Share ネットラジオ版安心問答(浄土真宗の信心について)
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質問箱に頂いた質問について話しました。
Q「念仏は、やっぱり真面目に真剣に称えないとダメだ」と思ってしまうのも、結局本願を疑っていることになるのでしょうか?
A「どう称えたか」によって、念仏それ自体が何か変わると思うのは疑っていることになります。それは、念仏を冷凍食品のように「レンジで解凍・あたため」をしないと食べられないもののように考えるからです。
質問箱の回答に加えて話をしました。
あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。(行文類・P186)
番組の感想、質問は
ブログ安心問答 https://anjinmondou.hatenablog.jp/
質問箱 https://peing.net/
mail:[email protected]
twitter:@anjinmondou
第36回目を聞かれての質問について話をしました。
質問「阿弥陀様をたのむものを必ず助けるということですが、阿弥陀様に助けてくださいとお願いするのではなく、仰せをそのまま承るとはどのようなことなのでしょうか?我にまかせよ、必ず助けるという仰せについて疑いのない状態、御本願をそのまま受け入れている状態を言うのでしょうか?」
話の中で出てきた御文
「「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文 浄土真宗聖典註釈版P678)」
番組を聞いての質問は
ブログ安心問答のコメント欄 https://anjinmondou.hatenablog.jp
質問箱 https://peing.net/ja/anjinmondou
メール [email protected]
twitter @anjinmondou
までお願いします。
今回は、質問箱に頂いた内容について話をしました。
質問
「蓮如様は、口に念仏申しただけでは足すからぬと仰っていると思います。
一方で、阿弥陀様の御本願には、お念仏をとなえる衆生を必ず助けるとお誓いになられています。
蓮如様のお言葉をどう解釈したらよろしいでしょうか?
今私は助かりたい一心で、御本願を信じてお念仏をあげています。
今のままでは助からないのでしょうか?」
今回紹介した御文章。
答へていはく、まづ世間にいま流布してむねとすすむるところの念仏と申すは、ただなにの分別もなく南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、みなたすかるべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなきことなり。(略)
他力の信心といふことを一つこころうべし。さて他力の信心といふ体はいかなるこころぞといふに、この南無阿弥陀仏の六字の名号の体は、阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるいはれを、この南無阿弥陀仏の名号にあらはしましましたる御すがたぞとくはしくこころえわけたるをもつて、他力の信心をえたる人とはいふなり。この「南無」といふ二字は、衆生の阿弥陀仏を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもひて、余念なきこころを帰命とはいふなり。
つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字は、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のもらさずすくひたまふこころなり。このこころをすなはち摂取不捨とは申すなり(御文章3帖目5通)
番組を聞いての質問・感想は以下へよろしくお願い致します。
番組URL:https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2022/05/12/040544
質問箱 https://peing.net/ja/anjinmondou
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ブログ記事はこちら
安心問答ー浄土真宗の信心について-
話の中に出てくる御文
質問箱はこちら
ブログ安心問答ー浄土真宗の信心についての音声版として配信をしています。
今日の質問は質問箱のこちらからです。
話のなかで出てきた尊号真像銘文。
「「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。」
質問の全文は、ブログ安心問答浄土真宗の信心についてをご覧ください。
#032「心が南無阿弥陀仏になるというのはどういう意味なのでしょうか?」(頂いた質問)
Peing-質問箱-に頂いた質問について話をしました。
話の中に出てきたご文
(安心決定鈔より)
【6】 念仏三昧において信心決定せんひとは、身も南無阿弥陀仏、こころも南無阿弥陀仏なりとおもふべきなり。ひとの身をば地水火風の四大よりあひて成ず、小乗には極微の所成といへり。身を極微にくだきてみるとも報仏の功徳の染まぬところはあるべからず。されば機法一体の身も南無阿弥陀仏なり。こころは煩悩・随煩悩等具足せり、刹那刹那に生滅す。こころを刹那にちわりてみるとも、弥陀の願行の遍ぜぬところなければ、機法一体にしてこころも南無阿弥陀仏なり。弥陀大悲のむねのうちに、かの常没の衆生みちみちたるゆゑに、機法一体にして南無阿弥陀仏なり。
われらが迷倒のこころのそこには法界身の仏の功徳みちみちたまへるゆゑに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり。浄土の依正二報もしかなり。依報は宝樹の葉ひとつも極悪のわれらがためならぬことなければ、機法一体にして南無阿弥陀仏なり。正報は眉間の白毫相より千輻輪のあなうらにいたるまで、常没の衆生の願行円満せる御かたちなるゆゑに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり。われらが道心二法・三業・四威儀、すべて報仏の功徳のいたらぬところなければ、南無の機と阿弥陀仏の片時もはなるることなければ、念々みな南無阿弥陀仏なり。されば出づる息入る息も、仏の功徳をはなるる時分なければ、みな南無阿弥陀仏の体なり。縛曰羅冒地といひしひとは、常水観をなししかば、こころにひかれて身もひとつの池となりき。その法に染みぬれば、色心正法それになりかへることなり。
(尊号真像銘文より)
「帰命尽十方無碍光如来」と申すは、「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。「尽十方無碍光如来」と申すはすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界を尽してことごとくみちたまへるなり。「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。
「光如来」と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。
この如来は智慧のかたちなり、十方微塵刹土にみちたまへるなりとしるべしとなり。
(御一代聞書より)
(237)
一 弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主に成るなり。南無阿弥陀仏の主に成るといふは、信心をうることなりと[云々]。また、当流の真実の宝といふは南無阿弥陀仏、これ一念の信心なりと[云々]。
ブログ
安心問答
twitter @anjinmondou
メール [email protected]
「真宗において
称える心、聴聞しようとする心、
それらをもともと持たない私たちが、
阿弥陀仏のお働き、お育てにより念仏を称えるという
内容を見聞きすることがありますが、
念仏しようとしたり、聴聞しようとする殊勝な心を
私達は元来、持っていないという内容はお経の中にありますでしょうか?
いまいちお経のどこから出てきた内容なのかがわかりません。
教えていただければ幸いです。」
について話をしました。
安心問答 浄土真宗の信心について
#030
今回は質問箱に頂いた質問
「ただ今助けるという阿弥陀仏の本願を『許諾する』『受け入れる』『聞き受ける』等という表現がされますが、そのニュアンスがよくわかりません。
自分の心でただ単に『許諾した』と思い込むことでもないですよね?」
について話をしました。
質問箱はこちら
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「『南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と聞く』というのは、南無阿弥陀仏の謂れ(善導大師・親鸞聖人・蓮如上人等の六字釈等)を思い出しながら、念仏を称え、それを聞くことでしょうか?」(Peingで頂いた質問)
質問箱に頂いた質問
「自力を捨てるとは、自力が問題にならなくなることですか?それとも自力が意識から消えるのでしょうか?」
について話をしました。
話の中で出てきたご文
自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。(唯信鈔文意 註釈版浄土真宗聖典P707)
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