リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 実行されるべき信仰(テサロニケの信徒への手紙一 4章)
    兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。現にあなたがたは、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、それを実行しています。しかし、兄弟たち、なおいっそう励むように勧めます。
    (テサロニケの信徒への手紙一4章9節~10節)
    信仰は抽象的なものではありません。具体的で実際的なものです。私たちは、頭の中で信仰生活をするのではなく、生活の中で具体的に信仰を実践していきます。
    使徒パウロは、「あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください」と勧めます(1節)。パウロの福音宣教の働きは、実際の生活の場で神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを教えることでした。テサロニケ教会は、その教えに従って、極めて具体的に、マケドニア州の全土に住む兄弟たちに兄弟愛の業を実行しました。おそらく、彼らを助けるために献金を送ったのでしょう。
    ヤコブは、「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と語りました(ヤコ2章17節)。主イエス・キリストは、十字架によって自らを犠牲として献げて、私たちを愛する神の愛を明らかにされました。神の愛と主イエス・キリストの恵みが、私たちを信仰の実践へと押し出します。生きた信仰は、感謝の応答を実らせるのです。
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  • パウロが何度も予告したこと(テサロニケの信徒への手紙一 3章)
    あなたがたのもとにいたとき、わたしたちがやがて苦難に遭うことを、何度も予告しましたが、あなたがたも知っているように、事実そのとおりになりました。
    (テサロニケの信徒への手紙一3章4節)
    使徒パウロは、困難と苦難に直面していたテサロニケ教会のことを心配して、テモテを派遣しました。幸いなことに、帰ってきたテモテから、彼らの信仰の良い知らせを聞きました。ところで、どのようにして、テサロニケ教会は苦難の中で信仰を固く守ることができたのでしょうか。
    それは、パウロが苦難を耐え忍ぶことを教えていたからです。パウロは、やがて苦難に遭うことを彼らに何度も予告していました。パウロは、福音を宣べ伝えて、都合の良いことばかり教えるのではなく、福音と共に受けるべき苦難をも教えました。実に、信仰に生きるとき、キリスト者は福音ゆえの苦難にも遭うのです。福音のために損をし、苦しめられ、辱められることもあるでしょう。けれども、苦しみを上回る大きな喜びがあって、耐え忍ぶことができるようにされるのです。
    苦難を覚悟して福音を受け入れたテサロニケの信徒たちを、主なる神が支えてお守りくださいました。信仰に生きるとき、今も苦難に直面します。けれども、それはすでに予告されていたことであり、私たちも主によって耐え忍ぶことへと導かれます。
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  • 評価の基準(テサロニケの信徒への手紙一 2章)
    わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。
    (テサロニケの信徒への手紙一2章4節)
    使徒パウロは、多くの苦難がありながらも、福音宣教の働きを立派に全うしました。それは、どなたに喜んでもらうべきかをよく知っていたからです。彼は、人に喜ばれるためではなく、神に喜んでいただくために福音を宣べ伝えました。不純な動機によらず、人間の誉れを求めることもなく、すべてのことにおいて神に喜んでいただくことを考えて行動したのです。
    大学や高校の受験では、それぞれの科目の評価の基準があります。受験生はそれに合わせて勉強しなければなりません。同じように、私たちの人生も、終わりの日に神の御前で評価を受けます。そこでは神の御心が基準になると言えるでしょう。
    もちろん、自分の力でその基準を達成して、救いを勝ち取ることができるのではありません。救いは主イエス・キリストによって与えられるのみです。それでは、もはや基準は必要ないのか。そうではありません。神の恵みに感謝して、神に喜んでいただきたいと願って、神の御心に聞き従います。そこに使徒パウロの立派な働きの秘訣がありました。私たちも、そのために御言葉に聞き続けます。
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  • 御言葉による確信(テサロニケの信徒への手紙一 1章)
    わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。
    (テサロニケの信徒への手紙一1章5節)
    使徒パウロは、テサロニケ教会での働きを「ただ言葉だけによらず、…強い確信とによった」ものだと言います。この文章は、「強い確信を与えた」と訳すこともできます。パウロは強い確信をもって福音を宣べ伝え、その確信がテサロニケ教会の人びとにも与えられたのです。
    ここで言う強い確信とは、マインドコントロールや自分の思いから出る確信ではありません。御言葉と聖霊に基づく確信です。たとえ不安や疑いがあっても、御言葉によって確信に変えられるということです。
    夜中に暗い山道を一人で歩く人がいます。遠くに光が見えます。熊の瞳の輝きのように見えて、恐怖に襲われるかもしれません。けれども、その光が村の入口にある白熱灯の光であることに気づくと、安心することができるでしょう。白熱灯を確認すると、大丈夫だと確信することができるでしょう。
    確信は、私たちの内側から出るものではありません。聖霊が御言葉によって私たちの信仰を強い確信へと導きます。御言葉による強い確信に生きることができるよう、主の助けを祈り求めましょう。
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  • 救いの御業のすべてを(サムエル記上 12章)
    サムエルは民に話した。「主は、モーセとアロンを用いて、あなたたちの先祖をエジプトから導き上った方だ。さあ、しっかり立ちなさい。主があなたたちとその先祖とに行われた救いの御業のすべてを、主の御前で説き聞かせよう。
    (サムエル記上12章6節~7節)
    主が神の民に対してなさった救いの御業を説き聞かせられることで、民はしっかりと立つことができます。同じ主が生きておられて、今日も働いておられるからです。
    主はヤコブ、モーセ、アロン、サムエルたちを遣わして救いの御業をなさいました。しかし、主の救いの御業は、まだ頂点に達してはいません。海を真っ二つに分かつこと、周囲の敵から救い出されたこと、これらにはるかにまさる救いの御業を主はなしてくださいました。
    時至って、神の御子がこの世に来られ、十字架の死と復活を通して救いの御業は頂点に達しました。この世の生活についての助けも様々に与えられますが、何より魂の救いが与えられるのです。
    この素晴らしい救いの御業を、私たちは主の日の礼拝で説き聞かせられます。そして、聞くだけではなく、救いの御業の頂点である救い主イエス・キリストの十字架と復活を人々に告げ知らせることへと招かれています。
    罪の内に倒れ、もがいていた私たち罪人が、主の偉大な救いの御業によって罪から救われ、しっかりと信仰によって立つことができるのです。
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  • 羊の門であり、良い羊飼いである主イエス(ヨハネによる福音書 10章1-10節)
    イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
    (ヨハネによる福音書10章7節~9節)
    主イエスは、「はっきり言っておく。わたしは羊の門である」と言われます。これは1節の御言葉を受けてのものです。「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は盗人であり、強盗である」。主イエスは、御自分を神の羊たちの囲いの門と言われることによって、御自分だけが救いを与えるメシア、救い主であると断言されたのです。
    盗人であり、強盗であると言われる「わたしより前に来た者」とは、救いを与えると吹聴する偽のメシア、偽の救い主のことです。偽のメシアである盗人が来るのは、羊を盗み、屠り、滅ぼすためです。しかし、羊の門であり、良い羊飼いである主イエスが来られたのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためです。
    主イエスの御言葉に聞き従う私たちは、主イエスという門を出入りして牧草を見つけます。そのように、主イエスとの豊かな命の交わりにあずかることができるのです。
    羊の門は、命に通じる門でもあります。主イエスという門から入って、主イエスとの豊かな命の交わりに、きょうもあずかりましょう。
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  • 救ってくれる者がいなければ(サムエル記上 11章)
    ヤベシュの長老たちは彼に言った。「7日間の猶予をください。イスラエルの全土に使者を立てます。救ってくれる者がいなければ、我々はあなたのもとへ出て行きます。」
    (サムエル記上11章3節)
    アンモン人ナハシュはヤベシュの人々に過酷な条件を突きつけました。ヤベシュの人々が契約を結んでほしいと頼んだのをよいことに、契約は結ぶが全員の右目をえぐり出す、と言いました。甚だしい侮辱です。ヤベシュの長老たちはイスラエル全土に助けを求めます。一縷の望みを抱いて使者を送りました。その知らせを聞いたサウルに神の霊が降り、彼は先頭に立って出陣してアンモン人を討ち破りました。神の霊がサウルに王としての務めを始めさせたのです。
    ところで、「救ってくれる者がいない」とは、なんと悲惨なことでしょうか。悲痛な思いを抱いて、甘んじて苦しみを受けるしかなかったら、そして最後には死を待つしかなかったら、つらいことです。ギブアの人々が号泣したように、このような苦しみは決して他人ごとではありません。
    サウルに降った神の霊は、後に彼から離れます。しかし、救い主イエスに限りなく注がれた神の霊は(ヨハネ3章34節)、主イエスから離れることは決してありません。私たちを死の恐れから救ってくださる主イエスがおられます。私たちはこの方に助けを求めればよいのです。
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  • 私たちの進むべき道(サムエル記上 9-10章)
    若者は答えた。「ちょうどこの町に神の人がおられます。尊敬されている人で、その方のおっしゃることは、何でもそのとおりになります。その方を訪ねてみましょう。恐らくわたしたちの進むべき道について、何か告げてくださるでしょう。」
    (サムエル記上9章6節)
    王になる前のサウルの身に起こった出来事です。父のろばが数頭いなくなり、サウルは若者と共にろばを探すよう、父に言いつけられました。しかし、ろばは見つかりません。帰ろうと促すサウルに、若者は「神の人」サムエルを訪ねようと提案しました。若者は、その方の言うことは何でもその通りになり、恐らく自分たちの進むべき道を告げてくれると言いました。
    さて、今日の私たちにはサムエルはいません。逆に、占いによるその日の運勢がテレビで放送されるような国に私たちは生きています。私たちは私たちが進むべき道について、「恐らく」ではなく、神が「必ず」示してくださると期待し、信じているでしょうか。
    そもそも進むべき道とは何でしょう。それは、神の御前で、神と共に、神に導かれて生きる道です。その上で、この世での職業や進路などの選択があります。たとえ何かに失敗しても、その上で主に従って歩める道です。
    「わたしは道である」(ヨハ14章6節参照)と言われた主イエスが、私たちの進む道に先立っていてくださいます。この方についていくことが何より確実なのです。
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  • 主が王であられることの幸い(サムエル記上 8章)
    主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。」
    (サムエル記上8章7節)
    イスラエルの人びとは、「自分たちにもほかの国々と同じように王を立ててほしい」と、サムエルに迫りました。主は、「民のそのような態度は主を退けていることなのだ」と言われました。
    もともと主なる神は王であられ、イスラエルを治めておられるお方です。それを心から喜び、へりくだって主に従うよりも、自分の思いのままにしたい。そのような思いが彼らの心の奥深くに巣くっていました。
    他の国と同じように王を求めたイスラエルと状況は違うとしても、自分の好きなようにしたい、という思いは私たちにも共通しています。このような考えは、神が王として君臨されることを認めたくない、つまり自分が王でいたい、という考えにつながっています。これこそ堕落した人間の姿です。
    それにも拘らず、憐れみ深い主なる神は罪人に寛大な御心を示してくださって、私たちのために御子イエスをお遣わしくださいました。その謙遜な姿を見たならば、私たちは自分を王座から引きずり下ろし、真の王であられるこの主イエスの前にひれ伏すほかありません。
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  • 御名を呼ぶ者に主は応えてくださる(サムエル記上 7章)
    サムエルは命じた。「イスラエルを全員、ミツパに集めなさい。あなたたちのために主に祈ろう。」
    (サムエル記上7章5節)
    主は、御名を呼ぶ者の祈りを聞いて応えてくださいます。サムエルは「御名を呼ぶ者」でした(詩99編6節)。主は彼に答えられました。
    御名を呼ぶには、その御名が示すお方を知らされていなければなりません。御名を現していただいた者だけが、主の御名を呼ぶことができます。イスラエルの人びとは、サムエルが祈ってくれれば、主は聞いてくださるに違いない、と思っていたはずです。サムエルに対する信頼は絶大なものがありました(3章20節参照)。
    主がお選びになった人に祈ってもらいたい、という気持ちが当時の人びとの中にあったことでしょう。それは私たちも同じです。
    今日、私たちは、主イエス・キリストの御名によって祈ります。それは御子がそう祈りなさい、そうすれば、神は必ず応えてくださる、と約束してくださったからです。
    私たちも牧師や信仰の友に祈ってもらいます。しかし、その人の偉大さに頼っているわけではありません。私たちに御名を示し、御名の内に入れてくださった神の御子の確かな執り成しを信じているからです。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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