リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

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リジョイス聖書日課 episodes

  • 神の勝利(サムエル記上 5-6章)
    箱が移されて来ると、主の御手がその町に甚だしい恐慌を引き起こした。町の住民は、小さい者から大きい者までも打たれ、はれ物が彼らの間に広がった。
    (サムエル記上5章9節)
    戦地から戻ったペリシテ人は、契約の箱を彼らの町アシュドドに持ち帰り、彼らの礼拝するダゴンの神殿に運び入れます。その後、不思議なことが連続して起こるのです。ダゴン像が倒され、破壊され、また、アシュドドと近隣の人びとを原因不明の腫瘍が襲います。恐怖に襲われた彼らは、契約の箱を別の町に移すのですが、行く先々で同じ悲劇が繰り返されます。結局、彼らは契約の箱をイスラエルに返すことにします。
    そのときのペリシテには、イスラエルに対して「雄々しく男らしく」戦った勝利者の姿はなく、反対に、死の恐怖の中で混乱する敗北者そのものでした(4章9節等参照)。
    このイスラエルとペリシテの戦いとその顛末を通して教えられる最も重要なことは、真の勝利者は主なる神ご自身だ、ということです。そして、これは主を信じる信仰者にとって、まさに希望そのものです。なぜなら、どのような敵をも打ち滅ぼす主が信仰者とともに戦ってくださるからです。「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」(1コリ15章57節)。
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  • 契約の箱(サムエル記上 4章)
    兵士たちが陣営に戻ると、イスラエルの長老たちは言った。「なぜ主は今日、我々がペリシテ軍によって打ち負かされるままにされたのか。主の契約の箱をシロから我々のもとに運んで来よう。そうすれば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださるだろう。」
    (サムエル記上4章3節)
    サムエルの誕生と成長の物語から離れ、ここからしばらくイスラエルとペリシテとの争いとそれに伴う出来事が描かれます。そのころは、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた時代でした(士師21章25節など)。
    ペリシテの攻撃に頭を悩ませていたイスラエルは、シロの聖所にある契約の箱を戦場に運び出すことを思いつきます。それによって主が彼らを助け、ペリシテとの戦いに勝利できると考えたからです。しかし、結果は彼らの思い通りにはなりませんでした。戦いに敗れただけでなく、契約の箱自体も奪われてしまいます。
    イスラエルにとって予想外の出来事は、実は必然のことでした。彼らは契約の箱を担ぎだす前に、その箱の中に何が納められているかについてよく考えるべきでした。それは十戒が記された2枚の石の板であり、そしてまさに十戒に背くことを当時のイスラエルは行っていたのです。主なる神は、みだりに主の名を唱える者を罰せずにはおかれません(出20章7節など)。
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  • 私たちの心を燃やす主イエス(ルカによる福音書 24章13-35節)
    すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
    (ルカによる福音書24章31節)
    二人の弟子がエルサレムからエマオという村へ向かって歩いていると、主イエスが近づいて来て、一緒に歩き始められました。目が遮られていて主イエスだとは分からないまま、二人は主イエス御自身にナザレのイエスのことを話します。
    主イエスは二人の話を聞いて言われました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。そして、主イエスは、モーセとすべての預言者から始めて聖書全体にわたり、御自分について書かれたことを説明されました。それを振り返って、二人は言います。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。
    礼拝において、聖書が説き明かされ、主イエスについて語られるとき、私たちも心が燃えることを経験するのではないでしょうか。それは、復活された主イエスが、御言葉と聖霊において、私たちに出会ってくださるからです。今日も、復活された主イエスと出会う、心燃やされる礼拝がささげられますように。
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  • 主の言葉を聞くということ(サムエル記上 3章)
    主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」
    (サムエル記上3章10節)
    きょうの聖書個所には、やがて主の預言者として歩むことになるサムエルの最初の一歩が記されています。祭司エリからアドバイスを受けたサムエルは、主の呼びかけに対して、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と応えます。そして、主が語られる言葉に耳を傾けます。
    そのとき主が語られた言葉の内容は、祭司エリとその一族に対する厳しい裁きでした。まだ少年であったサムエルにとって、師でもあり親代わりでもあるエリに告げるには、あまりに重い言葉でした。しかし、すべてを隠し立てすることなく当事者のエリに伝えました。
    ここには主の言葉を聞くことについて、軽視されがちな重要な一面があります。それは、主の語られる言葉は、私たちの耳に心地よい言葉ばかりではない、という単純な事実です。
    主日礼拝で語られる説教、あるいは自宅でのデボーションで触れる御言葉を受け入れるのが難しいと感じることはありませんか。しかし主は、ご自身の言葉をまさに神の言葉として受け入れることを求めておられます。
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  • ハンナの賛歌(サムエル記上 2章)
    ハンナは祈って言った。
    「主にあってわたしの心は喜び
    主にあってわたしは角を高く上げる。
    わたしは敵に対して口を大きく開き
    御救いを喜び祝う。
    聖なる方は主のみ。
    あなたと並ぶ者はだれもいない。
    岩と頼むのはわたしたちの神のみ。」
    (サムエル記上2章1節~2節)
    ここに記されているハンナの祈りは、いろいろな点でルカ福音書の「マリアの賛歌」(ルカ1章46-55節)と響き合っています。ともに神の恩寵によって身ごもり、その子らが特別な使命をもって生まれることになる女性の一つひとつの言葉は、偉大なる神への喜びに満ちた賛美であり、力強い信仰告白になっています。
    この「ハンナの賛歌」と「マリアの賛歌」に共通していることの一つは、小さなものを顧みてくださる神への絶対的な信頼です。まことの神は、困難な状況の中でもがき苦しんでいる信仰者を見捨てることはありません。主なる神は必ずその嘆きと訴えを聞きあげ、彼ら・彼女らに救いをお与えくださると、二人は証言しています。
    主の御前に自分自身が小さなものであるということを率直に認めていることも大きな共通点です。主の御名をほめたたえつつ、自らはへりくだって、謙遜に歩む姿を聖書は語ります。そしてこれは主イエスご自身の歩みであり、父なる神が喜ばれ、またすべての信仰者に求めておられることでもあるのです(フィリピ2章1-11節)。
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  • 一番大切なものを主に献げる(サムエル記上 1章)
    主は彼女を御心に留められ、ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。
    (サムエル記上1章19節~20節)
    サムエル記は、預言者であり最後の士師であるサムエルの誕生物語からはじまります。父となるエルカナはエフライムの家系に属する人で、母となるハンナは子どもが与えられるのをずっと祈り願い続けていました。主なる神はハンナの心からの祈りを聞かれ、彼女は待望の男子を身ごもります。
    ここで驚かされるのは、ハンナが大切な子どもを神に献げることを誓い、そして実際にそのようにしたということです。ずっと子どもが与えられないことで苦しんできた彼女にとって、それは非常に大きな決断だったはずです。しかし、彼女は主なる神の前にふさわしいことをしました。
    まだ幼い息子をシロの聖所に仕える祭司エリに委ねたハンナは、夫エルカナとともに年に一度シロの聖所に上り、年ごとの献げものとともに、息子のための小さな上着を届けます。主は彼女を顧みてくださり、夫エルカナとの間に息子を3人、娘2人が与えられることになります(2章21節)。自分にとって一番大切なものを献げる信仰に、主は豊かに報いてくださいます。
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  • 神の都には(エゼキエル書 48章)
    彼らはイスラエルの子らが迷ったとき、レビ人たちが迷ったように迷うことなく、わたしの務めを守った。…この都の名は、その日から、「主がそこにおられる」と呼ばれる。
    (エゼキエル書48章11節、35節)
    水晶のように輝く命の水が中央を流れる、来たるべき神の都の中に、イスラエル十二部族一つひとつのための場所が克明に確実に割り振られて、エゼキエル書は閉じられます。そのように、新しいイスラエルである私たち一人ひとりのために、神の都には克明に確実に場所が割り振られ、確保されています。キリストは言われました。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハ14章3節)。
    この神の都に場所を約束されている人を説明する文章は、48章の中に一つしかありません。「彼らはイスラエルの子らが迷ったとき、レビ人たちが迷ったように迷うことなく、わたしの務めを守った」(11節)。44章で示された祭司の務めそのものです。神の民が迷うときでも、迷うことなく主に仕え続けること。迷ってしまうときがあっても、いや、迷ってしまうときにこそ、キリストの御言葉に従うこと。これが万人祭司たる私たちが、主がそこにおられる都にたどりつけるための秘訣です。
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  • 永遠の命に至る水(エゼキエル書 47章)
    川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。
    (エゼキエル書47章9節)
    この川は、神殿の入口の敷居の下から湧き上がっている、何とも現実離れした川です。ところが、最初はくるぶしまでだった水が、現実の川のように水深を増しつつ東へ流れ、「汚れた海」つまり死海に注ぎます。すると、その水はきれいになり、すべてのものが生き返る、と言われます。回復された神殿・教会から流れ出る水がすべての生き物を生き返らせるのです。
    キリストは言われました。「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハ4章14節)。また、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(同7章38節)。キリストのこの川は、そのまま神の都に流れ込みます。「川のほとり、その岸には…あらゆる果樹が大きくなり、…月ごとに実をつける。…その果実は食用となり、葉は薬用となる」(エゼ47章12節。黙22章1、2節も参照)。これが神の都の風景です。教会でキリストから与えられる、水晶のように輝く命の水は、私たちの内から流れ出る川となって、永遠の御国に達するのです。
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  • 回復された神の民の生活(エゼキエル書 46章)
    あなたは、朝ごとに無傷の1歳の小羊1匹を、日ごとの焼き尽くす献げ物として、主にささげねばならない。朝ごとに、それをささげねばならない。
    (エゼキエル書46章13節)
    エゼキエルが幻で見た救いの時代の礼拝は、「日ごと」「朝ごと」の礼拝でした。キリストと共に救いの時代が到来した今、私たちのなすべき日ごとの礼拝とは何でしょうか。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ロマ12章1節)。
    無傷の小羊イエス・キリストが1回限り、焼き尽くす献げ物としてすでに献げられました。この方によって生かされている私たちは、日ごと、朝ごとに自分の体を神に喜ばれる献げ物としてささげます。それは、日ごと朝ごとに「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようにな」る(同2節)ということです。また、「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊」(詩51編19節)ですから、私たちが日ごと、朝ごとに悔い改めることでもあるでしょう。やがて、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラ2章20節)と感じられるほどにされるのです。
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  • 後ろから語りかけてくださる主イエス(ヨハネによる福音書 20章1-18節)
    天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
    (ヨハネによる福音書20章13節~14節)
    墓から主イエスの御遺体が取り去られたと考えて、マリアは泣いていました。そのマリアに復活された主イエスが現れます。マリアが後ろを振り向くと、主イエスが立っておられるのが見えました。しかし、マリアには、それが主イエスだとは分かりませんでした。
    なぜ、マリアは後ろに立っている人が主イエスだと分からなかったのでしょうか。そのヒントは、「後ろを振り向く」という言葉にあります。ヘブライ人は、過去を前にあるもの、将来を後ろにあるものと考えるそうです。マリアにとって主イエスは過去の人であり、将来(後ろ)に立っているとは考えられなかったのです。しかし、復活された主イエスは過去からではなく、将来から声をかけてくださいます。
    復活された主イエスは時間を超えた永遠のお方です。復活された主イエスは、良き羊飼いとして、御自分の羊の名を将来から呼ばれます。それゆえ、主イエスが「マリア」と呼ばれると、彼女は振り向いて「ラボニ」(わたしの先生)と答えました。主イエスは、将に来られるお方として、私たちに語りかけてくださいます。そこに、私たちの救いの確かさがあります。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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