今回と次回は、近年提起されてきたイノベーション政策に関連する新しいコンセプトをご紹介します。今回取り上げるのは欧州委員会や世界銀行などが注目してきた「インクルーシブ・イノベーション」です。
インクルーシブという言葉には包括するという意味があり、インクルーシブ・イノベーションと呼ばれるタイプのイノベーションは、このコンセプトが登場した初期の頃は、特に経済発展の主流から取り残されてきた人々のために開発されるイノベーション、あるいは、そのような人々によって開発されるイノベーションとして定義されていました。近年、1人当たり年間所得が3,000ドル未満の低所得層はBoP (Base of the Economic Pyramid)と呼ばれ、世界全体で47億人とも推定されるこの低所得層を対象に新たな製品やサービスの市場を開拓していこうとするBoPビジネスが台頭しましたが、インクルーシブ・イノベーションは、その活動がBoPビジネスと重なる部分を持ちながら、BoPに属する人々が主体となる活動も意味している訳です。
リチャード・ヒークスたちが2013年に発表した論文によると、この言葉が最初に使われた論文は、2007年まで遡れるようですが、頻繁に使用されるようになったのは2011年以降だそうです。この間に、インクルーシブ・イノベーションの対象にも概念的な変化が生じてきました。
そもそも何故インクルーシブ・イノベーションが政策的に重要な課題として認識されるようになったのかと言うと、一般的に先進国で実現されるイノベーションが経済成長の原動力になると同時に、経済的・社会的な不平等の原因にもなることが知られてきたからです。この点については、フィリペ・アギオンらによって経済成長論の領域で実証的な論文が書かれています。そのような悪影響は特に開発途上国において顕在化するので、途上国の貧困問題を削減するための行動指針を提供することを目的としてインクルーシブ・イノベーションの概念が生み出されたと言われています。
インクルーシブ・イノベーションの概念は、開発の目標を経済成長ではなく、開発の主流から取り残された人々を包括することへと大きく転換させました。すると、包括すべき社会的グループは、途上国の貧困層以外にも見出されることになります。例えば、女性、障がい者、少数民族などです。
こうして、インクルーシブ・イノベーションの新しい定義では、包括すべき対象が広く捉えられることになりました。クリストファー・フォスターとヒークスが2013年に発表した論文では、インクルーシブ・イノベーションは「マージナルなグループのために、またマージナルなグループによって新しい製品やサービスが開発されること」として定義されています。ここでの「マージナル」、限界的という言葉は、これまでは除外され、端に押しやられてきた状態を意味していると理解して良いと思います。
このような対象が広義に定義されると、包括という言葉の意味も多義的になるため整理しておく必要があります。前述したヒークスらの論文では、インクルーシブ・イノベーションの概念を統合的に整理した「ラダー(階梯)モデル」というもので、包括の意味を6段階に分けて整理しています。
まずレベル1は「意図」です。除外されたグループのニーズや問題に対処しようとするイノベーションであれば、それはインクルーシブだとされます。
レベル2は「消費」です。除外されたグループによって使用されるイノベーションならば、それはインクルーシブだとされます。
レベル3は「影響」で、除外されたグループの生活にプラスの影響を与えるイノベーションは、インクルーシブだとされます。
レベル4は「プロセス」で、除外されたグループがイノベーションの開発に関与している場合、それはインクルーシブだとされます。
レベル5は「構造」で、これは様々な機関や組織が包括的に関与するシステムの中でイノベーションが構成される段階を意味しています。
レベル6には「ポスト構造」というラベルが付いています。これは、ポスト構造主義と言われる見方を反映した段階規定で、イノベーションに関わる者の根底にある知識が、枠組みを外して包括的になった段階を意味しています。既存の価値体系に対して批判的に関わるイノベーションと言い換えられると思います。
この真にインクルーシブなレベル6のイノベーションが発生するメカニズムは、おそらくイノベーションに関する既存の知識では説明できません。インクルーシブ・イノベーションについては、理論よりも実践が先行してきたと言われています。私たちがインクルーシブ・イノベーションを促進するための知識は、多くの実践事例から学ばなければならないようです。
最後に、マリオ・ペンセラとリチャード・オーウェンの2018年の論文から、インドの事例を1つだけ紹介しておきます。この事例は、マザーアース(母なる地球)というプロジェクトで、斜陽部門となった地方の工芸品の製造などに携わる職人を支援するために1994年に設立されたソーシャル・ビジネスから2011年に誕生しました。都市の市場に農村工芸品に対する需要を創出するために、それらを現代的に再形成する取組が進められました。2011年にバンガロールに最初の旗艦店(フラッグシップ・ショップ)をオープンし、2013年までに6店舗と250人の従業員を擁するまで成長しています。このプロジェクトの組織は、グラミン銀行から借りたアイデアによるもので、全国に分散したセルフ・ヘルプ・グループ(SHG)のネットワークに担われています。各SHGは、主に農村部や都市近郊に住む10人から20人の女性によって構成され、職人を市場経済に繋げる機能を担っています。こうした仕組みによって、メンバーは都市に移住することなく、地方に止まって活動を続けることができている訳です。
今回のまとめ: インクルーシブ・イノベーションとは、マージナルなグループのために、あるいは、マージナルなグループが主体となって取り組まれるイノベーションです。