昨日から雑念についてお話していますが、本当にこれ、アイディアの宝庫ですからね!それを雑念としてネガティブに打ち捨てる伝統に、私なりの考えを加えてみました。別にこれは私の個人的見解ですから。でも意味のある提言だと思っています。何故なら、疑問をさしはさむことは、「悪」とされるのですが、やはり検証の余地があるからです。座禅では「目的」がない。だから良いのでしょうけれど、「どんどん簡素化」していくと、結果的には豊かさに繋がらない、という感覚があるのです。自分の中に出てくるものを認めずして、誰が自分を認めるのか?他人でしょうか?自己肯定の一番の基本は「雑念」や「戯言」(タワゴト、ザレゴト)の類いを、きちんと認めて前に進むことからしか、成り立たないのではないでしょうか?それこそが自己評価に繋がると、私は思っています。むーらん
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