この芦田先生の記事は、AI技術が進化する現代において、教育と主体の成熟がどのような意味を持つのかを哲学的な視点から考察しています。著者は、AIを単なる道具として使いこなす能力よりも、それに対峙する人間自身の精神的な深みが重要であると説いています。カントやライプニッツの思想を引き合いに出し、賢明さと愚かさの境界は外部からの啓蒙ではなく、自己の内面的な変容によってのみ超えられると分析しています。最終的に、AIという高度な外部存在と向き合うためには、形式化できない個人の主体的な成長こそが不可欠であると結論付けています。
以下が原文---------------
本日は、某国会議員(元自民党文教委員長)と4時間近く差しで話していて、「AIになったら教育はどうなりますか」と聞かれて、ますます日本の誇る学校教育体系(各学年で何を教えるのかが全国レベルできちんと具体的に整理されている稀有な学校教育体系)が重要になる、主体の成熟が求められると答えておいた。
それはどういうことか。
AIが精緻になればなるほど、それに〝対面〟する人間の精緻さが求められる。これは一般的には、AIを使う人間の優秀さが問われるという意味で言われているが、使われるもの(手段)の優秀さと使うもの(主体)の優秀さとは質が異なる。
使われるものは、常に使うものの〝外部に〟存在する。だからカントは、構想力は教育の対象ではないとした。
この(いわば、カント的な)原則は何を意味するのか。
そもそも世の中には、賢い人とバカな人の二種類 の人がいるわけではない。
世の中に賢い人とバカな人が対面で二種類存在するなら、わざわざバカでいいと思う人はいないだろうから、時間が経てば、世の中からバカ人はいなくなるに違いない(これが啓蒙主義の原則)。
しかし、カントが言ったように(『啓蒙とは何か』)、〈啓蒙〉とは自己触発に過ぎない。
なぜか。世の中に賢い人「がいる」こととバカな人「がいる」ことの意味は、それぞれが、それぞれの中で【賢い人/バカな人】【バカな人/賢い人】という区別を有しているからだ。
うがった言い方をすれば、バカな人は、バカな人の「内部で」【バカな人/賢い人】という〝分別〟を有しているのである。
つまり【賢い人/バカな人】【バカな人/賢い人】という〝対立〟は言わば分子の対立であって、本来の対立は、分母の対立として、【賢い人/バカな人】/賢い人、【バカな人/賢い人】/バカな人というように〝存在している〟。分母の対立とは、従って、存在しない(が故に存在する)対立なのだ。
柄谷行人は、ゲーデルやヴィトゲンシュタインやペレルマンを参照しながら、これを(約50年前に)「形式化の諸問題」として扱った。
一言で言えば、バカな人は間違った人を尊敬するために、いつまで経っても、賢い人になれない。
彼が脱出したいと思うその先が間違った〝先〟であるために、脱出する挙措自体がいつも無効になってしまう。
そうやって、賢い人とバカな人とは、永遠に交わらない。これをライプニッツは、「モナドには窓がない」と言った。窓がないけれども、それは何らかの欠如を示すのではなくて、モナドはそれ自体で「全世界を反映している」とした。
賢い人もバカな人もそれぞれが孤独だが、いつもそれ自体として全体であるために、両者は〝平和共存〟しているのである。これがライプニッツの〈予定調和〉という概念。
つまり、わたしは、いつでも〝賢い人〟でもありうるし、〝バカな人〟でもありうる。だから、カントは啓蒙とは自己触発だと言ったのである。
柄谷行人は、ライプニッツの予定調和的な内面主義を、「ライプニッツ症候群」として(柄谷の言う〈外部〉に目を閉ざすものとして)批判したが、それは間違い。ライプニッツの〈予定調和〉はなにより存在論的なものである。
そう考えたとき、〈使う〉という主体の外部性は、決して〝使い方次第〟という自由の主体ではない。そしてそれは、サイバネティクスの見出した〈外部〉でもない。むしろ、カントを熟読していたユクスキュル的な環境世界の外部性=内部性に近い。
たとえば、われわれは、AIに出会う前に、AIより即座に説得力のある(尊敬すべき)人物に出会ったりもしている。最悪の詐欺師にさえなけなしの1000万円を盗まれる場合もある(最悪の詐欺師とは、AIの比喩でもある)。それらのあらゆる〝出会い〟は形式化できない出会いにすぎない。
言い換えれば、それらは、すべて主体の成熟(カント的に言えば自己成熟)にかかわっている。主体の成熟とは、孤独な成熟、成熟の孤独なのである。
〈使う〉という言葉は、たとえば、ヴィトゲンシュタインが言葉の意味とは言葉の使用だと言った意味で、そうなのだろうか。
(この項、まだまだ続く)
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