actually see the real shapes.

    我々にはみな、物の「本当の」形について判断する習慣がある。そして我々は、あまりにも無思慮にその判断を行うので、実際に本当の形を見ているものと考えがちである。

    as to ~に関して、~について

    so that  とても~なので、~。あまりにも~なので

    unreflectingly  無思慮に、無分別に、浅はかに

    come to ~するようになる

    ※ be in the habit について、F老師はそのhabitをネガティブなもの(悪い習慣)ととらえ、「習慣に陥りがちである」と提案されたが、私はその習慣それ自体はニュートラルであり、ネガティブであるとすれば、後段の「あまりにも無思慮に判断する」ことにあると考えます。よって、本文のような訳でよろしいかと思います。(K)

    我们都习惯于判断物体“真正”的形状。我们如此下意识地这样做,以致于我们倾向于认为我们看到的是事物真正的形状。

    unreflectingly adv. 不假思索 欠考虑

    come to 开始

    But, in fact, as we all have to learn if we try to draw, a given thing looks different in shape from every different point of view.

    しかし、実際、我々が絵を描こうとする場合に、我々がみな知っておかねばならないように、所与の物(感覚でとらえられている物)は、異なった視点からは、すべて形が異なって見える。

    given 所与の(感覚でとらえられている物)

    但事实上,正如我们尝试画画时必须学会的事情一样,在不同的视点观察一个既有的物品时,它的形状看起来是不一样的。

    If our table is 'really' rectangular, it will look, from almost all points of view, as if it had two acute angles and two obtuse angles.

    もし我々の食卓が本当に長方形であるならば、ほとんどすべての視点から、あたかも、それには二つの鋭角と二つの鈍角があるように見えるであろう。

    acute 鋭角、obtuse 鈍角

    如果我们的桌子“真的”是长方形,那么几乎从所有的视点来看,它都会呈现出两个锐角和两个钝角。

    acute angles 锐角,小于90°而大于0°的角

    obtuse angles 钝角,大于90°而小于180°的角

    If opposite sides are parallel, they will look as if they converged to a point away from the spectator; if they are of equal length, they will look as if the nearer side were longer.

    もし、食卓の向かい合う二辺が平行であるならば、観察者からは遠ざかるにつれ(方向に)、その二辺が一点に収斂(収束)していくように見え、その二辺が同じ長さであるならば、より近い方の辺がより長く見えるだろう。

    converge 収斂(収束)する

    ※oppositeは反対側の、という意味でしょうが、F老師のご指摘により、sidesが複数形であることから「向かい合う二辺」としました。(K)

    如果桌子的相对的两边是平行的,它们会看起来像是相交于远离观察者的某一点;如果它们的长度相等,较近的那条边会看上去长一些。

    All these things are not commonly noticed in looking at a table, because experience has taught us to construct the 'real' shape from the apparent shape, and the 'real' shape is what interests us as practical men.

    食卓を見るときには、普通これらすべてのことは気づかない。なぜならば、見えている形から本当の形を作り上げるよう経験が我々に教えてきたからであり、そして、その本当の形こそが、実用(実務)的な我々の関心を引くものだからである。

    所有这些事情在我们观察一张桌子的时候都不太会被注意,因为经验教我们从表面的形状构造出“真实”的形状,而这“真实”的形状才能引起作为实干家的我们的兴趣。

    But the 'real' shape is not what we see; it is something inferred from what we see.

    しかし、本当の形は我々が見ているものではない。それは我々が見ているものから推論されるものである。

    但是“真实”的形状并不是我们的所见;他只是我们从我们的所见当中推断出来的。

    infer v. 推断,推理得出,暗指 (无论是现在分词,过去式,都要双写r!)

    And what we see is constantly changing in shape as we move about the room; so that here again the senses seem not to give us the truth about the table itself, but only about the appearance of the table.

    そして、我々が見ているものは、我々が部屋の中を移動するにつれて常にその形を変え続けているのである。そのため、ここでもまたその感覚は食卓それ自体の本当の形(姿)ではなく、食卓の現象についての真実しか我々に与えてはくれないようである。

    而且当我们在房间走动时,我们所见的桌子形状也会不断地变化;这再一次说明,感觉似乎并未告诉我们关于桌子本身的真相,而只是桌子的表象。

    47 min
  • ラッセル『哲学の諸問題』08 (『哲学の諸問題』第1章第6段落)@ LeoN Radio 我らの哲学

    <われらのラッセル哲学第8回(『哲学の諸問題』第1章第6段落)>

    ラジオ収録20200708

    【ラジオパーソナリティー】

    楠元純一郎 (日本語翻訳・法学者)

    レオー (中国語翻訳・美術家・録音編集者)

    【ゲスト】

    松尾欣治 (監修・哲学者・大学外部総合評価者)

    冯宪中 (監修・国際経済学者)

    石川啓子 (監修・HSK監督官)

    The same thing applies to the texture.

    同様のことは表面の感じにもいえる。

    ※ textute 織り方、織地、生地→表面の感じ

    text 本文、 textbook教科書、textile織物、布地、編んだ物

    同样的情况也适用于谈论它的质地的时候。

    With the naked eye one can see the grain, but otherwise the table looks smooth and even.

    (ある者は)肉眼でその木目(もくめ)を見ることができるが、それ以外は、食卓は滑らかで平坦に見える。

    虽然用肉眼可以看见桌子的纹理,但是另一方面,桌子看起来是平滑的。

    If we looked at it through a microscope, we should see roughnesses and hills and valleys, and all sorts of differences that are imperceptible to the naked eye.

    もし我々がそれを顕微鏡で見たら、肌理(きめ)の粗い、丘や谷(でこぼこ、凹凸=おうとつ、起伏)が見え、肉眼では知覚できないあらゆる違いが見えるはずである。

    imperceptible 知覚できない

    如果我们通过显微镜观察,我们会看到桌子的粗糙,高山低谷的模样(高低起伏),以及肉眼看不到的各种差异。

    Which of these is the 'real' table? We are naturally tempted to say that what we see through the microscope is more real, but that in turn would be changed by a still more powerful microscope.

    これらのうちのいったいどれが本当の食卓なのであろうか?我々は顕微鏡で見ている物がより本物であると自然に言いたくなるところであるが、今度はもっと高性能の顕微鏡を使えば、我々が見ている物がまた変わってしまう。

    ※ tempt ~を誘惑する、~にその気にさせる

    到底哪个是“真实的”桌子?我们当然会想说通过显微镜看到的总会比较真实一些,可是反过来,这又会被一支更强力(高倍数)的显微镜所改变。

    If, then, we cannot trust what we see with the naked eye, why should we trust what we see through a microscope?

    そこでもし、我々が肉眼で見たものを信用できないならば、顕微鏡で見たものをどうして信用すべきというのであろうか?

    那么如果我们不能相信我们用肉眼看到的,我们又凭什么可以相信我们通过显微镜观察到的一切?

    Thus, again, the confidence in our senses with which we began deserts us.

    こうして、また我々が感覚に対して抱き始めていた自信は失われるのである。

    ※ desert 見捨てる、放棄する

    desert 砂漠、荒野、 砂漠のような、不毛の

    dessert デザート、食事の後の甘い物

    于是,我们那始于感官的自信又一次抛弃了我们。

    55 min
  • ラッセル『哲学の諸問題』07 (『哲学の諸問題』第1章第5段落)@ LeoN Radio 我らの哲学

    <われらのラッセル哲学第7回(『哲学の諸問題』第1章第5段落)>

    ラジオ収録20200701

    【ラジオパーソナリティー】

    楠元純一郎(日本語翻訳・法学者)

    レオー(中国語翻訳・美術家・録音編集者)

    【ゲスト】

    松尾欣治(監修・哲学者・大学外部総合評価者)

    冯宪中(監修・国際経済学者)

    石川啓子(監修・HSK監督官)

    To return to the table.

    It is evident from what we have found, that there is no colour which preeminently appears to be the colour of the table, or even of any one particular part of the table -- it appears to be of different colours from different points of view, and there is no reason for regarding some of these as more really its colour than others.

    食卓に話題を戻そう。

    我々がわかったことから明らかなように、これがまさに食卓の色であるというような色は存在せず、または、食卓のある特定の部分ですらそうである。すなわち、異なった視点からは異なった色のように見え、これらの色のいくつかを他の色よりも本当の色であると考える理由はないのである。

    preeminently ずば抜けて、卓越した

    让我们再回到桌子的话题上来。

    从我们刚才的发现就明显可以看出,没有一种颜色可以被显示为桌子的颜色,甚至是桌子任何一个特定部位的颜色——在不同视点上显示的颜色都是不一样的,没有理由表明这些颜色中的某一些会比另一些更为真实。

    preeminently卓越地;显著地;优秀地

    And we know that even from a given point of view the colour will seem different by artificial light, or to a colour-blind man, or to a man wearing blue spectacles, while in the dark there will be no colour at all, though to touch and hearing the table will be unchanged.

    そして、我々は一定の同じ視点からですら、その色は人工的な光(照明)によって異なるし、また、色盲の人、青色レンズ(ブルーサングラス)の眼鏡を掛けている人によっても見え方が異なっており、他方で、暗闇の中では、食卓の触覚や聴覚での感覚は変わらないとはいえ、色がまったくないということを知っている。

    而且我们知道,即使身处某个特定视点,当桌子受人造光源照射,或观看者是个色盲,或者他戴了副蓝色眼镜等条件下,桌子的颜色看起来都会不一样。当处在黑暗环境下则完全没有任何颜色,尽管摸起来或者听上去,那张桌子还是那张桌子。

    spectacle,单数是“壮观的景象”“出人意料的情况”等含义,复数就变成“眼镜”的意思了

    This colour is not something which is inherent in the table, but something depending upon the table and the spectator and the way the light falls on the table.

    この色は、なにか食卓に内在する固有のものというわけではなく、食卓、その観察者、光の当たり方次第なのである(にかかっている)のである。

    桌子的颜色并不是桌子所固有的,而是某种取决于桌子、观察者、以及光投射在桌子上的方式的东西。

    When, in ordinary life, we speak of the colour of the table, we only mean the sort of colour which it will seem to have to a normal spectator from an ordinary point of view under usual conditions of light.

    日常生活において、我々が色について話すとき、それはただ、色の種類を意味しているだけである。その色の種類というのは、通常の光の状態の下で、普通の視点から通常の観察者が思っているようなものである。

    在日常生活当中,当我们谈起桌子的颜色时,我们只是在表示一个普通的观察者在一个普通的角度和通常的光照条件下所见的桌子呈现的颜色。

    But the other colours which appear under other conditions have just as good a right to be considered real; and therefore, to avoid favouritism, we are compelled to deny that, in itself, the table has any one particular colour.

    しかし、他の条件の下で現われる他の色は、本物と思われる正当性をまさに有しているのである。それゆえ、偏った考え方を避けるために、我々は食卓がそれ自体ある特定の色があるという考えを否定せざるを得ない。

    但是在其他的条件之下桌子所呈现出的其他颜色也应有权被认为是真实的;因此,为了避免偏颇,我们不得不否定,桌子本身有任何一种特定的颜色。

    51 min
  • ラッセル『哲学の諸問題』06 (『哲学の諸問題』第1章第4段落)@ LeoN Radio 我らの哲学

    <われらのラッセル哲学第6回(『哲学の諸問題』第1章第4段落)>

    ラジオ収録20200624

    【ラジオパーソナリティー】

    楠元純一郎(日本語翻訳・法学者)

    レオー(中国語翻訳・美術家・録音編集者)

    【ゲスト】

    松尾欣治(監修・哲学者・大学外部総合評価者)

    冯宪中(監修・国際経済学者)

    For most practical purposes these differences are unimportant, but to the painter they are all-important: the painter has to unlearn the habit of thinking that things seem to have the colour which common sense says they 'really' have, and to learn the habit of seeing things as they appear.

    たいていの実用的な目的にとっては、これらの配色の違いは重要ではないが、画家にとってはそれらは非常に重要である。つまり、画家は、物は常識的にそれらが「本当に」有しているとされる色を有していると考える習慣を捨て去らねばならず、それらが見えるがままに物を見る習慣を身に付けなければならない。

    ※コロン(:)の使い方に注意!→例示列挙する場合、何かの言換え(詳述)をする場合(つまり〜)、以下に引用文が来る場合がある。all-important 非常に重要な

    在大多数实用的目的中,这些差异并不重要,但对画家来说,它们是相当重要的:画家必须摒弃那种认为事物看上去具有常识所说的“真正”色彩的习惯,并养成观察事物外观的习惯。

    all-important:all在这里是“非常”的意思,表程度。

    Here we have already the beginning of one of the distinctions that cause most trouble in philosophy -- the distinction between 'appearance' and 'reality', between what things seem to be and what they are.

    ここで我々は、哲学において最も厄介な問題をもたらす区別、すなわち、「事物の感じたままの様子(現象)」と「事物の本当の姿(実在)」、事物がどのようであるかということとそれがなんであるか(本質的にどうであるか)の区別をすでにし始めているのである。

    哲学当中引发出最大麻烦的一个分歧自此产生——“表象”和“真实”之间的区别,也就是一个东西看起来的样子和实际上的样子。

    The painter wants to know what things seem to be, the practical man and the philosopher want to know what they are; but the philosopher's wish to know this is stronger than the practical man's, and is more troubled by knowledge as to the difficulties of answering the question.

    画家は事物がどのような様子であるかを知りたがり、現実的な人(実務家)および哲学者はそれが(いったい)なんであるかを知りたがる。しかし、哲学者がこれを知ろうとする願望は、現実的な人(実務家)のそれよりも強く、そして、その問題に答える難しさという点において、知識(常識)によってさらに厄介なことになる。

    ※問題点

    当初私は、「しかし、哲学者がこれを知ろうとする願望は、現実的な人(実務家)のそれよりも強く、そして、その問題に答える難しさにについて知っているだけに、さらに厄介なことになる。」と訳しておりました。

    それに対して、レオー君から、「その問題に答える難しさに関して、知識によってさらに面倒なことになる」とか、冯老師から、「その問題に答えることの難しさと同様に、知識によってさらに面倒なことになる」という訳案が出されました。私見としては、それだと「知識」が唐突に出てきて、これではなんの知識かわからないし、また、「as to」は辞書によればまず、「~について」とか「~に関して」と出てきて、「同様に」というのは見当たらないので、ここはやはり、knowledgeとthe difficultyを引き寄せて、「難しさについて知っている」と訳すのが自然ではないかと考えていたのです。それに対して、レオー君から以下のような反論がありました。(楠元文責)

    knowledgeといえば、「知識」ですがここではむしろ「常識」というのがより相応しいと思います。例えば、子供は常識がまだ少ないから、「なぜ空が青いの?」という質問に対して、「誰かに青色に染められたかもしれない」という答えが出てくるかもしれません。大人になったら常識が増える一方で、いろんなことの難しさもだんだんわかるようになってきます。だから、ここでは、「知識(常識)によって面倒なことになる」と訳します。(レオー文責)

    なるほど、レオー君のいうとおり、knowledgeが知識(常識)ならば、なぜそれにaとかtheの冠詞がつけられていないのでしょうか(これについては松尾先生からも同様の疑問が出されております)。よって、ここでは知識とか常識ではなく、ただ単に抽象的な意味での「知っている」ということではないかと当初は思ったのです(楠元文責)。

    はい、こちらもあんまり文法のことを考えずに、ただ直感的に読みながら訳しました(レオー文責)。

    しかし、よく考えてみるとレオー君の言っていることは実は鋭いのではないと思えてきました。なぜなら、第1章第2段落の第2文に、”In the search for certainty, it is natural to begin with our present experiences, and in some sense, no doubt, knowledge is to be derived from them. ”という文章があり、そこではknowledgeを知識と訳しておりましたが、このknowledgeにも冠詞がないのです。冠詞がなくても知識と訳していたので、この点に関し、レオー君や冯老師の「知識(説)」を否定できなくなりました。これで、なんかモヤモヤが晴れてきたような気がします。(楠元文責)

    画家想要知道事物看起来是怎样的,而实干家和哲学家想要知道它们是什么。但是哲学家的愿望要比实干家强,而且关于回答这个问题的困难,更加为知识(常识)所困。

    wish后出现to不一定是不定式!看错的话会导致无法分析句子成分从而造成理解困难。看到前面的's就应该知道这里的wish是名词,to后的部分是修饰成分。

    48 min
  • ラッセル『哲学の諸問題』05 (『哲学の諸問題』第1章第3段落)@ LeoN Radio 我らの哲学

    <われらのラッセル哲学第5回(『哲学の諸問題』第1章第3段落)>

    ラジオ収録20200617

    【ラジオパーソナリティー】

    楠元純一郎(日本語翻訳・法学者)

    レオー君(中国語翻訳・美術家・録音編集者)

    【ゲスト】

    松尾欣治(監修・哲学者・大学外部総合評価者)

    冯宪中(監修・国際経済学者)

    石川啓子(監修・HSK監督官)

    <第1章第3段落>

    To make our difficulties plain, let us concentrate attention on the table. To the eye it is oblong, brown and shiny, to the touch it is smooth and cool and hard; when I tap it, it gives out a wooden sound. Any one else who sees and feels and hears the table will agree with this description, so that it might seem as if no difficulty would arise; but as soon as we try to be more precise our troubles begin.

    我々の難題を明らかにするために、その食卓に注目してみよう。見た目には、それは長方形で、茶色で光沢があり、触ってみると滑らかで、冷たくて硬い。私がそれを軽く叩けば、それは木の音がする。その食卓を見て感じ、その音を聴く(その他の)人なら誰でもこのような描写に同意するだろう。それゆえ、何も厄介な問題は起こらないように思われるが、しかし、より正確に描写しようとすれば、すぐに我々にとって面倒な問題が起こり始めるのである。

    ※oblong 長方形(の) a rectangle 長方形 rectanular 長方形の・矩形(くけい)の

    矩形→すべての角が直角(90度)の四辺形→長方形(a rectangle)・正方形(a square

    为了使我们的难题变得简明,让我们把注意力集中在这张桌子上。对于眼睛来说,它是长方形,棕色而光亮的;对于皮肤来说,它是光滑,冰冷而坚硬的;当我敲打它的时候,它报以木头应该发出的声音。任何看到,听到或者感觉到这张桌子的人都会同意这种描述,看似没有什么困难。可一旦我们开始较真,麻烦就来了。

    Although I believe that the table is 'really' of the same colour all over, the parts that reflect the light look much brighter than the other parts, and some parts look white because of reflected light.

    私はその食卓はすべてにおいて「本当に」同色であると信じてはいるが、しかし、光を反射しているある部分はその他の部分よりもずっと明るいし、そして、またある部分は光の反射により白く見えるのである。

    尽管我相信这张桌子“的确是”被同一种颜色所覆盖,但其中反射着光的一部分看起来比其他的部分要明亮,而且因为这反射光,某一部分会看起来发白。

    I know that, if I move, the parts that reflect the light will be different, so that the apparent distribution of colours on the table will change.

    私は、もし自分が動けば、光を反射している部分が変わるため、食卓の見かけ上の配色も変わるということを知っている。

    我知道如果我移动了,反射了光的部分就会变得不一样,所以桌子上的颜色的分布就会发生变化。

    It follows that if several people are looking at the table at the same moment, no two of them will see exactly the same distribution of colours, because no two can see it from exactly the same point of view, and any change in the point of view makes some change in the way the light is reflected.

    それゆえ、もし、複数の人びとが同時にその食卓を見ている場合、誰とて(二人とて)まったく同一の配色を見ることはないということになる。なぜならば、誰とて(二人とて)まったく同一の視点からそれを見ることはできないからであり、視点がいくらかでも変われば光の反射の具合もまた変わるからである。

    由此可见,当几个人同时看着这张桌子,没有任何两个人会看到同样的颜色分布情况,因为没有任何两个人会从完全一样的视点去看,而且任何视点的改变都会改变光的反射的情况。

    50 min
  • ラッセル『哲学の諸問題』04(『哲学の諸問題』第1章第2段落)@ LeoN Radio 我らの哲学

    <われらのRussell我们的罗素哲学第4回(『哲学の諸問題』第1章第2段落)>

    ラジオ収録20200610

    【ラジオパーソナリティー】

    楠元純一郎(法学者)

    レオー君(美術家・録音編集者)

    【ゲスト】

    松尾欣治(哲学者・大学外部総合評価者)

    冯宪中(国際経済学者)

    <第1章第2段落>

    In daily life, we assume as certain many things which, on a closer scrutiny, are found to be so full of apparent contradictions that only a great amount of thought enables us to know what it is that we really may believe.

    日常生活において、我々が確かなものと思い込んでいる多くの物事は、より詳しく精査してみると、明らかに矛盾に満ちていることがわかるので、相当多くの思索をしなければ、我々は本当に信じてよいことが何であるかを知ることができない。

    要するに、ラッセルは常識を疑え!考え抜かないと、本質には迫れない!と言っているのですね。

    在日常生活当中,我们想象很多事物是真切的,经过仔细地观察, 它们当中却充满了如此明显的矛盾之处,以至于只有通过大量的思考才能使我们懂得我们所信为何物。

    In the search for certainty, it is natural to begin with our present experiences, and in some sense, no doubt, knowledge is to be derived from them.

    物事の確実性を探求するには、我々の今のその経験から始めるのが自然(当然)であり、そして、ある意味では、疑いもなく知識はそこから得られる。

    在对于确切性的探求当中,我们自然要从我们的既有经验入手。在某种意义上,毫无疑问,我们要从此获得知识。

    But any statement as to what it is that our immediate experiences make us know is very likely to be wrong.

    しかしながら、我々の直接の経験から知り得たことに関するいかなる説明も間違っている可能性が非常に高い。

    但是,任何关于我们的直接经历使我们了解事物的说法都很可能是错误的。

    It seems to me that I am now sitting in a chair, at a table of a certain shape, on which I see sheets of paper with writing or print.

    今、私がある形をした食卓の椅子に座っており、その食卓の上には、何かが書かれた、または、印字された数枚の紙があるのを見ているとしよう。

    或许看起来我此刻坐在一张椅子上,在一张特定形状的桌子前,上面有几张写着或者是印着的字的纸。

    By turning my head I see out of the window buildings and clouds and the sun.

    そして、窓の外に目を向けると、建物や雲や太陽が見えるとしよう。

    振り向くと、窓から建物、雲そして太陽が見える(としよう)。

    我转过头去看向窗外,看到有建筑物,云和太阳。

    I believe that the sun is about ninety-three million miles from the earth; that it is a hot globe many times bigger than the earth; that, owing to the earth's rotation, it rises every morning, and will continue to do so for an indefinite time in the future.

    私は、太陽は地球からおよそ9,300万マイル離れており、その太陽は地球より何倍も大きい灼熱の球体であり、地球の自転により毎朝昇り、将来も限りなくそれを続けるであろうことを信じている。

    indefinite 不確定の、無期限の

    我相信太阳离地球大约九千三百万英里;它是一个比地球大很多倍的,很热的与地球类似的星体;由于地球自转,它每天早晨都会升起,而且在未来的一段无限的时间里还会继续升起。

    I believe that, if any other normal person comes into my room, he will see the same chairs and tables and books and papers as I see, and that the table which I see is the same as the table which I feel pressing against my arm.

    もし、他の普通のまともな人が私の部屋に入って来たら、その人は私が見ているのと同じように、同じ椅子、食卓、本および紙を見るだろうし、私が見ている食卓は、私が腕を押し付けていると感じている食卓と同じものであるということを私は信じている。

    我相信,如果有任何其他人进入我的房间,他会看到同我看到一样的椅子,桌子,书和纸张,而我看到的桌子和我用胳膊压着的桌子是一样的。

    All this seems to be so evident as to be hardly worth stating, except in answer to a man who doubts whether I know anything.

    これらすべては、とても明白であるため、私が何もわかっていないのではないかと疑う人に対して答える場合を除いて、あえて言葉にする価値(必要)もないように思われる。

    anythingは実質的否定であるdoubtsと組み合わせて、なにも~ないと訳せるはず。

    a man who doubts whether I know anything

    これについて、三つの訳が一応考えられるので、並記しておきます。

    ①私が何もわかっていないのではないかと疑う人(全部否定)

    ②私が何かをわかっていないのではないかと疑う人(一部否定)

    ③私が何でもわかっていることを疑う(わからないこともあるだろうと疑う)人(一部否定)

    anythingの肯定的な何でもと否定的な「何でも」は、everythingの「すべて(全部)」と混同してしまいがちですね。ではなにが違うのでしょう?一般にanythingにはある限られた範囲の中の選択で、everythingは全部、という違いがあるようです。

    ここでは、①のように訳しましたが、②と③の可能性については今後の検討課題といたします。

    除非在有人质疑我是否懂事时我对他们做出的回答当中,否则上述所有这些都看上去如此的明显,好像都不值一提。

    这里将a man who doubts whether I know anything中的I know anything翻译成懂事,是因为原作要表达“当别人质疑我的最低限度认知能力时,会对我提出一些过于简单的问题”的意思,所以我们可以直接用“懂事”这个词来表达。

    Yet all this may be reasonably doubted, and all of it requires much careful discussion before we can be sure that we have stated it in a form that is wholly true.

    しかしながら、これらすべては合理的に疑うことができ、それらすべては、我々がまったく正しい方法で述べたと確信できるにまでは、とても注意深い議論が必要である。

    然而,这一切都是可以被合理地怀疑的,在我们确信我们的阐述都是完全正确之前,这一切都是需要被非常谨慎的讨论的。

    1 hr 5 min
  • ラッセル『哲学の諸問題』03 (『哲学の諸問題』第1章第1段落)@ LeoN Radio 我らの哲学

    <われらのRussell我们的罗素哲学第3回(『哲学の諸問題』第1章第1段落)>

    ラジオ収録20200603

    【ラジオパーソナリティー】

    翻訳 楠元純一郎(法学者)

    翻訳 レオー君(美術家・録音編集者)

    【ゲスト】

    監訳 松尾欣治(哲学者・大学外部総合評価者)

    監訳  冯宪中(国際経済学者)

    監訳 石川啓子(HSK試験監督官)

    みなさん、こんばんは、2020年6月3日(水曜日)、レオンレイディオです。

    しょうちゃんも、ふみちゃんも聴いてる?

    それではいってみましょう!レオ君とナンユアンの、レオンレイディオ。

    はい、今夜は、哲学者の松尾欣治先生、国際経済学者の冯宪中老師、HSK試験監督官で歌手・漫画家の石川啓子先生にお越しいただいております。啓子さんのオリジナル曲はいろいろありますが、とくに「ひとりの湘南ロード」が大好きです。私の場合、この歌を聴くとなぜか70年代後半ごろの情景が思い浮かばれ、なつかしく感じられます。

    さて、今回はラッセル哲学第3回目で、『哲学の諸問題』の第1章第1パラグラフを味読いたします。それでは始めます。まず、Chapter 1からですね。

    I  Appearannce and Reality

    第1章 事物の様子とその本当の姿(実在)

    第1章 表象和真实

    Appearanceはあらゆる感覚(五感である視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、そして、第六感も?人によっては ⁉︎)を使って、そしていろいろな条件の下で、とらえることのできる、感じたままの様子にすぎません。また、事物の本当の姿と性質であるRealityはきっと必ずどこかに存在するはずですが、「実はこれです!」と言って、ずばりそれを指し示すことは誰にもできません。

    結局それは、感じたままの経験であるその様子から分析し、想像し、判断することによって、本物の姿を帰納的に考察するしか方法がないのです。

    私は当初Appearanceを外見とか、外観とかと考えてみましたが、感覚は視覚だけではないので、結局、そのような訳を避けました。

    Realityは、私の辞書では、現実とか、真実とか、実在とか出てきます。経験的な現象として現れるあらゆる様子だってある意味、現実だし、実在というと哲学用語みたいで、とたんに難しく感じられるし、そうするとその中では真実が一番その訳に近そうな気がしますが、では、具体的に何が真実なのだろうかと考えると、事物の本性とか、本当の性質といった言葉に行き着き、そして、本当の姿(これは視覚的なものに限らない意味です)と訳すのが適当だと考えました。ちょっと大人びた言葉では、「事物の様子と本性」と、今のところですが、そのように考えております。

    <第1章第1段落>

    IS THERE ANY KNOWLEDGE in the world which is so certain that no reasonable man could doubt it?

    この世の中に、まとも(合理的)な人ならば疑おうとしても疑うことのできない確かな知識は存在するのであろうか?

    这世界当中是否存在任何的知识,真切到我们人类找不到理由去怀疑的呢?

    This question, which at first sight might not seem difficult, is really one of the most difficult that can be asked.

    この問題は一見してそれほど難しいようには思われないが、質問される問題の中で、実にもっとも難しい問題の一つなのである。

    这个问题乍一看并不难,可确实是人们所能提出来的最难的问题之一。

    When we have realized the obstacles in the way of a straightforward and confident answer, we shall be well launched on the study of philosophy -- for philosophy is merely the attempt to answer such ultimate questions, not carelessly and dogmatically, as we do in ordinary life and even in the sciences, but critically after exploring all that makes such questions puzzling, and after realizing all the vagueness and confusion that underlie our ordinary ideas.

    realize  obstacle  launch  dogmatically puzzling vagueness confusion underlie

    我々が率直に自信をもって回答するのに支障があることに気づいたとき、我々は哲学の勉強をまさに始めているのであろう。その哲学というのは、我々が日常生活において、そして科学的研究においてすら起こしてしまう不注意で独断的なものであってはならず、そのような問題を不可解なものにするあらゆる事象を探求した後で、そして、我々が普通で当たり前だと思っている考えにあるあらゆる曖昧さや混乱を理解した後で、批判的にそのような究極の問題に答えようとする試みにほかならないのである。

    簡単にいうと、

    「我々が、なにか率直に自信をもって答えにくいと感じた時こそ、まさに哲学を始めているのです。哲学というのはある究極の問題に答えようとする試みです。それは我々が日常生活においてよくやるように、そして科学を研究する場合ですら犯してしまうような不注意で独断的なものであってはなりません。そうではなくて、「哲学をする」というのは、我々が普通で当たり前だと思っている考え、つまり、常識だと思っていることには曖昧さや混乱があるということをわかった上で、批判的にそのような問題に答えようとする試みなのです。」

    当我们意识到在我们自信而率直地回答问题的道路上存在的阻碍时,我们就将会处在研究哲学的良好开端——这是因为,哲学仅仅是回答这些终极问题的一种尝试,它并非好像我们在日常生活中,甚至是在科学当中那样粗枝大叶而武断地回答,而是在探究过所有导致这个问题使人困惑的东西后,以及在我们认识到暗藏在我们平常的思想之下的暧昧与混乱之后,才进行的批判性的回答。

    1 hr 5 min
  • ラッセル『哲学の諸問題』02(『哲学の諸問題』序言、第17刷の註(ノート)) @ LeoN Radio 我らの哲学

    【ラジオパーソナリティー】Russell

    翻訳 楠元純一郎(法学者)

    翻訳 レオー君(美術家・録音編集者)

    【ゲスト】

    日本語監修 松尾欣治(哲学者・大学外部総合評価者)

    中国語監修 冯宪中(国際経済学者)(第1章〜第4章を担当)


    伯特兰 罗素

    《哲学问题》

    Preface

    IN THE FOLLOWING PAGES I HAVE CONFINED myself in the main to those problems of philosophy in regard to which I thought it possible to say something positive and constructive, since merely negative criticism seemed out of place.

    序文(序言・はしがき・前書き)

    以下の頁では(本書においては)、(自分自身、)主として哲学の諸問題に的を絞った。その哲学の諸問題というのは、単なる否定的な批判は不適切であるがゆえに、なにか肯定的で建設的なことを言うことができると考えたことに関するものである。

    confine oneself to~に制限する、in regard to(慣用句・イディオム)+which(関係代名詞)、It to構文、out of place→場違いな→不適切

    序言

    在下面的内容当中,因为单纯的只是否定和负面的批评似乎是不当的,所以我主要仅限于讨论那些我认为可以能够发表一些积极的和建设性的意见的以哲学为主的问题。

    confine oneself to 仅限于

    in regard to(+which) 在(...的)某一点上

    it...to 形式宾语句式

    For this reason, theory of knowledge occupies a larger space than metaphysics in the present volume, and some topics much discussed by philosophers are treated very briefly, if at all.

    この理由から、本書においては、知識の理論が形而上学よりも大きな紙幅を占めており、哲学者によっておおいに議論されてきたいくつかのトピック(論題)は、仮にあったとしても、ごく簡潔にしか触れていない。

    theory of knowledge(知識の理論)って何?

    metaphysics(形而上学)って何?

    因此,在本书当中,知识性的理论相较于形而上学占用较多的篇幅,并且,一些已被哲学家讨论过的议话题将被尽量,或者全部从简处理。

    知识性的理论是什么?

    形而上学是什么?

    I have derived valuable assistance from unpublished writings of G. E. Moore and J. M. Keynes: from the former, as regards the relations of sense-data to physical objects, and from the latter as regards probability and induction. I have also profited greatly by the criticisms and suggestions of Professor Gilbert Murray.(1912)

    私は、G.E.Moore (イギリスの哲学者)とJ.M.Keynes(イギリスの経済学者)の未刊の著作物から貴重な助けを得た。前者(ムーア)からはセンスデータ(感覚与件)と物質との関係について、後者(ケインズ)からは蓋然性と帰納について、である。また、Gilbert Murray教授(古典言語学者)からもたいへん有益な批評と示唆を賜った。(1912年)

    derive A from B: BからAを引き出す(得る)、sense-data(感覚与件・センスデータ・感覚から得られる生の情報?):視覚・聴覚・嗅覚・味覚・皮膚感覚など感覚器官から得られる、解釈や判断を経ないあるがままの経験。

    induction(帰納):個別具体的事例から一般的な命題・法則を導き出す推論方法。

    我从 G. E. Moore以及和 J. M. Keynes两位的尚未发表的著作当中得到了可贵的助益:前者关于感觉予料数据与物理对象物体的关系,二后者则关于概率盖然率和归纳同时Gilbert Murray教授也曾给予我有益的批评和建议。

    感觉数据:从视觉、听觉等的感官获得的,未经任何解释或判断直接而成的经验。

    归纳:从个别性的具体实例推导出一般性的命题或者法则的推论方法。

    Note to Seventeen impression

    WITH REFERENCE to certain statements on pages 44, 75, 131, and 132, it should be remarked that this book was written in the early part of 1912 when China was still an Empire, and the name of the then late Prime Minister did begin with the letter B.(1943)

    第17刷の註(ノート)

    44頁、75頁、131頁および132頁についてのある論述に関連した参照事項。本書は中国がまだ帝国であった1912年の初頭に書かれたものであり、そして、当時のイギリスの(これは原文になし)「前首相」の名前はあえてBの文字から始めた。(1943年) (ちなみに、Henry Campbell-Bannermanは1905年12月5日から1908年4月7日までイギリス最初の首相であるといわれている。)

    关于第44页、75页、131页以及132页当中的某些和内容的声明,应当指出,本书的写作年代为1912年,当时中国正处在帝国时代的末期,此时英国前总理的名字为B开头(1943年)

    I  Appearance and Reality

    まずは重要な言葉の定義をします。

    第1章 外見と真実? 外見と本質?外見と実在 外観と真実?外観と本質?外観と実在 ?

    まだまだいろいろと他にも考えられますが・・・。

    Appearenceとして現れるものをとらえる感覚は視覚だけでなく、聴覚、嗅覚、味覚、触覚などもありますから、「外見」とすると視覚に限定されてしまうおそれがあるからです。外観の方がまだいいかな?観には視覚以外も含まれると解するならその方がよさそうですね。

    場合によっては、暫定ってことも考えられます。その点、あしからずご容赦ください。

    第1章 表象和真实

    1 hr 5 min
  • ラッセル『哲学の諸問題』01(「Society5.0基盤教育Pandora」趣旨) @ LeoN Radio 我らの哲学

    【ラジオパーソナリティー】

    楠元純一郎(法学者)

    レオー(美術家・録音編集者)(

    【ゲスト】

    松尾欣治(哲学者・大学外部総合評価者)

    張紅(法学者・弁護士)

    王前(思想史学者)

    このたび、私どもは「Society5.0基盤教育Pandora」という団体を立ち上げました。

    それは、世代を超えて、人びとが共通して学ぶことのできる、そして社会で生きていくうえで

    必要不可欠な基礎的知識や論理的思考方法を

    身に付けるための新しい教材作りを目指すのが当面の目的です。

    そこで、当ラッセル哲学研究会は、その教材コンテンツの第1号として、

    バートランド・ラッセルの『The problems of the philosophy (哲学の諸問題)』を選定しました。

    英語で書かれたこの書物を日本語と中国語でじっくり時間をかけて味読(みどく)=スローリーディングしていきたいと考えております。

    また、このラジオ番組は、哲学その他の専門家の方々とともに議論しながら、ラッセル哲学の真髄に迫り、また、ラジオ視聴者の方々には、われわれの思考過程の舞台裏を覗いたり、聴いたりしていただこうと思っております。

    (松尾)ある事情(アクティブラーニングを組み込んだ学園史を執筆する)がございまして、ラッセルの書物を何か1冊、みんなで読まなければならない。そうしますと、大部なものは最後まで読みきることはできそうにない。あれこれ検討してみますと、『哲学の諸問題』に帰着する。

    そこで、昨年の四月から『哲学の諸問題』を毎日、読むことになりました。毎日、毎日、読み続けて、もう14か月になりますが、少しも飽きるということがない。面白い。

    なぜか?と考えてみますと、この本というのは、たとえば、美術に関心のある人には、画家の話がでてくる。アパレル業界に関心のある人には、ニット、パッチワークのパッチ、フックとか、そいう言葉で哲学が論じられている。それが理数国社のみならず、芸術、つまり初等・中等教育で習う、ほぼ全科目にわたっている。

    太陽の光が地球に到達するのに8分かかる、というような話は理科でしょうし、「2足す2は4」というのは、算数。ビスマルクが出てきますと、世界史になってしまいますし、シェイクスピアの『オセロ』を題材に、「ジェラシーの成り立つ条件は何か?」となりますと、国語であり、数学となります。

    小学生、中学生にも面白く、高校生、大学生、一般社会人、高齢者にも面白い本として、この本が存在していたんだ、ということに気づきまして、そうなりますと、この本は「Society5.0基盤教育Pandora」の中心に位置してしまうだろうということになり、この本を選定した次第です。

    日本では、学習指導要領が改訂され、この4月から小学校でも英語教育が始まりました。今回の改訂は従来の暗記型教育から思考型へと転換し、主体的、対話的な深い学びを目指しています。

    ラッセルの『哲学の諸問題』には暗記すべきことがなく、問題が、なぜ問題なのか?を明らかにしつつ、次の問題へと続き展開します。暗記力ではなく、思考力が働いて、物事の大事な奥深いところには何があるのか、またはないのか?こういう問題を論理的に考える。すると、どういうことが起こるのでしょうか?日本の教育では未知の世界です。

    さあ、その未知の世界への扉を開けて、みんなで思考の世界で遊びましょう!

    (王前)ラッセルは若い時にけっこう読んだ記憶があります。いまは他の哲学者とか思想家に惹かれるしまい、最近はあまり読んでいませんが、しかしラッセルの魅力はもちろん忘れていません。ときどき紐解いて、拾い読みなどしています。いまどきのアカデミックな哲学者と、ちょっと違うところがあるんですよね。

    もちろん彼はアカデミックな仕事をたくさんした人ではありましたが、同時に社会のことも人類のことも、とくに中年以降、かなり積極的に社会問題、政治問題にも発言したりして、まあ、それでも本格的な哲学の仕事も続けたわけですね。

    そういうラッセルではありますが、彼は自伝の中で言っているんです。彼の一生を支配しているパッションは三つありまして、一つは「愛を求めること」、もう一つは「知を求めること」、そして三番目は「人類の苦難への思いやり、それを常に気にかけること」。

    この三点、彼は本人、自分の性格をよく分かっているなぁ(笑)。彼は、彼の非常に充実した一生をよく見事に三つにまとめた、三点セットという感じがしますよね。

    そういうスケールの大きな哲学者で、知性の面では若い時の、分析哲学の先駆けとして非常に重要な仕事もしまして、優れたヴィットゲンシュタインのような弟子との出会いもありまして、われわれ一般の人間にとっては非常に難解な数学原理についての仕事とか、たくさんありますけれども、たぶん彼の、中年からかな、社会の問題とか教育の問題とか、現代社会の人間が直面するいろいろな問題について発言を始めましたので、一般読者にも非常に読みやすい本を哲学者の知見も込めて、けっこうたくさん書きました。

    そういう意味では、今日のわれわれにとっても興味深い、読み応えのある書物をたくさん残したと思います。松尾先生が紹介した『哲学の諸問題』も、そういう書物の1冊だと思いますね。

    (張)今年はラッセルの中国訪問から100周年になります。この間、ラッセルの本は 中国語に翻訳され、ラッセルの思想も幅広く中国の学者に受け入れられてきました。中国と西洋の思想文化の交流の歴史の中で、ラッセルの功績は非常に大きかったと言えます。

    ここで「ラッセルの中国訪問」についてご紹介したいと思います。1920年、梁启超先生と蔡元培先生が招聘してラッセルを北京大学に任期一年の講師として迎えました。特に蔡元培先生は、私の母校である北京大学の元学長でもありました。1920年、ラッセルは北京に着いてから、北京大学で最初の“哲学問題”について講演を行いました。その後、“心の分析”、“物質の分析”、“数理論理”、“社会構造”いわゆるラッセルの“5つのスピーチ”を行いました。その翌年には中国教育部でもスピーチをし、“中国の自由への道”というテーマで講演をしています。このようなラッセルが中国で行ったこと関して、中国の多くの学者達が彼を尊敬しております。先程、王先生も仰ったようにラッセルは政治、経済、文化、社会の各方面で中国の将来についていろいろな提言をされました。例えば、当時中国において西洋文化を全てそのまま中国に取り入れることは適切ではないということも講演の中で言われました。

    ラッセルの中国訪問から、ちょうど100周年のこの期に、われわれが何か貢献ができるか、私にとっても一つの勉強のチャンスと思っております。

    22 min

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