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今回は以下の質問について話をしました。
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教行信証の総序に、「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に不蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。」
とありますが、
この「行信を獲る」のは、「たまたま」なのでしょうか?(私は、「たまたま」の意味を、偶然とか、運が良く、などの意味で考えています。)
もし、「たまたま」が偶然とか、運が良く、などの意味であれば、宝くじに運が良く大当りしたみたいに、思えてしまいます。
また、「弘誓の強縁が多生にも値ひがたく、億劫にも獲がたい」のであれば、今生で阿弥陀仏に救われるのは無理なのかなぁ?
と、心が折れ、あきらめの境地になってしまいます。
さらに、「遠く宿縁を慶べ」とありますが、これは、「宿善」ではなく、「宿縁」と親鸞聖人が書かれているのは、何か深い意味があるのでしょうか?
これらの教行信証の総序に書いてある「たまたま行信を獲る?」や「弘誓の強縁が多生にも値ひがたく、億劫にも獲がたい?」、親鸞聖人は、なぜ、「遠く宿善を慶べ」ではなく、「遠く宿縁を慶べ」と言われたのか?
について、ネットラジオ版安心問答でお話しを聞かせていただきたいです。
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○話にでたご文
穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(教行証文類・総序・P132)
○悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。(化身土文類・浄土真宗聖典註釈版P412)
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安心問答ー浄土真宗の信心について
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マシュマロ
今回は以下の質問について話をしました。
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第54回目を聞いて、阿弥陀仏の救済と「宿善」の関係については、「宿善」は阿弥陀仏の調育(調熟)の光明(智慧)のはたらきであり、一人一人違う未熟の機を調育して、本願を素直に疑い無く聞ける身に育ててくださることが分かりました。
しかし、そうすると、やはり阿弥陀仏の調育の光明によって、私の機が熟して、本願を疑い無く聞けるようになるには、機が熟すまでの時間がかかるように思えてしまいます。
阿弥陀仏の本願は、「ただ今救う」本願ですが、「ただ今救う」と今聞けていないのは、まだ、私の機が熟していないからでしょうか?
また、阿弥陀仏の本願は、短命の者や無常迅速の機をお目当てにしていると聞いているのですが、もし機が熟さないと、信心獲得できないとしたら、臨終の者は、どうなってしまうのでしょうか?
口伝鈔に、以下の文言がありましたので、今回は、短命の根機(無常迅速の機)と阿弥陀仏の調育の光明の関係について、またネットラジオ版安心問答でお話しを聞かせて頂きたいです。
よろしくお願いします。
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話のなかで出たご文
○そのゆゑは如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。
そのゆゑは願(第十八願)成就の文(大経・下)には、「聞其名号 信心歓喜 乃至一念 願生彼国 即得往生 住不退転」と説き(口伝鈔・浄土真宗聖典註釈版P911)
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安心問答ー浄土真宗の信心について
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マシュマロ
今回は、以下の質問について話をしました。
頂いた質問
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第53回目のネットラジオ版安心問答を聞いて、阿弥陀仏の側で、この人は好きだから早く救おうとか、この人は嫌いだから救うのは遅くしようとか、そういった差別はないことが分かりました。
そこで、また重ねてお尋ねがあります。
阿弥陀仏の側で救いの差別はしていないけれども、現世(今生)で救われる人と、来世(未来世)で救われる人が出てきてしまうのは、やはり「宿善」の厚薄が関係しているのでしょうか?
浄土真宗辞典で「宿善」について調べたら、①過去世に積んだ善根のこと。
②宿世の善因縁の意で、獲信のための善き因縁のこと、と書いてありました。
また、「宿善」は浄土真宗では、信心を得る縁となる阿弥陀仏の調育のはたらきであるとすると書いてありました。
さらに「宿善の開発」を同じく浄土真宗辞典で調べたら、信心を得るための過去の善き因縁が熟して、信心が開けおこること、と書いてありました。
そうすると、早く信心獲得できるかできないかは、「宿善」が厚いか?薄いか?に拠る所が大きな要因になると、この浄土真宗辞典では読めてしまうのですが、
実際の所は、この「宿善」が信心獲得の大きな要因になるのでしょうか?
また、もし「宿善」の厚薄が阿弥陀仏の救済の因縁であるとするならば、たくさん善い行いをしたり、たくさん念仏を称えたり、たくさん聴聞をしたほうが、早く阿弥陀仏の救済に遇えると考えてしまうのですが、実際はどうなのでしょうか?
今回は、この阿弥陀仏の救済と「宿善」の関係について、またネットラジオ版安心問答でお話しを聞かせていただけると有り難いです。
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○話の中ででたご文
一 光明・名号の因縁といふ事。
十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。
(略)
また光明寺(善導)の御釈(礼讃)には、「以光明名号摂化十方 但使信心求念」とものたまへり。
しかれば往生の信心の定まることはわれらが智分にあらず、光明の縁にもよほし育てられて名号信知の報土の因をうと、しるべしとなり。これを他力といふなり。(浄土真宗聖典註釈版P874)
○鎮西派・聖光房弁長(弁阿)上人「浄土宗名目問答」
このこと極めたる僻事なり。そのゆえは、全く他力を憑みて一分も自力なしということ、道理としてしらるべからず。自力の善根なしといえども他力によって往生を得るといはば一切の凡夫の輩、いまに穢土に留まるべからず。みなことごとく浄土に往生すべし。(浄土宗全書10・ P410)
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安心問答ー浄土真宗の信心について
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マシュマロ
#052を聞かれたら方から以下の質問を頂きました。
今回はこちらについて話をしています。
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⚪︎質問
「念仏衆生摂取不捨」の念仏者とは、阿弥陀仏の本願を聞いて、その本願の通りに念仏している者(本願を信じ念仏している者)を摂取して見捨てないということですが、
①同じ内容の本願を聞いていても、本願を信じられずに、念仏だけ称えている者は、阿弥陀仏のお救いから漏れてしまうのでしょうか?
②もしそうだとしたら、阿弥陀仏の本願は、差別的な本願になりませんか?
(信心のある念仏者は救うが、信心がない念仏者は救わないという差別になりませんか?)
③もし、阿弥陀さまの本願が、本願に疑いある者は救わずに、本願に疑い晴れた者だけ救う本願であれば、どうして「無条件のお救い」とか、「無差別のお救い」とか、「そのまま救う」とか、そんな無責任なことが言えるのでしょうか?
④同じ内容の阿弥陀仏の本願を聞いていても、阿弥陀仏の本願によって救われる者と、救われない者が出てきてしまうのは、何が原因になっているのでしょうか?
⑤もし私の側に何か救われない原因(理由)があるとすれば、それは何でしょうか?
⑥また、阿弥陀さまは、私を救いたくても、本願に疑いある状態のままでは、私を救うことができないのでしょうか?(本願に疑いある念仏者は救えないようなシステムや構造になっているのでしょうか?)
ーー
話の中で出したご文
⚪︎「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなりとしるべしとなり。これを「選」といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」はもつぱらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名号なり。(唯信鈔文意・浄土真宗聖典註釈版P711)
⚪︎(60)
不了仏智のしるしには
如来の諸智を疑惑して
罪福信じ善本を
たのめば辺地にとまるなり(正像末和讃・誡疑讃・浄土真宗聖典註釈版P610)
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安心問答ー浄土真宗の信心について
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マシュマロ
今回は、こちらについて話をしています。
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第51回目のお話しの中で、阿弥陀さまは本願を疑いなく聞き受けて、信心が定まった者を忘れずに必ず摂取して見捨てないというお話しがとても印象的でした。
その話を聞いて、私は念仏衆生摂取不捨というお言葉がすぐに頭に思い浮かびました。
以下は、AIで、念仏衆生摂取不捨の意味について調べた内容です。
AIの回答を、そのままコピーしたので、少し長文になりますが、一読していただき、このAIの回答に間違いがないか?もし間違っているとしたら、どこが間違っているか?を取り上げていただき、またお時間がある時に、ネットラジオ版安心問答で、「念仏衆生摂取不捨について」お話しをしていただけるとありがたいです。
ちなみに、私が主に知りたいのは、「念仏によって救われるのか?」「信心によって救われるのか?」についてです。(頂いた質問)
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資料として頂いたAIによる「念仏衆生摂取不捨」の文章です。
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(以下がAIの回答の全文です)
「念仏衆生摂取不捨(ねんぶつしゅじょうせっしゅふしゃ)」は、阿弥陀仏が「南無阿弥陀仏」と念仏を称える人々を光明で照らし、決して見捨てず、必ず極楽浄土へ救い取るという救済の約束を表す言葉です。『観無量寿経』に基づく浄土教の根幹となる教えで、現世での安心と死後の救済を意味します。
真宗の本棚 +4
意味と詳細
- 出典: 『仏説観無量寿経(観経)』の「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」という一節。
- 摂取不捨(せっしゅふしゃ): 逃げ惑う者(衆生)を追いかけ、必ず捕らえて抱きしめ、二度と捨てないこと。
-- 念仏衆生(ねんぶつしゅじょう): 念仏を称えるすべての人。
-阿弥陀仏の救い: この世では光に照らされて守られ、死後は極楽浄土へ連れて行かれるという絶対の幸福。
--真宗の本棚+4
Usage Examples (使い方・関連語)
-摂取不捨の利益: 念仏を称える者が、阿弥陀仏にすがり、死後必ず浄土へ往生できるという幸せ。
-摂取の光明: 衆生を摂め取って捨てない、阿弥陀仏の智慧の光。
-光明遍照(こうみょうへんじょう): 阿弥陀仏の光がすべての世界をあまねく照らしていること。
-法然上人の教え: 摂取不捨を「月の光」にたとえ、公平に注がれる慈悲を信じて念仏を称えるよう説いた。
--浄土真宗本願寺派総合研究所 - +4
類語・関連表現
-他力本願: 自らの力ではなく、阿弥陀仏の力によって救われる。
-見捨てぬぞ・必ず救う: 摂取不捨を分かりやすく表現した言葉。
-おさめ取って捨てない: 摂取不捨の分かりやすい現代語訳。
- -浄土真宗本願寺派 +4
-この言葉は、法然や親鸞が、どのような罪深い者でも念仏によって救われる根拠とした、非常に重要な言葉です。
--浄土宗全書テキストデータベース +2
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話の中で出したご文
一々光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨(一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。)(観無量寿経・浄土真宗聖典註釈版P102)
(82)
十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃・浄土真宗聖典註釈版P571)
摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる。(浄土真宗聖典註釈版P571)
またかの一々の光明、あまねく十方世界の念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず。
われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ。(往生要集・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P956)
いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。(教行信証・行巻・浄土真宗聖典註釈版P186)
今回は、以下の質問に回答しました。
ーー
第50回目を聞かせていただき、「信の一念」には意味が2種類あり、①時剋の一念は自覚はできないけれども、②信相の一念は、阿弥陀仏の救済を疑心なく信じた人には、信相の一念の自覚があることが分かりました。
そうすると、この「信相の一念」の自覚があるかないかで、「信心獲得」したのか?まだ「信心獲得」していないのか?を自分自身で信疑決判できるという理解で間違いないでしょうか?
また、入信には、二つのパターンがあり、どちらかのパターンでなければならない、ということはないことが分かりました。
そこで、極端な話、阿弥陀仏の本願を聞いていない時(例えば、お風呂に入っている時や寝ている時など)に、入信することもあり得るのでしょうか?
さらに、私の側では、いつどこでどんな状況で、入信するかは分からなくても、阿弥陀さまの側では、私がいつどこでどんな状況で入信するかは、全てご存知なのでしょうか?
ーー
話の中で出たご文
「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念文意・浄土真宗聖典註釈版P678)
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安心問答ー浄土真宗の信心について
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Peing(質問箱)https://peing.net/ja/anjinmondou
今回は、以下の質問に回答しました。
ーー
阿弥陀仏の本願をその通りと聞けるようになった瞬間を、「信の一念」と浄土真宗では言っているのでしょうか?
また、この「信の一念」は、自覚ができるのでしょうか?
獲信(回心)のパターンには、二つのパターン(突然的回心と漸次的回心)があると聞いたり、本で読んだことがあるのですが、親鸞聖人は、どちらのパターンで獲信(回心)されたのでしょうか?
ーー
話の中で出たご文
然るに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行 を棄てて本願に帰す。(教行信証化土巻)
噫、弘誓の強縁多生にも値ひがたく、真実の浄信億劫にも獲がたし、遇たま行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。(教行信証総序)
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安心問答ー浄土真宗の信心について
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Peing(質問箱)https://peing.net/ja/anjinmondou
今回は、第48回を聞かれた方からの質問メールについて話をしました。
以下、質問です。
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阿弥陀仏の本願に救われると、往生一定とハッキリする、と聞いたことがあるのですが、
阿弥陀仏の本願を疑い無く聞けるようになる(聞く耳をいただく)と、往生一定だとハッキリして、今までの本願に対するモヤモヤも日本晴れのようにスッキリするのでしょうか?(このスッキリするの意味は、今まで本願を疑い無く聞けなくて、悶々としていた心が、本願を疑い無く聞けるようになったことにより、悶々やモヤモヤが無くなり、楽に本願を聞けるようになることを意味しています。)
また、一度、本願を疑い無く聞ける耳をいただくと、いつどこでどんなときでも、極端な例を出せば、私が認知症などになっても、本願を疑い無く聞けるのでしょうか?
さらに、浄土真宗の篤信者が、臨終に信心が崩れたみたいな話を聞いたことがあるのですが、自分の信心が、自力の信心ではなく、他力の信心であると確信するには、臨終まで信心の沙汰をして、本願を聞き続けていく必要があるのでしょうか?
この辺りのお話しを、またネットラジオ版安心問答で、お時間がある時に、お話ししていただけると、ありがたいです。
よろしくお願い致します。
--
○話の中で出したご文
【28】 次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。(教行証文類・信文類・浄土真宗聖典註釈版P234)
しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。(教行証文類・証文類・浄土真宗聖典註釈版P306)
正念といふは、本弘誓願の信楽定まるをいふなり。この信心うるゆゑに、かならず無上涅槃にいたるなり。この信心を一心といふ、この一心を金剛心といふ、この金剛心を大菩提心といふなり。これすなはち他力のなかの他力なり。(御消息1・浄土真宗聖典註釈版P735)
聞思して遅慮することなかれ(教行証文類・総序P131)
(80)
真宗念仏ききえつつ
一念無疑なるをこそ
希有最勝人とほめ
正念をうとはさだめたれ
(高僧和讃・善導讃・浄土真宗聖典註釈版P592)
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安心問答ー浄土真宗の信心について
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Peing(質問箱)https://peing.net/ja/anjinmondou
今回は#047回を聞いた方からの質問メールについて話をしました。
以下質問メールより
ーー
本願を信じるか・信じないか?
本願を疑いなく聞いたか・聞いていないか?
は私の選択や決断ではないですよね?
阿弥陀仏の本願は、差別的な本願ではなく、万人が平等に救われる唯一の道であり、後生は自分ではどうしようもなく、後生は阿弥陀仏におまかせするしかないと思ってはいるのですが、どうも本願を疑いなく聞けていない自分もいるような気がします。
「念仏称える者を極楽浄土に生まれさせて仏に成らせる」のが阿弥陀仏の本願であると聞いて、最近は何も引っかかりもないですし、疑いもないのですが、救われた自覚みたいのもないですし、とくに心境の変化とか、特別な体験とか、念仏がありがたいとか、本願がありがたいとか、そういう思いはあまり湧いてこないのですが、自分自身で信疑決判はできるものなのでしょうか?
これについて、またネットラジオ版安心問答でお話しをしていただけないでしょうか?
—
話の中ででて来たご文
○一念多念文意
「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(浄土真宗聖典註釈版P678)
○教行信証化身土巻
如来の誓願、疑蓋雑はることなきがゆゑに信とのたまへるなり。(P393)
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安心問答ー浄土真宗の信心について
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Peing(質問箱)https://peing.net/ja/anjinmondou
今回は#046を聞かれた方からの質問について話をしました。
以下質問
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因果の道理や六道輪廻は、仏教全般に言える教えで、これは阿弥陀仏の本願の内容とは、直接的には関係がないから、本願疑惑心ではなく、疑煩悩であるということが分かりました。
また、阿弥陀仏の存在や極楽浄土の存在については、
そもそも、阿弥陀仏は、無上仏であり、色も形もない、真如(法性)そのものであり、信心獲得したからといって、凡夫に阿弥陀仏のことが分かるということはないと知らされました。
極楽浄土についても同じで、実際に信心獲得しても、極楽浄土が目に見えるようになるわけではなく、また確認のしようがないので、これもまた凡夫には極楽浄土の世界は分からないと知らされました。
しかし、そうすると、凡夫である私たちは、仏教で教えられている因果の道理や、六道輪廻のこと、また阿弥陀仏の存在や極楽浄土の世界のことなど、何も分からないまま、死後(後生)は、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれ、仏に成るのでしょうか?
死後の行き先である、極楽浄土のことも何も分からず、仏に成るとは、どういうことかも分からず、親さまと呼ばれる阿弥陀さまのことも分からずに、
「ただ本願を信じ念仏を申さば仏に成る」ということだけなのでしょうか?
獲信者と未信者の違いは、本願を疑いなく聞けているか?聞けていないか?の違いだけで、その他は何も変わらないのでしょうか?
また、ネットラジオ版安心問答で、お話しをしていただけると、ありがたいです。
ーーー
○話の中で出てくるご文
○唯信鈔文意【4】
大涅槃と申すにその名無量なり、くはしく申すにあたはず、おろおろその名をあらはすべし。(浄土真宗聖典註釈版P709)
<前後>
「極楽無為涅槃界」といふは、「極楽」と申すはかの安楽浄土なり、よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはらざるなり。かのくにをば安養といへり、曇鸞和尚は、「ほめたてまつりて安養と申す」とこそのたまへり。また『論』(浄土論)には「蓮華蔵世界」ともいへり、「無為」ともいへり。「涅槃界」といふは無明のまどひをひるがへして、無上涅槃のさとりをひらくなり。「界」はさかひといふ、さとりをひらくさかひなり。大涅槃と申すにその名無量なり、くはしく申すにあたはず、おろおろその名をあらはすべし。「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。(浄土真宗聖典註釈版P709)
(略)
阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。(浄土真宗聖典註釈版P710)
○唯信鈔文意【3】
ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。(浄土真宗聖典註釈版P707)
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安心問答ー浄土真宗の信心について
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